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ある人は人間・精神的に常に進歩しようとする。
その為に本を読み、己の行動を見直し、常に改善点を探し、あらゆる探求をする。
一方で、ある人は人間・精神的に余り進歩しようとしない。
仕事をこなし、自分の仕事の改善の余地を探さず、唯与えられた仕事をこなす。

この人たちの意識的根本精神の差(哲学?)と原因(野望?虚栄?志?渇望?欲求?など考えられます)など(←補足があれば付け加えてください。)はどこにあると思いますか?

A 回答 (11件中1~10件)

NO3です。


「我を忘れる」はある意味で正解ですが、そうすると自らが生きて、そして存在しているただそれだけのことに喜びを感じる境地に達します。
つまり結果は正反対です。
なぜこうなるかと言うと、実は無意識世界の住人たちは現実をあなたを通してしか自覚できないで、そもそも自我が希薄だからです。
無意識があなた(意識)の存在を自覚すればするほど生きている自覚が強まります。この情報を無意識(脳内)にインプットする言葉は正反対のお題目で「我を忘れる」になります。

真実の人間らしさとはすなわち「仏」ですから、煩悩と付き合う義理や責任能力は意識(あなた自身)にはありませんので、とにかく健康な無意識と仲良くするこつを覚えることです。これは簡単で、そのように願うことだけです。
ちなみに煩悩の本質は悪意として無意識下では認識しているはずです。
この悪意の本質や何を望んでいるかは、仏たる人間性を体現できるあなた自身には、煩悩としてどのような悩みや迷いを体験しても結局は理解できません。健康な無意識には悪意は目の前にいる悪魔として写るので観察可能です。したがって悪意を追い出す葛藤は全て水面下で行うのが正解で、煩悩として浮き上がってきてあなたを惑わす行為は場外乱闘のようなものです。
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この回答へのお礼

 返答いただいた回答が、含蓄がある言葉ですので、下記の方の長文と併せて数日考える時間を頂きましたこと失礼申し上げました。
 よく考えて、よく考えて、考えられなくなったときに、「無意識」の意味が理解できてきました。後は、其れを常に身につけて実践していただきたいと思います。
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/12 00:41

例えば人の悪意の犠牲になりやすく傷をたくさん負う人が、皆同じように「他人の痛みがわかる」人になるとは限りません。

自分よりより弱い存在に対して復讐の対象にする心のベクトルもある。もちろん人の痛みを身近な他人に同一視する以上に、さらにイデオロギーの広がりに昇華させることができるとき宇宙の波長さえ変わるかもしれません。

環境のためにゴミを減らすことがわかってても、どうせ自分1人だけ努力しても何も変わらないからどのみち同じこと、だから自分1人だけやらなくてもいい、他の人に任せておけばよいという意識が不利益を生み出す「社会的ジレンマ」と同じで、(この物質豊かで精神は貧しい日本という枠において)一般小市民としては法を守り、家族を守り、仕事の義務をこなし、休日は遊びを追求することは悪いことではないかもしれないが、それは地球全体のような精神の母体(深層心理)の全体性においては、地球の未来と同様、荒廃の一途をたどるのではないか、と思います。
もともと人は進化する生き物であっても、過剰な物質至上主義がこれを阻止または退化させようとしていると感じざるを得ません。不条理って何でしょうか?私はこのような「社会的ジレンマ」にある状態だと思います。つまり無意識に葛藤していながらも意識としてそのフリに甘んじているような人。

例えばマイノリティー問題にしても偏見も差別ももたないの中立的な立場の無関心は丸い刃のようなものかもしれない。(あの朝日新聞のCMを思い出してください)
加害者側は問題提起する相対的な存在で理屈からすれば「必要悪」、そしてレジスタンスはそれを訂正し進化させる存在。その中間的立場はいずれの結果論をこうむるしかない。

課題から逃げたがる人がよく使うのが「人は人、自分は自分は自分」というセリフ。確かにそれも事実でしょう。でもとても虚しいリアリティを伴って聞こえます。例外的に、例えば自己と他者との境界が分からないような心の病をもった者の認知療法的な考え方には有効です。でも「考える葦」を前提とした「彼」は、日頃何の問題意識も持たないものだから授業中居眠りをしてて先生に突然指名されたときのように、苦し紛れの回答として「一般論」が使われる。

心の環境において「特異」な状態にいるとき、一般論や単なる同情は二重に傷つけることになる。その気づきがさらに人と隔離させる。孤独感はさらに人を弱気にさせるが、耐性もつけさせる。それが嫌なら人に協調し迎合し、あるときは媚へつらい、つまり異端であることを隠し己を般化させることで居場所を作るわけだがその葛藤がさらに苦悩を深化させるというジレンマ。

「自己責任」というセリフ。これは「自分のせいでしょ」に変わる言葉ですね。そして自分はその問題に関係ないんです。という突き放しでしょう。これも無関心だからそれ以上進化しない。

皆悟れ、皆翔べ、と要求しているわけではありませんが、健常に生きていることができるエネルギーの余力を少しは社会に向けてアウトプットするのが成人としての義務だと思うんです。毎日コンビニ弁当食べながらテレビから流れる隣国の惨状に同情してても、次の瞬間「ダウンタウン」で笑えば問題意識もそのリモコンで切り替えられる。

>其れを人に奨めるのは「酷」な人生を歩ませるようなものでしょうか?

いいえ、高貴な主張だと思います。質の良い教師が生徒に自分が教わったことを伝えたいような衝動?(違ってたらごめんなさい)

できないことを他のせいにする人も進化しません。私のピアノの先生も言っていたのだけれど、「自分も昔音楽をやってましたが、続けていればよかった。あなたはいいですねとよく言われる。やればいいじゃない」って。先生は心底好きな仕事で食べてますがその義務も果たしています。そういう場合の「お客さん」のお決まりのセリフが「時間がない」「仕事で忙しい」云々。ロバート・レッドフォードの映画の「人生は演じる者と観客に分けられる」というセリフを思い出しました。その「仕事」すら満足のいくものでしょうか。労働基準法を蹴飛ばし、人を人扱いせずモジュール化しているような企業であっても、組合は動かないからと自分に言い訳し、企業に貢献し続ければ企業は潤うが給料はピンハネ、最悪過労死。労災すら降りるかどうか。これも世界もひとつの社会的ジレンマでしょう。

>ある人は人間・精神的に余り進歩しようとしない。

ゆえに「一般論」に安住しているのだと思います。それは真実でもあるし、人の英知の結晶かもしれませんが、同時に仮説の状態であるという可能性も含んでいると思います。「格言」や「ことわざ」はもう一段進んだ「普遍性」との違いです。一般論は曖昧であり、進化する可能性を孕んでいるからです。

人の精神や魂が進化するのは誰にも課せられている。世界が不条理という環境があってこそ修行の場となる。テキストの、どのページから進めるかは、前世から受け継がれている個人の魂のレベルに応じた個人差による、と考えます。(つまるところスピリチュアルな世界に落ちつくしかない。でもそれは依存ではない)
修行するために不条理が必要なのだとしたら、悪い人は来世でもこの「現世」という地獄ゆきですが、転生を繰り返していっぱい修行を積んできたような人は、読んで字のごとくあとはもう天国に天下りする(?)ことが決まっているのじゃないでしょうかね。そうでも思わなければ格差社会(不条理社会)に納得できませんねえ。

進歩すれば先人の英知が身にしみてわかるというものでしょう。格言やことわざ、詩や小説は人類に向ける先人からの遺言のようなもので、それらは役割を果たした、これもまた先達の進歩の証しであるのでしょう。

>意識的根本精神の差

宿命や運命よりも本人のパーソナリティや感受性の方の器が大きければ、逆に運命すら吸収してしまえるかもしれない。進化できなければ呑み込まれてしまう一方でしょう。
自分の人生を嘆き、感情だけ爆発させてても運命は容赦ない。感情は生物にとっての一義的なものでも、人はその理性という二義的な世界をもっている。そのときに精神的な科学が必要になる。介入は福祉として必要だけれど、治癒(進化)も本人の意志次第。または「藁にもすがる気持ち」ってかっこ悪いことじゃない。人の生きる強いエネルギーを感じさせる言葉だからです。

不条理をどうにかして生きていけるのは補完しあうということにあるのかもしれません。
結論としてはあらゆる甘苦に対する素直さこそが人を進歩させるものだと思います。人の話を聞く、経験をポジティブに生かす、自分に起きるすべてのことを受け入れる。進歩する刺激って自分を取り巻くすべての環境に潜んでいると思います。

「人はひとりでは生きられない」とは、物理的にはもちろん、人とのつながりのかけがえのなさを感じる幸福感はもちろん、自分の成長にとっても欠かせないからではないでしょうか。

人は誰でも進化する可能性を秘めている。
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この回答へのお礼

長い文章を書いていただきありがとうございました。
誠意ある返答を考えていたので、時間を頂きましたことをお許しください。
返答ですが、言われましたとおり、常に一般論が飛び交っておりかつ行動に繋がっていない点が見られると思います。なので、やはり行動によってすべてを示すべきだと思います。
不条理に関してですが、世の中の条理などは存在するのかと歴史のページをめくるたびに思います。世の中は不条理で、一つの不条理を補完すると、もう一方で不条理が生まれ、その不条理を埋めていくことによりより条理に近い世の中が実現できるのでしょう。それが今の夜中だと思います。
 私も人の進化をする可能性を秘めていると私も思います。強く信じ実行することですね、可能性を実現するのだと同感に思います。

改めて長文を認めていただきありがとうございました。

お礼日時:2007/03/12 00:28

「意識的根本精神」とありますが、根本精神は意識的に作り出すものではなく、無意識または、自然に湧いてくる「気」の様なものでは無いでしょうか。


一生元気でエネルギーを出し続けられる人はなかなかいるものではないと思っています。十代で頑張る人、二十代で伸びる人、三十代、四十代、五十代で開花する人様々です。
その人の一時期だけを見てその人を評価することはとても出来ません。
グータラなニュートンがあれだけの功績を残しているのですから・・・
一方、民族の精神的向上とその優位性を強く主張し続けていたヒトラーの結末はだれもが知るところでしょう。
何を回答したいのかというと、その人の発する「気」の質が重要でそれは、その人の一生の中のどこで発現するか解らないということですね。
その人の一時期を見て、他者と根本的に差があると判断するのは間違いの様に思う次第です。
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この回答へのお礼

確かに人が伸びる時期には運命的な差はあるだろうし、気も関係するのだろうけど、私見で言えば、己の運命は少なくとも半分は我が手の内にあるのだと思います…。
参考にさせていただきます。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/09 18:13

こんにちは



簡単に回答すると、その差は、苦を経験していたかどうかでしょうね。
理由は単純、十二縁起の法だと、思ったが、有名な言葉。
「苦ありて、信あり」、つまり、人生に苦しみを感じ、それから抜け出したいが、ために、わらをもすがる思いで、修行(宗教、真理)に向かう。そして、「信ありて・・省略」と続きます。
したがって、精神的な進歩をはかる、しないの差は、この苦を感じて、頑張ろう、努力をするひとと、そうではなく、まだまだ、苦を感じなくて、「人生は楽だ!!」、正確には苦までいたってないひとの差と考えます。

あと、この苦を感じて、努力するひとと、しないひとの差は・・難しいのですが、やはり精神的な面の強さの差、あるいは徳、智慧の差かもしれません。
私も人生の挫折を経験してますが、結論をいうと"エゴ"という重いよろいをいくつも着て、又は持って、心は重くなっていきます。そして、それに苦を感じ、その、よろいを少しづつ脱いでゆき、心は軽く明るくなった経験が、あります。
以上、趣旨と違ったら、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

趣旨とバッチリあってます。
うーん、心に染み渡る言葉で、ありがとうございます。

確かに苦ありて信有りですね。
志を持つにしても向上心についても確かに殆どが「苦」がきますね。
そして「苦」を感じてこそ、向上するんですね。

あとはその克己心で如何に乗り越えていくかですね。

勉強になりました。改めてありがとうございました。

お礼日時:2007/03/09 12:06

奨めようが奨めまいが関係ないと思います。

奨めて成れるものでもありませんし。

結果を見てないので何とも言えません。終わり良ければ全て良し!ですから。

スポーツや音楽は極めれば金になりますが、精神は金にはなりません。むしろ、死を暗示するものでしょう。
自然界では存在できない存在だと思います。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2007/03/09 11:28

ならない方が幸せだと思います。



かなり辛いですよ。一番許せないのが「自分」ですから。

私は悪い環境で育ったので、それが要因になっております。

この回答への補足

 私もそうなりたくは無かったのですが、そうならないと生きていけなかったので、そうなっちゃいました。確かに言われるとおり、何かにつけてまず「自分が一番許せません」であならば、其れを人に奨めるのは「酷」な人生を歩ませるようなものでしょうか?

補足日時:2007/03/02 19:12
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ちょっと質問者が求める回答の種類とは違うのですが。

。。。
別の方向から思考してみました。


http://www.amazon.co.jp/%E5%85%B1%E6%84%9F%E3%81 …

ちょっと過激な内容の本ですが、言いたいことはなんとなくわかります。

男と女の脳を分けると、男はシステム脳脳、女は感情脳寄り。

カバラも大きく分けると二元論で形と力。

形が女脳で力が男脳。

新世紀エヴァンゲリオンでも、日本神話のイザナギとイザナミ はたはた他の世界の神話も基本はそんな感じです。


女脳。共感脳とも言われ、女同士の会話を聞いていると、内容が無いのに「そうなのよぉ」ってやたら多い。
何がそうなのか言葉をひろってもわからない。
まるでフランス映画のように言葉が無く 動作 心で読まないと見えない世界。
これが「そうなのよぉ」なんですよね。
言葉より感情で「そうなのよぉ」と共感できるので、言葉では説明できない世界。
声のトーンや目の表情で通信しているので、言葉はあまり意味をなさない。


男はそんな女の中身の一見無い世界をせせら笑う。
ところが、夫婦喧嘩で奥さんがふくれっつらしていて、話を聞いて解決しようとしても、何時間たっても奥さんが何に不満があるのか見えてこない。

そこで、交代。 女房にバトンタッチ。
するとだいたい5分で「わかった」という。

「つまりね。 奥さんはたまには ありがとう って言って欲しいわけよ。 日ごろ旦那さんが疲れて帰ってきていることは知っている。でも 子育てだって大変。 旦那さんが疲れている以上 子供の面倒は自分が見て家事も自分がしなければならないってわかっている。でも つらい。 だから がんばってくれてありがとう って言って欲しいってだけで、家事や育児を手伝えって言っているわけじゃあないのよ」

すると ふくれっつらだった奥さん「 そうなのよ! それそれ!」


ある日、旦那さんが奥さんとパーティーに行くことになった。
奥さんは「ねえ このゴールドの服とピンクの服 どっちがいいかしら」と聞く。
旦那さんは色彩や今日のパーティーのメンバーや明るさの具合など綿密に考え、「ゴールドだね」と答えてはいけません。
そういう 言葉を奥さんは求めて聞いたわけじゃない。
実際 聞いてはどいない。


旦那はそういわれたらどういうか。
「君はどっちがいいと思う?」言う。
すると奥さんはうんちくを散々述べた後「ピンクがいいと思うけど 地味かしら?」という。

「やっぱり! 僕も実はピンクが今日の君にぴったりだと思っていたんだよ」

そう、奥さんは最初からピンクだと決めていた。
ただ、背中を押して欲しかっただけ。
だから うっかり どっちでもいいじゃない とか ゴールドがいい とか ピンクがいい など言っては駄目。

言わせて賛同してあげれば、「でもね」とその後小一時間反論を聞かされることもなく、「どっちでもいいってなによ」と喧嘩にならない。



男はパーティー会場につくと、部屋の配置やどこが出口か など機能面をさっと見渡す。
女は違う。 ぐるっと挨拶をしただけで、誰が誰とつきあっている。誰が誰と敵対している。誰がどの亭主を誘おうとしている など 把握しちゃうんですね。


パーティーの帰り、奥さんはすごい無口。
亭主は疲れたのだろうと思う。
「そういえば 車の車検が近いから何曜日に出せば。 その間代車は。」など考えている。

まだ 奥さんは無口。
旦那さんはさすがに気づいて「車の調子が悪いことを奥さんが気にしているのか」と思う。
「大丈夫 水曜日に車検に出して点検してもらうから ダーリン」など言おうものなら・・・・

「そうやって ごまかそうとしても駄目よ!!!!」奥さん ブチ切れ。

そう 奥さんは若い女がパーティーの間旦那に流し目していたことに腹をたてていた。
ええ、ええ 旦那はそんなこと知りません。 気づきもしません。

車のエンジン音から どこが悪いのか考えている旦那と、あの女 亭主に流し目しやがってと怒っている奥さん。

全く チグハグナ世界が同じ車の中で平行存在している。



男は女にはない野心を持ち仕事をするタイプと、研究者肌タイプがいる。
研究者肌タイプは、名誉より発明や発見 機能の解明を重視する。

野心や名誉を重んじるタイプの男性は、ボスになりたがる。
力のあるものが支配するのが世の中だと思い、ライバルを蹴落とす機会を虎視眈々と狙い、自分の部下すら信用しない。
自分がされたようにいつか部下が自分を蹴落とすかわからないからだ。
だから ワンマンになって部下が逆らわないようにして、自分のルールを強いて それを部下に守らせるようにする。
矛盾があっても「俺がルールだ」なのだ。
そしてその矛盾の結果 引き起こったことに対して、「部下のせいだ」なのだ。
お殿様 ご乱心を~。 でもワンマンなので誰も言わない。いや いえない世界。



研究者肌の人は、人がまだ発見していない事を発見するのが最高の喜び。
薄給だろうとかまわない。
お宝は金じゃなく まだ 誰も解明していない謎を解明すること。
だから メカニズムを知ろうとする。
かならず法則があるはずだ と解明していく。
ルールが見つかると「お宝 お宝」と喜ぶ。
それが例えば時計の修理だったとしても 「メカニズムがわかった」なのでいいわけです。
そして それが稀なことだと、特許 として価値を持つことになり、一攫千金。
でも 金じゃなく 発見がお宝なので「博士」と呼ばれようと、相変わらず ボサボサ頭で「このメカニズムは」と浮世離れしている。



女は違います。
言葉より心を重要視する。
「君はそこはかとなく漂うバラのような気高い・・・」など 意味不明ですが、このなんとなーーくな心を動かすような何かに酔いしれる。

男がそういわれても「はぁ・・・」ですが、対女となると魔法の言葉となり、女を落とせる。

なので形にはない何かを認識する能力に長けているのが女。

あら? 女は形で男は力じゃないの?
そうです。
この形というのは語弊がありました、心が一つになる みたいなもの。
見えないものを存在すると認識して形みたいなものとして捉えるのが女。

そして天使だとかスピリチュアルだとか 守護霊とか いろんなものを存在するとして崇める。

「幽霊など存在しない」と言っても「幽霊じゃない 守護霊様です」と言い返してくる。
「だったら その守護霊様とやらを見せてよ」と言っても「あなたは 感じないのですか? 私は感じます 神様は存在し私を守ってくれていると実感します」 うるうる。

確かにうるうるしていますが、そのうるうるが実際幽霊 失礼 守護霊がいるという証明になどなっていない。

その人の感情の激しい動きを守護霊と同一視しているだけ。
そしてその感情の激しさを霊の 失礼 守護霊の仕業と思い、高次の精神世界に導くと勘違いしている。


そこから高次霊とか宇宙には未知の存在がいて とか、パワーを受けましょう と天に向かって両手をひろげ また うるうる。

精神というより霊に魅了された感情の激しい女なだけで、、、、

しかし 女いわく。
「我々は使命を帯びて生まれたのです。我々の使命は世界を平和にし 元来た惑星にみんなを無事連れてかえることです。 私たちの仲間が私たちを導いてくれます。 さあ 祈りましょう」と言って失神・・・・


もう 宇宙と同化しすぎて自分が消えてしまっていますねぇ・・・・


この世のメカニズムを見える世界 認識できる世界で解明しようとするのが男脳で、見えない世界 認識できないものを存在するとするのが女脳。


どっちも・・・・人間というより・・・・


この形と力の中間にあるのが人間だと思うんですよね。
メカニズムを解明したところで、心は満たされない。
心が満たされたところで、失神してしまい生活を営むこともままならないのなら、人間としての生活は成り立っていないので、これもまたおかしい。


天と地の狭間が人間の位置。


で、宗教者は 天 つまり ・・・・力に向かって行こうとしている。
そうなると人間性が消える。
形がなくなるので人間ではなくなる。
心がなくなるので、殺しができてしまう。
理由もなく「死んだらどうなるか」「死ぬとはなにか」を解明するため殺す。

上のリンクに紹介された究極の男脳は○○って書いてあるんですが、それで批判されたんですよね。
でも、、、その障害(とされている)の人は本当にただ好奇心で人を殺している。
また○○の障害の人が なんの恨みの無い人を ただ好奇心で「死とはなんだ」と知りたくて殺した って新聞や週刊誌に載っているのを何度か目にしました。


その障害があるとされると、いくつかの殺人の後、鑑定の結果 その障害だとわかり、それで連続して「また」と記事になるようになった。
それがあまりにも多かったが、逆にその障害を持つ人が全員 そういう種類の殺人をするわけじゃあない として家族が訴え、もう報道ではその障害を殺人者が持っているとわかっても、その事実を報道してはいけないことになりました。

メカニズムを知りたくて殺すのは、その障害を持つ人しかいない。
この前もこの人に責任能力は無かった ○○の障害があると鑑定でわかった。 だから 無罪だ として裁判が起こった。
判決は有罪。
「どうして この障害は罪悪感などもてない 判断力が無い 興味に駆られて殺してしまった 障害ゆえにそうなってしまったから無罪にすべきだ」と弁護士は必死に訴えていた。


女性により凶悪な殺人はめったに無い。
殺人犯のほとんどは男。
女性もいますが、それは男に騙されひどい目にあい恨みの限界に達して自分も死ぬ覚悟で心中しようとしたから。

地位を奪われた 金を取られ では殺さない。
男に殺人を示唆され、しないと男が離れいくと恐怖心に襲われ、生きていくには男の指示通り殺すしか道は無いとき、女は人を殺す。

稀に保険金殺人の主犯格が女もいますが、ほんとに稀です。



人間的ってなんでしょう?
精神の進歩ってなんでしょう?

何をもって進歩だとするのでしょう?
どっちの方角が人間的なのか どっちの方角が精神の昇華なのか。

古代の思想から現代までみても 全く進歩などしていない 変わらない 全く変わってなどいない 変化0 としか思えません。


人は変わらない。
ルールで縛るしかない。
それはルールの進化であって 人間の進化じゃあない。
人間は変わらないものとして、拘束具をどう変化させるかで、ある時代はよかったものが、ある時代からするととんでもないことだとなるだけ。


現代のルールもあと何百年かすると とんでもないルールだとなるかもしれません。


人間はなんら変わらない。
包装紙が変わるだけで中身は変わらない。

人間を美化するより、人間の本質をまづ第一に知らないと。
人間の特徴を直視するのはつらいかもしれないが、目をそむけて美化している限り、何億年たとうと 包装紙だけくるくる変わるだけ。
包装紙の中身を直視できたとき、包装紙はいらなくなるかもしれません。


その試みが上のリンクや「話を聞かない男、地図が読めない女」などが、そろそろ現実とはかけ離れた理想論を展開するのはやめて、つらいかもしれないが、人間を直視しましょう という試みとして書かれているのではないかと思います。


相手の特徴ゆえに起こったことだとわかったら、怒りも半減します。
解決はしませんが。
少なくとも予防はできます。


自分とは違う種類がいるのに、全員理想的な人間が作った架空の理想像になれ と言っても無理。
刑務所に服役させれば更正するというものじゃあない。
罰を与えてもまた罪を犯します。
だって 本質は変えられないし 予防線を張っていないので、その人は本質通りにしか行動ができないのだから、何度も再犯します。


差を認めず ネグレクトしつづけていては なにも解決しない。
存在しているのにしていないと否定しても 実際存在するのだから なにも解決しない。
理想はこうだが、現実人間はこうだ と認め,その特徴に会う行政にしない限り、社会にしない限り、生きづらい世の中であり続ける。


昔 金八先生で「人間はみな障害者」という言葉があった。
その通りです。
障害が全員あるのに 無いと偽って人間の本質とは別の理想論を展開する限り、解決などしない。

と思います。

この回答への補足

長文ありがとうございました。
この文章を読んでみて「ああ、私は男性で女性の心がわかってなかったんだなぁ」と意識させられました。改めて本を買って読んでみたいと思います。

ありがとうございました。

補足日時:2007/03/02 19:13
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私の場合は意識的そうしているのではなく、何故かそう導かれる。

幾ら逃げようが、逃れられない。


利己心はどんな人間にもあります。なければ生きることができないでしょう。
それには段階があり、
一次(一次利己心)は、自分の都合による行動、目先の利益の追求する者。
二次(二次利己心)は、利他的行動を行うがそれは未来において自己利益となることを目的とする。

一次と二次は俗人に見られる。

三次(三次利己心)は、「利他的行動が他人の利益になるように行動すること」がその者にとって利益となる。
これは賢者!
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この回答へのお礼

言われるとおり、一・二次と三次には雲泥の差があるように私も思えます。ただ、私も無意識に三次的利己心を持ちたいものです。勉強になります、ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/02 18:42

成長を伴う心の探求を自覚しない人は実は幸せで、人生の荒波を乗り切る達人です。


私は特に仏教哲学の唯識を信奉していますが、人間性の真の姿とは仏そのものですから煩悩との葛藤は無意識のみで水面下でやりながら意識上に上らせず、緩やかに成長していくのが仕事上手な無意識世界の小人さんたちの職人芸です。
このような人たちは一見貪るだけの人生を歩むように見えますが、停滞したままそのような下位に感情におぼれることは生きている限り絶対に出来ません。

差があるとすれば自覚のない人のほうが無意識世界の住人は責任感が強く自らの役割お自覚しています。

ちなみに私の半生は煩悩に振り回されて惨憺たるものでしたが今では頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。そうすると自らの本当の心の動きが見えます。
ただし未だ心の奥底に煩悩が残っており生きる力がそれを覆い隠そうとします。このような煩悩の動きは仮にあったとしてもまったく自覚できないようにするのが正解です。
したがって特に心の成長を自覚しない人は、自覚する必要もないゆえで、幸せなんです。

この回答への補足

 ある種の人は(私が入ってるか入ってないかはわかりませんが、)無意識かで葛藤をしつつ成長を遂げているのですね。勉強になります。

質問で
 「頭を真っ白にして、考える」と言うことについてお聞きしたいのですが、私は仏教には詳しくないのですが別の言葉で言うとと、「己を忘れる」という意味でしょうか?

 そして「煩悩が其れを覆い隠そうとする」とは「私心がでて己を忘れきれない」という意味でしょうか?

 そしてどのように意識すれば、煩悩に惑わされずに生きることができると思われますか?教えて頂きたく思います。

よろしくお願いします。

補足日時:2007/03/02 18:46
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私の周りにもいろいろな人がいます。


前者では、「出る杭は打たれる」、「上司に嫉妬される」の恐れがあり、人間としてあるべき姿とか目標とするのは最適ではないかもしれません。状況に応じて能ある鷹は爪をかくしておく必要があると思っています。
後者では、その人たちの関心の対象がちがうのではないでしょうか?たとえば、後者の疑問への回答になるとおもって、私は未だにベストセラーになった「バカの壁」の解釈を続けていますが、良くわからないところがあります。
また、優秀にも関わらず、単に目立ちたくないといった人もいましたよ。「違い」を見抜くのは難しい問題かもしれません。
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この回答へのお礼

なるほど、その人たちの関心が違うんですね。関心によって人の歩む道が違っていくるんですね。勉強になります。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/02 18:16

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