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 刺激を感じて、その刺激を過去の記憶などから善い悪いと判断するに至る過程も刺激だからそれも善いか悪いか生物は判断しているのでしょうか?

A 回答 (7件)

>反射で、足がピクッと動いたりすることはその足がピクッと動くのが善いとDNAに書き込まれているからなのでしょうか?



DNAによる反射は主に生命を守ろうとする働きです。反射で足がピクッと動いたりすることは、DNAにそれが善いと書き込まれているからです。ですが、現在ではそれが善いとも限らないことがあります。

例えば、バレーボールのスポーツなどで速いボールがきたら、反射的に体をよけることは善いことではありません。その反射とは逆にボールに体を当てていかなくてはなりません。これは練習や訓練によって条件反射がつくられてできることです。

現在、この条件反射の方がDNAによる反射よりも善いということも、場合や状況によってはあります。
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この回答へのお礼

分かりやすい説明ありがとうございました。この点における矛盾が解消しました。

お礼日時:2006/11/21 19:37

質問の答えになるかはわかりませんが、刺激で善悪を人は判断してはいないのではないでしょうか。



刺激にもいろいろあります。口に入れて苦い物は拒否反応を人間はします。ですが「良薬口に苦し」という言葉もあり、過去の記憶などから苦いものも体に良いと判断し、その良薬を飲むことは善いことになります。ですが善悪の判断は人によって違ってきます。苦いものを飲むのは気持ちが悪いから飲まないという人もいます。

例えば、タバコは体に悪いから吸わないという人と、タバコを吸うと気分が良くなるので善いことだという人と分かれます。善いか悪いかを判断するのは人間の欲望であって、どのような欲望を持つかで善悪は違ってくるものではないでしょうか。

人によって人生の目的や欲望は違うものです。健康で長生きがしたいという生きるために生きる人と、どうせ人間は死ぬのだからと快楽を追求して生きる人といます。

健康に生きようとする人には無意識的にも、体に良いものを選ぶようになります。逆に健康よりも快楽を追求しようという人には、無意識的にも体に悪いものを自然に選ぶようになるように思えます。

古来の何も知識のなかった原始人から人間が生き残ってこられたのは、毒を飲まず食べずに健康に良いものを選んで食べてきたからです。このように人間の体にとっての善悪は、DNAにも書き込まれているのではないでしょうか。

刺激によって善悪を判断しているというよりも、DNAなどによる無意識によって善悪は判断されていることもあるのではないでしょうか。それを人間は欲望の持ち方により、無意識での善悪を無視するようにもなったのではないでしょうか。

この回答への補足

>質問の答えになるかはわかりませんが、刺激で善悪を人は判断してはいないのではないでしょうか。

刺激でというよりは刺激を善い悪い判断していると思うのです。そして、その刺激に優越を加え、苦い薬で受ける刺激よりも、苦くても飲めば病気が治ると予想できるので苦い薬を飲むことを善いと思うのだと思います。
本当は苦い薬は嫌なので、飲みたくないという葛藤がありながらも、我慢して苦い薬を飲むのが善いと思って、苦い薬を飲むという行為にでるのだと思います。

>古来の何も知識のなかった原始人から人間が生き残ってこられたのは、毒を飲まず食べずに健康に良いものを選んで食べてきたからです。このように人間の体にとっての善悪は、DNAにも書き込まれているのではないでしょうか。

私もそう思います。ところで、反射で、足がピクッと動いたりすることはその足がピクッと動くのが善いとDNAに書き込まれているからなのでしょうか?

補足日時:2006/11/20 20:09
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この場合は恐らく、習慣つまり身体機構のオートマチズムに基づく無意識的な運動性の反復であって、認識とは違うものであるように思います。



判断とは主語・述語の構造(例えば、これはりんごである)によって物を区別し、しかも区別したものを再結合してその結合の真偽を定める働きのことで、この働きが認識です。

ですので、
>善い悪いと判断するに至る過程も刺激だからそれも善いか悪いか生物は

は判断ではなく、最初に述べましたように、身体機構のオートマチズムに基づく無意識的な運動性の反復、であるかと思います。

この回答への補足

>この場合は恐らく、習慣つまり身体機構のオートマチズムに基づく無意識的な運動性の反復であって、認識とは違うものであるように思います。

判断とは主語・述語の構造(例えば、これはりんごである)によって物を区別し、しかも区別したものを再結合してその結合の真偽を定める働きのことで、この働きが認識です。

しかし、「これはよい」というのも判断だと思うのですが。
刺激を感じて、その刺激を善い悪いと感じるのも、「これは悪い。」「これは善い。」と判断していると思うのです。

補足日時:2006/11/27 19:05
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卑近な例えで申し訳ないですが、学生がテストを受けるとき、不正があってはならないと、試験官を配置するとします。

さらに、試験官が不正があってはならないので、試験官採用の人事官をもうけます。さらに、・・・。人材配置の可能性と、正義へのコミットメントの強さが、その正義実施システムの階層構造を決定するように思えます。

これを個人の精神構造に置き換えて考えると、精神世界のキャパシテイの範囲内で、正義を行なおうという意志の強さによって、形作られると思うのです。生物にとっては、個体維持、種の保存などが正義ではあるでしょうが、社会性を持つ人間などは、幸か不幸か大脳というものも発達したおかげで、それ以上の正義を目指しているのかもしれません。ですから、生物一般が、感覚刺激から、ここでは威嚇するのが得策であるというような無意識的、反射的な情動的判断以上に、その情動をも反省して善悪の対象とし、理性的合理的判断をするとは思えません。人間の内でも、幼いものが善悪の区別がつかないというのは、精神構造が発達段階にあるためでしょう。

さらに人間の一部のものは、その理性的善悪の判断をも疑って、さらに普遍的な正義を目指しているのかもしれません。

この回答への補足

善とか悪というのは反射的で、無意識的な判断でもあるのではないのでしょうか?

そもそも判断というのが、理論的で、理性的なものなのでしょうか?

それでは、何か刺激を感じて、その刺激をだめだ、いいと感じるのは判断ではないとしたら、いったいなんなんでしょうか?なんか他にいい表現ありますか?

補足日時:2006/11/19 17:18
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善いという判断が善いか悪いかを判断し、悪いという判断が善いか悪いかを判断する、ということでしょうか。


これは無限につながっていくことであるので、どこかでストップしなくてはいけないと思います。
そうでなければ、判断ができないということになってしまいます。
正確に言えば、判断した結果、行動するということができなくなります。

この回答への補足

>善いという判断が善いか悪いかを判断し、悪いという判断が善いか悪いかを判断する、ということでしょうか。

そうではなくて、なんていうか。刺激を受けたときと、善い悪いの判断が出てくるときとの間にも現象となるものが存在していると思うので、それに対しても善い悪いの判断をしているかどうかというのを疑問に思っているのです。

補足日時:2006/11/19 16:59
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こんにちは。


面白い質問だと思います。
生物の無意識的な判断,
としてなら質問者さんの考えで理にかなっていると思いますよ。
それが正解かどうかは言いかねますが。
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この回答へのお礼

そうですか。意見ありがとうございます。

お礼日時:2006/11/18 12:27

善いか悪いか判断というよりは、最終的な部分は本能反射のようなものでしょう。



例えば、いつも親に叩かれてている子は、誰かが手をあげるだけで身構えてしまう。これは、視覚という刺激から起こる行動ではあるけれでも、判断はしていないです。

つまり、「刺激を感じて、その刺激を過去の記憶などから善い悪いと判断するに至る過程も刺激だからそれも善いか悪いか生物は判断している」は間違いでは無いと思いますが、最終的に必ず自己で判断して意識的に行動を行っているというわけでは無いと思います。

この回答への補足

判断というのは理性的に論理的にやる行為という意味しかないのでしょうか?

補足日時:2006/11/19 17:13
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