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現在では、室町幕府の鎌倉公方は鎌倉府の長、関東管領はその補佐職として(実態はともかく)、用語が定義されていると思いますし、日本史の授業などでもそう教えています(少なくとも私はそう習いました)。
しかし、以前はその職名が一つずつずれて考えられていた節があります。
手元にある『日本史年表』(三省堂編修所編、三省堂、昭和39(1964)年2月10日3版発行)を見ると、
「1349(正平4)年、9月足利基氏関東管領となる」
「1405(応永12)年、10月上杉憲定、関東執事となる」
「1449(宝徳1)年、1月足利成氏関東管領となる」
「1466(文正1)年、6月関東執事上杉顕定、成氏を討つ」
などの記事が見られます。
同じ項目を『新日本史年表』(鳥海靖編、三省堂、1995年4月20日第1刷発行)で見ると、それぞれ、
「1349(正平4)年、9月足利基氏、鎌倉公方となる」
「1405(応永12)年、10月上杉憲定、関東管領となる」
「1449(宝徳元)年、1月足利成氏、鎌倉公方となる」
「1466(文正元)年、6月関東管領上杉顕定、成氏を討つ」
となっています。
ただ、
「1411(応永18)年、2月上杉氏憲、関東執事となる」
は両者に共通していました。
また、
「1455(康正元)年、6月成氏、古河による:古河公方」
「1457(長禄元)年、12月足利政知、伊豆堀越による:堀越公方」
の記述も共通しています。
30年の間に関東管領が鎌倉公方に、関東執事が関東管領に変わったようですが、これはなにかきっかけとなる史料の発見や学説の発表などがあったのでしょうか。それともただ三省堂編修所が取り違えていただけなのでしょうか。また、前者とした場合、修正されたのはいつ頃なのでしょうか。さらに、上杉氏憲の関東執事のみ元のままなのはなぜなのでしょうか。
いずれかのみとも回答いただける方がいらっしゃったならば、ぜひともご教授下さい。

A 回答 (1件)

鎌倉の行政府の流れとしては、北条執権家の没落以降は下記のようになります。



建武期
将軍:成良親王
執権:足利直義

(中先代後)
管領:足利義詮(後の二代将軍)
執事:斯波家長・高重茂

管領:足利義詮
執事:石堂義房・犬懸上杉憲藤(→椙谷上杉憲顕)

管領:足利義詮
執事:高師冬・椙谷憲顕

(観応の擾乱)
管領:足利基氏(尊氏の四男、以降は世襲)
執事:畠山国清

管領:足利基氏
執事:高師有・椙谷憲顕

以後、上杉家(椙谷氏、宅間氏、犬懸氏、山内氏)が関東執事を独占。

その後、足利持氏が鎌倉公方を名乗ると関東執事の上杉家も関東管領を名乗るようになりました。ただし、京都では相変わらず「管領+執事」扱い。
次代の足利成氏以降は現状追認の形で「公方」の名乗りが許されるようです。対抗馬として関東へ下向した足利政知は「公方」として着任しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
室町幕府本来の職名としては鎌倉府の長が関東管領で、補佐職が関東執事だったのが、足利持氏が鎌倉公方を自称して以降、一つずれたかたちになった、ということですね。
とすると、持氏以前の基氏などを鎌倉公方と呼ぶのは厳密に言えば間違っている、ということになるのでしょうか。
初等中等教育においてはそこら辺の事情を簡略化して鎌倉公方・関東管領に統一し、それに合わせて年表も修正されたということでしょうか。
こういった職名などは自称他称などで複雑そうです。

お礼日時:2005/12/14 00:09

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