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おせわになります。
かなり昔、学生時代、カトリックの学校に通っていたころ、
神父さんの説教で
「愛する人のためなら、たとえあなた以外の全世界の人がその人を
うそつきだとののしっても、あなただけはその人を信じなさい・・・」
というような趣旨のお話をしてくださって、いたく感動し今でも覚えているのですが、聖書の中に出てくる話なのか、何なのか今となっては
忘れてしまった次第です。
自分自身として是非詳細を知りたいので、
ご存知の方、出典詳細を教えてください。

A 回答 (3件)

No.1です。



質問は「愛する人のためなら、たとえあなた以外の全世界の人がその人をうそつきだとののしっても、あなただけはその人を信じなさい・・・」というものが、聖書のどこから来るか ですよね。

前回の回答で、「私が思いつくのは、義のために迫害された人は幸いなり。天の国は彼らのものなり」だと書きました。

しかし、それは誤訳であるとも書きました。

すると、カトリックの教えは正しくない。 
のに、正しいと嘘を教えていることになる。


全世界の人が「嘘つき」だと言っても、あなたはカトリックのその教えを擁護しつづけ信じつづけねばならない。
何故ならカトリックの教えに感動し、愛したから。
それに賛同した以上、全世界を敵にまわしても、カトリックの嘘の教えを正しいと擁護しなければならなくなった。



イエスの作家の教えと、カトリックの教えが違う。
そして、あなたはイエスの方ではなく、それとは違うカトリックの方を信じる。
もしそうなると、イエスを捨て、カトリックを取ったことになる。

ここに矛盾があることに気づきますよね。

カトリックはイエスを神としながら、イエスの考えとは別の考えを教えているわけです。
「よき羊は主人の声を聞き分ける」と教えながら、その当のカトリックがやっていない。


何故こんなことが生まれたのかは、信仰心や真理を見抜く能力とかではなく、バベルの塔のように言語がバラバラになったからだと思います。

ユダヤ教はヘブライ語で構成されている。
その言語が血であり肉であり心であり、ユダヤ人という形を作っている。
(ユダヤ人という言葉にもちょっと語弊があるとは思いますが)


ヘブライ語はものの本質を直接表す言語なのだそうです。
ある人は、ギリシャ語は本質を直接表せない言語なので、どこまでも問うことが可能になる言語だそうです。
だから哲学が発生することになったのかもしれない。
(逆を言えば、絶対に本質にたどり着けないってわけです。)

ある人は、直接そのものを表すヘブライ語クラスに入ったギリシャ語は、嘘つきですらなく、愚者である と言っていた。

新約聖書はギリシャ語で書かれている。
もともとはヘブライ人のものだったが(山の上の説教も、イエスがいたとされた時代より前に他の人の手によって書かれているので、イエス独自の説教ではなく、イエス作家はそれを知っていて物語にそれを挿入したと思える。)、ヘブライ語がわからないディアスポラしたギリシャ語(コイネー)を話すヘブライ人に伝達するためにギリシャ語に翻訳されてしまったようです。
その時点でもうヘブライ語ではなくなったので、別の意味にかわってしまった。

それが、「義のために迫害された人は幸いなり。天国行きのチケットが配られる」みたいな解釈になってしまった理由だと思います。

ということは、ご安心ください。
嘘つきですらなく愚者。

ご安心ください。日本語を母国語に持つ私も愚者です。
そして、もともとのヘブライ語を使っていない現代のユダヤ人も愚者のままで、神の真意を永久に探し,救いを求めている。
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>聖書の中に出てくる話なのか、何なのか今となっては


忘れてしまった次第です。
自分自身として是非詳細を知りたいので、
ご存知の方、出典詳細を教えてください。

 聖書に書かれていようが、書かれていまいが、世界を観察してみれば分かることなんじゃないんでしょうか?
 聖書はあくまで参考書だと思います。
 まあ、調べる必要があるなら、調べた方がいいと思いますがね。
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私が思いつくのは、



http://jns.ixla.jp/users/moseos194/gospel_095.htm

山の上の説教と言われるものに該当すると思います。

「義のために迫害されたものは幸いである。天国は彼らのものだ」みたいなもの。

カトリックの教理の一つであるこれですが、研究がすすむにつれ、この翻訳に大きな誤りがあると言われています。


ヘブル語に戻すと、「救いを追い求めるものは幸いだ」だそうです。

義ではなく救い、迫害ではなく追い求めるがもともとの意味だったらしいです。

しかし、誤訳されたギリシャ語から派生した解釈だと、学校で教わったその解釈が生まれるのではないかと思います。


心の貧しい人という意味も、ヘブル語に戻すと、本来の意味が見えてくるそうです。

ただし、カトリックとは普遍という意味ですから、一度決まった理念を永久に変えることは無いらしいです。
だからカトリックなのだから。
従って本来の意味がわかったところで、イエスとは別の宗教なので、理念を変えることもないし、イエスの教えではなく、カトリックの教えを永久に教えることになるし、イエスではなく誤訳されたものを元にたとえ話を神父が自分独自の解釈を誤訳にそって説教をし続ける というわけです。

従って、イエスの教え(を書いた人に思想)と、カトリックの教えは別物。

イエスは家族に反逆、敵対させるためにやってきた と言っています。
カトリックの教えとは逆ですね。


ご参考になれば。
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この回答へのお礼

お忙しい中、丁寧なご回答をくださり、誠にありがとうございます。
大変勉強になりました。

お礼日時:2007/03/19 12:10

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