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一般家庭に、電話はいつ頃普及したのでしょうか?

確か四コマ漫画のサザエさんで、近所の商店に電話を借りたり、商店の電話機に磯野家への電話がかかってきて、商店の人が磯野家に電話がかかってきたことを知らせるシーンがあった気がするのですが、電話が一般家庭に普及してんなかった頃に商店宛てに近所の人への電話がかかってくるといったことはあったのでしょうか。

追加質問ですみません。
サザエさんの中で、数の子をかなり珍重していたのですが、昔は数の子がそんなに貴重だったのでしょうか?

A 回答 (8件)

古い話から順番に。



私が、5~6歳で終戦直後のころ山陰の県庁所在地に住んでいましたが、我が家は金持ちだったらしく自宅に電話がありました。町内で電話が有ったのは、ほぼ、私の家だけだったようで、町内の人が電話を借りにきたり、呼び出ししたりしてました。勿論、そんな具合ですから、よほど緊急の場合に限られていたと思います。因みに、手回し電話機でした。

その後、我が家は没落し、夜逃げ同然に彼方此方に住むことになりましたが、電話が我が家に有ることは有りませんでした。
中学生の頃ですから、20年代後半、山陽地方の中核都市でも30~40m離れたお宅に電話を借りに行ってました。
一戸建ての借家でしたが、向こう三軒両隣にも電話のある家はありませんでした。

その後、社会人になって独立しても、我が家に電話はなく、やっと電話が我が家へ来たのは、昭和48年に家を新築した時です。
従い、この頃には、ほぼ全ての家庭に普及したんじゃないでしょうか?
子供の頃を思い出して、家を新築したことより、やっと私も電話を持てる身分になったことの方が誇らしかったです。

次に、数の子ですが、中学生の頃は正月ともなれば、丼に山盛りの数の子が出てたので(マツタケも同じ)貴重品ではありませんでした。
社会人になってからですから、昭和30年代後半から40年代に高価になったのではと思います。
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この回答へのお礼

終戦直後で自宅に電話があるというのはかなりのお金持ちだったのでしょうね。地元の名士のような存在だったのでしょうか。
町内の人も利用していて、呼び出ししたりされていたのですね。
手回し電話・・・映像でしか知らないです。

20年代後半でもまだまだほとんど普及してなかったのですね。

>やっと私も電話を持てる身分になったことの方が誇らしかったです。
今は物があふれ過ぎていて、大概のものは容易に入手できますから入手できた嬉しさやありがたみがあまりない感じがします。
当時、電話や三種の神器を1つ1つ揃えた時の感慨は今の時代ではなかなか経験できないことなのかもしれません。

数の子は昭和30~40年代に高価になってきたのですね。
昔、朝日新聞に掲載されていた4コマ漫画のサザエさんは今、文庫版で出ていますが、大学3年の私にはジェネレーションギャップがありすぎて読んでいても?な部分も多いのですが、当時の空気が伝わっていてとても面白いです。
よく日本に来た外国人が、現在フジテレビで放送しているサザエさんをみて、日本の文化の一端を知ると聞きますが、私もそんな感覚で四コマ漫画のサザエさんを読んでいます。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:48

下記のリンクに普及率のグラフがあります。

(だいぶ下の方)
住宅用が50%を超えたのが昭和40年代の後半ぐらいなので40年後半から50年前半ぐらいで良いのではと思います。

普及のレベル次第ですが・・・

参考URL:http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa19 …
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この回答へのお礼

やはり昭和50年前後にほぼ行き渡ったのですね。

データも張っていただき、ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:58

私の家は両親が電電公社の社員だったためか、私が生まれる前の昭和30年代後半には電話があったようです。


当時は電話機は玄関に置いてあった記憶があります。

小学生(昭和40年代半ば)のときにはクラスで電話のない家が何件かありました。
中学校(昭和50年代始め)のときにはそういう家はなかったように思います。

数の子は子供の頃は、正月のお節料理の中でしか見たことがありませんでした。
同じく高価な食べ物だったのは「卵」と「バナナ」でした。
バナナは風邪で寝込んだときにしか食べさせてもらえませんでした。
逆に当時安くて、今高価な食べ物は「鯨(くじら)」です。
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この回答へのお礼

電電公社についてはほとんど知らないのですが、電話事業も今でいう郵政公社のような感じだったのですね。

公社の社員さんだったということもあって、他の家より早く電話が引かれていたのですね。

昭和50年前後にはほど全ての家に普及したのですね。

卵とバナナ、今でこそどちらも安くて栄養価の高い食品の代名詞となっていますが、昔は高かったのですね。

鯨は今は恐ろしく高価な食べ物になっていますね。
種によっては捕鯨禁止によって増えてしまい、逆に生態系に悪影響を及ぼしているとも聞きます。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:57

電話が一般家庭に普及するようになったのは


東京オリンピック前後です

今の様にすぐ相手につながるようになったのは 大阪万博の頃です

ほぼ全家庭に電話が普及したのは 昭和50年頃です

大阪万博の頃までは 名刺の電話に(呼)とあるのがありました
これは、その電話番号は他人ので、質問の漫画のようなことが行われました

数の子は 明治から大正にかけては、豊富に取れ肥料にもされていたそうです

昭和20年代ころから 鰊が取れなくなり 当然鰊の卵である数の子も貴重品扱いされるようになりました 新聞に 黄色いダイヤ の見出しがでたこともありました
昭和50年頃から 鰊の漁獲高も増え それほど騒がれなくなりました
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この回答へのお礼

オリンピックが1つの契機になっていたのですね。
今の中国もそんな感じですね。北京五輪を契機にいろいろな面を向上させようとしているみたいですね。

>大阪万博の頃までは 名刺の電話に(呼)とあるのがありました
名刺にも記載されていたのですか。
今だと代表番号を意味する(代)と書かれていることがありますが、あんな感じで(呼)と書かれていたのですね。

数の子も昔は大漁で肥料になっていたのですね。今のように環境汚染や乱獲もなく、海が豊かだったのですね。
一時期は黄色いダイヤと呼ばれるほどに貴重だった時代もあったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:30

地方の県庁所在地に住んでいます。

場所は市内中心部で、現在では新幹線の駅から徒歩10分くらい。かつては住宅街でしたが、近年はオフィスや駐車場が増えているという地域です。

私が子供だった昭和30年代から40年代にかけて、やはり近所の商店の電話は町内の(と言っても向こう三軒両隣程度ですが)人達にとっての共同電話みたいな使われ方をしていました。電話がかかってくればお店の人が知らせてくれましたし、電話を借りてかけた事もあったように記憶しています。子供だったので、その場合の電話代をどうしていたのか知りませんが、市内通話程度なら「いいよいいよ」で済ませていたのではないかと思われます。なにしろ普段から色々と買い物をしていましたから。

数の子についてはわかりません。ごめんなさい。
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この回答へのお礼

暮らしやすそうな場所にお住まいですね。

近所の商店の電話は共同電話みたいな使われ方をしていたのですね。向こう三軒両隣というと、さほど多くの人が利用していたというのでもなかったのですね。
商店にことわった上で、「緊急の要件がある時は○○商店宛てにかけて、呼んでもらってね」と普段から親しい人には○○商店の電話番号を教えていたのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:23

昭和30年代、東京新宿の話です。

商店の電話に、近所の人宛の電話がかかる、というケースは一般的ではありませんでした。よほど近しい間柄とか、「緊急の際はお願いします」のような了解がある場合は別ですが。電話が普及する前の緊急連絡方法は電報でした。

実は、話は全く逆なのですよ。
例えば、学校の「電話連絡網」作成が一般的になったのは、昭和40年代からでした。でも、東京のど真ん中の学校でも、クラスに一人か二人は電話が無い家がありました。その頃になると、(呼)と書いて「○○さんの家にお願いしてあります」と記載することが普通になってきました。

つまり、「電話が普及する以前」よりも「電話がそろそろ普及した頃」の方が、ご近所に呼び出しをお願いする、というケースが多かったのです。考えてみれば、みんなが持っていなければ、わざわざ呼び出しをお願いするという発想にはならないのです。逆に、隣近所が持っているから、無い家は呼び出しをお願いできる、ということなのです。昔は、都内は10円で時間無制限かけ放題でしたから、それほど気を遣わずに、他人の家の電話を借りられたのでしょうね。
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この回答へのお礼

30年代の新宿では商店に近所宛の電話がかかるというのは一般的ではなかったのですね。
当時は電報が緊急連絡方法だったのですね。最近は何かの式でもなければ電報を打つ機会はありませんが、電話以前にはよく利用されていたのですね。

むしろ、ある程度電話が普及してから、ない家庭に連絡をしてもらっていたのですか。
当時は都内10円で時間制限無しだったのですね。良い時代ですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:20

私が子供の頃35年近く前ですが、


玄関共同のアパートに住んでいましたが、
電話を持っていたのは1家族だけで、アパートの管理人でした、
呼び出し電話です。
家の近所に商店は無かったのですが、商店の近くの人は呼び出してもらっていたのではと思います(店先の公衆電話で呼び出ししてもらっているのも見た記憶がある)
父の田舎(東北)では、まだ手回しの交換手を介する電話もありました。

ちなみに街頭テレビは見たことないです。

数の子は、昭和30年ごろから鰊が激減し、私の子供の頃、昭和40年代~50年代半ばは高かった記憶があります、昭和55年以降には輸入物が増えた記憶があります。
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この回答へのお礼

最近は小学生でも携帯を持っていますが(それはそれで社会問題だと思いますが)、まだ電話が各家庭に普及していないころは共同で使っていたのですね。
頻繁に電話がかかってくる人が住んでいたら管理人さんも大変だったでしょうね。

数の子は、漁獲量が激減して輸入物が増えるまでは高かったのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:15

今でも本数の子は高いです。


お寿司も ハレ の食べ物でした。今は ハレ の習慣が失なわれて、年中ある野菜や果物と同じになっています。

昭和40年ごろはご近所に一つある電話を皆で使ったものです。
家庭に電話が控えるようになっても工事は順々で、電話局に何度も足を運んだものです。昭和50年前のことです。50年にはほとんどの家に電話がありました。地方都市の話です。
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この回答へのお礼

今でも結構値が張りますよね。
サザエさんの中で、ものすごく貴重なもののように扱われていたので質問させて頂きました。

「ハレ」という習慣は失われてますね。
豊かすぎるのでしょうか。

電話の開通も順々で結構待たされたのですね。
30年前ごろにはほとんどの家に普及していたのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/03/30 04:12

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