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キリストやイスラム教のマホメットは、本当に実在したのか
どうか知りたいです。

仏教のブッダは、インドの王子として
生まれて実在したようには思えます。
生まれた時に「天上天が唯我独尊」と言ったなど等々は、
後からの彼を神格化させるための神話だとは
思いますが、仏陀は実在したと思うのですが
先の二人(キリスト、マホメット)は
本当に神話でなくて実在したのでしょうか?

証明のないものが神話だと思います。
歴史は実在の証拠があるものだと思います。
でも神話が出鱈目で、どうでもいいとは
思いません。その時代その時代の
美意識や考え方のエッセンスがそこに詰まっているから
です。

A 回答 (6件)

日本で言えば聖徳太子の様なもので、沢山の文献に名前がでているし、誕生から死亡までの話についても記述があるので、通常の人物であれば実在したと言えるでしょう。


もっとも聖徳太子の逸話が、キリストを初めとする各種逸話からの写しである様に、夫々の逸話自体は当人オリジナルかどうかは疑わしいですね。
仏陀とマホメットに関しては、死亡後に直接の弟子達が宗教をまとめあげて行ったので、それなりに当人の意図が窺えると思われます。
イエスキリストの教えに関しては、一旦散りじりになった弟子達の伝教活動から数世代が経過した後、ローマ帝国が国教として「正統」「異端」をとりわけ、キリスト教を創り上げました。
従って、新約聖書の殆どはキリストと実際には接触の無かった聖人の記述であり、複数説や不在説が出る余地があります。
ビデオがない過去では、実在の証明というのは文書若しくは絵画であり、同一人に対して多数の「実在」に関する記述があれば、歴史上実在した事になります。
日本で言えば、古事記の内容自体は天皇家イデオロギーから記述されたもので、実在の証拠になりませんが、その後の時代には歌集を含め複数の書籍・絵が存在するので、登場人物は実在した事になります。
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この回答へのお礼

聖徳太子は、仏教を信仰した皇太子で
実在しますね。

その当時「聖徳太子」と言う名前かどうかわ
わかりませんが、それに該当する人物は
居るとうのが歴史(証明可能なもの)です。

古事記は、天武天皇が子に指示をして
過去の歴史を記述したもので書いた方が
当然のことながら素晴らしく書かれています。
でも、ほとんどが事実真実が多いと思われているのではないでしょうか。


私が問いたいのは、神話があったことが歴史だとう事ではなく、
ほんとうに実在した人物かどうかを教えてほしいのです。

お礼日時:2007/04/19 18:30

>日本人は、無宗教なんてとんでもないですよ(笑)


>日常の生活に溶け込んでいるものも
>宗教です。(お正月彼岸お盆祭りの踊りも)
>海外の三大宗教を信仰している人達も
>日本人が日常生活に溶け込んでいる
>感覚と同じように宗教と接しているのでしょう。
ANO.3です。
もうこのへんで、宗教という言葉の概念について明解にした
ほうがいいでしょう。日本も世界も。
宗教を大きく解釈すれば、「いわしの頭も信心から」でいわしの
頭を信じることも宗教になってしまいます。明らかな戒律があり
その宗教といわれるものに心身ともに囚われるものと、
戒律もなくただ一方的に祈るものを、同じ宗教として括るのは
本来無理があるのです。神社に参拝することに関してみれば
せいぜいお賽銭を投げ入れ、2礼2拝1礼でお祈りをする。これを
キリスト教やイスラム教またはカルト教と同じ宗教と扱うことは
おおきな混乱の元になるのではないのでしょうか。
本来なら学問的宗教学者は、それらと区別する言葉を作るべき
なのです。宗教(religion)ではなく。
その様な意味で、あえて私は日本人の大半は無宗教である。
神社参拝等の行為は宗教ではなく、伝統的な慣習であると
区別したのです。
なんでもありの世界なので、あえてkoukunnさんに同意してもらう
気はありませんが。
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この回答へのお礼

ご自身が「鰯の頭も信心から」と言われているのに
日本人の宗教的慣習を宗教でないと
言い張るのは矛盾しませんか?

お礼日時:2007/04/20 18:19

キリストに限って回答します。


ウィキペディアが権威だとは毛頭思っていませんが、そこの「史的イエス」の項目にある以下の文章が、学問での世界の現時点での考え方を、よく示していると思います。
「今日の初期キリスト教学・古典文献学・歴史学などでは、ほぼ誰もが一次史料を欠くにもかかわらずイエスの実在に高い蓋然性を認めている。 」ってところです。つまり、学者の中で真面目に「イエス非実在論」を唱える人は、ほとんどいませんし、議論にもなっていません。
勿論、これは、ナザレのイエス、あるいキリスト教徒によってそう呼ばれた人間が実在した、という意味であって、聖書に書いてある事がすべて真実というわけでは全然ありません。
文字による『証拠』として挙げられるのは、聖書自身に加え、1世紀末頃のユダヤ人歴史家ヨセフス、同じく1世紀末から2世紀初頭のローマの歴史家タキトゥス、ユダヤ教のタルムード、でしょうか…。つまり、それぞれオリジナリティがあると思われる複数のソースが、イエスの実在を前提に記述しているので、実在したと考えるべき、という事です。

ただ、歴史における一般的な理解と離れて、質問者ご自身が考える「実在の証明」の要求する程度によっては、ご自身にとっては「証明されていない」と仰られても、構わないと思います。

キリストについては、これまでもいくつもこのサイトで質問がありましたが、そのうちの一つが↓です。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa480337.html
簡単に言えば、ここにあるNo.6の回答を、質問者の方が「なるほど、これは実在の証拠は無いな」と思われるのなら、学者がなんと言おうが、「証拠は無い」と思ってよいでしょう。この回答が専ら問題にしているのは、聖書や、キリスト教徒以外による記録が、全くの同時代ではなくイエスの死後20~70年経過している事です。(あるいは、直接見た訳ではない、とか…)しかし、古代史においては、20~70年後たった時点の資料しか残っていないとか、直接見た人の記録ではない、というのは、全然珍しい事ではなく、だから「存在が疑わしい」という議論はしません。もっと積極的な理由がある時に、学者は真剣に疑います。
例えば、日本の古代史では、文書による記録は、事実上、8世紀初頭の日本書紀もしくは古事記が最古のもの、と言えますが、同じ論理を適用すると、大化の改新ぐらいから前は、人物の存在ですら、全部疑え、って事になってしまいます。
一方、キリストの実在性を否定する議論は、わりと基本的な事実を知らずに主張されているものが多く、説得力がありません。例えば、「イエス生存の当時や磔刑直後から、ある程度広まっていたなら、当時のイスラエル地方の為政者であるローマ側の、年代記等の史料に残っていても、おかしくないが、同時代の記録は何も残されていない」と聞くと、なるほどと思う人もいるかもしれませんが、「イエスの処刑直後には、キリスト教はそれ程広まっていなかった」というのがほぼ常識ですから、常識と異なる前提をたてて、だからおかしい、といっても始まりません。また、↓のサイトは否定論をまとめて、
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/cat62552 …
『ヨセフスの著作にあるキリストに関する記録には、後世のキリスト教徒による挿入があるので、信用できない』と言っていますが、実は、キリストに関する記述は3箇所あって、残りの2つにはそのような挿入の後が見られず、かつ挿入がある部分も、構成の文献に挿入が無いものの引用と思われるものが残っていて、元の記述には挿入はなかった、と考える方が合理的だ、というのがわかっています。(つまり、普通の学者が、信用できる部分とできない部分を分けているのに、信用できないとわかっている部分だけをとりあげて『信用できない』と言っているようなもの。)
という訳で、歴史における常識的なレベルでは、実在を疑う理由が無く、かつ「非実在」を主張する議論に説得力が無いので、ほとんどの学者は実在を真剣には疑いません。聖書の福音書は、『歴史的事実』を記述する為のものではなく、かつお互いに矛盾しているのも、既知の事実ですが、「主人公自身が架空」というのは、複数の福音書が全て根本から「神話」の類だ、という事になり、意味がまるっきり違います。「聖徳太子はいなかった」論というのがあります。しかし、その論者は厩戸王がいたという事は否定していなくて、17条の憲法といったものが結び付けられている事を「聖徳太子がいなかった」と言っているだけです。力点の置き方は別として、日本書紀にある太子の事績のかなりの部分が後世の創作らしい、という説自身は、さほど珍しくない、というかそちらの方が普通なぐらいです。(↓)
http://homepage3.nifty.com/bunmao/0417.htm
キリスト非実在説も「福音書は事実でない、よって福音書にあるようなイエスはいなかった」という意味なら、とりたてて、おかしくありません。

そういう訳で、イエスキリストの実在性は、ほとんどの学者の中では議論の対象にすらなっていないのですが、質問者の方が、通常、歴史学者が考えるのよりも遥かに厳密な証明を要求されるのなら、「証明されていない」と言ってもおかしくはないと思います。歴史、特に古代史では、そういう証明は要求されず、蓋然性の高い=歴史上の事実、としているだけの事です。後は、ご本人で判断された方がよいと思います。

最後になりますが、アラーは神そのものなので、絶対に「実在の人物」ではありません。マホメットについては、トンデモも含めて非実在説を聞いた事が無いので、私には回答不能です。『イエスの墓』ネタは、学者がマジで取り上げるような話ではないです、今のところは。マグダラのマリアがイエスの妻だった、というのは中世からある『伝説』です。歴史上のイエスについては、聖書を『解釈』する事で、より真実に近づく事はあるでしょうが、マグダラのマリアが妻だったかどうかというのは、それこそ本物の墓が見つからない限りは無理でしょうね。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainm …
長々失礼しました。
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この回答へのお礼

単純に言ってしまえば、キリストは、実在。

アラーは、人間でない神様そのもので実在でない。
そのアラーの啓示を聞いたマホメットは、実在と
言う事ですね。

お礼日時:2007/04/20 20:53

>キリストやイスラム教のマホメットは、本当に実在したのか


現在諸外国の最新の研究では本当に実在していた事は判明してます

キリストの場合は
 町の娼婦である、母マリアと、通りすがりの傭兵との間に出来た私生児である事が判明
 その後、町で売春していた女性(マクダラのマリア)と結婚し子供(ユダ)を儲けています。
 その後、処刑され埋葬されましたが

彼の伝説は、彼の弟子たちが彼を神格化するために作った作り話ですね。

今は、その研究が盛んに行われている最中です
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0702/26/n …
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この回答へのお礼

イスラムのアラーは、実在人物?
また、アラーの啓示を受けた
マホメットも実在の人物ですか?

お礼日時:2007/04/19 18:40

宗教の世界はなんでもありの世界です。


本当に実在したのかのかを問うこと自体がナンセンスなのです。
実在したというなら、たとえ実在していなくても実在したのです。

幸福・平和を希求する宗教間の争いほどむごいものはありません。
イラク戦争も形を変えた宗教戦争だし、共産主義も一神教の宗教だったと思っています。これからますます一神教のキリスト教系とイスラム教系の戦いは大掛かりになっていくことでしょう。
私は日本人の大半が信じている無宗教こそ、堂々と世界にその価値を
広めるべきだと考えています。
もちろん神社参拝等は宗教ではなく、伝統的慣習の範疇ですが。
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この回答へのお礼

>私は日本人の大半が信じている無宗教こそ、堂々と世界にその価値を
広めるべきだと考えています。
もちろん神社参拝等は宗教ではなく、伝統的慣習の範疇ですが。

日本人は、無宗教なんてとんでもないですよ(笑)
日常の生活に溶け込んでいるものも
宗教です。(お正月彼岸お盆祭りの踊りも)
海外の三大宗教を信仰している人達も
日本人が日常生活に溶け込んでいる
感覚と同じように宗教と接しているのでしょう。

お礼日時:2007/04/19 18:35

ムハンマド(マホメット)は、間違いなく実在の人物です。


キリストに関してですが、こちらは、実在した人物の何人かを一人の人物として作り上げられたのではないかと思われます。
つまり、キリストの元になった人物はいるが、キリスト自身はいなかったと考えてください。

これは、歴史学的に考えた場合で、神学的に考えた場合は、あきらかに実在した人物となります。
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