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宗教もたくさんあり、またその信者のなかにも、変なひともいれば良いひともいるのだと思います。今、特に人生に悩みがあるわけでもなく、ただ、「なんとなく」、例えばですが、ニューヨークヤンキースの松井選手のような感じ(あくまでも感じです)の、「宗教をちゃんと信じているひと」の生き方に憧れます。わたしは無神論者ではなくて、こういうことばがあるかわかりませんが、多神論者という感じです。この性格のまま、排他的な宗教観を持たずに、それでも出来れば何かの信者になりたいのですが、そういう「穏かで」「排他的でない」宗教観の宗教は日本にあるのでしょうか。本人の問題であって、どこに入っても、大丈夫、このまま「他の主教は認めない!許さない!」みたいに変貌しないでいられるでしょうか。

A 回答 (6件)

宗教というとどこか排他的な視点を持ってしまうものですが、質問者さんの意図に合う宗教があります。


それは聞いたこともないでしょうが、バハーイー教という宗教です。
概略についてくわしくはWikipediaの該当項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8F% …)または日本バハイ共同体のサイト(http://www.bahaijp.org/)を見ていただければいいのですが、バハーイー教の教義とはあらゆる偏見の除去(宗教的な偏見も含まれる)、世界平和の達成に尽力すること、教育の普及などです。
戒律といったものが非常に少なく、確かギネスブックで世界で最も戒律が少ない宗教に選ばれた筈です。

ちなみに、私はバハーイー教徒ではなく、この回答もバハーイー教に入信することを薦めるものではなく、こういう宗教があるよ、と示しただけのものです(自分は仏教徒です)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
バハーイー教のHPを見に行きました。感激しました。
まさしくこういうのが私には合いそうです。
もっと他にもあればいいのですが。
わたしの宗教のイメージは、「トップは金が集まるし、なんか変な理屈でまとめてあるのはどの宗教でも50歩100歩、それでも末端の人は、少なくとも無神論者よりは狭かろうが宗教を信じているひとのほうが素敵なひとが多い」という感じです。だからトップやその理屈(一回死んで生き返ったがどうのこうの、とか)はどうでもよくて、素敵な身近な宗教者の生活習慣を真似てみたい。
近所のキリスト教会のせんせいたちも人相がすごくよくて憧れます。
テレビでやっている禅の作法とかも格好いい。
なにもかもわたしが「いい」と思ったら取り入れたらいい、そういうことかも知れないですが、独学では出来ません。
またなにかありましたらぜひ教えてください。

お礼日時:2006/11/27 20:23

No.5です。



質問者さんは良いことを仰りました。「心のお洗濯」、まさにその通りだと思います。こうして自分をさらけ出し自身を見つめることで心が穏やかになるのではないでしょうか?それには人と交流することが必要で、その媒体は趣味であれ宗教であれ仕事であれ何でもいいと思います。「どの宗教?」というくくりではなく、もっと広い視野で捉えては如何でしょうか?答えは質問者さんご自身で薄々気がついていると思いますよ。「心のお洗濯」はまず自己との対話から始まりますので。。
具体的には奥様コミュニティーや友達間で自己をさらけ出す機会を持つことです。世間体とか他人の目が気になるのであれば、別に趣味を持ち、それで自己表現をすることです。ガード下の酔っ払いサラリーマンも「心のお洗濯」だし、休日の草野球だって「心のお洗濯」です。旅行だってそうですよ。
質問者さんは毎日を真面目に捉えすぎているのではないでしょうか?完璧主義ゆえ将来にいらぬ不安を持っているような気がします。(もしくは幸せすぎて将来が怖いとか?)いずれにせよ頑張り屋さんです。私はそう感じました。宗教も趣味も心のケアです。「こうしなければならない!」という義務感で始めるのではなく、ごく自然に心の赴くまま流された方が良いような気がします。硬くならず気楽にお過ごし下さい。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
ごく自然に。そうですね。宗教と趣味を一緒にしているわたしをご理解くださってとても感激です。
趣味として凄く!!やりたいことはあるのです。妊娠中もがんばって続けていたことで。しかし今、それが出来る状況でないのでかなり鬱憤は溜まっています。幸せなんですが。そして「不安がり子ちゃん」と夫にからかわれる性格です。
それで趣味が出来ない間は宗教でも、、と思ったのですが、そうですね、なんにしろやるのは自分なので、トップが排他的だろうがあまり関係ないかも知れないですね。他の誰にも言えないほどなにもかも本音で話せる稀有な友人が誘ってくれたのでとりあえず顕正会でいいかしらと思いました。もし誰かを勧誘しなさいとか五月蝿くなってきたら適当に流します。

お礼日時:2006/11/27 20:48

質問者さんは何か悩みを持っているのではないでしょうか?


すがりたいとか座右の銘にしたいとか…、何か人生の糧を探しているのではないでしょうか?そのように私は受け止めました。

まずは質問者さんの年齢と職業、いま思っていること(悩みも含めて)を教えて貰えませんか?「宗教を信じている人への憧れ」を持つこと自体、ご自身の今現状への不満(不安)として受け取れます。
拠り所。それを見つけるために自分を偽りなく公表して頂けたら解決できると思います。

この回答への補足

この場をおかりして回答頂いている総ての方にお礼申し上げます。後日全員にお礼書き込みます。37歳主婦こどもひとり、夫婦仲いいので基本的には悩みはありません。でも普通レベルの悩みならあります。朝、「幼稚園にいきたくない」と言われると、一気に連想して、「将来、学校でイジメは」とか、「就職は」とか、不安にもなります。あまり「肝っ玉かあちゃん」なほうではないです。「早く幼稚園行こうよ!」とこどもが張り切っている日は将来も一気にばら色です。それと35歳をすぎると疲れやすく、風邪の治りも悪いのが悩みといえば悩みです。わたしは「拠り所がほしい」状態ではなく、「拠り所があるような素敵な人間になりたい!そしてひとりじゃなくて友達とやりたい」というのがわたしの今回の質問の趣旨だったのだと、今、書いていて自覚しました。自覚がなかったので、初めからそう書けなくて漠然とした質問のまま書いてしまってすみませんでした。
宗教をしているひとのイメージは、こうです。中学の同級生で、いつも落ち着いていて素敵な感じの男の子がいました。まずは彼のような、「情緒安定」のイメージ。それから甲子園によく出る野球の強い高校のイメージ。ハイジのクララのおばあさま、赤毛のアンのアラン夫人。宗教をやっているひとは「へこたれすぎない」とか、「素敵な肝っ玉かあちゃんになれる」のではと。12年前「手相の勉強・・」という団体に3回ぐらい行ってみました。実際お会いした女の先生は本当に素敵ですごい方だと思いましたが、普段関わるリーダーの女の子に魅力がなく、ビデオも?だったのでやめました。10年前、悪くなる前の「開発セミナー」に友達みんなで参加。飽きてやめたあと、トップが変になったという噂を聞きました。それから創価学会の友達は何人かいるし久本マチャミさんの良いイメージもありますが公明党がたいしてすきでないので入りません。立正佼成会は数回参加。すてきな女性の先輩もいていいなと思ったのですが、時間の関係で今、参加するのはまず無理。最近では、近所にキリスト教会がありみんな眉毛の間の広い、素敵なひとだと思いましたがあまりにも近所すぎてプライバシーや人付き合い等、失敗が許されないので躊躇。でも、ノンクリスチャン向けの行事や、「育児相談会」はなかなか実際の生活、子育てで直接的な勉強になったり、本当に心洗われる、楽しいことばかりなので、これからわたしがなにかの宗教にはいったとしても、参加し続けたいと思っています。他の回答者さんのをみせて頂いてバハーイー教はすごくいいなあ!!と思ったのですが、曜日や時間が合わなそうです。昔からすごく好きだった友達がいつのまにやら顕正会に入って、昔よりさらに健康に、性格も前向きになっていたのに驚き、惚れ直しました。その子がいるからわたしもそこもいいなと思うのですが、なんとなくトップの方の著書の名前から排他感が拭えず躊躇。多神的でない感じでちょっとあわなそうです。でも、下のほうのひとはごく普通で素敵なひとばかりに思えました。正座して声を出すだけで、異様とは思わずむしろわたしも血行が良くなった感はあるし、なにかラッキーを話すと「良かったね!」「良かったね!」と本気で喜んでもらえる、これが快感で、はまるかも知れません。内藤景代さんの「こんにちは私のヨガ」という本を昔から愛読しているのですが、そのせいか、わたしはえーと「お題目」を唱えることには違和感を覚えませんし、からだによさそうと思います。宗教と習い事、趣味を混同しているかも知れませんがわたしにとってはまさにそれでいいのです。体によくて心に良い、「エステ」のようでありながら友達も出来る。神道は存在さえ意識していませんでしたが、それぐらい自然に染み付いていてくれたのかも知れませんね。でも神社にいっしょに通う?友達はいないのでそういう意味でわたしのニーズと会わないというよりたんに「ものたりない」のかも知れません。今のわたしは微妙に不安で微妙に暇でさみしいという感じかも知れません。体が丈夫でないので働きに出るわけにもいかないし。趣味はありますが、出来れば「心のお洗濯」系でたまに外出して人と会って話したい、その選択枝として宗教いいなと思ったのですが、ひとりで感じるだけではものたりなく、誰か友達や尊敬できる先輩と感動を共有したいのです。そういう意味では、時間も拘束されないしお金も掛からないし、良いことがあると「良かったね!」と言ってもらえる「顕正会」は魅力的なのですが。でも本当はトップの排他方針?と、合わないし。実際問題として、顕正会にはまってしまっているだいすきな友達がこれから変にならないか心配ではあります。今はぜんぜん変じゃないです。むしろ前よりさらに素敵な人間になったと思いますが。質問の意図を分かっていただけたでしょうか。

補足日時:2006/11/25 15:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
拠り所というより生活習慣ですね。それと仲間。
たくさん書かせていただいたお陰で自分のほしいものが分かってきました。

お礼日時:2006/11/27 20:34

>「穏かで」「排他的でない」宗教観の宗教は日本にあるのでしょうか。



ほとんどの日本人がそういうタイプではないでしょうか。
強いて言えば日本に古来から伝わる日本神道ですね。
日本には八百万の神々がいらっしゃるという根本姿勢ですから、神社に祭られる神様以外にも、山、川、海、森、大きな木、等々自然の中にも常に神様が存在する、という理解で宜しいのではないですか。
何も特定の神様を信じることだけが宗教ではないと思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
わたしもたぶん日本人だからかも知れないですが、神様たちはいくらでもいると思っています。
ですが、これといってというよりまったくといったほうがいいほど、「宗教をやっている」自覚がなく、物足りなく、つまらなく、心元ありません。
せめて「お祈り」と「反省会」ぐらいは日常的にやりたいのですが、ひとりでやりたくないのです。
神道がもっと積極的にたくさんの行事を教えてくれたらなあと、ふと思いました。

お礼日時:2006/11/27 20:31

>「宗教をちゃんと信じているひと」の生き方に憧れます


という思いが、
>出来れば何かの信者になりたいのですが
という思いに帰結する過程がよくわかりません。
宗教団体に所属するから「宗教的な立場にある」と言えるのですか?
>「穏かで」「排他的でない」宗教観の宗教
神道はまさにそれだと思うのですが、それではいけないのですか?
八百万の神であり、排他的でもありません。
何でも飲み込んでいく懐の大きさは、一神教の神の非情さと対極を成します。
神社の氏子になるということでも、立派に、宗教的立場を取ることになると思いますが。

あなたに直接お会いして、話をしてみたいくらいです。
あなたの言う「宗教」ってなんですか?
あなたの中の神様は、あなたが宗教的な組織に属することによって、
初めて神性を身につけるのですか?
あなたが神様を信じるのは
>「宗教をちゃんと信じているひと」の生き方
がしたいからなのですか?

この回答への補足

他のかたへのお礼より先になってしまいすみません。
えーと、「氏子になる」言うのはなんでしょう、、、というぐらい何も知らないんです。具体的に何をするのが「氏子になる」ですか?

そういうわたしなので、回答者さまのせっかくの質問の意味がほとんどぜんぜんわからないのです。
神道で「駄目」なんて思ってないですよ。。。なにか質問の書き方がおかしいのでしょうか?

>「宗教をちゃんと信じているひと」の生き方
がしたいからなのですか?
「から」がよくわかりませんが、「したい」です。自分に合う団体を探すつもりです。

補足日時:2006/11/25 08:09
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「宗教的な立場にある」という言い回しの定義がわかりません。
具体的に神道をする場合、何をすればいいのでしょうか。
宗教はよっぽど変でない限りなんでもいいので、ちゃんと生活レベルでやりたいです。団体に属して。
そんなに可笑しなことを言っているのでしょうか?
理解しあえず申し訳ありません。

お礼日時:2006/11/27 20:26

質問者さんは、身近な人が亡くなったとき、手を合わせませんか?


親友や恋人などとの出会いを嬉しく思うとき、自分を越えた何かの導きを感じませんか?
大災害などが起こったとき、自分を越えた何かが怒っているような気がしませんか?
身近で子供が生まれたとき、その子がどこから来たのかを考えているうちについつい「この世を生きている人間には知覚出来ない別世界」を思い描いていませんか?
何かことを為そうとするとき、うまく行きますようにと神社やお寺で願ったことはありませんか?
おみくじや占いでいいことを言われて嬉しくなったり、嫌なことをいわれてへこんだりしたことはありませんか?
以上の質問に、ひとつでも「はい」と答えてくださったならば、質問者さんはもう立派な宗教者です。
宗教とは、結局「目に見えない超越的な『何か』と自分の心との語らい」以外のものではありません。
その超越的なものというのを、特定の唯一絶対の形を持つものと考え、その唯一絶対者の教えの通り生きる人の集まりが宗教である、というのはあまりにも狭い考え方です。というより、そういう態度こそ宗教から最も遠いものといっていいと思います。
大学時代、私の宗教学の先生は言いました。「日本人は自分のことを無神論者、無宗教だという人間が多い。しかし、日本人ほど宗教を無条件に信じている民族は世界でも珍しい。神や仏の存在を、ほとんど事実として受け入れているからだ」。
言われてみればそのとおりで、私は何々教を信じている、と自覚しないと何々教を信じている気になれないのは、ある意味不自然です。妙な例えですが、息をしよう、と考えないと息が出来ないという人間がいたら、それは不自然でしょう。それと同じようなことだと思うのです。
科学的な事象に対してでも、常にそれはなぜ起こるのか、という疑問を上へ上へと積み上げていけば、そこには必ず人間には不可知な領域に入っていきます。そういうときに、ごく普通に「これは人知を超えた存在によるものなんだなあ」と思えることが、おっしゃるところの「多神論」であり、「穏やかで」「排他的でない」宗教だと思いますよ。
日本人というのは元来超越とのかかわりをそういう形で持ってきたからこそ、仏教が入ってきてもキリスト教が入ってきても「ああ、そうだね、超越というのはそういう風に考えることも出来るね」と受け入れてきたのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。素敵な文章だなとまず素直に思いました。ですがわたしや周りにいるひとを見ると、「私は何々教を信じている、と自覚しないと何々教を信じている気になれない」ようなひとばかりに思います。それが当たり前ぐらい。それがおかしい、息をしないぐらいおかしい、と仰られると「???」という感じです。理解できなくてごめんなさい。
昔の日本人はたしかにその宗教大学の先生のおっしゃるタイプがほとんどだったのではないでしょうか。でも今は、もう少しみんなが切羽詰って「わたしの神様だれにしよう?どこの集団に入ろう?どこなら安全?やめたいときやめられる?」という感じでいるような気がします。実際そういう狭い宗教活動をやっているひとも人口が増えたと思うし、当然?トラブルも増えていると思います。景気回復といいつつ貧富の差が増したり教育が危うかったり、昔の穏かな時代とは違う気がします。
もしまたなにか教えていただけるときはまたよろしくお願いします。

お礼日時:2006/11/27 20:14

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