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特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。)

むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。

解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

A 回答 (46件中21~30件)

9,15です。

丁寧なお返事をいただき恐縮に存じます。
3度書き込むことになろうとは思いませんでした。何かのご縁ということでしょう。
まず誰も傷つけないことが第一であるべきなのですが、宗教というのは傷つく人をかならず生む。このことで、私はこういう質問を避けたいわけでしたが、ちょっと関わった以上、しかたがありません。

アウグスティヌスは間違いなく偉大な思想家で、アウグスティヌスを知るがゆえに教会を追い返されたり、白眼視されたりするあなたの境遇は、残念というか、無念のほかありません。きっとあなたはグノーシスに通じるところがおありなのでしょう。

キリスト教のコミュニティをたいせつに、と申しあげたのは、おわかりのとおりです。コミュニティがキリスト教の本質であるからです。

ほかのキリスト教徒が見ているこの場所で言っても少しも楽しくないことを言いますので、できれば避けたいくらいですが、
一神教は紀元前3000年紀に東方からエジプトへ伝わり、多神教によってまつりごとが行われている社会の陰で、一神教の研究=神学がはじまりました。
一神教が邪悪な物とみなされた時代は長いですが、とほうもなく偉大な思想の宗教であることは確かです。
ご承知のとおり、モーセが紀元前14世紀ごろ、あとキリスト生誕(紀元前4世紀くらい)まで同じくらいの年月がかかります。

もともとの多神教、それから古代エジプトから古代ギリシャまで政治の舞台から逃れて隠隠とつながる神学、そして旧約の世界が、新約の世紀に同時に雪崩れ込みますから、イスラムやスラヴから入ってくるものの大きさはキリスト教からみれば脅威です。神学は、キリスト教の研究を兼ねることでなかばそれを隠れ蓑に、なかばそれを本業として、続くことになります。唯一神の解釈の問題ですから、秘教を吸収したことは、キリスト教の財産となります。
古代の宗教は、多産であることをよろこびとする自然の摂理にかなったものが多いのですが、多産性のもつセックスの神聖さは、キリスト教からは慎重にとりのぞかれました。月の女神も、豚やウサギも、悪魔のそばに追いやられることになります。割礼も、子供がたくさん作れる性器を礼賛するものでしたが、キリスト教にとっては意味がありません。

言語の境界地域は、異端審問が多く開かれます。この地域で翻訳が行われるために、書物からはほんとうに削ぎ落とされていくものが多いのです。
旧約を継いでいながら、旧約のもっていた自然と人間の交わりののびのびした深さもまた、大きく削がれていきます。

キリスト教は、はじめからコミュニティです。みずから異教と厳しく区別し、神々と王が親戚づきあいでもしていたかのようなまつりごとを、コミュニティであることによって変換させた宗教です。
多産崇拝や自然の畏怖を排したことは、特異性をめだたせる目印となっています。ほかにそのような宗教は皆無なのです。
コミュニティであることは、国家の政治に利用できるということにもなりました。
これを腐敗と感じるかどうか、私にはなんとも言えません。

苦しんでおられるとおり、コミュニティに、入るか、入らぬか、である以上、それはどういう意味なのか、何の契約をもって入ったことになるのか、というのは肝心なところと思います。
コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直したものが、キリスト教の中に宗派を生んでいると思います。
最初に述べたキリスト者共同体もそうでしょう。
グノーシスの集会が日本にあるかどうか存じませんが、神と自我の対峙を見つめるだけならば、グノーシスの思想はお心にかなうところがあるのではありませんか。すすめるわけではありませんが。
ただ、どこでもコミュニティであることにかわりはない。師を持ち、仲間があるということの幸福は、地上の幸福にすぎません。
お気落としのなきよう。。。

この回答への補足

《コミュニティがキリスト教の本質である。》《どこでもコミュニティであることにかわりはない。》

この一つの事項をめぐって 思うところを述べて お礼に代えさせていただきます。

(1)信徒の共同体ないし宗教組織と そして信仰とは 直接には関係がないと思われます。

(2)もし教義あるいは組織上のつながりのほかに 地縁や血縁もそのコミュニティの絆を深くしているとするならば むしろこの要素に関しては 自然のつながり・自然的な要素を残しているとも考えられます。いいか良くないかは にわかには判定しかねますが。

(3)もし利害関係によらずに紐帯(旧いことばですね)を強くしているということであるならば それが 何によって成り立っているかで 判定が決まります。建て前を別として もし信仰が  二の次ということになっているとすれば・・・。

(4)仮りにの話としては キリスト教コミュニティは 《聖書ないしキリスト・イエス》との関わりにおいては 基本的に言って 意味がないという可能性もあることになります。

(5)このコミュニティが 政治にかかわる あるいは 利用されるという〔隠れた?〕実態があるということでしょうか。

(6)わたしなら 《コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直》すことはしないと思います。そうではなくて ローマ教会を初めとして このコミュニティは すべからく ご破産でねがいましてはで新しい出発を模索していかなければいけないと言い続けると思います。


このコミュニティにかんして 実感はありません。また おっしゃっていることを曲げて解釈しているかも分かりません。

ありがとうございました。

なお ボールがみなさんの側に行っているかとも思いますので もう少し時間をおいてこの質問は締めることにします。
前もって みなさん ありがとうございました。

ANo.24への補足欄で エルサレムの厩というのは ベツレヘムのでした。

補足日時:2007/05/25 16:00
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この回答へのお礼

ただいま 拝読しました。(夕食・散歩・テレビでした)。

ただちにお応えできそうにないので ひとこと 感謝とともにご挨拶をし あとは時間をいただいて 考えてまいりたいと思います。

《お気落としのなきよう》とおっしゃった意味がよくわからないありさまなのです。・・・

お礼日時:2007/05/24 21:27

No.14です。



私はキリスト教じゃないですが、西洋文学に触れるとどうしてもキリスト教の思想が基盤になっているので、本を読むほどにキリスト教についてちょっとは詳しくなってしまうんですね。

で、キリスト教の神の救いは<神から一方的に与えられるもの>だとキリスト教は言っていると理解しています。

違います?

洗礼を受けたとか、人間からしていいと思うことをやったから天国につれていってくださいと人間が交渉したら、「わかった 君の命令に従う」と神が人間の欲望に左右させるものではなく、人間がどうこうなど関係なく、一方的に救いは与えられるものである、とこのようにキリスト教は言っている、と私は認識しています。

ある人からすればひどいことをやった人でも、神が天国に連れていくと選んだら、天国に行くってわけですよ。
(ただし、イエスの天の国ってのは、現代人が言う雲の上とか異次元とかじゃなく、地上にあったあの集団の幹部のことを言っていたと思いますが、、、のちのちそれを知らない人たちが、雲の上にあるみたいなことをイエスが言っていたと誤解したと思います。)


>たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。

私の理解では、あなたが既にその質問をここでやっているという認識なのですが・・・・・・。
つまり あなたは今回水の洗礼の重要性について聞いていなどいないってことですか?
すいません、、、、てっきり聞いているのだと誤解してしまいました。

では、あなたの質問の本当のところはなんですか?
他の方とのやりとりをしているのを見ても、やはり 水の洗礼の重要性について、どうなのか知りたがっているとしか思えませんが、肝心のあなたは書きながら、そのことに関心は無い???
妙な現象ですね。
もぐもぐと盛んに食べている人が「私は食べることに関心など無い」と言っているようで、一体この人にとって食べるとは何のことなを指すのだろうかと疑問符が頭の上につきます。

1)について、
ヨハネ福音書の作者は神の子、人の子の区別がついていないユダヤ教をよく知らない、恐らくディアスポラしてヘレニズム文化に染まったユダヤ人。
もしくは、一般人も祭祀職をしていいんじゃないかという運動の推進者。



2)《イエスが弟子たちの足を洗った》のことで わたしが述べたのは わたし自身の解釈です。

なるほど、キリスト教の解釈ではなくあなたの解釈だったわけですね。



3)
>《イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・》(ヨハネ3:22~4:2)とあり

あ、、それ見落としていました。
で、ヨハネの福音書以外の福音書にその記述あります?
もともとはそういう話ではなかったのに、後の人が加筆したって可能性は???
洗礼を教義にして独占業務とするために。
疑り深くてすいません。


>(6)《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》にちなんで論じてある内容は 何かありそうだとは感じますが よく読み取れません。そういった部分もあるということも お伝えしておきます。

ええ、ありますよ。
翻訳ミスによりキリスト教の教義に間違いが沢山有るって事を暗に示したんです。
新約聖書に翻訳ミスがたくさんあり、その翻訳ミスの結果のものがキリスト教の教義においてもある。
イエスの言葉も歪められて伝えられることになってしまった。
その歪められたイエスの言葉をもって、人に洗礼をし説こうとするのだから、キリスト教はすごいなぁ・・・と思うんです。


そういえばヨハネでは「来るべき方は火でバプテスマする」と記述されていませんでしたっけ?

「私の任務は地に火をつけることである。それをわたしはやっている。地が燃え上がっている。わたしはすでに裁きの種をまき始めた。いつの日にか最後の審判があるだろう。しかし、わたしは裁きの日が来ることを望んでいない。その時は、わたしの再臨の時だが、人々はもうわたしを主として受け入れる機会は無い。わたしがどうしてそれを望もうか。私は地をバプティスマするよう、つまり地を裁くよう命じられている・・・・・」

作者は一体どこからこのような霊感を授かったのでしょうね。
この場合、バブティスマはイエスが受けるのではなく、イエスがやるってことですよね。
地上に火をつけている。
イメージとしては、クムランという天の国から地上にやってきて、滑らかなく者たち つまり 律法 律法といいながら、ちっとも実践していない祭祀たちを裁いているってわけで、神殿で大暴れしたりして、激しく批判したりした。
天使というか天使同士の激しい争いをイメージします。
でも、イエスを送り出した者たちは負けた。

光の子らと闇の子らの戦争として、イエスを送り出した集団は自分達を光の子だと思っていた。
光の子らは闇の子でもあるわけです。
2千年前の最終戦争。 いえ 宗教改革。すごいですねぇ・・・・。

ああ、ごめんなさい、火の洗礼の話になってしまいました。
失礼しました。

結局ですね、、、福音書って2千年ほどまえ何百ってあったんですよ。
それをたった4つにして本にして新約聖書ってものを作った人。
エイレナイオスたちなんですが、エイレナイオスはヨハネの福音書のみが真実を一番伝えているって思ったんですね。
これを基準に新約聖書を作ってほかを異端の書ってして焚書にしたんです。
つまり、新約聖書はエイレナイオスらが選んだ書物により成り立っている。
彼はイエスに会ったことはない。
その時代を生きてなどいない。
そのエイレナイオスがどうしてヨハネの福音書のみが信じられるとしたのかというと、彼の師匠はヨハネの弟子だったということを信じたから。だったと思います。

これまた質問の趣旨とは違ったでしょうけど まあ 参考までに。

結局 イエスって人が実在していて、本当はどんなことを言ったのか解明しないうちは、洗礼がうんたらって言っても仕方ないと思うんですね。
3人の人が関わって現在に伝わる新約聖書を作ったわけですが、新約聖書ができるに至る歴史を調べると、正義だったから勝ったんじゃなく、勝ったほうが正義となったってことで、、、、、
すさまじいオス同士の権力争いが見えてくるわけです。

もう猿山のボス争いと同じレベル。
こういうときこそ、消防車のホースで、闘争している猿同士に水をかけるといいと思うんですね。
途端に争いやめますから。
水の洗礼 効果テキメンです。

で、マリアの福音書では最も愛した弟子マリアをペトロは憎悪し嫉妬の炎をたぎらせた。と書かれている。
当然 都合が悪いので、この書物は異端として聖書には入っていませんね。

同じくトマスの福音書も異端として排除されましたが、水に関する重要なことが書かれています。
イエスの汲んだ水を飲むと、、、ってね。
問題はイエスの汲んだ水がどれなのか なんですよ。
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この回答へのお礼

《結局 イエスって人が実在していて、本当はどんなことを言ったのか解明しないうちは、洗礼がうんたらって言っても仕方ないと思うんですね。》

明確な立ち場を明らかにされました。ということは 一つまえのお応え欄に書いたのですが 《科学的に人間の能力のおよぶ限り 経験合理的に見て妥当な内容を把握したあと 決断する》という立ち場のことです。逆に言いかえると わたしの今の立ち場は 先に歩くという形です。すでに歩き始めているといった情況ですが。

この全資料の調査と研究 これについて述べて回答していただける限りで それらについて(むろん能力の限りでになりますが)お応えしてまいりたいと存じます。まづこのことをお伝えします。

これも一つ前に書いていますが 救いに関して認識されていることは そのとおりだと思います。人殺しをも 勝手に救い 自分の計画のために用いるという神の意志ですね。まあ 人間のほうも ずるをしたり あるいは その召命に最大限こたえていくという場合もあるでしょうが。

《たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。》と述べているのは 例として挙げています。同じ質問だったら たしかにおかしいです。

《神の子》という表現 特に差し支えないようでしたら 使ってまいります。そういえば《地の子》だとかいった表現あるいは社会問題がありましたね。いまは 措くとさせてもらいます。

福音書の加筆・勝手な編集その他聖書の成立事情等々の問題は 先に歩くか後で歩くかの問題として留意する〔のみとなりますが〕ということにさせていただきます。

火と霊とによる洗礼は 水の洗礼の問題にかかわっていると思っています。論点を いまのところ拡げるには 議論が煮詰まっていないように考えます。火も血も水も 霊と一致して 洗礼にかかわるといった内容で理解しているものですが。

留意・保留とした論点ではあるのですが触れますと トマスの福音書は 読んだ限りでは 信仰にとって――信仰にとってです――喫緊に重要なことはないように思えました。やはり異端だというのではなく 読まなくても 信仰は成立すると思っているという意味です。でも 重要な事項があるということでしょうか。

回答をありがとうございます。

お礼日時:2007/05/24 11:49

 肝心なことを言い忘れたので、つづけて投稿します。



 ヨハネの1・13の人の意志によらずというのは、聖書的には論争となりました。今もそうかもしれません。

 それはエペソ1・4の問題とからみます。「みまえにきよく傷のない者になるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び・・・」

 ここによると、救いは私たちによるではなく、実は神が創造の前から超越的な先見によって選んでいたというのです。ということは、私たちがどうこうすることが分かり、最終的に神が私たちが救われるように導くのだということになります。
 しかし、そうなると、疑問はでてきます。ということは選ばれていない人がどうあがいても、救われることはないということなのかということです。こういったことで反論が多く神学的にあったようです。救いとは私たち自身の意志によって、決定によってやるものなんじゃないか、自由意志の問題も指摘されます。こちらの立場が今のあなたの指摘です。

 ガイオン夫人だったかこう言いました。私にはこれが最も決定的な解釈だと考えています。

 救いのために1つの門を通るとします。そこを通るのは、私たちの意志です。しかし、その門を通った人がふと振り返ると、その門のところに「あなたは選ばれていた」という文字がある。

 実に説得的な言い方です。

 おまけですが、だいぶあなた様はアウグスティヌスがお好きなようで、それは否定しませんが、一応以後、現代まで有力な神学者たちがいますから、できる限り1つ1つ読んでいったほうがいいと思います(アウグスティヌスは古いといえば古く、聖書解釈としてはあまり役にはたちませんよね)。たとえば洗礼の問題を中心に読んでみればいいでしょう。信仰による義認を説いたルター。それに反対するカルヴァン。それ以後も19世紀、20世紀にはかなり多くの議論があります。

 すでにお分かりでしょうが、私は当然、ここでは信仰と救いについては、ルター派です。そのほかはいろいろもちろん違いますが・・・ルターも結論的には大間違いをおかしたと思っていますが、ここでは無関係なので省略します。 

この回答への補足

《キリスト者の自由》 これは 信仰(恩恵)と自由意志との間のかかわりという論点にしぼって より一層(必ずしも神学の論議だけではなく)具体的に 簡潔に説き明かしています。なかなかやるなといったところです。

ただ そのように受け取ったわたしは すでに いちばんの基軸は《三位一体論》ですが ほかには《霊と文字》《シンプリキアヌスへ》で――自慢しますが―― ルターの文章を読み解くことが出来ました。

アウグスティヌスは 聖書解釈で旧いようだと 時々 学びましたが 信仰の点では ほかに 説き明かしている人はまだ出会っていません。(表現形式は 古代人でもあり アジア人ではなくヨーロッパ人でもあり 当時の事情もあってか 戦闘的で神がかりのごとくであり どうしようもないところがありますが)。

触れませんが カルヴァンは 閉鎖的だと考えます。自己完結的というのでしょうか。

ただし お見通しのように 神学は まるで 体系だてて学んだことはなく かろうじてついてゆけるかなというところです。

恩恵(神の意志)と自由意志の問題は 信仰という点では 簡単だと思っています。

おそらく《救い》という観点から表現するとすれば わたしは存じ上げなかったのですが ガイオンさんのような現われになるのではないかと推し測られます。

《行け――わかった。行きます》《ついて来なさい――はい。ついてまいります》・・・それぞれ前者は 神の意志で 後者は人間の自由意志です。聖霊のはたらきがなければ ついて行くことなど到底できませんが 人間は わがままで ずる賢いですから うまく逆らうすべを心得ています その意志の自由な選択で いまの聖霊のはたらきを受け留め受け取らなければ 話はやはり始まりません。そうして 受け容れるなら 信じたことであり 行動にも移します。(精神の胃袋で消化する作業は あとまわしだということにもなっています。むろん 保留して考え尽くしたあと決断してもいいわけです)。

一部の選良がいるということ 選良が一部いるにすぎないということ これは 時の満ちる過程での段階ごとの状態であり問題です。

初めにキリストの名を知らせる段階では 闘いもあったはづです。

すべての人が 選ばれています。すでに選ばれています。時の充満がどのようになされていくかは 分かりません。二日(二千年)で キリストの名は すでに全世界に知られました。しかも このキリストのキの字も言わないで済む段階まで進んでいくと思います。

ガラテア書に触れられていたので 開いてみると 《割礼の有無で宣教を区分けする》といった箇所がありました。半分冗談ですが これからは《水の洗礼の有無で キリスト者の自由な生活が それぞれ 繰り広げられる》というのかも知れません

それにしましても このように自己の信仰内容を表明するわたしの導き手となったアウグスティヌスは 《水も欠かせない》と言っているわけです。

ただ この矛盾をかかえつつ むしろ わたしの信仰のあり方は 安定していますとお伝えできるほどなのですが。また はっきりしたほうがよいとも思うわけですが・・・。

とりとめのないような調子にもなっていますが ご海容のほどを願っておきます。重要な点を網羅し得てはいないように感じていますが とりあえずこのように球をお返しします。

補足日時:2007/05/24 11:10
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 あまり聖書的な回答が以下には多く見られないので、私自身の理解から聖書的に述べさせていただきます。

まずキリストの洗礼については関連しますが、あなた自身の洗礼とは別問題なので、ここでは問題にしません。

 まず典型的な聖書の言葉でいえばマルコ16・16。
「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

 これは救いの条件を語っており、その条件とは「信仰」と「バプテスマ」です。しかし、注意深く後半を見てください。罪に定められるというのは、不信仰の者だけになっています。つまり、救いの絶対的条件は信仰であるということです。しかし、信仰があるならば、バプテスマをしなくても罪に定められることはありません。ということは信仰がまったくこれっぽっちもないのに、バプテスマをするということは救いにならない可能性もあるということです(聖書に出てくる偽信者というのはまさにそういう人たちのことです)。裏付けるものとしてはヘブル11章参照。 

 ではイエスも使徒たちもバプテスマを受けたのだから、バプテスマをしたほうが良いのでは?ということになるかもしれません。結論からいえば、洗礼を受けたほうが良いです。

 神学的にいえば、信仰とは内面的なものであり、バプテスマとは公の場での宣言です。ちなみに公というのは宇宙です。つまり、カニの殻と身と考えてくれれば良いかもしれません。肝心なのは、カニの身です。しかし、カニがカニとして生きるためには殻もあったほうがいい。信仰とバプテスマの関係はそのようなものです。つまり、洗礼とは内面的な信仰を、確証づけるものといえるでしょう。それは、神に対して、敵に対して、天使に対して、人に対して、宇宙にあなたの救いを宣言する行為であるのです。
 しかし、バプテスマそのものの意義もあります。それは葬りです。わたしたちの古い生活様式を捨て、新しい生活様式へとうつることの宣言です。その意味で、わたしたちの邪悪を終結させ、新しい出発を持つという意義があります。第1ペテロ320-21をご覧ください。ここにはノアの水を通ることにおける救いと、水が予表であることが語られています。ノアたちは信仰によって救われました。それゆえ神の言葉を信じて箱船をつくりました。しかし、その他のものたちは不信仰であり、邪悪で欲望のままに遊んでばかりでした。したがって彼らは滅びました。
ここはしかし、バプテスマが実際に私たちの汚れを除くものではないということもいわれています。これは洗礼という行為が一方では儀礼的なものでしかないということです。しかし、それが無意味だというのではありません。

 つまり結局、信仰と洗礼は私たちの両足です。私たちが信仰をもつとき、片足が神の領域へと入ります。しかし、もう一方の片足は世の中にあります。信仰も洗礼ももった時、両足が入ります。

 洗礼は新約のものであって、割礼とはまったく意味が違います。旧約の割礼はイエスキリストがきて新約へと入るまでのかわりのようなものです。ところがイエスキリストの贖罪が私たちの罪と汚れを精算したので、割礼は意味をなさなくなったのです。したがって、パウロは後に割礼か割礼かはたいしたことではないと考えました(おもにガラテヤ書に記述)。

 しかし、洗礼はまったく別のものです。パウロはそれを強調はしませんでしたが否定していません。以後の聖書学者も多くはやるほうがいいという結論に到っています。

 むしろ論争になったのは、洗礼のやり方、水の種類などです。このあたりは教理的な論争なので、はっきり行ってほとんど関わらないほうがいいと思います。頭がおかしくなるだけですから・・・

 方法が問題ではなく、結局信仰を持って、バプテスマがあれば外側の確証があるということです。ですから、あまり考える必要もなく、洗礼されたら良いと思います。

この回答への補足

なるほど そうか かたちも作ってもらっておこうか / でも 厄介かなぁ どうだろう 寒い冬でなくてよかったのかなぁ / でも 何なんだ 洗礼を受けたいのですがと言って訪ねたのに 追い返されて・・・何だったんだろう・・・と思いめぐらせました。

まづは 回答をありがとうございます。

けっこう 影響を受けやすい人間です。そして つづく回答(#25)を読んで 少し我れに還りました。

《信仰で片足が さらに洗礼でもう片足が 神の領域に入る》は いま一つ たとえとして しっくり来ていません。というよりも このように表現する観点は初めてで よく考えがまとまらないのですが 基本として 次のように捉えています。

《この地上にあっては 神の国は 地上の国と 入り組んでいる・もつれ合っている・停戦地帯( no man's land ―R.Markus )はなく絡み合っている》と。出典はいわずと知れたですが 曲解しているかも知れません。――そして わたしたちは 木(十字架)の船に乗って〔つまりは 信仰によって〕渡りゆくと。

そのとき 《外側の確証》が必要か 欲しいかですが・・・。

欲しい・欲しくないにかかわらず 信仰に欠かせないものかなのですが・・・。

逆に 邪道で考えてみましょう。一般の人びとは 洗礼について――つまり 洗礼を一番の問題として キリスト信仰もしくはキリスト教について――どう受け取り どう思っているのか。

一番の問題は この《殻》によって 人びとが 自分たちと分け隔てられていると感じてはいないか。感じていたなら どうか。そんな人気取りの問題などは おもねることになるだけか。

けれども イエスの出現によって 全世界が贖罪され和解したのですよね。潜在的に全人類がというのでしょうか。

ここで 《殻》をかぶると かえって 選良であることをひけらかすことになりませんか。いや 《殻》ではなく 贖罪と和解の具体的な確証として絶対に必要な秘跡なのだというなら 別ですけれど。

ですから その絶対か 絶対でないがいいものだから受けましょうというのか その分かれ目は むしろ 一般の人びとの視点が 重要になると思われます。

神の愛が ほんとうなら そんな物体的なおこないは――してもよいでしょうけれど―― 必要ないという原則を押し出してくれれば なるほどとわかる。つまりは だれをも分け隔てすることのない絶対の愛なのだと 人びとは受けとめるでしょう。

わたくしは そもそも そのような神だとして これは すでに 信じていると分かったところから出て来ていますので――恐れや焦りを持った時期もあったわけですが―― たとえば あのもはや観念した強盗であるとか エルサレムの厩に呼んでもらった無学の羊飼いであるとかに 自分の位置をおいているかと思います。

一たん区切りまして あと考え直したりする事柄を 次の欄に述べさせていただこうと思います。

補足日時:2007/05/24 09:58
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追伸まで


イエス様の御心がなへんにあるかがわかればいいだけかな。
イエス様の現在の垂訓を質問者に贈りましょう。
その五:「神を信じる者は幸いである、あなたがたは永遠にわたしと手をつないでいる。」これがイエス様のお答えです。洗礼を要としても不要としても「神を信じる者は幸いである」の一点が問われるだけです。
信仰は儀式でも洗礼でもないのですねその「神をイエスを信じる心」がすべてなんです。その心と生き様で判断されるとゆうことです。後は質問者さんの判断で十分でしょう。
以下がイエス様の現在の垂訓です:
一、心清き者は幸いである、あなたがたは神をみるであろう。
二、心貧しき者は幸いである、あなたがたはなぐさみを得るであろう。
三、心正しき者は幸いである、あなたがたは悟りという名の幸福を得るであろう。
四、心優しき者は幸いである、あなたがたは永遠に神のそば近くにいるであろう。
五、神を信じる者は幸いである、あなたがたは永遠にわたしと手をつないでいる。
六、人の幸福を願う者は幸いである、あなたがたは義とせざれるであろう。
七、この世に命を持ちて神を見るは幸いである、永遠の栄光はあなたの頭上を飾る王冠となろう。
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この回答へのお礼

山上の垂訓も交じっているようですが ご自身で考えられたのですか。

《手をつないでいる》というのは 詩のように感じます。

あと わたしの夢は 将来 キリストのキの字も言わずに そのみこころが実現するように進んでいく世の中です。

追伸をありがとうございます。

お礼日時:2007/05/23 21:52

哀れな



今更改宗するわけにもいかんし...
迷いの境地だな.
灯台の明かりとおぼしきものは何を照らしてるのかも
疑わしいと解り始めた今となっては.
女々しい...
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この回答へのお礼

読んでくださって ありがとうございます。

これからどうなるか わかりませんが この質問と回答がつづくようでしたら その行方を楽しみにしてゆかれるのも 一興かと存じます。

なにかありましたら そしてよろしかったら お知らせください。回答でしたら お応えしてまいります。

これ以外にどう応えていいか わかりません。ぶっきらぼうで 申し訳ないですが。

お礼日時:2007/05/23 21:37

今まで3回書かせていただきました


そこで気になることを一つ 神はなんのためにイエスをこの地上に送ったのか?そこが抜けているように思います
>水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

あり人にとって洗礼というのは意味がありとっても重要なもの
その人もイエスを信じていると言うことです。
そのイエスを信じている人は誰の名によって受けたのか?
誰を信じているのか?と言うこと
信仰と言うのは自分の口で告白すると言う意識ともう一つ聖霊によって
告白する。すなわち元を正せば神が私たちを愛し 神が聖なるものと
認めたのであってその認めた方が洗礼を受けなさいと言うことで
洗礼を受けている。それを批判するとイエス自体を批判していることに
もなります。御言葉は愛し合いなさいと言う命令を出しました
どうでしょう。もし洗礼を受ける事によって救いをがあると言う人に向かって言うならそれは集めようとしているのではなく散らしているという事になりませんか?
このようなことは議論すべき問題ではないと思います。
なぜなら水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

イエスはバブテスマのヨハネにどのような事を言ったのか?を考えてみれば
理解できますよ。
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

すべてに時がありますからね。決して兄弟を躓かせないように
そしてあなたが聖霊によって「洗礼を受けなさい」と言われた時
出来なくなりますからね。心を柔軟に 平和 愛を求めてください

必要な人には必要ですからね。カトリックのかたがロザリオを必要としているように・・・
心で口でイエスを救い主と言ってる限り水の洗礼を受けたことになりますからね。

この回答への補足

洗礼を受けていないのにキリスト者を名乗る者に対する目が どんなであるか・・・。

今度は そのちいさな受難者のわたしが 洗礼を受けた人に対して 躓きの石となるというのでしょうか?

それほど わたくしの今回の文章は 力強いものなのでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヨハネはまた こうも証しした。
――わたしは 聖霊が鳩のように天から降って この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし 水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が 《聖霊が降って ある人にとどまるのを見たら その人こそ 聖霊によって洗礼を授ける人である》とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから この方こそ 《神の子》であると証ししたのである。
(ヨハネ1:32-34)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ではかれ(=洗礼者ヨハネ)は何を主において知らなかったのか。それはこうである。
主は洗礼の権能をご自身のものとして保ち だれかある下僕に渡したり移したりしようとはされなかった。そして善い下僕が洗礼を授ける役をする場合でも 悪い下僕がそれをする場合でも 洗礼を受ける人は 洗礼の権能をご自身の中にとっておかれる方によってだけ洗礼を受けるということを知らなければならない。
(中略)
《わたしこそ あなたから洗礼を受けるべきなのに あなたがわたしのところへ来られた》・・・その方は言った。《今はとめないでほしい。すべて正しいことが満たされるためである。》
これは わたし(=キリスト・イエス。以下この段落で同じく)は苦難を受けるために来たのであり 洗礼を受けるために来ているのではないと意味だろうか。《すべて正しいことが満たされるためである》と。わたしの未来の民の中に高慢な人々がいることをわたしは知っている。わたしは恩恵のより高い状態に入るだろう人々を知っている。かれらは禁欲や施与や学識のゆえに 洗礼を受けようとする無学な人々を見て自分たちのほうがすぐれていると思い その劣った人々が受けた洗礼を自分たちも受けるのはいやだと言うのである。しかしわたしはかれらをいやし 主の洗礼に行くのを拒まないようにさせなければならない。わたしは下僕の洗礼を受けるために来たからである。
(アウグスティヌス:ヨハネ福音講解説教 第5説教・8)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
部分的な引用ですし アウグスティヌスが何が何でも権威があるとは限られないししますが こう採ります。つまり 授洗者の善い悪いが関係ないということは その権能がキリストにあることを意味するだけではなく それは  《聖霊による洗礼を授ける》ということだと わたくしは解するものです。水を排除するわけではなく 水に重きを置かないということであり それは むしろ当然だと考えます。

ということは こうです。洗礼を受けた人も 実際には《霊による洗礼》を受けたかどうか分からないのが ふつうであり 分かったという場合でも 他の人と ああ なるほど それは互いに同じ聖霊による洗礼でしたねと理解しあえるほどには 分からないのがやはりふつうです。

ということは こうです。だれか《わたしは 聖霊による洗礼を受けました》という人が現われれば まづは ああ そうでしたか では キリスト者ですねと受けて――建て前としてでも―― 認めなければ うそです。そのあと たとえば水の洗礼は どうだったのですか?と問いかけても おかしくないでしょう。

ですが 水の洗礼を早く受けて わたしと同じキリスト者となってくださいと言うのでは 《聖霊による洗礼を授ける権能とその同一・唯一なること》を疑っていることになりませんか。水あるいは授洗の執行者のほうが その権能を持つ存在より偉いと言っていることになりませんか。

水の洗礼を受けていないキリスト者が いるということから出発するのが肝心だと思います。

長くなりました。このへんで区切ります。いかがでしょうか。

補足日時:2007/05/23 21:24
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No12です。


このサイトの趣旨においては二重に解答する事は望ましくはないとは思いましたが、丁寧な補足もいただきましたので、簡単に述べたいと思います。

わたしの所属する教会などでは洗礼を希望する方に対して、洗礼の準備として『ハイデルベルグ信仰問答』の勉強会をします。

ハイデルベルグ信仰問答の一覧-
http://suita.hp.infoseek.co.jp/h1.htm
(日本基督教団吹田教会ホームページ内)

ハイデルベルグ信仰問答中の『教会』に関する解説-
http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0507.htm
同じく『洗礼』に関する解説-
http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0601.htm
(日本基督教団鎌倉雪ノ下教会ホームページ内)

これを読むとプロテスタント教会の考え方が簡単にわかると思います(本当は教会にも行った事もないのにキリスト教関連の質問にご自分の矮小な頭のサイズに縮小した内容で解答する方々にこそ読んで頂きたい)。『ハイデルベルグ信仰問答』については多くの研究書や解説書がありますので、そちらも参照になさってください。

補足で気になった点を一つ。
教会を市町村議会のように考えておられるのかもしれません。現実に『見える教会』としてはかなり似ています(ではなく民主主義議会が教会制度を真似たのです)。ただ根本的に違うのは民主主義においては国民主権ですが、教会における主権はキリストにあります。

さらに一点。
このサイトは議論の場としては不向きです。mixi内にある『クリスチャンへの疑問質問!』コミュなどをお勧めします。

この回答への補足

PCの前におりましたので 早くに読ませていただきました。ありがとうございます。

《教会および洗礼》の解説を読んだところです。
まづ初めの印象は これは ヨーロッパ人・特にはドイツ人ふう(フランス人ではないという意味で)の文章だと感じたことです。だからどうということはないのですが 日本文としては いまひとつ鯱張っているという印象です。これでは 喉が通りません。一般日本人のためには これが 正直な印象です。(あるいは そういった誇りをもった人びとの集いであられるのかもわかりませんが)。

あとひとこと。キリスト者にとってのエクレシアとしてのムラ議会と民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいのですが これは 言葉の言い替えにすぎないとすれば 少なくとも 国家を超えて ムラどうしの・市民どうしの連帯――そこに 秘跡の系譜を見る――を基礎としていきたいと思っています。

走り書きのようになってしまいましたが つつしみまして。

とは言っても その趣旨は まったくそのとおりであって わたくしもアウグスティヌスによって 信仰にかんする文章表現の上では育てられて来ていますので わかるつもりです。

思えば おっしゃるとおり 議論の場のごとくなってきましたので このまま続けてよいかどうか分からなくなっていますが ひととおりお応えつづけます。

たとえば次の文章のごとく きらりと光る絆とその誇りのようなものがつらぬいていると窺えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
目に見える教会には多くの欠けがあり、つまずきがあります。いや私たち自身がつまずきになっているのではないかと恐れを覚えることもしばしばです。しかし、教会は、キリストの償い(贖い?)のゆえに罪赦された者たちの群れであり、そこに聖徒の交わりとしての姿が現れてきます。主にしっかりと結び合わされることによって、ひと枝ひと枝が生かされ、キリストの赦しによって互いに赦し合い、キリストの慰めによって互いに慰め合う群れとして生きることができるのです。教会に与えられているこの祝福と命、この喜びと望み・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《群れ》というよりも ふつうの交通・交わりとして 主の家(チャーチ)のごとくに感じられます。

しかも ひるがえって この趣旨が 総じて(世界史という視点で)言って 取り返しのつかない傷を負ってしまっているのではないかというふうに わたしは 徐々に 見るようになってきたというのが この質問をつうじての対話で得た感触です。

その視点は 感覚の部分が多いので措いておきますが たとえば もしAleph_Tamaさんにお答えいただけるものでしたら 次のように質問してみたいと思います。

あらたに ヨブを例にとりたいのですが かれは キリスト者だとわたしは思っています。洗礼も そして恐らく割礼も 受けていないのではないでしょうか。しかも 《見えない教会》につらなっていると確信しますが いかがお考えでしょうか。そのお答えで《教会 および 洗礼》にかんする事柄がよく明らかになるように思うのですが。

あとひとこと。キリスト者にとっての民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいところですが それは 言葉の言い替えにすぎぬとすれば エクレシアとしてのムラ議会どうしの・そして市民どうしの 国を超えての 連帯 ここに 秘跡の系譜を求めていきたいと思います。非宗教的な見えないエクレシアのまじわりとして。

走り書きのようになってしまいましたが つつしんで申し述べました。

補足日時:2007/05/23 15:03
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この回答へのお礼

すみません 次の箇所が どういうわけか 補足欄で 途中に二重になって入ってしまっています。ごめんなさいませ。

《あとひとこと。キリスト者にとってのエクレシアとしてのムラ議会と民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいのですが これは 言葉の言い替えにすぎないとすれば 少なくとも 国家を超えて ムラどうしの・市民どうしの連帯――そこに 秘跡の系譜を見る――を基礎としていきたいと思っています。

走り書きのようになってしまいましたが つつしみまして。》

なお mixiについては いまのところ よくわかりません。
なお お礼欄か 補足欄かは 文章の長さで〔のみ〕使い分けしています。
不一。

お礼日時:2007/05/23 15:29

[水による洗礼は必要不可欠なことですか]



 凡人は何かの儀式をもって気持ちを新たにすることを好むとゆうだけです。儀式そのものに意味はありません。従って必要ない人には必要ないとゆうことですね。イエス様であれば我を信じ我のように「愛の行為をなせ」それがわが弟子といってるだけですね。教会に通うことが信者の条件じゃないですよ、儀式にとらわれるとパリサイ人サドカイ人といわれかねないですね。イエス様はそのようなお方ですから。

この回答への補足

回答をありがとうございます。
おそらく おっしゃっている主旨が 筋だとわたしも思います。

問題は 洗礼が これをイエスも受けたし 授けたし そうして受け継がれてきたということだと思われます。

わたしは ここで 俗に言う《見切り発車》で 水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

わたくしの導き手であるアウグスティヌスに参照してみましょう。

ヨハネ4:1-2に《洗礼を授けていたのは イエス自身ではなく 弟子たちである》とある箇所について まづ《直接 手をくだすのはイエスではなかった》だけだとおさえて 次のように説きます(これは 教会での講読においてのものです)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
だがこう言う人がいるかも知れない。《キリストは霊において洗礼を授けておられるのだ。肉においてではないのだ》と。
それはまるで 人が肉の洗礼・目に見える洗礼の秘跡において水に浸されるとき 誰かキリストとは別のひとの賜物によってそうされるかのようである。だがあなたは 霊の洗礼のみならず 水の洗礼を授けるのもまたキリストであることを知ろうと思わなければならないのだ。
使徒(パウロ(?))の言葉を聞くがよい。かれは語る。《キリストが教会を愛し 教会のためにご自分をお与えになった・・・のは ことばを伴なう水の洗いによって教会を清め しみや しわや その類いのものは何一つない栄光の教会をご自分の前に立たせるためでした》(エペソ:25-27)。
キリストは教会を清められる。どのようにしてだろうか。ことばを伴なった水の洗いによってである。キリストの洗礼とは何だろうか。ことばを伴なった水の洗いがそれである。水が欠けても ことばが欠けても それは洗礼ではない。
(アウグスティヌス:ヨハネ福音書講解説教 《著作集・23》pp.261-262 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
例によって戦闘的な調子を帯びていますが おそらくは 《心おきなく劣った奉仕者(授洗者)のもとに赴くがよい》(同箇所)というのが 趣旨だと思われます。

それは いいですし ですから キリストの権能において洗礼が 秘跡として行なわれるということまでは いいわけです。

わたしが ここで 犬の遠吠えを上げ始めたのは 個々の授洗者の優劣の問題ではなしに 教会じたいが しみを付け しわが寄ってしまったようだという問題です。人間がそうしてしまったのだと思います。プロテスタントも 挑戦に乗るかのように 殺し合いに応じてしまった。(その点に対する憂慮は 前々から持っていましたが この質疑応答の過程で このように考えを固めました)。

いま 一つの帰着として考えられるところは こうです。割礼をめぐってエルサレムの使徒会議が催された(使徒行伝15:1-41)ように わたしたちも 話し合いを持つということです。

要は 割礼のない異邦人を神はそして原始教会が受け容れたように 洗礼のないわたしを 洗礼のないまま 受け容れるかということにあります。

《かれらの心を信仰によって清め わたしたちとかれらとの間になんの差別をもなさいませんでした。それなのに なぜ今あなたたちは 先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を 異邦人の信者の首に懸けて 神を試みようとするのですか。・・・》(Acts15:9-10)。

洗礼が軛かっ!!??と返されかねませんが 教会は すべてご破算でねがいましてはという再出発を切らなければならないように思いますが いかがでしょうか。ガリレイさんごめんなさいだけでは済まないように思います。

mmkyさんへのお礼の欄を このように使わせてもらいました。あしからず。そしてありがとう。(そして きりぎりすが二十歳――さらに ごめんなさい!!)mmkyさん ありがとう。

補足日時:2007/05/23 11:11
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  おはようございます。



 私も、総括の意味で最終コメントさせて頂きたいと思います。幾つか、皆さんのご意見の中で、理解できない点も有ります。キリスト教は、それほど交錯しながら現代まで続いていると私は理解したいと思います。

 さて、以下に述べさせて頂きます。
(1) 洗礼の是非は、自称キリスト者とも通じていると思います。故に、是非はご自身の信仰の結果として生じると思われます。(frisk_blue_loveと同じですね)
(2) イエスの洗礼ですが、人間となられたイエスだからこそ、洗礼を受けられたと考えられます。洗礼は、一人では受ける事が出来ないと言う現実もあります。(実施者=証言者、その点自称では第三者に理解されにくい)
(3)エレミヤ書31:31に関して、聖書注解を二冊ほど見ました。一般的な専門家の考えとして参考に。やはり、新約聖書の予言と解釈できます。《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》に関しては、救いの完成でしょう。確かに時間的な問題が有るように感じます。それで、洗礼をどの様に解釈するかも理解の分かれる点かと思われます。

 何方か、ご指摘されておられましたが、聖書は突き詰めるとギリシャ語、ヘブル語とそれをどう理解するかによっても、様々意見の分かれる所です。又、その時点での歴史的な資料の有無によっても当然違うと言えます。

 以上を総括して、質問者様の信仰に神様が関わって下さる事を信じてお祈りいたします。孤立した学びは時として病的な領域にまで発展する事もあるようです。くれぐれも、ご自愛下さい。私達の信じる神様の導きに委ねて、アーメンですね。
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この回答へのお礼

おはようございます。
さわやかなコメントをありがとうございます。

一点 いちばん重要だと思われたことがあります。《最終コメント》と書かれているのに 申し訳ないのですが 次の意味がよくわかりません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》に関しては、救いの完成でしょう。確かに時間的な問題が有るように感じます。それで、洗礼をどの様に解釈するかも理解の分かれる点かと思われます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もしわたしの立ち場に都合よく解釈すれば こうなりますが それで よろしいでしょうか。すなわち 《今後いづれ また 少しづつ 時の満ちるとともに 〈救いの完成〉が実現されてくる。それにつれて 水の洗礼は 必要ないようになる》と。

エチオピアの女王カンダケの高官のように(使徒行伝8:26-40) どこからか ピリポとかいう人が来てくれて 《ここに水があるから 浸けましょう》と言ってくれていればよかったのですが そうは成らなかったというのであれば 考え物ですかね?

神言修道会( Societas Verbi Divini )というドイツ系のカトリック教会で 《洗礼は受けても受けなくてもいいですよ》と言われました。神父よりも わたしのほうがアウグスティヌスについて よく知っていたので 嫌われました。

そのとき ほんとうに 受洗について迷っていたので 《一匹よりも 九十九匹のほうを大事にするのですね!?》という捨て台詞をおいて 帰って来ました。(タンタンッ)――これは 愛から出た言葉ではなく 単に 意識を排泄しただけかも分かりませんが。――みこころのままに という言葉を隠れ蓑にしつつ。

お礼日時:2007/05/23 09:29

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