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偽善と善の違いを教えてください。

利己主義の何が悪いんですか?
どう考えたって マザーテレサもオードリヘップバーンも
笑顔や相手の幸せを感じる事によって得られる
自分の幸せのためにやってた行動だと思うんです。

この人は本当の善者という人を見た事がありますか?
いたら教えてください。 有名人でも隣人の話しでも良いです。

私は利己主義で 自己中心的な生き方を誇りをもってしてると思います。
私が邪魔なら人を殺しても良いし 
社会のためなんて生きようとも思いません

A 回答 (14件中1~10件)

前回は言葉足りなく申し訳ないです。

僕自身は偽善や善行は相対的なもの
だと思っているので、あまり気にはしていません。
 
「行為する人」「受ける側」「第三者」と、立つ場所によっていくらでも
解釈ができますからね。「偽」と考える理屈はたくさんあります。簡単です。

三つの立場が合致することはそうはないでしょう。前に話したコルベ神父は
きわめて稀ですが・・・しかしそう考えてしまうと普通の人は途方に暮れて
しまいます。「そんな事できません」てわけです。僕もそうです。

現代は偏見のかたまりで大変生きにくいです。この中で行動するには周りの
視線に耐える事(全ての視線が偽善視されかねません)羞恥心に耐える事が
必要でしょう。大変です。マザーテレサも大変だったと思います。

大変だから「自己中心的」へと楽な方へ行くわけです。簡単な方へ。
僕もそう。ただ簡単から得られるものは少ないような気がします。そして
つまらないような気がします。

ささいな事で偽善と思われても、たまには自己の中心からはずれた方が逆に
窒息しないで済むかも・・と僕は思うようにしてます。「それこそ偽善だ!」
と叱られそうですが、しないよりする方がまだコルベ神父に近い所にいるよう
な気がします。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
三者の不一致ですか 本当にそうですね
 

お礼日時:2001/07/08 15:18

偽善も善も個の肉体に宿っていると思います。

『違いはない』と答えたいです。
『違い』は、場面場面での見え方に他ならないような気がします。
偽善、善という言葉は、個だけではうまれてこない他者の存在があって
なにか事象を介在することによって表出してくる。
その場合、「~よかれ」「~つもり」という言葉(感情)が両者の間ででてくると
見え方的にはなにやら「善」っぽく?、「偽善」っぽく?見えたりしませんか?
「~よかれ」「~つもり」で、言葉を発している時点で利己主義・自己中心的なんです。しかし、こういってしまうと、「~よかれ」「~つもり」で言葉を発せられた人は、「そうじゃない!善だ!」とおそらくお言葉を返されることでしょう。
では、なぜ?「そうじゃない」ことを断言できるのか?
はい、根拠はどこにもみあたりません。「善」を「善」だと証明できるものは
ありません。同じく「偽善」を「偽善」だと証明できるものもありません。

善の証明に倫理や道徳規範を掲げられたりもしますが、「きれいごと」「理想」
「~であってほしい」と望む人の感情です。
裏を返せば、「自分はこうなりたくない」「自分はされたくないからしない」と
いった、利己的、自己中心てきなおもいが潜んでいます。
しかしながら、倫理・道徳規範を掲げることで自己にそうした無自覚的な
部分のあることを微塵もないようにいってしまう。

uglyelさんが挙げた質問は、偽善にみえて善でもあるようにおもいます。
uglyelさんは、
「私は利己主義で 自己中心的な生き方を誇りをもってしてると思います。」
ご自分自身を利己主義で自己中心的と認めておられます。
人のココロの中に偽善と善の部分があることを自覚されている。

自覚・認めることができない人が多い中でハッキリ認めておられますね。
偽善と善を考える上で認めることが第一歩のようにおもいます。

いつものごとくトンチンカンな回答でしたら読みとばしてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
私もそう思います
時代や見るときの心情とかいろいろで左右されますもんね

お礼日時:2001/07/05 16:37

ご丁寧な返答ありがとうございます。


おもしろいですね。
 たとえば、道端に落ちた財布を見つけて、しめしめ儲けたと思って拾ったら、落とし主が後ろから追いかけてきて、「ありがとう、命の恩人です、会社の金庫の鍵が入ってました」なんてこともあるだろうし、逆に交番に届けようと歩いていたら、血相を変えた落とし主が「お前が盗んだな、警察に連れてくぞ」なんてこともあるかもしれません。
 売名行為のつもりが、あまりにも周囲に祭りあげられてしまって英雄になったり、よいと思った行動が事態を大混乱させてしまい汚名をきせられた悪人も歴史上には、きっといるでしょうね。
 善悪は人間の観念ですから、それは当事者の意識と受け取る側の評価の関係を捉えないと判断できない。観念とはいえ、善悪を基準に人間が行動すると、実態的になる。それが集団の共通の評価と関わると、圧力がかかったりして、法になったり観念とはいい難くなる。さらに、通念や法を押し付けるだけで、観念の抜けた人もいます。そういう社会的というか人間関係の問題に、先鋭な感覚をもっていらっしゃるようですね。すくなくとも私より...。
 そういう文脈から辿ることが妥当であれば、貴方の自己中心主義や利己主義は正当で、大いにこれを主張するべきでしょう。ただ、そうなると他人の自己中心主義や利己主義も認めていかないといけなくなって、そこに利害衝突の場面もでてきます。
 たとえば、一人の異性を複数で取り合う場合、最高の方法はなにか。あなたが敵を滅ぼしても、異性が好きになってくれる保証はない。それよりは敵同士が滅ぼしあってくれたほうがいい。そして、それより敵と異性の接触から、敵の弱点や異性の好みを学び、敵が自分をほめるようになったり、異性からは誰よりも好まいと思われるようになるほうが確実です。
 私は究極的な利己主義というのは、こんなふうに邪魔なものや敵までも自分のために利用してしまう。社会も誰も彼も利用し尽くされて満足している。それが可能かどうかは別として、究極的には、そういうものかなと思っています。
 で、それは実は偽善かどうか。周りの人に善と思われていたとしても、どうなのか。それは、わかりません。

 ちょっと、返事を読んで、あらためて細くしてみたくなったまでです。
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>利己主義の何が悪いんですか?


別に悪くありません。が、本当に利己主義の人は、他人の評価すらどうでもいいし、他者と比べることに価値を見出しませんので、マザーテレサもオードリヘップバーンもどーでもいいと思います。そういう意味で言えば、私も利己主義的です。自分自身が振り返ってみた時のみ、他者の評価を気にするからです。ただ、振り返る時は反省しているときですから、ちょっといい子ちゃんになりたい似非利己主義とも言えるかもしれません。もちろん、会社では別です。自分の言動が自分に跳ね返ってきますから。

>有名人でも隣人の話しでも良いです。
エコおばさん・PTAおばさん・ごみの収集所の時間をチェックするおじさんなんかその典型ではないですか?「地球に優しい私」「人の為に働く私」「は、善者です。自分がはた迷惑な行動をしていることに気づきません。マザーテレサは、すごい人だと思いますが、何かをしてもらった人が全て感謝しているかどうかなんて分かりませんし、本人もそんなこと知らないと思います。周りの評価云々ではない所は、ある意味利己主義と通じる所があるのかもしれませんね。

>私は利己主義で 自己中心的な生き方を誇りをもってしてると思います。
はい。ですから、本来であれば、別にここで質問を上げる必要もないと思いますよ。そのこと自体が、あなたがあんまり利己主義ではないという証拠ですから。社会の為に生きようなんて思う人は、少数派ですし、別にそんなこと誰も望んでないですよ。偽善と善の違いなんて、その行動を受けた人にのみ判断できることです。善から発生した言動だろうと、相手の受け取り方一つで変わりますから。だから、境目は受け取る人によってのみ構成されると思います。「十人十色」ですから。私は、どちらかというとあなたは偽悪的だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
わかる人には分かるんですね 私は利己主義になりきれてません
ってそこまでここを否定されても って感じなんですけどね

お礼日時:2001/07/03 22:08

簡単に善と悪とを考えると人間の心は善悪が混沌としてますよね。

一体です。
善の中に悪は見えるし、その逆もあります。例えば見知らぬ人に「車に乗せ
てくれない?」と言われて断る。これを悪行としても同乗してる人には危険
を回避できることで良い事とすることができるでしょう。

人間は基本的に弱い動物なので利己主義になるのは仕方のない事と言ったほうが良いように思います。悪いわけではない。

僕はマザーテレサの行動は相当なものだと思います。ただの良心からでは到底
できないと思います。彼女は自分で「私は幸せ」と言ってます。しかしこれを
「自分のため」で説明することは不可能のように思います。彼女の生涯を追っていけば、普通の人では絶対できないと思うからです。

コルベ神父はアウシュヴィッツ強制所で見ず知らずの男のために
「かわりに死にます。私は若くない、しかし彼には家族がある」と言って
飢餓室に入れられた。二週間の絶食後、静脈注射で殺された。こういう人は
普通の人からしてみれば「信じられない事をする人」です。

人はみな自分と同じ人間と思うなら、コルベ神父の行動はまだ人が人間を
信じるすべがまだあると僕なんかは思います。これを「馬鹿な行為」と取る人は無知といわざるを得ないでしょう。

本当の善人はどんな人とするなら「普通の人ではできない人」でしょうか。
善の中に悪が全く見えないんです。「自己」がないわけです。自分と同じ人間のした事です。極端ですがわかりやすくね。

僕は自己的な人間です。しかしなるべくそうでないよう努力してます。
何かを知り、理解することが自己中心的な世界から少しでも離れる方法の
ように思います。無論、簡単ではありませんが。

社会のために生きたくないのは賛成ですが、これが全く社会構造のない世界
だったら社会のためになにかするかもしれません。

悪が優勢な時は善が望まれ、善が優勢なら悪がもてはやされるでしょうね。

(僕はキリスト教の信者でないことをお断りしておきます)
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この回答へのお礼

ありがとうございました
いい話ありがとうございました
神父の話は 釈迦のウサギがどうとかで火に飛び込むのに似てますね
私は この神父やウサギがどうしても信じられません
生きていくために生きてるのに なぜなのか?
苦しくて苦しくて苦しいのに 遺伝子を残すとかの本能以外でこんな事が起きるのか
いつか分かるようになれば嬉しいです。

それと失礼ですが 善悪じゃなくて偽善です
ちょっと 文の書き方が悪かったです。
もういちど その事について考えを聞かせていただけたら嬉しいです

お礼日時:2001/07/03 22:04

 uglyelさんの質問に答えるのは初めてになりますね。

よろしく。
 ここはあえて「無自覚な善意よりも自覚的な偽善を」ということを述べてみようかと思います。

 一つ挿話を。
 阪神淡路大震災のときの話です。全国から被災者にさまざまな救援物資が送られたのですが、その中にはさしあたり需要もない古着や古い布団がたくさん混じっていたそうです。中には使用に耐えぬものもあったとか。
 地元の自治体は困惑して、「送ってくれるのはありがたいが、よく考えて送って欲しい」と声明を出しました。すると…「善意で送っているのに、なんだ!」という抗議が殺到したそうです。

 要するにですね、「根からの善人」という人種って、意外と鈍感でハタ迷惑なことを平気でやったりするのです。「善意」とか「動機の純粋さ」なんてもの、それ自体には何の価値もありゃしません。「良い結果」を生まないのであれば。「善意」、ただそれだけでは、上に挙げた例のように迷惑を及ぼす結果しか生まない場合だってあるのです。相手のことを考えないからこういうことになる。
 だったら「計算ずくの善意」、つまり偽善の方がよくはないですか? 「どう振る舞えば自分がより評価されるか」と考える。そう考えるためには「相手の立場」を考える。相手がどうされれば一番喜ぶか考える。そういう計算に基づいて振る舞えば、結果もまた良いものになる可能性は高くなるでしょう。

 そういう考えから、僕は「善人はカワイイ、悪人はステキ」と思っています。悪人というか、この場合「偽善者」ですが。
 で、「カワイイ」と「ステキ」、どちらが評価高いかというと、「ステキ」の方が高いのです。善人はね…カワイイのです。何と言っても「良い人」ですから。憎めません。でも、こういう善人に悪癖があるとすれば、それは「善意」という肯定性に拠って立つために自分を否定的に見ることが、えてしてできないということです。自分の行動を「善意だから」と是認する。そして失敗しても「善意だったから」と自分を慰める。自らの善意を信じるからこそなかなか反省できない人、それが善人です。
 対して悪人は、えてして自己中心的です。わがままです。自分の利益を最優先に考えます。その点において、全然カワイクないです。しかも自分の利益のために色々と企てます。ですが、企てて、行動して、必ずうまくいくとは限らないことを知悉しています。知っていますから、自然と自分の「悪意」にも、社会の仕組みにも自覚的になります。より知性的に悪意を行使できるようになるのです。「悪意」とは見えないように行使するということです。
 結果、こういうことになります。すなわち、「自覚のない善意よりも、自覚的な悪意の方がずっとまし」と。

 そりゃもちろん、表看板で慈善事業をやりながら、裏では犯罪やらかしてるなんていうタイプの「偽善者」はよろしくないです。が、犯罪に手を染めずにカタギで生きていく道を選んだ「偽善者」は、現実的には「善人」なんかよりもずっと社会の役に立ちます。少なくとも「善意だけで世の中渡っていける」と考える甘さは卒業している人たちですから、何であれきちっと考えて行動します。
 ここで述べていることは、一見「悪の論理」に見えるでしょう。実際、小学生くらいの子どもには有害かもしれません。そのくらいの子どもには「良いことをしようとする心」を持ってもらいたいですから。
 が、オトナなら、「動機はどうであれ、結果で勝負しなければ」と考えませんと。そして、そう考えると、「本当の善人」だろうと「偽善者」だろうと、良い結果を出していれば同じ程度で「善人」ですよ。見分ける必要もないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
善意と善行の違いですめ、、、たぶん
たしかに 結果のともわない善意は おせっかいになりますもんね
タレントの売名行為って言われるかもしれない募金も
それで助かる人は確かにいる善行ですしね

社会って厳しいですね 
私的に 学校は理想を教えられ現実を感じさせてくれたとこですから
低学年の理想を基礎にして 高学年の現実を使えればいい感じですね

お礼日時:2001/07/03 21:49

 偽善と善の違いは、善と認められている行為を、本人が善と認めて、それ自体を目的=生きがいとして行っているかどうかでしょうか。

偽善は、善と認められることを行うときに、行為そのものを第一の目的とせず、他の目的の手段にしているということでしょう。付け加えると偽善的行為の最中に、自分は善行を積んでいるのだと勘違いすることも多々あります。自己欺瞞っていうんでしたっけ。
 ですから、善といわれることを自分の幸せのために行うのは、まさしく善者です。善は利己主義と相容れないものではありません。これが完全一致すれば最善でしょう。
 ですから、どうして対立させるのでしょう。言い換えると他人の幸せを自分の幸せと受け止めることができることに理解の目を向ければ、善と偽善の区別はできると思いますし、あえて利己主義を善と対置させて弁護する必要もないと思うのですが。
 もっとも他人の幸福は自分の幸福であるべきだとか社会のためになんていう説得をするつもりはありませんよ。けれども、あなたのいう利己主義、自己中心主義は、他人と衝突したときに協調するよりは滅ぼすという考えのようで、これは突き詰めて考えると利己主義、自己中心主義になるのかなという疑問があります。手短にいうと他人、異なるものが存在しなければ利己も自己もないからです。
 邪魔者を消すということは、あなたを無にすることにもなるということです。そういう考えでゆくと自分の生き方を誇ることも、「ほんとうの善者」を偽善と暴くこともできなくなって、かえってつまらないかもしれません。
 ちなみに私は、善行と偽善行為はあると思います。でも、「ほんとうの善人」という意味が、行動が徹頭徹尾善行であるという意味合いなら、それはありえないと思う。かといって人を殺して金を儲けて酒色に耽る人と、身代を削って自分よりも貧しい人を助けている人とは、善人というはかりで等しいとはいえないとも考えます。
 私には難しい問題で、一生解決に悩むでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
やっぱり難しい問題なんですね
でも なんとなく分かりました
わたしは 偽善でも善でも相手が気持ちよくなるんだったら区別つけれるのか?
そこで 相手の気分を害したら 結局は悪じゃないのか
ここでの 善悪は 私の中の価値基準なんで
社会にはなくても私にある 違いなんで
関係ないけど
この間これも この世に善悪はないって言われました

お礼日時:2001/07/03 21:38

>偽善と善の違いを教えてください。



「偽善」という言葉そのものが偽善者の使う言葉だと思います。人間の正体、社会の実相に善などありません。善とは永遠に追求される物でしょう。特殊な訓練をした人間で無い限り、真の善人など居ません。マザーテレサとそのグループもはっきり弱者に対して「あなたの存在が私たちの幸せです」と言うようなことを言ってました。マザーテレサも自分は善人などと思い上がっていたら果たしてこんなことを言ったでしょうか?
「善を偽る」と言う概念こそ偽善者の物だと思います。

ちょっと人名を失念してしまいましたのですが、古代インドの王様が「自分にとって一番大事なのは自分でないだろうか?」という疑念にかられ、聡明とほまれの高い王妃にぶつけた所、そのとおりだと答えられたが納得がいかず、お釈迦様のもとに参じて疑念を質したところ、「そのとおりである。しかし、だからこそ、人は善を行わなければならないのだ」と、おっしゃりました。自分が一番大事だからこそ、善を行わなければならないのです。

だから、
>私が邪魔なら人を殺しても良いし 
>社会のためなんて生きようとも思いません

本当に「利己主義で 自己中心的な生き方」したいなら、そんなことおくびにも出さずに善人を装いましょうね(笑)。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
「善を偽る」ですか 
そうですね 
釈迦の話はちょっと私はわかりませんけど
釈迦の話はいろいろ勉強に成るので調べてみます
なぜそういったか。

最後のところやっぱりわかる人には分かるんですね
こんなこと書く必要もない事を

お礼日時:2001/07/03 21:28

お礼ありがとうございます。



>ひとりの人間は、心理的には<人類全体>です。
彼は人類全体を代表しているばかりではなく、ヒトという種の全体なのです。

深い言葉だと思います。

>もしあなたが孤独であるなら、全人類はその孤独を知っています。
苦悶、嫉妬、羨望、恐怖などは、みんなにも分っています。

なるほど。そうですね。おっしゃることの意味が
わかるような気がします。
前に、自分もそのようなことを考えたことがあります。
でも、こんなふうにうまく言葉には、できなかったですが。

考えさせられる言葉ですね、ありがとうございます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

一応この文はパクリです 
でも 私もこの文で色々考えがまとまったとこがありました
この文にはこんな続きもあります
※「あなたは世界」であり「世界はあなたである」
 ということ彼の言葉を本当に理解できればすべての問題が解決する気がします。

お礼日時:2001/07/03 21:24

偽善者の見本ですが、ここで名前などを


列挙することは、特定の人の誹謗・中傷になり
おしえてgooの利用規則に反した行為になるので
もうしわけないですが、書けません。

レベルチェックですが、自分は4でした。

あてにならなさはしりませんでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
そういや ダメでしたね 個人とかは
難しいです 質問って

あてにならないの理由は
↓って感じです 分かりにくいけど 人の言葉だけど
ひとりの人間は、心理的には<人類全体>です。
彼は人類全体を代表しているばかりではなく、ヒトという種の全体なのです。
彼は本質的に、人類の全精神です。

この現実に対して、さまざまな文化は、
「人間はそれぞれ別々である」という迷妄を押しつけてきました。
人類は何世紀ものあいだこの迷妄にとらわれて、
ついにこの迷妄が事実になってしまいました。

もし人が、自分の心理的構造の全体を綿密に観察するならば、
「自分が苦しむときには、全人類もさまざまな程度に苦しむのだ」
ということがわかるでしょう。
もしあなたが孤独であるなら、全人類はその孤独を知っています。
苦悶、嫉妬、羨望、恐怖などは、みんなにも分っています。
ですから心理的、内面的には、人間は他の人間と同じなのです。

お礼日時:2001/06/28 17:39

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