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良く、「戦時中は食べるものもなかった。」というような話を聞いたことがあります。なぜ、戦時中や昔は食べ物が不足していたのでしょうか?
日本は島国で魚介類はいっぱいとれるし、野山では果物や野菜等が手軽に手に入ったのではないのでしょうか?例え、男手がなくても。
いかがでしょうか?時間がある方、おつきあい下さい。

A 回答 (11件中1~10件)

食料が不足した例としては.軍による接収。

軍に種まで取り上げられてしまった集落があります。
疎開者による需要増か。「山に食料はある」にはあります。しかし.翌年の収穫を確保するために残しておく場合があります。これを疎開者が食べてしまうと翌年に農村の食料がなくなりますので手放しません。
大体100軒の集落で必要な山林面積が1-2平方kmで.しかも.何年もかかって蓄積します。
秋口に収穫して.これを食べつづけるのです。ですから.とつぜん100人くらいが集団疎開してくると食料がなくなります。
農地を増やすとか作付けを増やすとか.あります。しかし.戦後まで農地は増えていません。開墾した場合には.何年か税金を免除するということがありましたが.開墾地は肥料がほとんどなく何も取れないのですぐに作付けが放棄されるような状態です。

漁業ですが.取る手段が
かぎられていました。結局巣もぐりに近い状態か.手探り(手を水中に入れて手の上に魚がくる野を待って救い上げる)しか方法がありません。金魚が比較的簡単に救い上げができます。金魚ばちの中の金魚を手で救い上げてみてください。
疎開者はこの救い上げの技術を持たず.高額な支払いをして現地から買うか.その地域で食べないものを食べる(同僚宅に疎開していた人は蛙しか取れないので蛙を食べていた)しか食料がないのです。
高額な支払いとしては.こめ1升と布1たんが交換なんて極端な工学取引があったようです。

山に関しては.地主が立ち入りを禁止している場合があります。戦争前の日常生活を話題にした小説がいくつかありますので参考にしてください。戦争成金の近所の地主は.山への高額な立ち入り料金を請求して.金を集め山を買いあさりました。
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この回答へのお礼

まず、
『11名の方達へ、大変詳しいご回答おりがとうございました。』
拝見しますと、・人手・輸送システム・海の状態・山への立ち入り等の問題や疎開による食糧難、また、地域格差等いろいろとあったようですね。
このように沢山の方からご回答があるとは思いませんでした。
勉強になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/11/08 10:34

大量輸送に関しては、船便は打撃を受けますが鉄道が生きています。

ご存知のとおり鉄道は石炭で動きますので戦争中も休まず運行されています。大戦中は現在のような精密爆撃ができなかったため、線路の破壊もほとんど(まったく?)されませんでした。軍需物資の次に重要な食糧輸送はある程度されていて、都市ほどではないものの農村も食糧不足に見舞われています。
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 「日本は」という括りで語れば、「食べるものもなかった」は、誤りです。

食料難だった地域もあったし、そうでなかった地域もあったのですから。
 端的な例としては、空襲による国内破壊がピークになった終戦直後にすら、買出しという行動が行われたという現象があります。これの意味する所は、買出しに行った先には食料はあった、ということです。
 むろん、今を基準にしたら品質もバリエーションも天地でしょうが、生命維持のためのカロリーという観点からは、十分にあったと言えます。単に、分布が偏っていただけですね。

 基本的に日本は農業国でしたから、特に郊外では食糧難ということは、さしてありませんでした。「食べるものが無いと言っている人がいるので、そうでもなかったよ、と言うのは気が引けるので、あまり言わない」と証言する人もいます。
 ということで、「(日本という括りにおいて)食べるものが無い」説話は、戦前を暗い時代だったと描写したい左翼やサヨクの作った話だと思っておきましょう。
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漁業に関しては、戦争末期には日本の沿岸部まで潜水艦やB29等により大量の浮遊機雷が散布されており(海上封鎖のため)、民間船舶と雖も無差別に攻撃対象となっていたため、沿岸近海漁業も満足に操業出来ない状態だったようです。

戦後政府は食料確保の必要から安全な漁業活動を可能にする為、機雷の撤去に力を入れます。そのような経緯で日本の掃海(機雷撤去)技術は世界屈指のものになりました。
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そう言われてみればそうですよね。

特に魚なら人間が手入れしなくても増えてくれそうだし。
ちょっとくらい個人的に山や海に行って調達すればいいとも思います。やってた人も少しはいたのかなぁ。
けど、大部分の人にはそれすらできないくらい当時の圧力や恐怖の雰囲気が凄まじかったんじゃないでしょうか。
今で言えば海や山にさえ監視カメラがあって不正が見つかれば即死刑、どこにでも盗聴器があって不満を聴かれれば即死刑、
抗議するなんて自殺行為、くらいの国だったのかもしれません。
個人の命なんて紙切れ同然、国のための命、今とは状況があまりにも違ってたんでしょうね。
その時代の空気を感じていない人間には到底分かりません。
ちょっと気になるので今度祖父に直接訊いてみたいなぁ。
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母の記憶からすると戦時中よ終戦直後が一番何もなかったといってます。


配給制度も敗戦で国家が崩壊してますから配給も無し。
闇市で極端なインフレになり物を買うことすら出来なかったと。
管理者が居ないから配給の横流し等横行していたはず。
特権階級には物資はあり、また農業生産者も自給分は持っている。
都市部の一般市民は通常ルートでは物資が来ない。
一部の物資は横領・横流しで超高値で取引されるので一般人には届かない。
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 戦時中、日本は通称「ABCD包囲網」と言われる経済封鎖を受けていました。

その為海外から軍需物資、特に石油が入ってこなくなりました。
 乏しい備蓄などの資源は戦争を続行するため、軍にまわされます。その為、化石燃料を利用した大量生産・大量輸送のシステムは使えなくなります。従って農業も明治以前の生産・輸送能力に近くなります。生産量はともかく、輸送に関しては致命的です。
 また、明治以前の日本は鎖国により完全に自給自足の生活を送っていましたが、その人口は2600万人前後で安定していました。裏を返せば日本の国土面積で自然な生活を送る分には、この程度の人口が精一杯だったとも言えます。明治以降大量生産・大量輸送のシステムが出来上がったため、人口の許容量も増え、明治初期には約3500万人、戦前には約7000万人まで膨らみます。
 そんな状況の中、大量輸送システムがダウンすればどうなるでしょうか。地方の農地では生産量は多少落ちるものの、出荷量が大幅に落ち込むため食料が余り、都会では食料が不足する事態が生じます。その為、都会では少ない食料をなるべく均等に配るため、配給制度が生まれました。
 現代でも大地震などで交通が分断されると、都市はとたんに食糧難に陥ります。例えば阪神淡路大震災の被災者は海や山に行って飢えをしのぐことができましたか? 極論すればそういうことです。
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最初の頃はそれなりにありました。


しかし、男手を兵隊に取られていき、また、女性も工場などで働いたり、防衛訓練などで時間を取られ、農業が出来る時間を削られていきます。
残ったのは子供と、よれよれの老人達
当然収穫は減りますので、徐々に欠乏してゆきます。

漁場も男手は当然取られてゆきますし、女性での漁は重労働過ぎて十分には出来ません。

農業にしても漁業にしても現在のような優秀な機械はありませんから、すべて手作業です。
漁船のための燃料もありません。

現在でも「手軽に」作物も魚も手にはいるわけではないんですよ。
それぞれが命がけで作っていますし捕っています。
あなたにとっては手軽かも知れませんがね。
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>日本は島国で魚介類はいっぱいとれるし、野山では果物や野菜等が手軽に手に入ったのではないのでしょうか?


 諸外国に比べても相当人口密度が高いです。基本的に海の幸山の幸でまかなえるような人口ではありません。江戸時代の日本の人口は3000万人ほどで、これさえ大半の男手が農業をすることで養っていた人口です。(それでも凶作のたびに飢饉が起きる)それが第二次大戦までに人口が倍増したら、大陸からの食料輸入なしには成り立ちません。それが戦争となると輸入は滞るし、生産も滞るの空襲や軍需物資として食糧が消えるとなれば、食料難は避けられません。
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>日本は島国で魚介類はいっぱいとれるし、野山では果物や野菜等が手軽に手に入ったのではないのでしょうか?



いわゆる田舎ではそうですが、都市部では魚も野菜もとれません。
また収穫された食料や燃料、資材などは第一に軍で消費されるため、一般市民の手に渡るものは必然的に少なくなります。
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