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私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。
だとすると、他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。

哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。

A 回答 (22件中21~22件)

>私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。



自分だけではなく、”誰にとっても”、その通りだということが重要なのだと思います。誰でも、自分の眼を通してしかこの世界を見ることができないし、自分の心を通してしか、この世界を感じ取ることはできません。そういう人々が集まって互いに情報交換して、この世界の全体像を作っているのだと思います。

>他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。

他人の心に限らず、物質現象でも、社会現象でも、いずれの場合も、初めは、何らかのイメージやモデルが心の中に作られ、それが実際に現実と合致しているか、あるいは、勘違いかを事実を確認、体験しながら、修正、推測していくということが「理解、了解」を深める(完了することは永遠にない)ことだと思います。

この回答への補足

>自分だけではなく、”誰にとっても”、その通りだということが重要・・・

これはつまり「私以外が中心の世界、他人の心、というものがある」という前提の上での話だと思いますが、上の質問はその前提を認めた後の話ではなく、そもそも、そのような前提、命題をどのように捉えたらよいのか、理解したらよいのか、ということが、上の質問の趣旨なのです。説明不足だったようなので、もう少し説明しますと、


確かにごく普通の感覚からいって、誰でも私と同じように心を持ち、それぞれの心に応じて世界を感じ取っている、というような感じがします。

しかし、よくよく考えてみると、世界はどんな場合であれ私中心の私の世界としてしか現れないように思えます。そして、世界はどんな場合であれ私中心の私の世界としか現れない、という事を認めるとすると、私が中心でないような場合はありえないことになるので、「私以外が中心の世界」というようなことを意味する「他人の心」というようなものは
ありえない、というか、意味不明の言葉のように思えます。理屈で考えるとこのような結論になりように思えます。

にもかかわらず、日常的に「他人の心」「私以外が中心の世界」などといった言葉は理解できるように思えますし、それをふまえて、「他人の心を理解する、了解する」というようなことも、簡単に理解できるように思います。

この日常的な感覚と、理屈で考えた時の結論との対立を、どのように調停したらよいか、というのが上の質問の趣旨なのです。

補足日時:2007/05/10 20:42
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この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/10 20:42

>世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。


>だとすると、他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。
哲学は知りませんが、世間一般で考えると「我が儘小僧の戯言」と言うことになるかと思います。ですからあなたにとって他人の心は「理解不能な領域」となるのではないでしょうか。

この回答への補足

私の疑問は哲学的な方向のものだったので、方向性がちょっと違ったようです。

補足日時:2007/05/10 20:40
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この回答へのお礼

お答えいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/10 20:40

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