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生きたいと思っている人を殺したら法律的にも倫理的にも許されないのは解ります。でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、死なせない事は許されるんですか?

法律は人口減少による税額減少など国の都合も反映していると思うので問いません。現憲法では生きる権利は保障されているのに、死ぬ権利が保障されていないことも知っています。また宗教的な説明も必要ありません。日本には宗教選択の自由がありますし、各宗教の教理に興味はありません。
倫理哲学的に納得したいので、誰か教えてください。ちなみに自殺願望などありません。

A 回答 (27件中11~20件)

No.10です。

お返事ありがとうございます。

>「生きる」ということに関しては誰もが同じ価値観を持っている
 (持つべき)と考えている人がいたとしたら、それには疑問を感じます。

沢山いると思います。死と生が等価値になるような体験がなければ
死の価値を考えることは少ないかもしれません。それはとても幸せな人生です。

私の考える『生きる』は『心臓が動いている』では有りません。
『生=有価値』『死=無価値』と画一的に決め付ける考え方には
賛同できません。

しかし、大切な人の目が、二度と覚めないと知りながら生命維持装置を
はずせない方の気持ちも否定しません。私の価値を押し付けることは
ohfortyさんの言葉をお借りすれば『傲慢』に当たるからです。

もし、家族が私の意思に反して延命行為を医師に依頼したとしても
それを『許せない』とは思いません。その行為によって、心の痛みが
少しでも軽減されるのなら、私は私の死が彼らにやさしく伝わることを
望みます。


>でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、
死なせない事は許されるんですか?

大切な人と少しでも長く連れ添いたい気持ちを罰する権限は誰も持って
いないからかも知れません。
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この回答へのお礼

>しかし、大切な人の目が、二度と覚めないと知りながら生命維持装置を
>はずせない方の気持ちも否定しません。私の価値を押し付けることは
>ohfortyさんの言葉をお借りすれば『傲慢』に当たるからです。

確かに傲慢かもしれません。No.2、No.7、No.13の方々も言われていますが、自由の裏側には責任があります。自分の意志で自由に死ぬという行為には、回りの人を悲しませる責任を伴います。それを考えると難しくなります。
生まれてくる赤ん坊には、生まれないという自由はありません。それなのに生まれた途端に生きる責任を負うというのは酷だと思います。誤解の無いように言っておきますがそれを否定するつもりは全くありません。

お礼日時:2007/03/31 22:02

死ぬ権利が保障されていないと、本当に死にたい人が、死刑になるような凶悪犯罪を起こす可能性があるので、死ぬ権利が保障されてもいいと思います。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かにそういう行動をとる人もいるかもしれません。考えると怖くなります。

お礼日時:2007/03/31 21:54

私は、自殺未遂をして精神病院に入院させられたことがあります。

私が今自殺しないのは、家族や主治医が悲しむことと、地獄が怖いからです。
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ANo.6です。

返答をありがとうございます。
なるほど、そういう気持ちなら私にも判ります。
人間に個性がある以上、すべての人が命を「尊いもの」として判断するのは正直無理です。だから犯罪が起きるし、自殺もなくならないのだと思います。

また、自分の命だけを「尊い」として大切にし、他人の命は簡単に奪ってしまえる人間を、毎日のようにニュースで見かけます。
逆に、つらくて自殺してしまう人は、自分につらい思いをさせた相手の命より、自分の命の方が軽いと感じてしまう人なのかもしれません。

「自分の命も他人の命も、全ての命を「尊いもの」だと感じられる世の中なら、どんなにいいだろう。殺人者も自殺者もいなくなり、犯罪被害者も自殺家族も苦しまなくてすむのに」
日頃からそう感じている人が、自殺の現場に立ち会ったら、自分の信念に基づいて、「助ける」という行動を取ってしまうのは、ごく自然なことだと思います。
無宗教の人でも、人は皆「自分の考え」という行動基準を持っていて、その基準に基づいて行動しているので…。

「他人を変えることはできないし、そういう行為は傲慢だと判っているけど、私はそうするしかない」
というのは、命レベルの問題ではよくあるように感じます。
ちょっと違いますが、動物や植物を殺して食べるという行為も、似た意味合いではないでしょうか。

あと、補足になりますが、

>「命」の定義は人それぞれですが、基本的に命を「尊いもの」として考えるとします。

こういう書き方をしたのは、「尊いもの」として考えている人が数的に多いので、その考えを基本とする、という意味ではありません。
社会生活におけるルール的な、「そうした方が世の中うまくまわるから」という理由ではなくて、もっと感覚的で肉体的なもの…。

私の方こそうまく書けるか判らないのですが、肉体というものは、どんな状況でも常に、生きようとしています。
じっとしていてもおなかがすくし、ケガをした傷口は自然と塞がっていきます。
自殺というのは、「生きたがっている肉体の意思や自由を奪う行為」であると感じるのです。

こうすれば誰に対しても傲慢なことをせずに済むという、「絶対」も「100%」も存在しないので、人は結局、自分の信念や行動基準で生きていくしかないのだと思います。

今回の質問のおかげで、とても大事なことを考えさせられました。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

haskap48さんの言われる「感覚的で肉体的なもの」という表現は共感できます。どこかに共通項があると信じないと生きていけないかもしれません。他の方が指摘されているように、倫理学や哲学とは別ものかもしれませんが、このような意見を伺えた事はとても有意義でした。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/31 21:33

[死ぬ自由]ですか。


もし誰もいない離れ小島の木から人間が生まれるのであれば、何をしようが誰も悲しむこともないですね。
でも人の子として生まれるということは、親にならないとわからないことではあるでしょうが、多くの人たちが介在してはじめて人になるんです。孤独・孤独と嘆く人がいるが親がどれほど喜んでその誕生を見守ったか、どれほど心配して幼時を育てたか、おじいさんもおばあさんも身内も友人も学校もみんなが協力して育てたんですよ。自分一人で大きくなったわけではないんですよ。「諸法無我」ということですね。自分が一人で存在しているのではないということに気がつけば、自殺の自由だけはないですね。育ってきた過程で関係した人々すべてに許しを乞い、全員がいいよといえばいいかもしれないが、絶対にないからね。だからだめなんですね。
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この回答へのお礼

No.2の方とNo.7の方も同じ事を言われていますが、考えると混乱します。mmkyさんの回答を受けて質問を書こうと試みましたが、なかなかまとまりません。
「諸法無我」難しくて理解できませんでしたが、少し触れてみようかと思い始めました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/29 21:21

倫理などは、ただ人間が都合のいいように決めた、法律に順ずるようなものでしかないように思います。

そこに超人間的妥当性はないと"思います"。

ただそう決めておくことが都合がいい、世間の見方がいい、(決めた人の)良心に反しない、などの理由ではないでしょうか?
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政府は国民が人間として最低の生活を保障するとしていますが、幸せは保障していません。



(尚 住民票が無い人は、例えばホームレスの人の生活は、保障の対象外です。)


他人を殺すことは法律で禁止されているので、他人を殺せば罪に問われます。
が、自殺をした人が裁かれたとか、自殺未遂をしたら刑務所に入れられたなど聞いたことがありません。


他人の自殺をほう助した場合、罪に問われますが、自殺は罪に問われません。


何故自殺が罪と法で定められていないのか。
国家は国民の幸せを法律で保障すると言っていないから。


日本は昔は自殺は美しいこと 潔いこととされてきました。
恐らく西洋の宗教的価値感が入ったことで、日本古来の死を美しいものと捕らえることはなくなったのだと思います。


(国家のために特攻部隊として出陣して死ぬのは潔いことという価値観がありましたよね。
また 失脚した人がじたばたと生きながらえるより、切腹をして命を絶つことが、潔いとされた時代がありましたよね。)


生き恥をさらさない。
醜く生きるより死ぬことで醜さを清める。
みたいな価値観があった。


自殺が倫理的にどうしていけないのかは、恐らく西洋の宗教から来るのだと思います。

恐らく生も死も人間ではなく神だけが定めるものだという考えなので、お迎えが来るまでは勝手に人間が死ぬのは宗教上禁止 という考えだと思います。

つまり、倫理というより宗教。

ただし、その宗教をやったところで、延命になったり、幸せになるという保障は無い。
幸せにするか 不幸にするかも神次第。
従って八方ふさがりになり、この世が地獄になる人もいるわけです。
宗教によって全てふさがれ出口が無いってことです。

その宗教を信仰すれば、幸福になるのか?
確かにその宗教がある国よりずっと日本の自殺率は高いので、その宗教が自殺を抑制していると思います。
何故なら「自殺すると地獄に落ちる」とその宗教は教えているから。
信者に自由は無い。
神の奴隷ですので自由はない。
生もなければ死も無い。
全く自分の人生など無いんです。
生きていないし死んでもいない。
この状態を、、、無というのでしょうか。
生きていない以上 価値は無い。
そして耐え切れなくなった時、宗教上の禁止である宗教を捨てるという行為をすることで、奴隷の地位を脱却しようとする。
だが刷り込まれた「信仰しないと地獄行き」という呪いによって、「信仰を捨てたから絶対に自分は不幸になる」と不幸に向かってまっしぐらに進む。
この長年刷り込まれた催眠により不幸になっていくわけです。


遠藤周作さん、彼はカトリック信者として長年生きました。
日本の価値観と違うこの違和感だらけの宗教をなんとか身に着けようと長年苦労をして、体をねじまげ、なんとかその規定に収まって安らぎを得ようと四苦八苦の連続。
彼は晩年仏教に安らぎをやっと見出せたそうです。


ということは、仏教の信者にその遠藤氏が得た安らぎのような理論を聞けば、わかる かも しれませんね。


ただし、西洋の宗教は仏教が教えがベースになっているそうなので、両者のどこがとても違ったため、遠藤氏は一生のほとんどが信仰しても不幸だと感じ、仏教によって救われたのでしょうね。

これは仏教信者の方に登場してもらったほうがいいかも。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私も自殺がいけないという考えは西洋の宗教思想から来ていると思います。ついでに言うと恋愛や姓に対する価値観も西洋の宗教思想からの影響が大きいと考えています。
「生き恥をさらさない」これは武家社会の思想、価値観から来ていると思いますが、その価値観も戦時中は除いたとしても、150年ほど前までは受け入れられていたわけです。
この価値観と比較して、180度とまではいかなくとも限りなく反対に近い価値観を現在は共有しています。たった150年、60年で変わっていしまった価値観が、50年後、100年後に変わらないとは言い切れないと思うんです。現在メジャーな価値観だから「正」である。「正」であるから強要できるという訳ではないと思うんです。
そこに躊躇や疑問を抱かないことに、なにか違和感を感じます。宗教や法律ではない何かでその説明を受けて理解したいと思いました。それが倫理と哲学だった訳です。

お礼日時:2007/03/29 19:47

『生きる権利』の中には『人としての尊厳』が内包されていると思います。



リビングウィルという言葉をご存知ですか?
質問者様のお歳が分からないので、あえてURLは張りません。

私は16歳の夏、1ヶ月間病院のICUに入っていました。
眠ったら朝はもうこないかもしれない。と思いながら日々を過ごしました。

沢山のチューブにつながれながら
『生きるとは何か』『死とは何か』『尊厳とは何か』
を沢山考えました。

また、
『救命とは何か』『延命とは何か』
も沢山考えました。

『命が一番大切』
良く聞く言葉です。でも私は、生と死の狭間でもっと大切なものが
確かに存在していることを知りました。

きちんと手続を踏んで確固たる意思を本人が示し、且つ要件を
満たしていれば積極的延命処置の一切を拒否することが出来ます。


>生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、
死なせない事は許されるんですか?

倫理的には、場合によって許されないと思います。
『尊厳ある生』と『尊厳ある死』は表裏一体です。



私は手続を踏んで意志を示しています。
一度諦めかけた人生を大切にしたいからです。
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この回答へのお礼

貴重な経験を教えて頂きありがとうございます。経験からしか見えてこないことがあります。私に見えていない何かをorient_rumさんは見ているのかもしれません。人はそれぞれ価値観も物の見方も違うんだから当然ですが、「生きる」ということに関しては誰もが同じ価値観を持っている(持つべき)と考えている人がいたとしたら、それには疑問を感じます。
リビングウィルは知っています。私も意思を示しています。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/29 19:10

まず、真に「死ぬことを選択した人」を死なせない事などほとんど不可能です。


倫理哲学的かどうかわかりませんが、ほんとうは生きたいから死にたいという思いを抱いている部分を私たちの誰もが内包しているために、死以外の選択もあることを伝えたくなるのだと思います。
あと、単純に、許されるかどうか以前に、死なせたくないという思いが働きますね。
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この回答へのお礼

私の疑問に答えているかどうかは置いて、すべてその通りだと納得しました。少し頭の中が整理されたような気がします。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/29 18:49

こんにちは



>>ある人が生きる義務を放棄して死ぬことを選んだとき、他者がそれを奪うことに対して責任は負わないのか? ・・
>>・・許されるのか? という事が聞きたいんです。
確かに"生きる権利??"はありますよね、例えば、生活保護等が良い例ですが・・で、上記の部分、言い方かえると
"死ぬ権利??がある(=生きる義務を放棄)"という意味ですか??
極端な言い方をすると、「私はいつ死んでも良い」という権利が、ある・・ということ??でしょうか。

長くなるので簡潔に答えると。
普通の人間には死ぬ権利はない。
この"権利"というのは、ひとが、与える、または保護するという意味と思うので。逆にどうしても、死にたければ"自殺"しかないけど、これって普通、権利とは言わないしね。
>>他者がそれを奪うことに対して責任は負わないのか・・
上記のとうり、"死にたい権利"の遂行は自殺しかないけど、元々、これって権利でも、義務??でもないのだから、責任を負う必要もなし。

で、質問者様へ、逆にお聞きしますが、
では、どうあるべきだとお考えなのでしょうか??
ぜひ、教えてくださいね(__)
以上
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