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諸藩にも目安箱のような制度はあったのでしょうか?

目安箱はいつ頃まで設置されていたのでしょうか。
イタズラや将軍家を侮辱するような中傷的な投書もあったのでしょうか。

A 回答 (2件)

 『目安箱』という名称は別にして、類似のものは大化の改新の時にもあったようです。


 吉宗以降も続き、江戸時代を通じると目安箱(名称は別のものも含め)は270藩中、すくなくとも75藩あったということです。
 吉宗の時代の目安箱は毎月2,11,21の日に出されたということで、郵便ポストのように出しっぱなしということではないようです。
 鍵は将軍が実際に保管していたようなので、自分で箱を開けたかどうかはともかく、少なくても目の前で役人に開けさせたということでしょう。ですから、多分、箱には番人も付いており、ヘンなものは入れられなかったでしょう。投書の内容も当然しっかりとしたものに限られてくると思いますね。
 明治政府も当初採用していたらしいです。
 以上は下のサイトからの引用です。多分信用できると思います。
 将軍家に代々伝わる鍵の現物の写真などもあって、こういう当時のものを見ると、その時代のことが肌に感じられるような気がします。
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/ka50613a.htm
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この回答へのお礼

大化の改新の頃にもあったのですね。
75藩とはかなりの藩で設置していたのですね。
かなり意外でした。
明治政府も採用していたのですね。

現代ではネット上の意見箱になってしまったようですが、当時としては直に将軍家が読むとなると何度も下書き、清書して書いたのでしょうね。

>こういう当時のものを見ると、その時代のことが肌に感じられるような気がします。
そうですね。
将軍が御側衆に鍵を開けさせて、他の幕閣にも見せないで直々に見ていたのでしょうか。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/21 18:20

これは将軍吉宗が始めた制度ですから18世紀初頭です。

正確には1721年。吉宗は必ず自分で読んだそうですよ。いつまで置かれたのかは定かではありませんが、吉宗の死去した後は廃止されてしまったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

光圀は若い頃は放蕩で有名だったようですが、吉宗の時代には、将軍がもはや時代劇のようにお忍びで市中に出歩くなんてことは皆無だったようですね。そういう中で、将軍が直々に庶民の意見に耳を傾ける制度というのはかなり貴重だったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/21 18:04

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