プロが教えるわが家の防犯対策術!

特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。)

むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。

解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

A 回答 (46件中31~40件)

No8でありNo10です。

三度ここに書きます。

洗礼の必要性については、どうやらご自分の中に既にお答えがあるご様子ですので、私は使徒行伝5:34~39のガマリエルと同じ立場を採りましょう。
即ち「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」です。
あなたが本当に聖霊の力に満たされているなら、きっとこのままお進みになるでしょう。そうでなければ、いつか洗礼を受ける必要性に目覚めるでしょう。だから、私は洗礼についてこれ以上意見は述べますまい。
けど(No8と関連しますが)私は愛し合っているのに結婚してない男女を見れば、大きなお世話だと分かっていても結婚を勧めます。洗礼も然り、信じている人には洗礼をお勧めします。

さてエレミヤ31:31について成就したかどうか、ですが・・・正直私には分かりません。ですが、キリストの十字架上の死と復活によって全人類の全ての罪が許された、事は信じております。即ち、神との和解は成った(これが福音です)と。(ここはあなたと同じ考えです)
だから、イエスは「福音(Good News)を告げ知らせよ」とお命じになりました。人は福音を知らなければ、横井庄一さんが戦争の終結を知らずに密林で孤独な戦いを続けていたように、罪の奴隷のままです。(実際には戦争は終わっていても、知らなければ終わっていないのと同じ事ですから)
しかし、この命令があるのは「まだ福音を知らない人がいる」からではありませんか?だとすれば、エレミヤ31:31~34にある「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」は、これからの事ではないでしょうか?
全ての罪は赦された、しかし、その事を知らない人がいる。だから、マタイによる福音書28:19~20「・・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい・・・」と、イエスは弟子たちにお命じになったのです。
罪が赦された事と、それを知る事は別の事だと思います。戦争が終わった事と、終戦を知る事は別なように・・・。

さて、長々と書きまして申し訳ありません。三度祈ります。
願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように、
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen
※私はこの質問にはこれ以上回答しないでおきますね。
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この回答へのお礼

後味のわるい議論を あえて することを選びます。

けっきょく わたしたちの間のちがいは 時間の問題だということ――すなわち 《もうそろそろ 普及した》か《まだまだ 普及させねばならない》かの違いだということ――だと 一たん 思ったのですが そして めでたしめでたしとなろうかと思ったのですが ちがうようにも感じました。

だって 《主を知れと言って教えることはない》という事態に対して 《和解は成った。ただし まだ 知らない人がいる。知らせに行こう》という事態を優先させるということじゃないですか。

《宣教という愚かな手段》で知らせた時代が イエスのあとなのですから この《ニュース》の普及は 必要であったのでしょうが こういうことだと思います。つまり このエレミヤ書の文句を イエスのあと ただちに 全人類の和解が成ったという内容のもとに解釈し読んだのは キリスト紀元二千年ごろに わたくしに起こったということです。この起こった事件は ニュースの普及が世界的に行なわれたあとだったというただそれだけのことのように解します。

事態は時間的に前後していますが どちらも キリスト者たちの歴史として起こっていると解します。

わたくしに起きた事件が いま 伝えられたとき そのことを知ったキリスト者にあっては やはり すべてが無条件で成就したという事態として受け留めるということだと思うのですが。

ここまでになります・・・。
(《洗礼の必要・不要》については いまの質疑応答の過程で 《ローマ教会の汚点が とてつもなく大きく イエスの系譜を断ち切ってしまった》というかたちで 考えがまとまってきたものです。腐敗に至る前までは イエスの始めた儀式だったのだという認識です)。
(回答は ご自由ですので。前言をひるがえすのも ことの性質じょう 問題ないと思います)。

お礼日時:2007/05/22 20:57

9です。


勉強は、聖書だけでは無理です。旧約も、たくさんの箇所を割愛してまとめなおされたものです。新訳はいうに及ばずです。
しかし、信仰は現行の聖書だけでも充分でありましょう。
私の言うこと、おわかりいただけますね。

異教につながるような、少しでも都合の悪い内容の痕跡を消すために、
聖書は割愛され、変更を重ねられ、全体のつながりが大幅に削られてしまい、
ひとつの言葉の背景にあるエピソードや伏線が消されてしまっています。
けっして、何かを類推して読み取るべき難解な書物だったわけではありません。

抑えがたい知識欲があるなら、信仰とは別の柱をもうひとつ立てて、研究をしなければなりません。
ただの信徒が法王と同じ研究を積む必要などないですから、身の丈にあった研究をです。

水による、神と人の約束は、キリストの生まれるよりも3000年以上前からのものです。
ここには、異教の痕跡があるのですが、キリスト教は一番古い異教をひきついでいるという点にも、
キリスト教の「高み」があるわけです。
都合に合わないものは排したが、都合によいものは取り込んでオリジナリティを加えたのですから、
根拠をキリスト教のなかに探ろうとするのは甚だ無理があります。
水による洗礼は、キリスト教よりも大事なこと、であると考えてもさしつかえないのです。
そして、キリスト教を信仰するということであれば、キリスト教のコミュニティをたいせつになさるべきであって、
師と仰ぐ指導者のもとで、その意見にしたがって学んでいけばよろしいでしょう。
洗礼の必要は必ずしもないと言ってくだされば、その方のそばで学べばよろしいでしょう。
ただ、研究の道では、水による洗礼は何に始まりをもつか、ということはないがしろにはできませんし、
聖書のなかにその意味を探そうとするのは無意味です。
信仰と研究は必ずしも矛盾しないと思いますから、たくさん、本をお読みになって、コミュニティをよく選び、
生活を律する場と、思想の冒険の場を、バランスよく操縦していってください。

この回答への補足

《十字架じょうのイエスの脇にいて かれから おまえは今日わたしといっしょに楽園にいるのだと言われた強盗のようであればよいと思います。》とANo.13へのお応えにしるしました。

その昔には 旧い言葉ですが《呉下の阿蒙》と名のっていた頃がありました。勉強など 宿題を除いて いっさいしない腕白だったわけです。

しゃれた言い草を用いるなら 《神は知恵のある者に恥をかかせるため この世の無学な者を選び・・・》(1Cor.1:27)というのは 我れのことなりと 増長したわけでした。

しかももはや昨年 還暦を過ぎたというわけです。

どうお応えしてよいものやら・・・。

箇条書きに やはり なりますが。

信仰は きちんとしたかたちでは アブラハムから始まるものとばかり思っていました。シュメール語も アッカド語も ウラルトゥも ロシア語小冊子の入門書でのみ 勉強しましたが きちんとした先史・原始時代というのは 学んでいないですね けっきょく。

amaguappaさんの研究成果は 本にされていないのですか。あれば それを読んで学んだほうが はやいようです。

ただ 水による洗礼が そのようなかたちで大事だとするならば 反面で あたかも我が国のみそぎのごとくであるようですから これまた どう考えればよいか 依然として さらに 謎が増したようでもありますね。羊水ではないですが 産湯だって 洗礼のごとくですし。

結論としては 贈り物としていただいたと受け留めている命題:《生活を律する場と、思想の冒険の場を、バランスよく操縦していってください》に帰着するようですが その前におっしゃったことで 二点 いわば ひっかかりがあります。

《師と仰ぐ指導者》を求め続けていた事実があり そのとおりだと思う反面で 《キリスト教のコミュニティをたいせつに》ということがらにつきましては 微妙な感覚が残っています。

だれかれかまわず受け容れる性向なので 当然だという反面で じっさいのキリスト教徒の人びとは けっきょくわたしのような性格に対しては 煙たがったり よく(?)言えば 敬遠したりするのが 一般です。どうしようもないほどだと告白せざるを得ません。もちろん つねに 希望を持っていますが。

お応えできたかわかりませんが やはりおこころにそぐわないような内容になるのですが わたしは 学究派ではありません。《民主自由会議》という政治組織かつ文化団体をつくろうとし 挫折したのですが そのような側面のほうが 合っているかも分かりません。(挫折したので 合っていないかも分かりません)。

今回は このように尻切れとんぼで 筆を擱きます。(いい表現もアイデアも もう 浮かんで来ません)。

補足日時:2007/05/22 20:07
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No.7です。



ユダヤ教においては、この神はイスラエルの民を選んだことになっていますよね。
バビロン捕囚の頃、ユダヤ教が確立した。
神が選んだ民を守り導いてきたという信仰ですよね。
イエスもユダヤ教でしたよね。

イスラエルの民が北と南に分裂したのはご存知ですよね。
ユダ王国にベニアミン族が南に住んでいて、10支族は北に住んでいた だったと思います。
サマリア人は北に属しており、イエスはよき隣人としてたとえ話に登場させましたよね。
汝の敵を愛せよとは、南の人がサマリア人をバカにして敵視していたので、同じイスラエルの同胞ではないか 隣人ではないか と説いたと私は理解しています。



聖書を読むと、神の子らと人の子らと二つ書いてありますよね。
神の子らとは誰のことですか?
人の子らとは誰のことですか?


>わたし自身は すでに 神の子らの中に入るように導かれました。

神の子らが誰を指すのか知った上で言っているのでしょうか?



>ただ そのような自称だけではいけないという考えが 圧倒的に強くありますので

そうですね。
神の子らの意味を知った上で、適切な場面で使った方がいいと思います。


>イエスは おっしゃるとおり 《弟子たちの――チンコではなく――足を洗いました》。それは 相手に尋ねつつ 相手のこころを推し測りつつ 相手の言おうとするところをていねいに聞き取ろうという意味が含まれています。

私の記憶ではその部分はそのような描写じゃなかったと思うのですが。

聖書作家はどうして足をイエスに洗わせたのでしょうか。
弟子達が他の部分もと言ったとき、イエスはどう言ったでしょうか。
何故足なのか。
何故 赤い絨毯なのか。
何故高貴な人は赤い絨毯が敷かれたところしか歩けなかったのか。
何故天と地の間なのか。

チンコを洗うの比喩ではないとしたら、残りはこれしか私には思いつきません。
何故吊るされて地面に足をつけることができない儀式を女の子たちは受けさせられていたのか。
どういう意味があって、地面に足がついてはならなかったのか。
地面に足が着くとはどういう意味だったのか。



>迷惑なロゴスは無用に願います。

ロゴスってヘブル語ではなくコイネーで、それもギリシャ哲学用語ですよね。
ギリシャ哲学はユダヤ哲学とは違う。


ヘブル語にはロゴスなどという言葉は無い。
ではロゴスと翻訳された言葉はヘブル語ではなんでしょう。



迷惑なロゴスですか。
実はこのロゴス、、、、真言でもあるわけです。
どっから出たかというと、創造主、MA。
Mはメム 水、Aはアレフ 誕生。
MAMA と2回と唱えると。。。どうなるんでしょうね。
適切な場面で唱えなければ、言葉の力は発動しない。
これが真言。

ウイルスに幻を見つづけさせられ、エネルギーを吸い取られていたって映画ありましたよね。
MATRIX。
ネオは目覚めさせられ、現実を知らされ、トリニティーにつれられzionに帰還した。
MAtrix。
ひょっとしてあなたがここちよいと見ている夢はMAtricksじゃないのでしょうか。偽母親。
口当たりの言い言葉を求めるものたちが見る夢。
そして夢を見せてエネルギーを搾取しているのがウイルス。
(閑話。このサイトで知ったのですが、Matrixの冒頭で緑の雨が降るシーンありますが、なんで日本とは関係ない映画なのに、カタカナが流れるのか。ヘブル語の筆記体的なものだったか忘れましたが、日本語のカタカタでもあるわけです。)


>《それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?――縛るためですよね。》とお考えなら 《水の洗礼は必要不可欠ではない》という結論です。そのことをおしえてください。

イエスは信者に洗礼をして、これで天国にいけるなど言っていないから。

そう決めたのはイエスではなく後の神学者が会議でそういういことにしようって決めただけ。って前私書きませんでしたっけ?


>ただ この《人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。》というのは 根拠が弱いと思われます。そのように解釈しただけのものです。イエスが自身 洗礼を受けていますから。

で、あなたはイエスが洗礼を受けた理由は罪を清めるためだったとお考えなのですか?
イエスを創造主とキリスト教はしているんですよ。
その神がどうして人間に穢れを清めてもらうわかければならないのでしょうか?
聖書作家は何を言いたかったのか。

その当時はイエスは神だと思われておらず、本人も思っておらず、後世の人がイエスを神だと会議で決めから。
何会議でしたっけ?


>水を用いての洗礼は キリストの神の権能によって 人の手でおこなわれる》のだと捉えられます。

その<人>は時には人に冤罪をかぶせ拷問し殺すわけですよね。
そのような人々ですら洗礼を与える権利をもっていた。
殺人もいとわない人が、信者に清めてやると言うわけですから大したものです。
その人も洗礼を受けておきながら、冤罪を着せ殺人を推奨した。
大した洗礼の効果です。
この人たちはみな天国にいったとしたら、私は死んでも絶対にこの人たちがいる天国など行きたくないです。
洗礼を受けていない同胞のいる地獄で暮らしたいです。


>《霊》を 人間の理性でわかるように解釈するのは 自由ですが キリスト信仰とは 似ても似つかない哲学ですと申し上げておきます。

キリスト教はユダヤ教から分裂しましたよね。
では、ユダヤ教はどこからきたのでしょう?
ユダヤ教の創世記に霊が出てきますよね。
さて、この話の元ネタは一体どこの宗教だったでしょう。

コピーしていくうちに、だんだん元の画像が不鮮明になり、やがてもとの姿をとどめなくなる。
そして後の人は元の意味を知ることもなく、どうしてそういう話になったのかも何度見ても理解できなくなる。
コピーのしすぎ。



人間の理性でわかるように解釈するのは自由とおしゃるが、それがキリスト教です。
私にではなくキリスト教に言うべきです。
霊はMAより発せられる。
それは理性でなど理解できない分野です。
それをキリスト教は言葉で理解しようとした。


>むろん《神》と言っても それも代理表現です。

ヘブル語はものの本質を直接表す珍しい言語だそうです。
その特徴を持つヘブル語のクラスに入ったギリシャ語は、嘘つきですらなく、あきらかに愚者なのだそうです。
嘘つきですらない、、、ってすごいですねぇ・・・・。
そこまで言われている新約聖書・・・・・。
嘘つきはまだ知っていて嘘を言うので救いようがありますが、愚者は悟る能力が無いので知らないわけです。


>こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》

そういえば、マタイにこんな言葉がありますね。
「義のために迫害された人たちは幸いだ。何故なら天国は彼らのものである」
これ間違いですよね。


マタイ5・3
「こころの貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものである」
この本来の意味は?
知っていなければ、「心の清い人は」といわれたら、この文章で返したでしょうけど、私知っているので、、、苦笑。




>わたしは kigurumi さんに 説教をし 宣教をしているみたいですね。くれぐれも あしからず。

説教って教えを説くってことですよね?
すいません。 教えを説いているとあなたが自覚している部分あるのでしょうか?
まず、知っている情報を流すだけでは説教になりませんよね?
従って私は説教などしていないという自覚がある。

説教をする人は、確立していないと駄目だと思うんですね。
彷徨っているうちは説教はできない。

宣教は知らないのにやってしまうと、たちまち聖書のくだりの解説にまごついてしまいますよね。
矛盾を指摘されてスラスラ答えられるレベルにならないと、宣教してはいけないと思うんですよ。
じゃなきゃ 答えられない 大したことはない宗教だ ってこの自称宣教者にせいで、キリスト教がバカにされることになってしまうわけですから。
悟った気になり有頂天になればそれは気持ちがいいでしょう。
でも、それって自慰とどう違うんでしょうか?
人の説教をした気分になって気持ちが良い 快楽だ は神の愛をゆがめたアウグスティヌスの自慰と変わらないレベルだと思うんですね。


神の愛の概念をゆがめたアウグスティヌス。
彼もまたとんでもないペテン師ということになってしまいます。
ユダヤ教には、三位一体などない。
唯一神が3つに分かれるってのは、異教の概念なんです。
ローマやギリシャ神話にもはその概念があったと思います。
ユダヤ教には無い。
ユダヤ教も一時期それに染まったが、このせいで退廃したとして、異教のこの概念を排除したんです。


ユダヤ教には無いし、神への冒涜になります。
イエスはバリバリのユダヤ教徒ですよね。


そして、ほとんどの神との契約の証である律法を否定し、神を冒涜しまくったのがキリスト教ですよね。



韓国人と日本人って外見上区別つきませんよね。
実際 DNAレベルもすごく似ている。
でもDNAを調べなくても見分けることができる。
習慣や風習の違いにより、区別できるわけです。
イスラエル人ならイスラエル独特の律法により民族が形成されて人の形をとっているわけですよね。


イスラエル人はイスラエルの何倍ものユダヤ人が本国以外の土地に住んでいたわけですよね。
彼らはもうヘブライ語も喋れないし、習慣もおろそかにして、神の民としての形を保っていなかった。
それでこれはいかんと、ヘブライ語が喋れない風習を知らない異国に散らばったイスラエル人に神の元に帰還してもらいたくって、ヘブル語をコイネーとかコプト語とかに翻訳しなおして、帰還運動をしたわけですよね。

それなのに律法・風習の否定。
ギリシャ哲学かぶれ。 とうとう神の民の形に戻る事を退け、新しい神殿をたてて別物に完全になってしまった。
これがキリスト教ですよね。


新しい宗教においてその独自性を出すために、原罪だとか洗礼だとか骨組みをしていった。
激しい権力争いをして、自分達の方が偉いとするため、3世紀に「天国の鍵はペトロが授かった」と加筆してしまった。
そして自分達がイエスが鍵を誰でもなくペトロに渡し、そのペトロによって神の家は立つとした。
その延長戦上にあなたはいて、それで洗礼の重要性について考えているわけですよね?


もう別物。
あなたは神の子らに属してなどいない。
歴史も記憶も神の子イスラエルの血も保有していない。
自称神の子らと言う人の子らに属する人です。


天の国が降りてくる、天でなることは地でもなる。天が乱れると地も乱れるわけです。
イエスが生きたとされた時代は、今とは比べ物にならないほど分裂していた。
神の子らががんばってくれないと人の子らも乱れるしかなかったわけです。
統合か隠蔽か。統合のために異端として排除した。
排除するために新約聖書はでき、一部の人が決めた以外のイエス理解をする人は、徹底的に新約聖書という武器によって弾圧されたわけです。

洗礼も武器になりました。
教会が排除したい人々には洗礼を与えなかった。
洗礼を受けないと天国にいけないとして、洗礼を与えず苦しめた。
ただし、教会の脅迫・権威への服従に屈しない人たちもいたわけです。
その人たちを捕まえて拷問し、屈しなければ殺した。
あなたも生まれた時代が違ったら、拷問のすえ 屈して洗礼を受けていたか、拒否したことで殺されていかですね。
よかったですね。

この回答への補足

たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。残念ながら kigurumiさんの回答には 質問の主旨と直接かかわらない議論が多いです。

キリスト教は 非道な宗教ならざるや / 洗礼はただ信徒を教会組織の内にとどめておくための手段にしかすぎぬと思われるが ちがっているだろうか うんぬんと 論点ごとに 諮ってみられては どうですか。そういう議論 そういう内容として受け取られる議論になっていると思うのですが いかがでしょう。

わたしの質問にかかわる所について お応えします。
(1)《神の子ら》という表現が舌足らずだったのでしょうか。

《このかたは 自分の民のところに来たが その民はこのかたを受け容れなかった。しかし このかたは 自分を受け容れた人 その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。》(ヨハネ1:11-12)にもとづいて わたしは使いました。

(2)《イエスが弟子たちの足を洗った》のことで わたしが述べたのは わたし自身の解釈です。もし間違いでしたら たとえば別の質問事項として 立てていただくか それとも この質問の欄でいいですから あらためて その論点について きちんとわたしの解釈に対する批判をまとめてくださいますか。そのように願います。できる限り お応えしてまいります。
申し訳ないですが 《何故 赤い絨毯なのか。》からあとは 内容がよく読み取れないのです。

(3)《イエスは信者に洗礼をして、これで天国にいけるなど言っていないから。》との由。

《イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・》(ヨハネ3:22~4:2)とあり 弟子たちを執行者として 神キリストの権能において 洗礼を授けたと解されます。マルコは《信じて洗礼を受ける者は救われる》(16:16)という文句をイエスの言葉として掲げています。一応これにもとづくことになるかと思います。
あとは 聖書学者の研究に俟ちたいとわたしは考えます。

(4)《説教をし 宣教をしているみたいですね》とわたしが言ったことについては あくまで《みたいですね》という主旨です。してもいないし するつもりもないですが あたかもしているように見られるかも知れませんねというこころです。

あとは もし 申し訳ないですが 見落としがあるようでしたら お知らせいただければさいわいに存じます。

(5)ちなみに ローマ教会の腐敗ぶりについては ほかのお礼・補足欄でわたしも触れております。

(6)《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》にちなんで論じてある内容は 何かありそうだとは感じますが よく読み取れません。そういった部分もあるということも お伝えしておきます。

補足日時:2007/05/22 14:29
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私はクリスチャンではなくキリスト教に関する知識も殆んどありませんことを予めお断りしておきます。

そもそも信心深くもございません。(^^;
キリスト教というのは「契約」ということを重視する、というふうに聞きかじったことがございます。また「実践」を重んずるということも。
もちろん信仰するという内なるそれが即ち「実践」ということでもあるのでしょうが、こう考えてはいかがでしょうか。
たとえば、このサイトでは回答を寄せてくれた相手に対して、お礼を述べるというのが基本的なマナーとされていますね。まして、その回答が質問者にとって有意義なものであれば、なおの事、心込めて、お礼を述べようと普通はしますでしょう。しかし、それは決して強制されてはおりません。強制では意味がない、やはり心からのものが望ましい。
これと似たようなことではないのでしょうか。
経緯はどうあれ、そして「神」或いは「主」呼び名はどうあれ偉大なる存在、大いなるおかたが自分に呼びかけてくだすった。
それに対して、どうして無言でいることができようか。その有り難さに思わず返事をせずにはいられない。
その返事に代えて「洗礼」を受けるというのが「主」への証の行為とはならないのでしょうか。つまり「主」へのマナーとしての返礼を「実践」するということ。それを「主」が、お喜びなさるというのであれば、せずにいられましょうか。
もちろん形式に過ぎないものであれば無意味でしょう、そもそも神は人が強制されて御自分に従うことを望まなかったと聞いております。「主」に対する心からの返答としての行いであれば、これは真心の発露、「主」にとって最も喜ばしい御馳走ではないのでしょうか。
しかし、このサイトの「お礼」ではありませんが、強制はなさらない、いや強制されての返事など「主」は、お喜びなさらないだろうと思えますが、いかがでしょうか?
いずれにせよ「主」は洗礼を受けられないことで貴方を責めたりはなさらないと思えますが、御返事を声に出すという「実践」がないことを、お寂しく感じられるのかもしれませんね。
でも迷いのなかで気乗りしないままに洗礼を受けられるというのも「主」の御心にかなうことだとも思えないのですが。。。
できるだけ各方面からのお話も仕入れ、いろんな角度で御考えになって、心ゆくまで御思案なさってから御決めになっても宜しいのでは?少なくとも人に言われてアタフタと洗礼を受けられるくらいなら、納得がいくのを、お待ちになっても、「主」は御許しくださるんじゃないでしょうか。貴方が洗礼をお受けになることを御決心なされたその瞬間こそ「主」から許可が下された、ということなのかもしれません。
但し、もしかしたら自分は「主」の呼びかけに対して声を出さずに頷くのみにとどまっているような姿であるのかもしれない、ということを御考えの片隅に置かれておいては?

さぞや、とんだ的外れを申し上げたことでしょうが御質問者様、並びにクリスチャンのかたがたには、どうぞ御寛恕のほどを。
飽くまで、ひとつの考えかたとして御笑納くださいませ。
御心平安でいらっしゃいますように。
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この回答へのお礼

寛容 寛容なる助言 まさにこの言葉どおりの回答をありがたく受け取りました。

一つ前のANo12へのお応えにも述べたのですが 洗礼をと思ったことは 二回あったわけです。

アウグスティヌスの《三位一体論》を読んでいて――それと格闘していて――途中で あっ おれはこの神なら信じているということになりました。少し時間をおいたあと 教会を訪ねなければならないとも考えました。これは 漠然とした考えです。

近くの教会の門の前で ひととおり考えをまとめ直していると こう思いました。もし洗礼が必要なら そのことを知らせてくれる誰かに必ず会うだろう・必要の理由も知ることになるだろうと。

その後 放っておいたあと 近所の《キリストの教会》派の牧師さんから 勧めを受けて あらためて考えたところ 特に理由はないようだと結論づけました。カトリックのほうでは はっきりと 受洗してもしなくても どちらでもよいとのことでした。

今回は 三回目に考えたのですが はっきりさせたいという意図でした。そのかたわらで わたしの思想としての考えは やはり起き上がって来てしまいました。そのほうが 勝っています。

十字架じょうのイエスの脇にいて かれから おまえは今日わたしといっしょに楽園にいるのだと言われた強盗のようであればよいと思います。

お礼日時:2007/05/22 07:20

 プロテスタントのクリスチャンです。



 洗礼について、いろいろな意見が出されていますが、あまり指摘されていないと感じた点を一つ。

 洗礼はサクラメント(カトリックでは秘跡、プロテスタントでは聖礼典と訳します)の一つであり、キリスト教においてはカトリックでもプロテスタントのほとんどの教派にあっても「教会のわざ」とされています。もし聖書を読んでキリスト教に共感したからといって、自分で洗礼に真似た儀式を行ったとしても、教会のわざとして行われていない洗礼(自己洗礼)は全く無効です。質問者様は「水の洗礼を受けていない自称のキリスト者」と書かれていますので、教会における洗礼を受けていないのではないかと推測しました。

 この議論においては、洗礼の意義を考えるだけではなく、教会とは何かという神学的な問題をも孕んでいます。つまり洗礼を救いの証とだけ捉えるのでは不十分であり、教会について、特に単なる人間の集団・組織という意味での教会ではなく、使徒信条にある「聖なる公同の教会」、信仰共同体という意味での教会、(カトリック的には)使徒性を継承する教会、そうした教会の意味において洗礼や聖餐というサクラメントを考える必要があると思います。これについて一番手っ取り早い解決方法は、教会に通ってみて牧師や神父に聞いてみることですね。(推測ですが)教会で礼拝も守った事のない方がクリスチャンですと主張しても、あまり信憑性はないと思われます。
(推測した内容が事実と違ったらごめんなさい)

この回答への補足

回答をありがとうございます。

サクラメントの問題を指摘いただきました。わたしも 気になっていました。ANo10へのお応えで 少し触れることができました。

結論としましては 組織や集まりのない透明の《教会》を想定します。(このように 自分の主張をもろに述べるかたちになって来てしまったのですが ご容赦あれかし)。

洗礼は不要である――つまりすでに 去って行ったイエスが 聖霊をあらたに贈った時点で その霊による洗礼が すべての人に与えられた――つまり サクラメントも不要になっていた――もしくは こう言ってよければ すべての人に このサクラメントを神は施した という想定が伴なっています。

とは言うものの 《教会とは何かという神学的な問題》については わかりませんので さらに教えを乞いたいと存じます。

とは言うのですが 一度 洗礼が必要ではないかという恐れと焦りを持って 教会を訪ねたことがあります。近所の教会で上智大学系のカトリックと 復興運動(キリストの教会)のプロテスタントとです。

後者は 熱心に受洗を勧めました。ただ 洗礼は すでに恩恵を受けたあとその感謝の意を表わすためであると言います。そういうかたちで 必須のものなのだと。

前者では 週一回手ほどきを受けて二ヶ月目に入ったころ止めることになりました。何で来たのだ?と言います。アウグスティヌスをそれだけ知っていて 何で来たのだという意味です。洗礼は 受けても受けなくてもよいのだよとのことでした。

言いかえると わたしが 洗礼を受けていない・受けないというのは この信仰への導き手であるアウグスティヌスに逆らっていることになります。ですから 《水も霊もどちらも大事だよ》と言うわけですから 一度 門をたたいたわけでした。その後 最近 このことをさらに明らかにする必要があると思って 質問したのでした。

サクラメントの一つとして そもそも洗礼を儀式・制度として イエスが始めたのだと思います。その心と意志と愛とは 変わっていないけれど 人間が(特にローマ教会が) 台無しにしてしまった。局面は変わったと考えます。現代は わづか二日(二千年)経ったところです。

エクレシアは 宗教に関係のない共同自治のあり方にかかわっているのだと考えます。市町村議会です。国を超えて 世界のこのムラの連帯が もしあえて言うとすれば サクラメントの実現になるでしょう。そして 《〈主を知れ〉と言って教える》ことはないわけです。

放談ひらにご容赦のほどを。

補足日時:2007/05/22 06:53
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ここで議論すること自体間違っていると思います


神と信仰者の間の契約ですからね。信じて受けるならそれが信仰でしょう。しかし信じず受けても意味がないと言うこと
洗礼を受ける受けないという結果的な見かたではなく
信仰者として歩んでいるのか?常にここをスポットに当てていく
そうしないと洗礼をうけさえすればいいという感じにも思えますね。

僕はもともと仏教徒でなんか知らないが心が満たされず自殺しようと思っていたときがあった。たまたま公園に行き クリスチャンの家族と出会い そこでまだイエスとは何か?を知らず 聖書を読んで
生きることあるんだ!人生やるんだことがあるんだ!不思議な経験
をした人間です。

私は神とつながっているならそこに聖霊がいてくださり、そこに
もうバブテスマを授かっているという事を言いたい
つまり洗礼というのは通過点であるだけで 人生の中で色々な試練を乗り越えていく事が本当の意味でのクリスチャンだと思います

聖書の捕らえ方は様々
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした

この場面では洗礼は施していないと思われます

後もう一つコリント第一
わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがないと言い切っています
もし本当に大切ならすべての人に洗礼を施していると思いますが・・・

他人と自分との関係じゃなく、自分と神様との関係
洗礼を受けたなら受けたでいいし、受けないなら受けないで別にいいと思います。すべてに時がありますからね

福音を知ることが目的 死んだ後天国にいけるという証印をおしてくださだっていると言うことが大切で 洗礼は重要じゃないと思いますよ
受けた受けないと言うより信じた。というのが本来の信仰じゃないかな

すべてを主に委ねること、これも大切でしょうね

(信じているという事で書いています。信じていないならこの文章は意味がありませんのでご承知ください)

この回答への補足

《私は神とつながっているならそこに聖霊がいてくださり、そこに もうバブテスマを授かっているという事を言いたい》というのが そもそも わたくしのこの質問にあたっての趣旨でもあったものです。よくぞ言ってくださいました。

《つまり洗礼というのは通過点であるだけで 人生の中で色々な試練を乗り越えていく事が本当の意味でのクリスチャンだと思います》と同じく受け取っています。

あるいはもっと過激かも知れません。つまり《洗礼というのは通過点であるだけで》すらなく すでに 聖霊による洗礼は イエスの出現のあと すべての人に成就しているとさえ思っています。この点は 上の#9および#10でのわたしの文章を よろしかったら 読んでいただければさいわいです。

なお ひとこと多い天邪鬼のごとく述べるとしますと 《死んだ後天国にいけるという証印》については 何ら考えていません。わたしは 死んだあとのことなど いっさい考えていません。

復活についてでしたら 《真理がすべてにおいて真理となる》ことを念頭においています。死後は論外としています。過激でしょうか。

補足日時:2007/05/21 23:32
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No8です。

お礼拝見しました。まずお絞りになられた一点につき私の考えを書きます。
洗礼は二度受けても永遠の命を二つ得る訳ではありません。ですから、既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。(もし、あなたがそれだ、と言うのであればあなたの内に既に答えがあるのですから、私の意見は無駄ですが)

以下は洗礼は不要か、についての考えです
No7氏への補足で、イエスもヨハネから洗礼を受けた事をご存知だとお書きですね。神の子であるキリストすら洗礼をお受けになったのに、どうしてあなたには洗礼の必要が無いのでしょうか?

前回も書きましたが、洗礼は恵みです。神のためにあるのではなく、人のために用意されているのです。
「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)とのイエスの約束があるのですから、私はその約束を信じます。が「信じた者は洗礼を受けなくても良い」との言葉は私には見つけられませんでした。
ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って全てを受け入れました。
あなたの前には神の救いと恵みの約束があるのに、自分の解釈で一つは受け、一つは受けない、とえり好みしていますが・・・恵みですら選ぶのであれば、災いの時にはどうなさるのでしょうか。

私からの答えは、「あなたが信じているならば、洗礼を受ける事が神の御心に適うことだ」です。
マタイ7:21「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」
この一節は、多くのキリスト者にとって重い警句だとは思いませんか?
もう一度、祈ります。
願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように。
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen

この回答への補足

#9amaguappaさんへのお応えにかかりきりで 遅くなりました。

そこでも述べることになったのですが つまりエレミヤ書31:31以降の新しい契約のことに関してですが この情況は イエスの出現によって 成就したとわたしは捉えています。その点は frisk_blue_loveさんは いかがお考えなのでしょう?

《わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す》とあります。すでに 洗礼も救いも恵みも 石の板にではなく 心に記されてあるのではないでしょうか。

《既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。》という事態は すべての人に成就しているというのが わたしの信仰の立ち場なのです。

いまも ちょっぴりは 勇み足ではないかとの恐れが感じられますが この勇み足の感覚が大きかったので この質問をしてみようと考えたのだと思います。いま述べた立ち場じたいは 前からありました。

たとえば 別のかたちで表現するなら 《人は 一人ひとりが キリスト( a christ )である》と言えると思います。これからは 言っていくべきだと思っています。
**
マルコ16:16は これまで 心に留めていなかったことに気づきました。《信じて しかも 洗礼を受けない者》についても 明示して欲しかったと言うのは 茶化すことになります。

ただ そのあとの《信じない者は滅びの宣告を受ける》という文句は わたしには 抵抗があります。組織の伸張のために 威勢のいい言葉を並べているように感じます。
***
洗礼者ヨハネが 旧約の文句にもとづくかたちで イエスへの橋渡しをしました。かれは 洗礼を施すということをしていました。この継承の筋において 洗礼は ひとつの制度として 用いられたのだと考えます。

イエスの弟子からの授洗の系譜が肝要であるというとき おそらく ローマ教会の腐敗は その継承の正統性をも滅ぼすまでの事態に至ったのではないかと考えます。魔女や十字軍は 人の意志を無視して殺すという行為を正当化しており そこでは イエスからの系譜が途絶えたと思われます。

洗礼の儀式が 秘蹟ではなくなったように思われます。

謹んで申し述べました。この述懐が frisk_blue_loveさんにとって 躓きの石に むしろ なったほうが よいと言うべきでしょうか・・・よくわかりませんが ヨブをも思っておられるので 心配はしておりません。

補足日時:2007/05/21 23:13
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ヘルマン・ベックやルドルフ・シュタイナーが設立にかかわった「ディ・クリステンゲマインシャフト」のもつ独特の概念が、「キリスト者」でしょうね。



キリスト者、とご自分を呼んでいらっしゃるので、このあたりを思い浮かべるわけですが。

この思想は、キリスト教の解釈を現代神秘思想によって強化したもので、非常に自由な、学究的な傾向がありますが、
それでも、聖別されることは重要なファクターであるとおもわれます。
祝福されたか否か、というのは根源的な資格審査のように見受けられます。
聖水によって聖別されることをはしょるというのは、私の知る限りでは考えられません。

神学には、人間の自由意志についての問いが含まれます。
自由意志はほとんど無いものでありながら、問うことの中に、わずかにあります。じつにせつないものです。

これこれは神の意志で、これこれは人の意志、という区分けは、出来ないはずですが、どのようにその区別にいたったか、もう一度ご自分の中で原因を突き止めてみてはいかがでしょうか。

人の解釈、人の口伝、人の説教と、人を介してあなたが導かれているのは確かですが、
人のすることの中にしか、神の意志は形にならないことも確かでしょう。

問題は、いつも自分の意志と、神の意志という二極であって、
人一般の意志と自分とのすりあわせではないですね。
人がやることの過ちや、人の行いへの疑問は、蚊帳の外にあるものです。
あなたがキリスト者であろうとするなら、
そこに神の意志がないと思うときは、それは人のせいではなく、あなたの自由な意志がそう決定している、ということです。

念のため付け加えますと、私は特定の宗教は持っていません。思想史は専門ですが、聖書の解釈は専門ではありません。
キリスト教の立場からのアドヴァイスはできませんが、神学的には私は上記のように考えます。

この回答への補足

神学を神学として学んだことなく ただアウグスティヌスの《三位一体論》を中沢宣夫訳にて読んだのみといったところのわたしが amaguappaさんのこの回答に対して お礼を述べることすら 躊躇されますが 質問とその主題ははっきりしていますので その主旨のもとに お応えしてまいります。

§1 キリスト者というのは キリスト・イエスが指し示した神を信じる者という意味で用いています。クリスチャンのことですが それだと 幅広い通常の意味あいがあって わたし自身のあり方と違うように感じるので あまり使いません。ただそれだけです。ほかに理由はありません。

§2 《聖別されることは重要なファクターである》という命題ですが この問題からして 出発点のあり方がちがっていると申し上げざるを得ません。

エレミヤ書31:31以降では 《わたし(=主)はかれら(=人びと)の悪を赦し ふたたびかれらの罪に心を留めることはない》とあります。もしこの文句にもとづくなら もはや――イエスの出現以降は――《聖別》はそもそも要らないというのが わたしの立ち場なのです。

ですから《祝福されたか否か というの〔も〕根源的な資格審査》ではなくなっています。ですから《聖水によって聖別されることを端折る》ことは 当然のこととして帰結します。

§3 自由意志の問題については 通りすがりに議論して済んだということには出来ないと考えます。

箇条書きのごとくに 問題点や課題を記します。

§3-1 自由意志の存在をどのように捉えることができるか。

《そのとき人びとは〈主を知れ〉と言って教えることはない》(エレミヤ)ということが そのように《人のすることの中に 神の意志が形になる》ことだと もし捉えるとした場合 その場合には 仮りに人が《主を知れ》と言って教えたとすれば その行為は おそらく神の意志に反していて 人間の自由意志をはたらかせたものである と認識するというものです。けれども 神の意志に従う場合も 自由意志のはたらきはあると わたしは考えています。

§3-2 《自分の意志と 神の意志という二極》とおっしゃるようには わたしは捉えていません。

《わたしは自分の意志ではなく わたしを遣わした方の意志をおこなおうとする》(ヨハネ5:30)と言うのは キリスト(神の貌)としてのイエス(人間)です。

わたしたち人間は このキリスト・イエスに倣って生きるのみです。しかも 人間としての自分の意志の自由な選択があるところから出発しているはづです。この《倣う》というとき 神の意志(聖霊)がはたらきたまうならば わたしたちも なにがしか イエスに似る者となるでしょう。

《極》は 神の一極です。それと同じ意味での極にはなれないと知っていて その神の極に甘え続けているのが わたしです。人生は それだけです。ちゃちな自由意志が そこにあるようです。

§3-3 他者との関係においては どうか。

《人一般の意志と自分とのすりあわせ》が むしろ 起こります。

前記の《ちゃちな自由意志》が それでも 批判を受けるとき――つまりたとえば 水の洗礼を受けていないから おまえはキリスト者ではないというふうな批判です そのときには―― 他者との関係が 具体的に特定されて・しかもこのとき既に 一般的な問題ともなって=さらにつまりは あたかも神の意志とかかわるかのようにして 起きて来ます。

この事態を分析してみましょう。他者は 言葉の上だけとしても 明らかに《神の意志》のありかを問題としています。わたしはこのとき むしろ わがままから 神なる一極に固着し得ないで ちゃちな自由意志を振り回そうとする状態にあったわけです。そういう場合があります。

上に挙げた具体的な例に即しては こうです。《水の洗礼など いまは何も考えていない・分からない だからその点で 他者がどう批判しようとかまわない》と思い勝ちになったとき 批判がくれば 《すりあわせ》に入ろうとします。良いか良くないかを別にしてです。

要は 他者が言う言葉のなかに 神の意志――それは わたしにとっての唯一の極です――にかかわる〔と思われる〕ことがらがある場合に 反応するということのようです。

《人の行ないへの疑問》は 明らかに《蚊帳の外》にではなく 内にあると捉えるようです。《人がやることの過ち》に対しては はっきりしません。決まっていません。外か内かがです。

いかがでしょうか。謹んで述べました。一区切り打ちます。

補足日時:2007/05/21 22:28
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私は小児洗礼を受けた身です。

以下はキリスト教徒向けの内容になります。

愛があれば結婚なんてしなくたって幸せになれる・・・確かに結婚という形式にこだわらなくても、愛を全うする事はできるでしょう。
しかし、結婚という社会的に認められた形式を採択しなかった場合、様々な不利益を甘受せねばなりません。
産まれた子は婚外子(非嫡出)となりますし、世間的にも同棲と見られ、親戚からも受け入れられません・・・

洗礼を受けなくても信仰を全うする事はできるでしょう。しかし、信仰に生きる上での不利益を我慢せねばなりません。その内で最たるものは聖餐式に参加する資格が得られない事です。
キリストを信じていると公言するならば、キリストが「あなた」のために設けて下さった儀式をどうして蔑ろにできましょうか?

では、洗礼とは何でしょうか?
一言で言えば恵みです、神が救いの約束を与えて下さる、という恵みです。
イエスを主と信じるのであれば、この恵みはもらう、この恵みはいらない、と選り好みする事は正しいことだとは思えません。それとも、人の考えは神より優れているのでしょうか?違いますよね^^

神は一つであるならば、洗礼も一つです。
だから、人から来る洗礼などは無く「イエス=キリストの名による洗礼」であれば全て神から来るのですよ。
あなたは、幸いにして信仰を持った、キリストを聖書を通じて知る事ができた、しかし・・・不安だからここで質問した。違いますか?

他の方へのお礼を拝見すれば、あなたが真っ当な人である事は分かります。だから、「不安に思い、迷うくらいなら洗礼を受けましょう」と言いたいのです。そうすれば、キリストが代わりにあなたの重荷を背負って下さるのですからね。

P.S.エキセントリックな回答者がいますが、その人に対して「私も」常々苦々しく思っていました。デタラメばっかり書きやがって・・・ってね。しかし「主よ、彼をお許しください。彼は何を書いているのか分かっていないのですから」と祈ることにしております。

来週の日曜日はペンテコステです。あなたが、主にあって兄弟姉妹となり、新しい信仰生活を始めるのに相応しい日だと思いますが如何?

繰り返します、洗礼を受けずとも救われる人は救われるでしょう。
しかし、信じて洗礼を受けるものは救われます、と聖書にありますよ。
そこには他の条件は何も書いてありません、献金を何円以上した者とか殉教した者とか、生涯愛に満ちた技しかしなかった者とか、ではないのです。ただ、「信じて」「洗礼を受ける」事が書かれているだけです。
だから、信じているならば、洗礼を受ける事は神の意思に適う事だと思います。

願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように、
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen
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この回答へのお礼

誰かが言っていたと思いますが 《もぐり》で《無免許運転》をしているわたしですが それでも キリスト者であると認めていただけるのでしたら キリスト者どうしとして frisk_blue_loveさんとお話しすることができるかも分かりません。

と言っても たしかにおっしゃるとおり 一番のことは キリストとその神の声に耳を傾けることになるわけですから 論理的な議論にしても この質問の場をとおしての少しでもの感覚的な接触にしても 問題は 腑に落ちるような感受性のあり方なり その後の決断のありかだと思われます。

ほんとうは 人間としての経験的な歴史も それとして絡んでいると思われ そのことをお伝えしようと一たんは思いましたが そうとう長くなりそうなので 今回は そうではなく けっきょく 議論を中心とした対話のかたちで お応えをお返しします。

一点にしぼりました。
まづ引用です。《ペテロは言った。〈・・・イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》(使徒行伝2:38-39)

このとき もし《すでに 〈罪が赦されている〉また〈恩恵も与えられている〉》としたら どうなるのでしょう?いかがでしょう?

お礼日時:2007/05/21 14:14

No.1です。




>どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。

文章から焦りが感じられますが、質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?

「どっちか早く知りたい。早く 早く 早く」と決定してもらいたがっているようにお見受けします。

何故、人間に聞かず神に聞かないのか、キリスト教徒ではない私には、その理由がわからない。
神は信じられないのでしょうか?
では、何故信じられないのに信者でいるのでしょうか?


神を信じているのなら、神に聞けばいいわけですよね。
それとも、信じているのにもかかわらず、全く聞えないのでしょうか?
それで洗礼を受けないから聞えないとお考えなのでしょうか?


でしたら消去法として、洗礼を受ければ神の声が聞えるかどうか実際に受けてみればいいだけのことではないのでしょうか。


洗礼後も聞えなければ、洗礼をやったとしても天国になどいけないと身をもって立証できるわけです。

逆に洗礼を受けたことで神の声が聞えるようになったのであれば、もう質問を取り下げてもいいでしょう。
後は神があなたを天国に導くために話しかけてくるわけなので。




>《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。

一番の問題は、「その言葉はヘブル語に戻すと、どういう意味か」ですね。
「はっきり言っておく」は英語ならand、ヘブル語ならアメンじゃないかと思います。
(i'll tell you じゃない。)
たとえ話をしたあと、出てくる接続語ですよね。
慣習で、たとえ話をしたあと、アメンと言って、その前と同じ内容を言う。


で、水とはなにか、聖霊とは本来ヘブライ語では何を意味していたのか、なのですが、、、、

聖書作家は、何を言いたかったのでしょう。


私が知っていることの一つに、水は女性、霊は男性を意味していた
とある。
で、イメージするのが性交です。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」
確かに、、、人は性交なしには誕生しませんので。

ではイエスはセックスについての教えを説いていたのか?
これは洗礼が不可欠だと言っていたのではなく、セックスが不可欠で、セックスによって快楽を得る つまり天国に行くってことで、これが練成になるってことで、これが後に立川流真言宗などにも現れているわけで、カバラでもあるわけですよね。


水に沈めれば、天国に行けるなどイエスは言ってはいない。


それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?
縛るためですよね。
人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。
人々を統率するための手段として用いた。


イエスは弟子たちの足を洗いましたよね。
「足を洗う」は、日本語にもありますよね。
「ヤクザから足を洗う」など悪いことをやめる決意をしたとき、そういいます。
ではヤクザから足を洗った人は天国にみんな行けるのか?
日本にはキリスト教のような天国って概念が無い。

足だけじゃなく、他の部分も とせがみましたが、、、、
足はセックス(ペニス)の比喩でも用いられた。

難解ですねぇ・・・・
イエスが弟子のチンコを洗ったってなってしまいます。

が、古代では聖王はチンコに油を塗って聖婚に望んだので、その前段階としてチンコを清める儀式をしたというのはありえそうです。

こうして神との結婚の儀式においてチンコに油を塗って、神の地上の体現者である巫女と交わるという風習というか儀式というか秘儀があった。
(ダ・ビンチ・コードでも祖父が儀式に参加していえるところを、ヒロインが覗きみてしまって、それ以降 祖父と絶縁したとして描かれていますよね。現代の概念では祖父たちの儀式の意味を理解できない。)



このように背景を知ると、一筋縄じゃいかないので、明確に「洗礼を受けると、天国に行ける。いけない。」といえないわけです。
だってそもそのも古代の概念が今とは違っているのだから。


現代の概念を持って古代の仕来たり・風習・儀式・秘儀の正当性を理解しようとしても、無理があると思うんです。


で、最後に、イエスが言ったとされる天の国とは一体なんなのか。
私の推理では空に上にあるのではない。
地上にあった。
死海のほとりの砂漠の中にあった。
クムラン宗団の拠点。 これが天の国のこと。

そこには天使の添え名を持つ人もいたし、アブラハムの添え名を持つ人もいた。

彼らは滑らかなる者、口当たりの良い言葉を追い求めるもの、口先は立派で壇上に担がれてのぼり偉そうに説教はするが実践しないもの、つまり足の萎えた祭祀を批判していた。
滑らかなる者とはクムラン宗団の隠語で、パリサイ派のこと。

(神殿では政治的支配をめぐって、サドカイ派とパリサイ派が権力争いをしていたわけですね。)

そして二人のメシアを立た。
一人はアロンの血筋を引くヨハネだと思われます。
彼が外に出た。
砂漠でクムランの思想を語りだしたわけです。
彼の説教により、クムラン つまり天国に入ろうとする人たちが入信したと思えます。
規定がありました。
多数者 つまり12人の幹部がいた。
この幹部は全員レビ人。 
ママドトのツァドクの血を引く(つまり霊を受け継ぐ)直系の子孫たち。

つまり霊とはツァドクの血統ってことじゃないかと。


では、水は?
マリアの身元が不明なんです。
従姉妹のエリザベスがアロン家の血筋なので、マリアもアロン家の血筋か?
私の分析ではアロン家しか水の血筋とされないと思えます。母ヨハネにも天使の添え名を持つガブリエルだったか忘れましたが、現れていますので、この血統はツァドクで、マリアがアロン家だとすると、ツァドク家の者とアロン家の者との間に生まれた子が、天国 つまりクムランで育てられ、地上に降りてきて、人々に天使や神の言葉を授けるって考えだったんじゃないかと。

クムランの祭祀たちは、エルサレムの神殿に巣くう政治的な見解によってなめらかなる者ではなく、とことん神学を究めようとしていた集団なので。


どうでしょう?
私の分析による天の国、水、霊。

このほうが現実的だと思えません?

哲学は非現実的なことを空想していたら、そりゃ 哲学じゃなくなり夢想文学になっちゃいます。
あくまで実際に起こった背景を参考にしながら紐解かないと。


尚、新約聖書は4世紀より前の写本は見つかっていない。
それまでに何度も書き換えられたと思えるんですね。
もともと無かった話を追加してさもあったかのようにしているフシがある。
もともとあった話か、教会が加筆したか考えるには、外典やその他の歴史的資料を参考にしてみるといいらしいです。


ピラトなど新約聖書のような人物じゃなかったので、イエスの裁判のくだりは、後の人がもともとあったものに追加したと思えます。



「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」がもし 洗礼を教会の独占業務だとしたいためにたくみに挿入した架空のものだとしたら、、、。
その行為によりどれだけ多くの信者が彷徨うことになったか。
迷惑な霊(ロゴス)です。

この回答への補足

《何故、人間に聞かず神に聞かないのか》という意味のことを そうではないと主張する人びとに向けて 質問しています。

人間のあいだで《水による洗礼を通らなければ キリスト者ではない》と決められているようなので 尋ねてみたいと思っています。

ですから 《質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?》というのとは 微妙にちがいます。わたし自身は すでに 神の子らの中に入るように導かれました。ただ そのような自称だけではいけないという考えが 圧倒的に強くありますので 訊いています。そして ひょっとすると わたしの信仰の受け取りがまちがっているかも分かりません。

イエスは おっしゃるとおり 《弟子たちの――チンコではなく――足を洗いました》。それは 相手に尋ねつつ 相手のこころを推し測りつつ 相手の言おうとするところをていねいに聞き取ろうという意味が含まれています。

迷惑なロゴスは無用に願います。

《それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?――縛るためですよね。》とお考えなら 《水の洗礼は必要不可欠ではない》という結論です。そのことをおしえてください。

ただ この《人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。》というのは 根拠が弱いと思われます。そのように解釈しただけのものです。イエスが自身 洗礼を受けていますから。

ANo4へのお礼の欄にも述べましたが 《水を用いての洗礼は キリストの神の権能によって 人の手でおこなわれる》のだと捉えられます。すなわち《聖霊による洗礼》です。むろんそれは 神秘であり 要するに 経験合理性では わけの分からないことがらです。いづれにしても その霊による洗いが 核となって含まれます。――それでは 水による洗礼をつねに伴なわなければ いけないものか これが いまの問いの中味です。いかがでしょうか。

《水は女性、霊は男性を意味していた》《霊とはツァドクの血統ってことじゃないか》というように 《霊》を 人間の理性でわかるように解釈するのは 自由ですが キリスト信仰とは 似ても似つかない哲学ですと申し上げておきます。

人間にはわけの分からないゆえにそのように《霊》という言葉を用いるというだけのものなのです。そのようにして いわば《神》を代理して表わします。 

むろん《神》と言っても それも代理表現です。《神》という文字が神でもなければ 《 kami 》という発音が神でもない。ですから 《無神》と言っても それが 代理表現であると認め合われれば それでよいわけです。アッラーと言っても ブッダと言っても 空なり無なりと言っても すべては代理表現に過ぎません。

ただ このような《神 あるいは 絶対者》の代理表現にすぎないものを わざわざこの経験領域におけるものごとに当てはめるというのは 哲学として自由ですが それは わたしたちのキリスト信仰もしくは信仰一般とも 似ても似つかないしろものです。いかがでしょうか。

もっとも たしかに あたかも指の先か何かでそうっと触れられたといったような出来事として 我れは神を見たりという体験を持つという人もいるかも知れません。すべては 主観としての出来事です。霊とはそういう意味です。しかも 《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》(マタイ5:8)と聞いているので この単なる主観的な体験が 無下に 棄て去られるとは思われないといったところです。

わたしは kigurumi さんに 説教をし 宣教をしているみたいですね。くれぐれも あしからず。

補足日時:2007/05/21 10:18
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