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質問のとおりなんですが、当時のインドや中国の状況なども踏まえて、どうして日本は鎖国を解いて英米仏蘭などを受け入れたときに、植民地にならなかったのか教えてください!!生麦事件で、英が日本に全面的に戦争を仕掛けてこなかった事も関係があるのでしょうか??

A 回答 (3件)

色々な理由があるのでしょうが。


一つは、英仏蘭米がお互いにけん制しあっていたことと、本国がそれどころではなかったというのもあるでしょう。
明治維新は1868年のことです。
例えばアメリカでは1861-1865に南北戦争をしてますし、フランスは(イギリスと)メキシコへの遠征1961-1967、ベトナム・カンボジアなどを植民地化、イギリスは国内においてマルクス派の台頭など。オランダは既にヨーロッパにおいて陰りが見えてましたが、ジャワやインドネシアなどの既植民地国の経営に忙殺。
などなど、結果考えてみれば東南アジア諸国が日本の壁になってくれたという事情があります。

また日本側の事情から言えば、イギリスが中国をこてんぱんに痛めつけたあと、そのまま日本へと息巻いていた事実を把握しており、国内において内戦状態だったとは言え、方法論手段論の違いはあれど、外国にこれ以上好きにはさせない(このままでは中国(清)のようになってしまうという危機感があった)という点においては一致していました。


そこでイギリス・フランス等は膨大な軍事力経済力を消費する武力侵攻・直接的な植民地化を狙うのではなく、
政府に強い影響力を及ぼす程度の位置にいること、間接的な支配を目論んでいたのではないかと思います。
この為、長英戦争の後、イギリスは長州を支援、フランスは幕府を支援していましたが、日本の内戦は短期間で終結し、強固な統一政府が樹立してしまったと。結果目論見が外れた訳です。



まとめますと、
・本国が忙しくそれどころではなかった事情があり
・距離的にも、軍事力的にも日本が手ごわそうであったことが直接の武力侵攻を躊躇させ
・そこで内戦へ間接介入することで影響力を握ろうとしていた

が結果は失敗だったということでしょうか。
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生麦事件(1862年)が薩英戦争の原因となって、薩英戦争が薩摩藩の意外な強さがきっかけともなって薩摩藩と英国の協力関係を生み出した。

その薩摩藩が明治の原動力のひとつとなっていく。一方、フランスは生麦事件で賠償金を支払った幕府を(英国との覇権争いもあって)支援という構図となり、世界各地で対立していた英仏が日本を舞台に間接的に争い、列強が日本を武力を持って完全支配するという構図にはならなかったという意味では、間接的に関係はあったといえますね。ただ、生麦事件があったから、植民地にはならなかったという積極的な回答は、しにくいと思いますが、どうかな……。kappa-01927でした。
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先ほども、多分同じ趣旨のQがありましたね。

ただですね、列強各国の国内事情は複雑でしたが、イギリスやフランスの植民地政策、ロシアの南下政策、アメリカの野望などが強い意思にあったことは事実で、あまり植民地政策の疲弊や、南北戦争等と結びつけるのも難しいよね。やっぱり、江戸幕府が列強各国と結んだ条約の内容と交渉内容、なぜ治外法権を受け入れたのか、なぜ、関税自主権の問題が発生し、治外法権と関税自主権のこの二点がどうしてキーワードだったのか。日本が武力行使に出なかったのはなんでだろうか(下記の方の回答の中国の状況と関連)。植民地っていったいどういう状況のことを言うのかーーをしっかりおさえて、そのうえで、アヘン戦争等の状況、中国がどうなったのかをどう日本側が考えたのかーーを中心に考えていった方がいいのではないかな。
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