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武士の台頭がなければ藤原氏の繁栄はもっと長期でしたか?
天皇はなぜ「藤原氏よりも武士のほうがいい」と思うようになったのですか?

A 回答 (2件)

こんばんは


まず「藤原氏の繁栄」というのは、きわめて「私的な繁栄」で、国家として繁栄、安定していたということではないことに注意する必要があります。藤原摂関家にとっては、政治とは、一族の繁栄を図る、程度の意味しかありませんでした。そこで、藤原氏衰退の背景ですが

1)藤原摂関家一族による「権力と富の独占」への他貴族(特に中下級貴族)の反発
2)後三条天皇の即位(1068年) 藤原摂関家を外戚としない(要する  に頼通の孫ではない)気鋭の天皇、時に35歳

後三条天皇は、藤原摂関家に対抗するため、摂関家に不満を持つ中下級貴族を積極的に登用します(その代表が大江匡房)。さらに、摂関家の莫大な富の源泉であった荘園の整理を行います(延久の荘園整理令)。
それまでにも荘園整理令はありましたが、摂関家の荘園は目こぼしされることが多かったのですが、後三条天皇は「例外は認めず」、藤原摂関家の荘園もかなり整理(没収)されます。これが痛かった。

>天皇はなぜ「藤原氏よりも武士のほうがいい」と思うようになったのですか?
二者択一的に「武士」を選んだわけではありません。摂関家も武士は使います。そもそも「侍(さむらい)」の語源は「高貴な人の近辺に侍らう(さぶらう)」ですね。
平安時代も中期以降は、治安が保たれている、とまがりなりとも言えるのは洛中(都)くらいなもので、洛外、特に地方は「群盗野に充つ」という状況でした。その他にも地方の反乱が頻発します。教科書にも平将門の乱、藤原純友の乱(これらは摂関家全盛期以前の事件です)、前九年・後三年の役などがのっていると思います。

こうした治安悪化の状況を「解決」するのに利用されたのが武力=武士の力です。貴族なんて、現状維持に汲々とするか、祈祷によって災いを避けるのがせいぜいで、力技で解決を図る気力も手段も持ちません。平安貴族はいくさ(荒事)には向かないんです。

また、摂関家や有力貴族、天皇家などさまざまな勢力の抗争が激しくなってくると、最終的には力=武力による決着が図られるようになります。

したがって、天皇が「武士を選んだ」というよりも、時代・社会の変化が武士の力を必要とするようになった、さまざまな問題の解決に武力が大きなウェイトを占める社会になっていった、ということでしょう。
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続いていた可能性はありますが、実際にはどうなっていたかわかりません。


藤原氏が政治的に最高潮だったのは、知ってのとおり藤原道長や頼道の時代で、その後天皇院政によって徐々に衰退していくのですが・・・
しかし、藤原家はそれ以降も長らく摂関家として長い間関白になっています。
武士の台頭についてですが、これは天皇が良いと思ったというよりは、武士自体が力をつけてきたことが要因です。

特に源氏、平氏などの天皇家を出自とする純武家が現れてきたのは大きく、そのために天皇家もその力を押しとどめることが不可能になったのです。それ以前は藤原秀郷のような公家が枝分かれした武家が力をもっており、公家のほうが上だったのですが・・・

また、公家は政治的な支配力はともかくとして、武力については結局のところ武家頼みですので、武力につてはどうしても武家>公家となり、それは天皇家についても例外ではなく、実際に戦が起これば戦うのは公家でなく武家であり、当然勲功を立てるのも武家となるため、平安末期の武家の反乱鎮圧を行えば行うほど武家の力は伸びるわけです。
また、武家が現在でいうシビリアンコントロールを行わない、つまり武官が直接武力を行使する存在であったのも一因です。文官として上に立つ公家とは、構造が変わってきます。
つまり、武家が武力を行使しようとすれば、(勢力しだいでは)自分の家だけで行うことが可能ですが、公家が武力を行使しようとすると、どうしても別の存在、つまり武家または当時武力を有していた寺社勢力に頼むほかはないのです。

といっても、平氏などは天皇の勅命などをうまくつかって武力を行使しており、また京都に本拠を構えていたので、まだ天皇は何とかなったのですが、その後台頭した源氏、源頼朝は鎌倉幕府を立てて、天皇家の勅命なしに軍を動かすようになります。ここから武家の本格的な台頭が始まるのです。
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