A 回答 (6件)
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No.6
- 回答日時:
謙信公の名誉のために申し上げますと、謙信は決して経済に疎かったわけではありません。
謙信が長尾家の家督を継いだとき、長尾家にはほとんどお金がなかったそうですが、謙信が死亡したときには上杉家には充分な貯金がありました。謙信は実は上洛もしておりまして、そのときに京都の将軍家や公家と人脈を築きました。それを元に越後で青そを栽培し京都に輸出することで大きな利益をあげることが出来ました。ただ、謙信公は領土的野心がほとんどありませんでした。良くいえば「義のために」出兵していたのですが、悪くいえば「単なる合戦マニア」です。そのため、せっかく出兵して勝利しても領土を取らないで越後に帰ってしまうので、家臣は家禄が上がりません。当時は、土地を手に入れることでその土地を家臣に与えることによって家臣は家禄が増えるのです。
つまり、現代の会社に例えれば社長はやたら社会貢献に力を入れるのに社員の給料は上がらないようなものです。いくらなんでも社員としてはやってられません。社長の社会貢献につき合わされるのに、です。
だから謙信は有名戦国大名には珍しくやたら反乱を起こされています。しかしながら「合戦の天才」であったためそれはことごとく鎮圧されます。しかし鎮圧しながらその家臣を見せしめに斬るようなことは極力しなかったので家臣団としても「謀反をしても殺されるわけじゃなし・・・」とまた反乱する、の繰り返しでした。
出陣の前には、春日山城に作った毘沙門堂でお祈りにふけるのが謙信の習慣でした。あるとき、家臣団が「私たちも一度毘沙門堂で一緒にお祈りしてみたい」といいだしたとき、謙信は「不要である」と却下しました。家臣団がなぜですかと聞くと「お前達の目の前にいるのが毘沙門天の生まれ変わりだから俺を拝めば充分」と答えたそうです。
謙信は思い込みが強い人だったようなので、結構本気だったかもしれません。
ちなみに、松平容保は会津藩です。上杉家は米沢藩です。松平容保の直系の先祖は保科正之で、彼は徳川秀忠の子です。だから会津藩は松平姓で、家紋も葵です。米沢藩最後の藩主上杉茂憲は戊辰戦争では幕府側につきましたが降伏し、なんだかんだいって新政府で活躍して伯爵の位をもらっています。ものすごい勘違いをする人もいるもんだとびっくりです。
No.5
- 回答日時:
旗は「毘」の他に「龍」というのも使っていました。
これは「青龍」のことですね。
白虎、朱雀、玄武とならんで四方に配される神で、青龍は東です。
こちらは関東管領を意識したものでしょう。
守護大名が毘沙門天なら、関東管領はもうちょっと偉いので、青龍で東方の神でしょうか。
ついでなので、下の正誤
誤:西南方を守護する広目天、正:西方を守護する広目天
誤:誓ってきたのもでしょう、正:誓ってきたものでしょう
No.4
- 回答日時:
須弥壇の四方には四天王が置かれていまして、東方を守護する持国天、南方を守護する増長天、西南方を守護する広目天そして、北方を守護する多聞天の別名が毘沙門天です。
四天王の像は邪鬼を踏みつけて立っています。守護大名ですし、関東管領でもありますから、都の北(越後は京都から見て北国のさらに奥)を守護しましょうってことです。
毘沙門天は、義経が修行したといわれる鞍馬山の本尊でもあります。
北面の武士が武士の始まりであるように、王都の北を守護するというのが武士の本分であると考え実践していることを示したものです。
二度の上洛の時にちゃんと天皇とお話になって誓ってきたのもでしょう。上杉家は代が下ってもこの誓いを守り、松平容保は京都守護になり新撰組を雇って幕末の京都の治安を守りました。
謙信は幼年時ちゃんとお寺で勉強して教養も十分ありました。強かったこともありますが、この教養も、戦わずして味方に馳せ参ずる者が多かった理由です。
武力だけじゃ足りず、孫子の計略をまねて近隣との戦いに勝利して勢力を伸ばした信玄とは格が違います。
No.3
- 回答日時:
上杉謙信は仏教を信仰しており、戦の神である「毘沙門天」を信仰しておりました。
毘沙門天の頭文字の“毘”を軍旗にしていたようです。
上杉謙信は精神的に非常に繊細な人で、非常に戦争が上手でしたが、常に自分は至らない人間だと卑下していたようです。
完ぺき主義者だったのかもしれません。
そして、その苦悩を紛らわせるために、よくお酒を飲んでいました。
お酒の飲みすぎで内臓系のご病気も少し患っていたようです。
信仰心は厚く、戦の戦勝と引き換えに、女性絶ちをやっていました。
性格はストイックだと思います。
直感的戦略のひらめきはある人ですが、経済に疎く、また、情に流される性格であったようです。
狂信的な正義感というより、情に流されるタイプだったようですね。
そのため、家来同士の紛争の調停にもてこずり、苦悩し、自己嫌悪に陥っていました。
戦は強かったのに、経済観念が欠落しており、経済的理由で武田に寝返る武将などが出ると、なぜ、武田に寝返るのか、理解できず苦悩していました。
そして、自分の精進が足りないのだと自分を戒め、読経、写経、護摩焚き修行などやって自らの直感と法力を必死で磨いていたのです。
本当は、経済政策しないといけないんですが、そういう発想は無かったようですね。
社会的道徳を訴え、自らも早起きしたり、仏壇の拭き掃除したり、やたらと正義を叫んだのも、仏の道に精進して、正義を貫けば、国がまとまり、家臣もついてくると考えていたのです。
実際、その並々ならぬ努力に心うたれ、上杉謙信を尊敬する家臣も多かったようです。
しかし、相変わらず、戦に勝てど、人々の暮らしは貧しかった。
敵地での略奪行為は、積極的に勧めてはいませんでしたが、罰則も無かったようです。
「敵を懲らしめているのです!」と家来が言ったら納得してしまっていたようです。
道徳的に敵地での略奪行為が悪いことという観念があまり無かったようですね。
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