アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

キリスト教の話になるので文化人類学でいいのかと思ったら、皆、
哲学のほうに質問を書き込んでいるみたいなので、私もこっちに書き込みます。
 (実は何度も同じところに書き込むの恥ずかしい)
 聖書を読んでいて何とも分からないところです。
 まず、旧約聖書のほうで、モーセが岩を2回叩いただけで、神様が「あなたは私を疑いましたね」と、モーセを叱る場面があるのですが、(モーセの二度叩きの部分)どうしてたったそれだけの事で、モーセはカナンの地を踏ませてもらえなかったのでしょうか。ジーザスと違って、モーセは普通の人間だから、
あせる事もあると思うんですが・・・。旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます。
 いまひとつ旧約で、パロの頑なさは度を越している異常性格のように感じるのですが、本当にあんなにわからずやだったのでしょうか。
 新約聖書です。盲目のバルティマイは、目が見えるようになった途端、ジーザスのあとにくっついていったのに、どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。マグダラのマリヤも。
 復活の後、使徒たちがエマオでジーザスに会い、それが主なる神であることを知った、と書いてありますが、ジーザスは神様であると考えてよいのでしょうか。(そのほうが嬉しいけど)
長くなるといけないので(充分長いよって)箇条書きにします。
・マタイとマルコの福音書と、ルカ・ヨハネの福音書でずいぶん違う個所があるの はどうして?
・「主の名をみだりに唱えてはならない」(これ旧約だっけ)とあるが、ジーザス の話を他人とべらべら話してはいけない?
 ・・・まだまだあるんですが今日はこのくらいにしておきます。
もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。

A 回答 (7件)

アドバイスはあとで述べますが、最初のひとつだけ答えたいと思います。

岩を叩くという行為は恐らく「調べる、確かめる」意味をふくんでいます。同じようなのに、ドイツ人が箱の中身を音で聞くのがあります。
謎を解くヒントとしてまず、イスラム教やユダヤ教の重要な考えは「聞く」ということで、旧約聖書の冒頭には「アラーが言った」ことが書かれていると思います。
次にそれらの宗教はアラーだけを信じ、決して疑わないという決まりがあるので、音を聞いて確かめるなどという行為、つまり疑うなんてけしからん、ということでしょう。
ちなみにわたしは旧約聖書をめくったこともありません。ただ倫理の勉強してこうした背景を知っています。背景を知ろうと思えば、あなたはこれからの理解がスムーズになります。1990年のベストセラーの「ソフィーの世界」にも書いてあることですし、ぜひ入門にふさわしい本をさがして理解をふかめてください。 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

かなり破茶滅茶な質問でしたのに、お答え下さいましてありがとうございます。
(実を言うと、誰も答えてくれないんじゃないかと思ってました)
「ソフィーの世界」というのも読んでみます。
ただ、二度叩きの話には、「みんな喉が渇いているからお水がほしい」とモーセに
ブーイングが出て、そこで神様が「その岩を叩きなさい、お水がでるから」と
教えてくれるんですが・・・叩いたところ、水が出てこなかったので、「えっ」っと
あせった(と私はとってしまった)モーセがもう一度叩いちゃうんです。
それが最後のほうで、神様から「ペナルティーです」とばかりに文字通りペナルティーを食ってしまうので・・・「これはいくらなんでも可哀想だなあ」と・・・
・・・もうちょっと勉強してから質問したほうが良かったですね、私・・・。

お礼日時:2002/01/17 00:50

先ずは、キリスト教徒の方は読んでも決して、非難したり、攻撃したりしないで下さいね。



主(神、エホバ、ヤハウェ)は何か変ですよね。
大体からして全知全能なはずなのに「人間」と云う失敗作を作ったり、「お怒りになって」罰をお与えになるなんて何と人間的なんでしょう。
信仰すれば救われるらしいのですが、実は信仰をしなかった人間のもうなんですが、キリスト教を知らずに信仰してなかった人は対象外なんだそうです。
日本にキリスト教が入って来たときにその事をとても疑問に思った人々から宣教者が(B'sの歌の歌詞では無いですが)「自分で作ったはずの人間なのにどうして差別するのか」と質問されて答えに窮したと云います。
「グノーシス思想」と云うのが有ります。
検索してお読みになって下さい。面白いですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答え、ありがとう。「グノーシス主義」については3人くらいの方から
参考に読んでみては?という意見を頂きました。
これは一読するべきなのかも知れない・・・
私自身、ズブの素人なので、読み手の方にとっては、質問自体に(あるいは内容や言葉使い)にちょっと腹の立つものがあるらしいです。気をつけたいとおもいます。でもやっぱり・・・旧約の神様って、怖いよね。

お礼日時:2002/01/17 23:52

モーセについてです。


モーセはもともと短気な性格ですよね。怒りのあまりエジプト人を殺してしまったり、40日も断食してもらった十戒の石板を割ってしまったり、水のでる岩も怒りをもってたたいたのです。(注:一回で水が出なかったから「え?」と思って二回たたいたんじゃありません。一回でいい所を二回たたいたのです。)これまでは主はモーセを許してくれましたが、この時点でイスラエルの民を指導する立場にあるモーセの使命が終わったと考えてもいいのではないでしょうか?

イスラエルの民もいつも不満だらけで、すいかが食べたいだの、きゅうりが食べたいだのと、奴隷であったにもかかわらずエジプトを懐かしんだりして、いけないのですが・・そんな群集をリードするモーセの苦労が想像できますが、その短気な怒りが主に対する裏切りになったと解釈しています。 厳しいですが、そこまで徹底しないとあの時代のイスラエルの人々をカナンまで連れて行くことはできなかったのだと思います。

パロ(ファラオ)についてです。
成人した男だけでも60万という奴隷(=財産)をもって行こうというのですから、王にしては巨大な損失です。一度は行っていいよ、羊も牛も持っていっていいよ、と言いつつ、後から追いかけて来たのも(海割れ)、それほど奴隷の価値が大きかったからでしょう。

>旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます
ホントに言うことを聞かない、すぐに疑うイスラエルの民には厳しくするしかなかったのでは・・と。

旧約も新約も説教する場合は、その部分部分を取り上げますが、聖書は通して読むことが大切だと思います。イエスの系図が新約の一番始めに書かれているのは、旧約と新約はつながっているんだよ、てことですよね。でも質問する時はもうちょっと整理してからにしてくださいね。疲れたので私も今日はここまでにします。参考になれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えどうもありがとう。・・・実は私も自分で書きこんでおきながら、かなり
脈絡の無いぶしつけ的・信仰厚いと自負している人思いっきり怒るモードに
質問していたようです。
もうちょっとよく読んで、整理してみたいと思います。アドバイスをありがとうございました。

お礼日時:2002/01/17 23:39

実は私、聖書を読破していないんです。

だから単なる素人ということになりますが、新約の各聖書が異なっていることに疑問をお持ちなようなので、参考までに愚見を披露します。
まず、各福音書は、書いた人も違えば、書かれた場所も時代も異なる、というのが(私が知る限り)定説です。また、各々の福音書は、一人で書かれたわけでもないようです(書いた人を総称してマルコとかと呼んでいるに過ぎない)。書かれた時期に数百年の隔たりがあることを考え合わせると、差異が生じるのは至極当然だと思います。ただ、共通点も多いですよね。この共通点を以って、XXX福音書はYYY福音書を見て書いたんだろう、ということが体系的に整理されています。”見ながら書いたのなら差異は無いだろう”と思いがちですが、紀元当時の話ですので、”見たもの”も写本で誤写もあったろうし、全部でなかった可能性もあるので、差異を否定することにはなりません。
ところで、共通点を分析すると、現在確認されている福音書や旧約聖書などのほかに、福音書の記述者が参照した別の物件が存在したんではないか、ということが想像されています。いわゆるアキュウですね。天文学の世界では、星の振る舞いから、未知の星の存在を予言することがありますが、この世界でも論理的考察によってこういうハナシがあります。2000年前の話なんですから、各論に埋没せずに、総論から見てみるのも良いかと。
最後に、神の名を唱えないのはユダヤ教のハナシで、キリストを神と定義するキリスト教諸派では、その制約は無いように思います。ただ、”名”といっても、エホバって”神”のことであって、固有名詞ではなかったような気もしますが。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
色々と、参考にさせていただきます。
自分がよく分かっていないものですから、お礼のほうにもろくな事が書けなくて
申し訳ありません。
・・・でも、そうですね・・・神様に固有名詞があるって言うのも何か
考えてみれば変ですよね・・・

お礼日時:2002/01/17 23:23

キリスト教だけでなく、無学無知のど素人ですが、応えてみます。

すこしだけ、。(笑
>どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。
使徒は使命を与えられた人間です。ですから、このときイエスは「帰りなさい、あなたの信仰があなたをなおしたのだ」と言ったんでしたっけ?(勘違いだったらすみません)ただ、「使命を与えられなかったから」だと思います。
マグダラマリアは、女ですか?聖書のどこかに、「女は教えてはいけない。ただ聞いていなさい、何故なら、最初にアダムがつくられ、そしてエバがつくられたからです。」って、パウロが多分言ってました。
>「主の名をみだりに唱えてはならない」
僕の知ってる教会(10年も前、小さい頃、何故か行ってた。)では、みだりに唱えて多様な気が、、(笑
 主よ主よと言うのは、自分の救いばかり気にして、主や隣人の事を気にしてないからでは?信者が隣人とするのは、同郷(同じ宗教社会(組織))の者であるように感じる場合が、よくあります。どの人も、俺は救われるけど君は救われんって、心では思ってる場合があると思います。キリスト教同士ですら。そんなことよりも隣人を「愛す」べきだと思うのですが、。信仰よりも、異言よりも、愛が優れているってパウロがゆってました。
いいよ、じゃあ僕が代わりに死のう、って方は、きっとたくさんいるんでしょうが、、。 
 
あと、グノーシス主義というのは、ヤーウェーについての解釈が違います。ヤーウェーは、深淵(ビュトス)という、ホントの神を裏切っておちた母親(これも神、叡智と言う名前だったかな?)から生まれた、不完全な神だ!何故なら、「私は嫉妬する神である」と自分でゆってるからだ!っていうんですね。ヤーウェーは、不完全ながらも、おちたところで一生懸命完全な世界を見習って世界をつくり、自分を真の神と偽った。ルシファーが人間に火をもたらしたのは、そんなヤーウェーから、人間を救うためだって、。キリストも、真の完全な世界から来た救世主だって言うわけです。ヤーウェーは、偽りの神だと。しかし、ヤーウェーの創った世界の人間、完全なものを、完全な世界のようなものをもっているんです。ヤーウェーももちろんもっています。
それを、真の神々たちは回収したいらしいです。完全な世界と、おちた世界が、切り離される前に、。
完全な神たちにも、性別があるみたいですよ。

キリスト教の異端だそうです。昔から他のキリスト宗派は手を焼いてる見たいです
原始キリスト教に近いらしいです。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
ふーん、原始キリスト教かあ・・・
キリスト教は結構いろいろな派があるみたいなので一概に教えてくれ、
とせがむこと自体無理があったようでした・・・
カバレロさんのは面白かった(興味深かったと言う意味です。)ですが、
人それぞれ確固たる信念のようなものをお持ちの方もおられるし、また一般の方が分かる範囲で経験談や自分で考えてみたりしたものをおしえてくれたりします。
私は偏りや頑固に走りたくないので、気をつけていますが、反面無知をさらけだして読む人に怒りを覚えさせている傾向もあるみたいなので、この質問はもう打ちきろうかどうしようかと悩んでいるところです。
でも、グノーシス主義?にはびっくりするものがありそうですね。
いろいろな人の(特に一般の方・・・ちなみに私も一般の人です)ご意見や解釈を教えてもらうのも良かれ、と思って書きこみましたが中々きついご意見もあったので、もう少し静かに勉強します・・・ありがとうね。

お礼日時:2002/01/17 23:16

 


  もう一つの「文化人類学」の方の質問も見たのですが、難しすぎるのと、答えにくい理由が色々あって、答えていません。こんな難しい質問に対し、どう答えるのか分からないからです。(特に、信仰が関係してくるので、よけいに書きにくいのと、もう一つ、イエスまたはイエズスのことを、「ジーザス」と書いていることが、違和感以上のおかしさを感じるのです。日本語で聖書と読めば、どこにも「ジーザス」など出てこないはずです。英語で読んだのかと思えば、ルカだとかヨハネだとか言っていますし。英語だと、これらは、ルークまたジョンのはずです。大体、ギリシア語のイエススに一番近い普通に使われる言葉は、「イエズス」で、ジーザスなどというのは、何かということです。少なくとも英米人には、まともに自分たちの「主の名」もできるだけ正確に読もうという意志がないようです。なんでイエズスがジーザスなのですか? そんないい加減な人間には、時間を割いて難しい問いに答える気になれないということで、先はパスしました。しかし、これについては、面白くないのですが、答えてみます)。
 
  1)モーセの話は忘れているようです。ただ、答えとしては、旧約のヤハウェは、『旧約聖書』をよく読めば分かりますが、目先のことだけで行動し、身勝手で自分勝手で、人間には色々約束を守ることを求めたり、自分の意に沿わないと言っては不条理な報復をしたり、自分の方は平気で約束を破って恥じることのない神です。紀元前第千年期頃の「神」というと、こういう不合理な面が多々あったので、ヤハウェだけが、問題ではありませんが、現代の常識から考えると、ヤハウェは、「神」らしくないのです。というか、「愛の神」ではなく、自分で定めた「律法」に人間が従うことは要求するが、自分は神であるので、人間との約束などには従わなくともよいという「義の神」で、当時、神とはこういうものであったので、別に不思議はないのです。『旧約聖書』のなかで、敢然と、「神に非がある、神こそ自覚せよ」ということを間接的ですが、明確に述べたのは、『ヨブ記』のヨブです。
 
  2)エジプト神王ファラオについては、ファラオやエジプトの側から事件を眺めるとどうなるかということを考えてください。モーセの要求や、また、要求を聞かなければこうするぞと脅しをかけ、実際にその脅しを実現し、悪しきことや、疫病や、あまつさえ、罪のない子どもの大量殺戮をしたのは、モーセとその神でしょう、記述に従えば。こんな暴力主義で無茶苦茶な無法者の言うことを何故、聞く必要があるでしょうか。エジプトの統治者として、ユダヤ人は奴隷ではなかったはずですが、下層の労働力として国のためには必要であり、モーセの虫のよい要求など聞き入れることはできないでしょう。また、ヤハウェが「パロの心を硬くした」とも書いてありませんか? 神が全能なら、パロの心を硬くするのではなく、穏やかにし、ユダヤ人の要求を穏やかに受け入れるようにすることもできたはずです。神がおられるなら、これは神の御意志ではないでしょう。ユダヤ人が、自分たちの乱暴狼藉な無法を合理化するために「神の名」を出しているのだと考えた方が筋が通るでしょう。
 
  3)「十二使徒」は、十二人が定員で、その定員に入らなかったろいうことです。ユダが十二使徒から外れた後、確か、別の人で補っています。
 
  4)マグダラのマリアについては問題が難しくなります。或る研究者は、イエズスの教団の元々の主導者は、女性信徒たちで、マグダラのマリアは、その代表であったという見解を示しています。わたしはこの考えに賛同します。どの段階かで、男達が、自分たちの救世主にイエズスを仕立て上げ、都合の悪い、マグダラのマリアなどは、「元娼婦」などと貶めても、事実隠蔽したのだと考えられます。福音書の記述を注意深く読むと、例えば、イエズスの処刑には、女性信徒しか立ち会っていないこと、また死後のイエズスの墓を尋ねたのは、女性たちであったことが記されています。色々、考えられるのですが、師の処刑に、たとえ命を賭しても、立ち会わない弟子がいるでしょうか? ポンティオ・ピラトゥスの判断は、介入したくないものを無理にイエズスを死刑にせざるを得なかったというものです。女性達こそ、真の弟子で、本来の弟子たちの中核だたと考える方が自然なのです。
 
  5)四福音書の記述が違うことは、最初から、これらをカノンにカトリックが定めた時から分かっていました。敢えて、内容の違う福音書を四つ、聖典に定めたのです。これは、福音書が、客観記録などではないからです。色々な立場からはイエズスは色々に見えた。記録の食い違いはそういうことなのだろうと言うことです。これらを統一することもできたでしょうが、しなかった、またはできなかったのでしょう。歴史的に「福音書」は成立したものですから、食い違いがあって当然です。逆に、何故似ているのかが問題でしょう。似ているのは、福音書は、特に、「マルコ・マタイ・ルカ」は、『Q』と仮称されている、想定される「イエズスの語録集」を参照したので、イエズスの言葉で同じものが多いのだとされます。これら三つを、『共観福音書』と呼びます。「ヨハネ福音書」がかなり変わっているのであり、これは、グノーシス主義またはグノーシス思想との関連があります。元々グノーシス主義の書物だったのかも知れません。少なくともその一部は、純然たるグノーシス文書と考えざるを得ません。「ルカ福音書」は、たいへん文学的で、ルカが一番ギリシア語の文章力があり、文章を書く力量もあったと言われます。ルカによる脚色がかなりあるとわたしは思います。
 
  6)「主の名を妄りに唱えてはならない」というのは、「名」は、その存在の本質なのです。イエズスの教えに、「御名が崇められますよう」と祈りなさい、というのがありますが、エホバの証人は、主の名を妄りに唱えるな、がこのイエズスの教えと矛盾すると言います。しかし、まさに、「名」が「神の本質」であるからこそ、「御名が崇められますよう」のはずです。「御名を尊ぶ」というのは、「軽率に神の名を使ってはならない」というのと矛盾しません。「妄りに唱えてはならない」は、何かと言えば、「神よ、神よ」という風に神を呼ぶなということでしょう。神の名は、復元推定されているところでは、「ヤハウェ」です。「イェホヴァ(エホバは、日本人に読みやすいよう歪曲しています)」などでないと言うことは、簡単に証明されますし、昔から分かっていました。ヤハウェは固有名詞で、残念ですが、「神」の意味はないはずです。「アッラー」は、英語だと、まさに、The God というアラビア語ですが。ヘブライ語で、神は、エルまたは、複数でエロヒームです。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えどうもありがとうございます。「いい加減な人間には答える気にならない」
とご指摘がありましたが、その割にはずいぶんとご説明して下さっているので、
何か申し訳なく思うのと同時に、ありがたく思いました。
私がジーザス、と呼ぶ(書く?)のにはちょっと変な癖がありまして、もともとはイエス様、と言っていたのですが英会話教室に行くようになってから、「ジーザス」という発音をしないと通じなくなってしまった・・・というのがあります。マタイ、と言ったら「マシュ―」と直されてしまいました。・・・でも、人のせいにしてはいけませんね。これから気をつけます。
お腹立ちも多いかとは思いますが、すみません。でも、ありがとう。

お礼日時:2002/01/17 22:53

罪罪というけれど、罪ってなんでしょうね、。


アダムとエバの原罪からすれば、罪のない人間などいなく、キリストの贖罪をえずして(信仰なく)、罪から洗われることはないと書いてます。

>もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。
信じてみれば解るのではないですか?イエスが「信じなさい」と言ってるから、。
宗教を解するには信じずしてありえないと思います。人間の解釈は数えれば数えるだけにあり、解釈をつけた時点で、「一つの解釈」になり、言葉として独立します。他と比較されえます。ところが、信解というのは、何もありえません。それがすべてなのです。疑問の余地が無くなる。つまり、知ることです。疑問、迷いがある間は、完全に信じれていないということです。(信者になるよう薦めているんじゃありません。僕が信者とは言いません)
キリストの記憶を思い出すのに聖書は役立ちますが、キリストを信じることは、聖書を信じることと同じではないと思います。キリスト=聖書ではないからです。
彼いわく、キリストを信せずして、神に導かれる事はないというけれど、聖書を信せずして、キリストを信じることは出来ないとは言いません。なぜなら、イエスの言葉は「今」にあるのであり、化石のように聖書の中に「ころがっている」訳では無いのです。それは生きているのです。
 何故聖書にこだわるのか?律法にこだわるかつてのユダヤの様である。聖書は、大切にされるが、キリストのほうが大切で、神のほうが大切で、隣人もまた同じように大切です。と、キリスト信者なら言うと思うんですが、、。
 
このままではただの愚痴っぽい説教になってしまうので(すみません。)URLを置いていきます。グノーシス主義の思想ページで、簡潔です。結構、人間的で、論理的なので、他宗派よりも説得的と思われるかもしれません。
ヤルダバオートという名前らしいですよ。ヤハウェのフルネーム。ヨルダンとなんか関係してるんでしょうか?なじみの薄い、すごい名前ですね(笑
失礼しました。
 
余文:文字にして発するような名前は本質ではありません。それは、文字存在の本質で影です。示された者の意味する所以ではありません。
書かれ、示されたけれども、書く必要のないもの、示す必要のないものが本質です。何故ならすべてだからです。だから、言われても解らない事が多いんです。
目の前の影(人影)を指差されたら、影の本体である後ろの物体(自分)よりも、さらに、影をつくる光を見なければなりません。
影に見入っているようではだめです。影の本体を見てもまだです。なぜなら、すべては光があるからあるのです。その光、影の本体もまた影である事を知らせるように、余地を余さず、残り残らず、光ります。だからすべてです。すべてを知るとは、光を見ることです。このとか、あのとか、は、不適切です。比べる者の無い者は何かをまず、考えるなり、知るなりする必要があります。影は、なくなります。はじめから無かったからです。
 
外の光は影(迷い)を生むが、内の光は影(迷い)の無い事を、明らかにします。内が真です。内を求めなさい。
 
と、キリスト信者なら言うかも(笑

参考URL:http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お答えどうもありがとうございます。
な、何か難しいですね。このQ&Aのコーナーですと、文字数に制限があるようで、
(800字以上で受付がされないらしい)
長く話しを(考えを?)交わすにはちょっと適していないようです。
・・・(gooから苦情こないだろうな・・・)
また後日改めて、ホームページのほうへおじゃまさせていただきます。
どうもありがとう。

お礼日時:2002/01/17 22:29

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!