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宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?

A 回答 (11件中1~10件)

>>宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?


 一概にそうとは言えないと思います。
 そもそも宗教という言葉、自体が日本においては幕末に造られた言葉です。「宗教」の語源はReligionの訳語であって、日本語の中にもともと存在した言葉ではありません。そのために、明確な基準を持たないことが問題を引き起こしたりもします。カルトと宗教の区別の問題・宗教は「Religion」というラテン語起源の言葉であり、宗教という言葉自体が基本的には西洋的な態度であるという問題・自然を信仰する自然宗教や仏教やキリスト教などの世界宗教やその他の宗教形態の差がはっきりしていない問題・また、宗教と哲学は一体をなしていて不可分であって、ヨーロッパ的な意味での「宗教」や「哲学」という概念を逸脱している宗教がある問題等があります。
 「哲学」であっても、使われ始めたのは明治に入ってからといわれています。しかし、宗教と少し違うことは、「宗教」はもともと日本にあったものを宗教といえるものはなにかと区分していますが、哲学はもともと日本になかった「philosophy」というものが、入ってきたために作られた言葉であるということです。そのため「宗教」という言葉より、「哲学」という言葉のほうが規定がはっきりしているといえるでしょう。

 どうも皆さんは宗教を「盲信」であると解釈しているようですが、確かに日本における「宗教」というくくりの中にそういった「盲信」性がないということはいえませんが、宗教というくくり全てをそうである断定はできないと思います。
 私は仏教徒なので、「宗教」に区分される仏教を例にとって見ると、仏教は「智慧の宗教」とよばれたりします。「信じる」ということについて、確かに大乗仏教において仏道修行者である菩薩を五十二段階に別けたとき最初の十段階を「十信」と呼んで、信心を大切なことを明かしています。しかしここで説かれている「信心」は盲信とは全く違うものです。仏教では、「空」という思想が説かれます。空の思想は『道行般若経』など、小品系般若経典の中に「菩薩の法字(見られる客観)も無く、菩薩(主観)も無い。有心にして無心なり」というように、客観という見られることも、主観という見る心も、自我をもつ存在ではないという立場から示されています。この経の末尾には「諸法(全ての事柄)はことごとく空なり」と説かれています。また『般若心経』には、その空の立場に立って「我執」を離れ、全てを見た場合すべては自由に生かされ活用されると説くのです。ゆうなれば、「空」とは執着を離れた智慧という意味ということです。そういった執着を離れた智慧を得るる基本に「信」があると説きます。それは龍樹が著した『大智度論』において、「仏法の大海は信をもって能入となし、智をもって能度となす。(意訳・仏教という大海を渡るのは、仏の教えを信じるというのが入り口であ り、仏の智慧を得ることをもって完成とするのです。)」といって、仏教に入るにはまず信じることが初めであり、信じることなくしては仏教の真理を得ることが出来ないと説かれています。では、「盲信」という見ることをやめた執着をもって、物事をありのままに観察しようとする「空」という視点が生まれるのでしょうか?体得できるのでしょうか?ですから、「仏教」という宗教に限って言えば信じるということは「盲信」ではなく、「疑い」を乗り越えたところにある真理に対する確信、冷静で客観的な信頼を意味してます。
 つまり、裸の王様の子供の目線が近い間も知れませんね。そういった、サングラスやフィルターを通さない視点を目指すことが哲学であるというのなら仏教は哲学であるかもしれません。もしかしたら、大人たちのようなフィルターを通した視点を知っていながらも、それにごまかされない立場であるといえるかもしれません。
 仏教においてはお釈迦様じたいのくくりからの抜け出しを試みた人もいます。有名なのは一休さんです。一休さんの詩の中に「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」とよんで、お釈迦様が作った既成の論理である仏教からの、抜け出しを試みています。しかし、それも仏教の執着しないフィルターを通さないという視点の一つです。
 表面的に「宗教」や「哲学」という言葉だけを考えれば、別の言葉があるのですから違うものです。まぁ、私は仏教徒なので他の宗教には詳しくはありませんが、。仏教についてアインシュタインは、「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは『仏教』です。科学的探求は特殊な宗教的感情をひき起こしますが、仏教は愚かな狂信的宗教感情とはまったく違ったものです」といっています。またニーチェは、「仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です」「ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教」「人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせる」しかし、「ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」ともいって、哲学者・古典文献学者だあったニーチェにしても、哲学やその他宗教の基盤があったヨーロッパにおいても、仏教を受けるれる体勢が整っていないと評しています。このようなことからも、仏教一つとっても日本語で使われるヨーロッパ的な「宗教」「哲学」というくくりでは、とらえきることができないものですから、
>>宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?
という、問いに関しては一概にそうとは言えない。というのが私の答えです。しかし、宗教の延長に哲学が無いとも言い切れません。少なくともここのカテゴリーの中では「哲学」の中に宗教が含まれていますね。
 長々講釈をたれましたが、支離滅裂な稚文の文意を読み取っていただければ助かります。生意気なことを書きましたが、どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏
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宗教と哲学…言葉では分離できてもそもそも、分離できる客体は無いと思います。

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私も宗教と哲学の違いは、宗教は真理と第三者がきめたことを盲信することで、哲学は真理と第三者がきめたことを「本当に真理か?」と疑うことで真理を探究するものなので、従って宗教の延長線上に哲学はあるわけじゃあないと思います。



哲学の中のほんの一部に宗教はあるとは思いますが、逆じゃあない。


例えば裸の王様ってありますよね。
「王様はすばらしい服を着ており、賢い人しかその服は見えない」というストーリー。
どう見ても王様はパンツ一丁。
だけど、みんなが「すばらしい すばらしい」と言うので、自分も「王様はすばらしい服を着ている」と言うしか選択肢が無い。
そうやっているうち、王様が本当にすばらしい服を着ていると思えるようになったら、洗脳成功です。
脳を第三者に書き換えられ偽を真理と勘違いする脳になってしまった状態。



嘘をついているが、馬鹿だと思われたくないので、見えないものを見えていると嘘をついた結果 自分を貶めてしまったわけです。
欲によりひき起こった。


そこに子供が「あ 王様は裸だ 王様は何も着ていない。あははははは!」と言った。
この子供は既成概念をまだ刷り込まれていないので、自分は馬鹿だと思われたくないという欲望に左右されない。
素のままが見えるし、こう言ったら他人にどう自分が思われるかなど、欲に左右されないので、見えたとおり感知した通りを言ってしまえる。



大人になると、欲に左右されいろいろややこしいことをして、サングラスをかけて世の中をみるようになる。

幾重にもサングラスをかけることになり、どれが素の色かわからなくなる。

哲学は、自分はサングラスをかけているのではないかと疑うことからスタートする。
「もしかしてら自分は第三者が作ったサングラスをつけて嘘の世界を見せられているのではないか」と自分の見える世界を【疑う】わけです。



宗教は第三者が作ったサングラスをつけて世の中を見ることからスタートする。
って思うんですね。

宗教は人間が作ったものですから、当然特定の人間が脳の中に思い描く世界になるわけです。
その特異な人の脳と自分の脳を同一にしようとするのが宗教。
だけど、特異な人と自分の脳は違うので、その特異な人の脳と同一になれない。
すると苦しみが生まれる。
なれないならできるように体に鞭を入れろ、というのがその宗教の支配者階級の命令。
本来なら支配者が信者に鞭を打って、「無理やりその世界が見えます」と暴力により洗脳をするのですが、愛と救済を掲げている宗教の場合は、支配者が信者に直接暴力をふるって、無理やり洗脳するわけにはいかない。
そこで支配者は修行だとして、信者に自分の肉体を痛めつけ、支配者が言う世界を真理だと思うようになるまで肉体を痛めつけろ とお勧めするわけです。


映画地獄の黙示録がそうです。
王は捕らえた主人公を餓死寸前まで追い込み、その後救ってやって、自分の思い通りになる従順な信者を作ろうとした。
計画では、なるはずだった。
でも主人公は誘導されつくさず任務遂行をし、森の王を倒した。
そればかりではなく新たな王になって信者のトップにたった。

これが、金枝篇です。
王国のトップに立つためには、前王を殺して生贄として捧げる。
これが古代宗教。
これがイエスの話ができた理由。
だからイエスは神に捧げられる殺されるべき男となったわけです。
前王を殺して生き延びるというのも古代の宗教の慣わし。


というものを、哲学は疑うことから始めるので、現代では理解しがたい「どうしてイエスが殺されるべき子羊となったか?」ということに疑問を持って調べると、なーるほどと行き当たったわけです。

だからといって真理とかじゃないのですが、少なくともどうしてそんな妙なストーリーが出来上がったのかはわかる。
信者ですら理解しがたいことが、信者ではない つまり洗脳されていない立場のものだからこそ、わかったわけです。



偉大な魔法使いと恐れられていたオズ。
ドロシーはそのオズが、チビ・ハゲ・デブ・職業ペテン師の自分と同じ人間であることを見破ってしまった。
知により見破ることができたわけです。
盲信しつくされなかった。食い尽くされなかった。
そのことによって開放が始まった。



もう一つの創世記のストーリー。
アダムとイヴは偽の神によって、永遠の命を持っていると騙され、農場で働かされていた。
(どっかの宗教もそう言って信者を無料で何千年もコキつかって、神ですら知らないであろうと言われるくらいの財産を保有していますよね)
ところが知恵を蛇が与えたことで、真実がわかってしまった。
自分達は神によって楽園に住まわされていたわけじゃなく、騙されて奴隷としてコキ使われていただけで、永遠の命などこの偽の神が与えられるわけなどないと見破ってしまった。
悲しみの始まりは、自由への扉だった。
奴隷の民の開放。
これがもう一つの正統派が古代にもみ消そうとした創世記のストーリー。



哲学の基本は「既存の真理を疑うこと」
現代の哲学は、今まで真理とされたものを、本当に真理か?と疑い調べて、取り消す あるいは修正をしていく作業で成り立っている。

宗教は疑うことが許されない。
だから両者の方向性は全く逆になりますね。
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哲学を広義にとらえると、宗教を含むすべての学問が哲学の範疇に入ってしまうと思います。

ご存知かもしれませんが「哲学は万学の女王」という言葉もあります。

狭義の意味での哲学は、物事を根本的なところから批判的精神をもって考えることが根底にあると思います。一方、宗教は「信じる」ことがその根底にあると思います。

したがって、狭い意味では、哲学と宗教とは似て非なるものと思われます。
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宗教の持つ盲目性と本当のところはどうなのだと自らの心が探っていく哲学とは,ことに対峙する態度が根本的に違う.



個に帰するべき宗教性と実践哲学はほぼ等価であることが望ましい.
知行一致を志向する.

哲学も宗教も表相と実相があるわけだ.
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「延長」とう言葉に違和感はあるものの、概ねそう考えられるでしょうか。


西洋において、哲学者として記録に残る最初の人は「タレース」ですが、それ以前にも「哲学らしきモノ」はありました。
バビロニアの『ハンムラビ法典』、インドの『ヴェーダ』、モーセの『モーセ五書』などなど、、。
しかし、これらは宗教と密接であり(宗教的・政治的)権威ある人への反論は許されませんでした。

しかし、ギリシアのタレースは明確な問題設定(「万物の根元(アルケー)は何か?」)をし、それに対する仮説(「万物は水からできている」)をたてたとされています。
そして、それに対する批判や反論を受け付けた。
明確な問題設定と批判・反論を受け付けるという事が重要であり、これが宗教との明確な差であると考えられます。
その後、様々な哲学者(フィロソフィア)と呼ばれる人々が出てくるようになった。

フィロソフィアというのは、「智を愛する」という意味です。
宗教は信仰と密接であり、「智」は信仰を強化する事に使われますが、哲学者は「智」そのものを目的あるいは目標とします。
つまり対象が「自分」ではなく「智そのもの」なのです。

古代ギリシア・ローマ時代が終わりキリスト教時代の中世になると、よく哲学の暗黒時代だという言われ方をします。
しかし、これは一面的であり、「キリスト教神学」という形で哲学が行われています。
この哲学のベースになっているのは、古代ギリシアのプラトンでありアリストテレスなのです。
「キリスト教神学」も、批判・反論を耐え抜いたモノが正統説とされました。
ただ、宗教の宿命である「権威ある人への反論が制限される」という問題はありました。
そして、「異端」というレッテルを貼る事で弾圧されることになりました。
この事が、中世哲学(キリスト教神学)の限界を作ることになったのでしょうね。
ルネッサンスを経て、宗教改革の挑戦を受けて立たなくてはならなくなり、徐々に哲学・科学はキリスト教のクビキから解放されていきました。
ただし、哲学・科学と宗教(西洋の場合はキリスト教)とが明確に分かれた訳ではありません。
そして近代哲学者の多くは、宗教的動機を持って多くの業績を残してきました。

宗教と哲学は密接に結びついています。
ただ、宗教は「真実」に対する批判・反論を中々受け付けませんが、哲学は積極的に批判・反論の挑戦を受けるという違いがあるかもしれません。
一つの思想に固執し、その思想への批判・反論を受け付けない人を「宗教的」と評する事がありますが、正にその通りだと思います。
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真理(=悟り)を求めるという点において、それを宗教と呼ぼうが哲学と呼ぼうがかまわないということです。


真理あるいは悟りに至らないおおくのものは、誰かの教えを信じるしかないという狭義のいみでは哲学も含めてすべて信仰=宗教の概念に包括されます。これは、すべての学問は誰かの教え(思想、理論)を信じることから始まってるからですね。つまり価値観は後天的に得られるものと言い換えてもいいですね。
そういう意味においては「宗教の延長に哲学がある」ともいえます。でもこれは狭義の意味ですね。広義の意味では「真理(=悟り)を求めるという点において、それを宗教と呼ぼうが哲学と呼ぼうがかまわない」ということです。
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<宗教>



宗教の起源は原始社会にあり、そのテーマは信仰にあります。

<哲学>

フィロソフィア(知識に対する愛)の呼び名が示す通り、起源は諸科学の発展にあります。
その最大のテーマは、世界観です。
このテーマを巡っての認識論のあり方が哲学の性格そのものを規定しています。

<結論>

宗教と哲学は、その起源もテーマも異なっています。
前者は非科学であり後者は科学。正に対極にあるとも言えます。
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半分正解で半分間違っていると思います。


「延長」という語句の意味内容によるからです。
進歩史観的に考えると、宗教に対する批判として哲学が生まれてきました。
タレスが「万物の根源は水」などと言い出したのは、従来の神話を覆す説でしたし、ヘラクレイトスが「太陽は火の玉だ」と言い出したことも神話を壊すものでした。
プラトンにしても「わかったつもりでいるけれども本当にわかっていないのではないか」ということで、ソクラテスの姿を借りて神話批判をしています。
宗教批判というのが宗教の延長にあると考えるならば、ある程度正しいです。

しかし哲学にも神話を再生産してしまう働きがあり、それが宗教に新しい展開をもたらしもしました。
そう考えると、宗教→哲学、というよりは、宗教→哲学→宗教→・・・というように連鎖があるのかもしれません。
これでは、延長に何がある、と言えるものではなさそうです。
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全く別物だと考えます。


理性的な思考を通じて、様々な主題について論じるのが哲学であり、
神の存在などを含め、あらゆる事柄を思考し論ずるのが哲学の目的です。
信仰を主とする宗教とは目的が全く異なります。
神・愛・真実・命など抽象的概念は結論が出ないため、哲学ではよく議題に上がるのですが、
これらは宗教ではその宗教ごとに答えが用意されています。

よく議題にあがるテーマが宗教の信仰の根幹部分と重なり合うため、
比較されることがあってもおかしくはありませんが、
目的が全くことなるため、宗教と哲学は別物として考えるほうが無難だと思います。
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