アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

ジェラール・ド・ネルヴァルの「火の娘たち」を読みました。気が触れそうなくらい疲れました。
ネルヴァルの超個人的な追憶と 物語がこんがらがってるみたいだし、訳注を見ていくと、女神の名前とか 花の名前とか 他の言葉にも個人的な暗示みたいなものが綿密に含まれていて、オカルト風な所もあるあるし(勝手な判断かもしれませんが)漠然と読むのが精一杯で、ぐったりです。
狂気と幻想の詩人とよばれるネルヴァルのようですが、フェチな情熱がないと読み込めるものでないとう気がしました、私の頭が弱いんでしょうか?揺さぶられるものはありましたが、そこまで入り込む情熱は今のところありません。
これってほとんど変人の戯言とギリギリのところではある。。(本音
作家と向き合うこと自体 体力消耗するものですが 相手がここまで私的な世界に入り込んでて手が届くんでしょうか?こういう火薬の投げ込みみたいな文学っていかがなものでしょうか。
若干大げさになりましたがクライシスです。自由なご意見お願いします。

A 回答 (9件)

さて、こんにちは。


『火の娘たち』読み直してみました。以前はたぶん十代のときに読んだのだと思うんですが、いま読み返してみて、全然ちがう印象を受けた。とってもおもしろく読めました。

もちろんのちの象徴主義運動がネルヴァルに範を求めた、というのはよくわかります。
けれども、そんなふうに文学史的に読まなくても、これは十分楽しめます。「象徴」とか「メタファー」とか、はたまた「狂気」だとか「夢」だとかというまえに、まず、この作品に「何が書いてあるか」をきちんと理解していきましょう。

最初の「アンジェリーク」これを読んでわたしは森鴎外の『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』とピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を思いだしました。

つまり、この作品にはひとつの大きな筋がある。それは作中で「ジェラール・ド・ネルヴァル」と呼ばれる「私」という語り手が、バスチーユを脱獄した僧侶ビュッコワ師の物語を探し求める話です。
この「原稿発見」というのは18世紀の小説のひとつのパターンとしてあります。鴎外がネルヴァルを読んでいたかどうかはよくわかりませんが、『渋江抽斎』や『伊沢蘭軒』にしてもこのネルヴァルにしても、そういう「原稿発見」の物語のパターンを踏襲しています。

抽斎や蘭軒の足跡をたどる鴎外が、「わたくし」としてしばしば作品に登場するように、「私」も登場する。
鴎外の「わたくし」が、あくまで抽斎や蘭軒を書くという目的を持った黒子に徹しているのとはちがって、まるで『競売ナンバー…』でエディパ・マースが謎の闇郵便組織「トライステロ」を求めてさまよい歩くように、「私」も「ビュッコワ師」の物語を求めてさまよいます。

読者であるわたしたちは通常、この「謎を求めてさまよう」物語を読むとき、あたかも穴をずんずんと掘っていって、途中の大きな石や木の根っこなどの障害を取り除き、とうとう最後に「真実」を掘り当てる、という物語を頭の中に思い描きながら読み進みます。たいていの「謎」の物語は、そういう構造を持っているからです。

ところが『競売ナンバー…』にしても、「アンジェリーク」にしても、決して深まらない。鴎外はたえず抽斎や蘭軒を手元に引き寄せ、抽斎や蘭軒の物語を書き継いでいきますが、この「アンジェリーク」ではビュッコワ師の物語は一向に進まず、同じ地平をごろごろと横滑りしていくだけです。何か出来事が起こっても、理解が「深まる」のではなく、出来事はたんに物語を横滑りさせることしかしない。そこで、読者はとまどうわけです。

そうしてポストモダンの作家ピンチョンは、出来事のネットワークの中心にはひとつの意味がある、という伝統的な世界観をこうしてひっくり返してみせるわけですが、ネルヴァルは、「ビュッコワ師の物語は私の『幻視者たち』と題する本(ヴィクトル・ルクー社、パリ)でお読みいただきたい」とずらしてみせる。もちろんポストモダン的意図があったわけではないにせよ、期せずしてポストモダンの小説と同じ構造になってしまったわけです。バスチーユを脱獄したビュッコワ師はどうなったんだ、という読者の期待は、最後まで宙づりにされたままです。

さて、この作品にはもうひとつの物語が織りこまれている。それが、同じビュッコワ家の一因であるアンジェリック・ド・ロンブヴァルの物語です。

「私」はビュッコワ師の足跡を追いながら、同時に、この駆け落ち貴族の娘であるアンジェリックの生涯をたどっていく。わたしはこれで18世紀の戦争というのは、戦場に相当多数の兵士や将校の奥さんや恋人がついていっていた、というのを初めて知ったのですが(ああ、昔読んでいたはずなのに……)、タイトルが「アンジェリック」であることを見ると、彼女の物語がメインストーリーといってもよいのかもしれません。ともかく、この彼女の物語は脱線をはさみ、ビュッコワの追跡とからみながらも、ひとつのまとまった物語として語られます。
ところがこのふたつの物語がどう関連づけられるのか、一向に明らかではない。

さらにここには芝居とか詩とかルソーの墓を訪れる話とか、どう関連していくのかよくわからない印象的なエピソードも、どっさり挿入されています。
いくつもの色鮮やかな物語が相互に関連づけられないまま展開されているために、わたしたちは取捨選択に迷うのです。

だからこれはそういうものとして、楽しめば良いのではないか、と思います。

つぎの「シルヴィ」、この作品は作品集『火の娘たち』のなかでもっともネルヴァルらしい作品といえるのかもしれません。

これはひとりの女優オーレリーを愛している劇作家の物語です。
この劇作家は女優のことを思いながら夢に入っていく。その夢を通じて子供時代の記憶がよみがえっていく。自分が過ごしたヴァロワで知り合ったシルヴィとアドリエンヌというふたりの少女。その夢によって、自分のオーレリーに対する思慕の情は、アドリエンヌから来ていることに気がつくのです。

そこで主人公は、まずシルヴィとの再会を求めて、自分が育った田舎へ戻っていく。
そこでシルヴィにはすでに恋人がいることを知る。その恋人というのは、自分の乳兄弟(乳母の子供)、つまり、自分の分身とも言える存在だった。

またパリに戻った主人公は、戯曲の執筆を通じて、オーレリーに手紙を書く。女優の側もそれに応えてくれたかに思いますが、記憶のなかのアドリエンヌのことを話したとたん、自分が求められていたわけではなかったと知った女優は、自分には別に恋人がいる、と主人公を退けるのです。

やがてオーレリーと共に地方巡業に出かけた主人公は、シルヴィに女優を見せ、アドリエンヌに似ているだろう? と確認を求めます。そこでシルヴィからアドリエンヌの消息を聞く。

これがこの作品のおおまかな筋です。

この作品の特異な点は、人と人の境目が極めて曖昧だということです。
「私」という語り手と、シルヴィの恋人は「乳兄弟」という意味で重ね合わされている。と同時に、シルヴィの恋人と女優の恋人も、主人公を拒否する理由であるという意味で、重なり合っている。さらに、シルヴィとアドリエンヌと女優の境界もきわめて曖昧です。

つまり、夢の中で出てくる登場人物というのは、最初はいまの友人のAさんが、いつのまにか小さい頃の友だちだったBちゃんにスライドしていたり、さらにそれがいつのまにかまた元に戻っていたりしますよね。それが作品のなかで人物が二重写し、三重写しにされている。そう思ってみてみたら、パリが現実の世界で、ロワジーの村が幻想の世界なのか。
確かにそうも思えます。語り手自身が、夢に見たことなのか、と考えたりもしています。
ところがパリへ戻って、それまでの逡巡をかなぐりすてたようにオーレリーに手紙を書いて思いを打ちあけたのも、ほんとうにこれは現実なんでしょうか。

-----
「そこで私はすべてを物語った。宵闇にほの見えて、のちに夢に入り、彼女の中に実現した愛の源を語った。彼女はまじめに耳を傾けていたが、やがて言った。「あなたはあたくしを愛していらっしゃるのではないのだわ。『女優は修道女その人なのです』とあたくしに言わせたいのね。あなたが捜していらっしゃるのはお芝居よ、それだけ、そして、その結末はあなたには見えないの。さあ、もうあなたのおっしゃることは信じませんわ。」
-----

これもよく見ると、なんとも不思議な言葉です。
もしかしたら、「邯鄲の夢」ではありませんが、冒頭で眠りに入った語り手の夢のなかの言葉なのかも知れません。

そうして最後、シルヴィがアドリエンヌの消息を告げたのちに、ヴァロワの民謡と伝説を紹介した不思議なページが続きます。
これも、「アンジェリック」と同じように、あまりひとつの筋書きに関連づけしないほうがいいように思います。


これはあくまでもわたしの読み方なんですが、わたしの場合、このような錯綜した物語を読むときは、基本的にメモをとりながら読み進んでいきます(鴎外の『伊沢蘭軒』などであれば系図を作りながら読んでいきます)。そうやって、筋を追っていく。
わたしはたぶんあまり頭が良くないので、論旨の通ったものしか理解できないんです。だから、複雑なものが出てきたら、とにかく整理しながら進んでいく。整理しないと理解できない(笑)。

読者というのは、作品を読みながら、自分でもうひとつの物語を作っていくものです。
だから、わたしの作った物語は、たいていいくつかの要素に整然とまとめられてしまっていて(笑)、原作と似ても似つかぬものに変型してしまっている。だから、こういう読み方を幻想的な作品に適応させていいかどうかよくわからないんですが。

ともかく、ネルヴァルの作品は一方で非常に明晰な断片を持っていますから、こうやって読んでいけば、かならずいくつかの断片の筋なら追うことができます。それを全体に撚り合わせることはかならずしもひつようではないのではないかと思います。
まずはいくつかの物語を追うこと。
幻想の要素、夢の要素を味わうのはそこから先でも良いのではないでしょうか。

『火の娘たち』しか読んでないんですが、ほかの収録作品に関して、もうちょっと聞きたいことがあれば(こんな読みしかできませんが)補足要求ください。

この回答への補足

再度回答感謝です。驚!!この短期間に読み直されたのですか!
手間をおかけしました。何とも明晰なご説明をして下さり、、、。

「アンジェリック」は火の娘たちの中でも、私にとって、一番不可解な作品だったのですが、背景を教えて頂いたことで枠が見えてきたような気がします。原稿発見の小説パターンについては全く知りませんでした。ビュッコワ師の追跡、何か地味なエピソードだなぁ、、って思って、大筋であることを無視していました(笑
で、アンジェリックとビュッコワ師の物語の関連が全然分からないままだし、最後までビュッコワのことが明らかにならないというのが何とも腑に落ちないまま。。。頑張って追ってきたのに、、!
やぼな読み方かもしれませんが。
そういうものとして楽しむ>そうですね、納得です、そういうものなんだと思ってもう一度読んでみたら違うかもしれません。
 
シルヴィの部分だけ、無謀にも原文で挑んだので、ちょっとストーリーを勘違いしていている部分があったようです。
最後のオーレリーあたりからは印象的でした。
回答者さんの仰るセリフの部分は、確かに意味深です!
私の文庫だと、「あなたが求めていらっしゃるのはドラマよ。それだけなのよ。でも、お望みの大団円にはならないわ。」
とあるのですが、原文に忠実だと、回答者さんの仰るように、「あなたが求めているのはドラマだ、その結末は見えないの。」結末をあなたは逃す、という風な感じだったのですが、私の持っている文庫の訳、何かニュアンス違うんじゃないかって感じがしたのですが、、、。あなたには結末は見えないのよというのは、オーレリーが今までの神秘の恋や幻の女についての秘密を握ってるような、今までの女を代表して、不透明な存在としてネルヴァルに最後の一撃を与えたみたいな勝手な解釈をしていたのですが、ところが

その後ネルヴァルは じゃぁ今ままでの恋は何だったんだよ、幻だったのかって、しらける方向にいってしまう。
という筋を見ると、別に結末は見えないのよというのは神秘的な意味でもなかったのかな。。?と思いなおしたり。大団円、めでたし、にはならないわよ、というシンプルなあしらいでの意味、、?
最後も何となくあっけない。。 

読み進め方、大変参考になりました。確実に、筋を追うことが大事なんですね。色んな要素に惑わされてしまった。
ちょっと調べてみたんですが、収録内容は別に深い関わりないみたいですね。何か話が交差している部分があったような気もしたけど気のせいだったかな

補足日時:2007/06/29 22:12
    • good
    • 1
この回答へのお礼

もっと色々質問してみたいのですが、とりあえず読みきるって感じだったのでぐちゃぐちゃになっててもう質問できることがない、、(笑

でも、ネルヴァル、面白かったような気がしてきました。最初、シルヴィだけまず読んで、やたら自分のロマンと実生活の絡んだ世界。。?と思ったのですが、全然それだけじゃありませんね
機会あらば他の作品も読んでみようと思います。

ご親切にご指導して下さり、大変得るものがありました、有難うございます。
<感謝>

お礼日時:2007/06/29 22:19

>お互いの話が中和した印象です。



ああ、ヤットカメでした、良かったです。

>この短期間に読み直されたのですか!

だろうと思っていました。gb様は、とても親切な御回答者でいらっしゃるので(笑)

>この作品の特異な点は、人と人の境目が極めて曖昧だということです。

この部分なんですが、私の叔母が発病したとき、まさに、こういう状態でした。人と人だけではなく物事の境界も曖昧になるんですね。そして全てを連想的に考え、自分は滅ぼされるんじゃないか…という、もの凄い疑心暗鬼に陥って、そのために大変な苦しみようでした。それこそ新聞の折込チラシの、たまたま、ついたに過ぎない折り目を「ここに意味があるのよ」と言ったり、白い物を手当たりしだい窓際に並べて「(旧)ソ連のスパイが攻めてくるから防がなくちゃ」と言ったり…。こっちも苦労しました(笑)
御陰さまで私自身がネルヴァルの作品を読むときに大いに参考にさせていただけるというものです(笑)

今回の質疑においては貴方の御質問本文から、件の作家或いは、その表現方法に対する反発心が強いコトバで表現されていると感じたのは私側の事実ですし、それ故に貴方側にとっては不要な話が含まれてしまっていたというのも残念ながら事実でした。でも今となっては御質問の文に軽みを出そうと思われたというのは理解できます。
実は私、ずっと以前に、スパスパ言い過ぎて冗談キツイなどと、文体その他について激しい攻撃を受けたことがあるんです。そうかと思えば私の文章が、とても気に入ったと言ってくださるかたもいるしで、本当に人の感受性とか主観というのは様々であると思います。。。

>貴方は始めから厳しい悲壮さで文学の話をしていたのだなということが今読み返してみると感じます。

いや、違いますって~(汗)
まぁただ、今にして思うと、最近起きた出来事が影響してか、根本的に文学精神の発露とは逆行しとるんじゃないか?!という怒りを抱えてたもんだから、この御質問を拝見したとたんに、やたらネルヴァルの肩を持ちたくなる反応を起こしていたように自覚できますね。。。最近ハラのたつ事多くてね。。。「悲壮」な感じがしたとしたら、その怒りのせいですよ、きっと(笑)私は文学論をブチあげられるような教養なんて、からっきしないんですから。。。
先にも申しましたけれど、挙げた話は、いずれも私自身の実際の経験を土台に述べていることで、それだけに固有名詞などを出すわけにはいかないので結果的に「暗示的な」表現のように感じさせてしまったようです、しかし私としては決して貴方と、その御質問そのものを無視して全く無関係なことを述べたつもりはなかったのです。弁解がましいですが御理解いただけましたら幸いです。
ただ、質問者自身にとって必ずしも当を得た回答でなくとも、他の閲覧者にとっては参考になる場合だってあるのですネ。その意味で、ここでの質疑応答は決して質問者と回答者の間だけのやり取りではないと申し上げ、だからこそ肝腎の当事者の意向を抜きにして削除されることすら現実あるわけなんですね。。。

私は本来、基本的に実害があるのかどうかで判断するだけの単純大雑把なニンゲンです。ですから私からみると御質問者様のほうが、よっぽど潔癖なんだなというイメージでした(笑)

>こんな感じです。仲直りしていただけます?もう私の回答に答えるのは嫌でしょうか?また、このカテで質問してみたいんですけど。。

もちろんもちろん!ケンカだとも思ってませんでしたし。かつて、このサイトで伝説になる?くらいのド修羅場を演じた身としては、こんなの、なんてことない(笑)
お若いせいなのか感性が元気なんだな~という印象を持ちました。
いつかは私みたいに筆折れ本を閉じ、難しい話に顔を顰め、数式を見れば「あーやだやだ」と舌打ちし、どんな感情も長続きさせるだけのエネルギーが減少の一途…なんてトシが来ちゃうかもしれないのだから、好奇心バクハツさせ続けてくださいな。期待しております!(笑)

この回答への補足

下の、質問者様のとこ、回答者の間違いですね↓

補足日時:2007/07/01 11:52
    • good
    • 0
この回答へのお礼

色々と、失礼致しました!!これで、万事落着ということで。。!
始めから、分かっていたら、、、なんと言うか、質問者様の答え方はストイックでけずられてるんですよね、で、私の方は想像力が足りず。という具合に。
そうか~。閲覧する人がいるから自由な発言をできないというのも一理ありますね、私はこういうことにまったく頭が回らないんだなぁということに気付いてきました。
とはいえ、攻撃を受けるというのは本当に疲労することですからお詫びします。。私も、このサイトでイザコザを起こし、最後に、「結局女と話あっても無駄なんだよね!」という言葉でたちきられ、パソコンの前で怒りにもだえたのでした。(笑
今回のことをバネに、裏に裏を想像して理性的にあろうと思いました。。
何度もご回答有難う御座いました!
また文学カテで見かけたら、こりずにお答えくださいまし。(笑
お元気で。

お礼日時:2007/07/01 11:52

御返事拝見しました。

なるほどやっと少し分かってきたように思います。
貴方が何故、感情的な反発を私に示されたか、その理由の一つに私の「足場」「今いるその場所」というものが不明なために「暗示的な」印象を与えたうえ「厳しい悲壮さが感電してくる」ような印象すら与えてしまった、ということが大きくありそうですね。これはこちらも配慮が足りませんでした。
私の側から言わせていただきますと、貴方の御質問に用いられているコトバが殊更ネルヴァル或いは、その表現方法に対する激しいまでの反感を思わせるように感じ取ってしまったからかもしれません。その点で私も幾分、感情的な始点が含まれていたのでしょう。それは
>二番目の回答あたりからいかに反発を感じたかということ

すでに申し上げましたが、こちらもまたNo.2のかたへの御返事のなかの「魂胆」「意図」というコトバを目にして強化されたことでもあります。それこそネルヴァルの作品に対して「束縛された」姿勢で向かっているような感じを受けたのです。
自分の個人的な感情、文章で表しきれないものを、こうして「分かってくれない」と不満を述べられる貴方が、すでに古典的文学としての位置を築いているようなネルヴァルの作品をとり上げて「分からない」「疲れた」「いかがなものか」等々と疑問を呈されておられることが奇妙な感じにも思えたのです。
研究者として紐解く必要がある人なら、時間枠なり事実との関連なり意図があったかどうかとか現実的な視点から探る必要はあるのでしょうが、一般人の読書というのは、むしろそういった諸々から解き放たれているからこそ純粋に楽しむことができるのではないか、それこそが我々の特権ではないのか、そういうことを最初の投稿で申し上げています。
ところで
>暗示的な要素を用いて話を進めるのが許されるのは精神のまっ白さと、思考の欺瞞のなさが強さとなって、他人にことばをかけるとき強者であれることが許されるような存在だけではないですか?そうでない場合は自身そのもので話すべきだと思います。

まさに、これこそ御質問者から引き出したかった御考えですね。で、ネルヴァルのような作品の場合どうなのでしょうか。
ここで個人的な種明かしめいた言いかたをするならば、もちろん他人が関わっている以上、限界はあるわけですが(「別の立場になろうとしながら話す」ような印象を与えてしまったのは多分そのせいもあるでしょう)「真相の掲示」を私はできる立場です。最初の投稿のなかでも、そのことを真っ先に述べているつもりです。「暗示的」に話を進めているつもりはなく、むしろ逆なのです。
実際に自分で経験したことであるということは、もう何度も申し上げていますが貴方のおコトバをお借りすれば「精神のまっ白さと思考の欺瞞のなさが強さとなって、他人にことばをかけるとき強者であれることが許され」ていないような者が「暗示的な要素を用いて話を進める」ことを強行する、というようなことが、まさにあったわけなのです。
私がネルヴァルの作品と対比させる目的で、このような現実的な世界におけるコトバの影響力というものについて実際の経験談を持ち出したのは、最近、本来の文学的姿勢とは根本で逆行しているようなものを、あたかも象徴主義だのシュールレアリスムだの文学的実験だなどと称する人たちに出会ったからでして、そういうカン違いをしている人たちに対する考えを、たまたま本御質問の内容と通底する部分があると感じたことで説明のための例示として用いたのでした。
これは貴方側にとっては与り知らぬことでしたから「暗示的」であるとの印象を持たれて違和感を御持ちになったことは私の浅慮でした。
また私側も御質問本文とNo.2のかたへの御返事を拝見しての印象に過ぎませんけれど恐らく御質問者も日常の世界でのコトバに向かう姿勢を混同しておられるふしがあるのではないか、そのように感じていたのでした。そこで表現上、規制される部分があることは承知のうえで現実での事例を挙げてみたところ、私にとって意外なほどに貴方は、その部分に激しく拘り反応なさった。それで「地雷を踏んで」しまったのかなと思ってしまったのです。。。これは失礼しました。

>厳しい悲壮さのあり方が、あなたの誠実

まあ、そんなリッパなものではありませんでしょうが、先述しましたようにコトバの用いかたが非常に悪質で不誠実な例には多々出会っています。しかもと言うか、もちろんと言うか何の必要性も規制もかかっていない場面においてです。それに比して、同じコトバの力を言うにしてもネルヴァルのような作品が我々に及ぼす力とは、ありかたが違うだろう、ということを一番言いたかったのです。
尤も、いまは御質問者様が私の述べたことに違和感を御持ちになったことの原因も察しがついてきましたし御質問者様の御本望と私の受け止めかたがすれ違っていたことも分かってきた以上、やはり早計だったということは認めなければなりません。

>質問者様は大変深い思慮と知識をお持ちの方ですが、その厳しい悲壮さが邪魔して、私のような一般の人間が聞く場合どのように感じるかを述べました。

違いますよ(笑)全然です!まして私は、お察しのとおり「精神のまっ白さと思考の欺瞞のなさが強さとなって、他人にことばをかけるとき強者で」もありません。私も、そのへんの「一般の人間」です。ただ御質問を拝見した段階からネルヴァルのような作品を読むうえで、学者のような追究姿勢や現実の世界で必要に迫られて読み解かなくてはならないような姿勢が何のために必要なのか?と疑問に思ったに過ぎないのです。まあ、このへんは私が御質問者様の文意を汲み取りきれずにネルヴァルへの強い批判であるという受け取りかたに傾いてしまっていたということでしょう。その点で
>すべては提起の仕方の問題

そうですね、お互いに言えることかもしれません。

このサイトでの質疑応答は決して個人的なものではなく参加者、閲覧者全員のものです。質問者側のダイレクトな要望以外のものが含まれているからといって必ずしもサイト側からも質問者側からも責められることはありません。誹謗中傷以外は。その意味で貴方御自身も、なかなか厳しいかただと見受けましたよ(笑)私が質問者側なら実害がない限り、あまり気にせず遣り過ごしたでしょうから。
個人的にやり取りできる場であったのなら、そのものズバリで話すことができたでしょうに。しかし何と言っても、そもそもが読んでいないのですから自分の単なる自由な感想を述べることもできない。これは改めて、お詫びしなければならないことです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なんと!!
お互いの話が中和した印象です。
私は今、貴方を攻撃したことを徐々に後悔しております(遅いって。)
多分どっちの方からも、「これくらいのことは前提を話さなくてもわかってもらえるだろう」と考えながら、相手の態度を予想し、こじれてしまったのではないでしょうか
異なる感性の衝突は難しい、失礼ですが、期せずして、よい経験になりました。こんな風に異なる感性の方だとは予想していませんでした。
例えば、私の質問が反感的な印象を与えるとは、予想だにしなかったのです。あえて、軽い印象をのせようとしたほどだったからです。
うーんとにかく失礼致しました。貴方は始めから厳しい悲壮さで文学の話をしていたのだなということが今読み返してみると感じます。
変に、怒れる若者をやらかしてしまったような気がしてきました、失礼。私の方で、主観的すぎる部分ありましたね、
最後に、この話あいが貴方と私のものだと述べたのでは、ここでのやりとりは私と貴方の関係でしかなりたたない、態度であり、言葉であるという意味です。例えば、私の言葉を読んで、「なんだよ!俺は腹が立ったぞ、この言葉は!撤回しろ!」と言ってきたとしても、私はその言葉を貴方に対し、貴方との関係、前提のみでいったのですから、その怒った人間にそのまま通用する言葉ではない。その人間に対する私はまた別の態度がある。だから他の介入があってもそれは意味がない、と申しました。勿論差別用語なんかが混じってたら別ですが。。。

こんな感じです。仲直りしていただけます?もう私の回答に答えるのは嫌でしょうか?また、このカテで質問してみたいんですけど。。

お礼日時:2007/06/29 23:07

いい加減にしたいとは思いますが御質問者様の御返事があまりに感情的な曲解を含んでおられるので、そこはハッキリと申し上げておきます。



>2番の回答者さんはここでは関係ありません、私と貴方の話ですから、回答はどこにもないでしょう。もうすでに、ホンモノの回答については、私と貴方の間では話し合われていませんよね?態度と態度での話し合いになっています。だから内容については水に流してしまいましょう。

ここはQ&Aサイトですから「私と貴方の話」ではないと思います。多くの人たちが閲覧することを前提にしています。「態度と態度の話し合いになっている」というのは具体的に何を仰っているのか私にはよく分かりませんが、「水に流してしまいましょう」というのは回答者側に対して、いかにも蔑ろな姿勢でいらっしゃるものだと思います。

>私が問題がある問題がないを扱ったのは回答者さんが引用なさった裁判沙汰の話の中で申したのです。ネルヴァルはここでは何の関係もありません。

そのとおり、私はネルヴァルのような作家が我々にとって何の問題があるか?ということを強調するために一つ現実的な例として挙げただけだと申し上げていますが?
ところで
>狂気と幻想の詩人とよばれるネルヴァルのようですが、フェチな情熱がないと読み込めるものでないとう気がしました

御質問は、このようなお話で始めておられます。ですから私は自分の実際の経験から狂気の人のコトバの用いかた、社会的な場面でのコトバの力、それゆえの読み解きかたと、その必要性、他者へのコントロール目的のコトバの用いかた、それとは逆のコトバの用いかた、そういう対比のなかで説明しようとしたのだと申し上げているのです。で、コントロール目的のコトバと文学としてのコトバの用いられかた、また、それに対する受け止めかたとは逆位置に立つものではないか、現実に他人との間でかわされるコトバは様々な面で「政治的」(この意味も恐らく、あまり御理解いただけていないように思いますが)側面を持つものだけれど、それに比べてネルヴァルのような作家のコトバというのは、どうなのか。それこそ「貴方とネルヴァルの話」ではないのですか?

>話の前提を変えられては困ります

それは私が言いたいことですね。

>私がいかがなものかと述べたのは問題をかんじたからではんなく、どういうものなんだろうという素直な疑問です。疲れたと申したのは現に分からなくて疲れたからです。ここは私の説明不足だったかもしれません。

質問文だけでは、とくに文章力が乏しい人の場合、誤解を招く表現になりがちなのは、このサイトでも、よく見かけること、従って回答も質問者の望むような方向からそれがちになるのも、よくあることです。その行き違いを、お互いが歩み寄って調整していくしかないものですが、正直、貴方の態度からは御自分で仰ったとおりの大変頑固なものを感じます。よほど精神的方面からの問題や、それに伴う現実に及ぼす影響といった面から例を挙げたことに対して御質問者の個人的背景への引っ掛かりを刺激したものと察しました。それは

>回答者さんのコトバ自体(物語に対する理解など)ではなく、個人的な感覚ですが、私への回答態度に、ある種の態度に反発を感じたため、失礼な言葉を述べました。この私の態度はお詫びしなくてはならないでしょう。

この御返事によって、よく分かりました。言わば地雷を踏んだのですね、私が。しかしなお、まだその上、私に対して反発し続けていらっしゃる。御自分で仰るとおり、まさに個人的感覚によって。

>私がそのような感じ方をしたのは事実です。

だから?「個人的な感覚です」ということだけは辛うじてわきまえていらっしゃるんですよね?
私は、貴方の御返事という客観的事実によってハッキリ申し上げます。
非常に失礼です。

>最後まで不愉快なお礼であったことお詫びします。ですがこれが精一杯の態度です。

貴方は欺瞞のコトバを使う人なのでしょうか?恐らく、そこに触れられたような感覚があって、私に対して筋違いの反発を感じたものでしょうか。

>私の話の流れを読んでくださってます?

貴方自身はどうなんですか?
自分が自分が、という感情だけでは決してネルヴァルに限らず、どんな作家の作品にも寄り添えることはないでしょう。それどころか、ごく日常においての他人のコトバに対してもです。
それは貴方が時間枠だとか出来事との関連だとか意図だとか、そういう至って現実的な条件によってネルヴァルの作品を紐解こうとしていることから伺えます。そして、だからそういう姿勢というのは、研究者とかならともかく、もっと現実的な世界でのコトバの力に対して臨むやりかたで、それを説明するために私は自分が実際に知っている現実の事例を挙げたのです。

>勿論変人の戯言だとつっかえしてくださって結構です。

御質問文のなかにおいてもネルヴァルについて「これってほとんど変人の戯言とギリギリのところではある。。(本音」
と仰ってる。
もし御自分をネルヴァルの仲間のように感じておられるのだとしたら質問すること自体が奇妙なことです。
ネルヴァルの作品は「変人の戯言」の類なのですか?
そう思うなら、そう思えばよいだけのことですが、それだけに過ぎないのなら何故、長い時代を経て、こんにちまで残っているのでしょうね?

この御質問の文章だけでは本当のところ何を問いたいというのかすら把握しきれなかったわけですが、それは場合によっては数度のやり取りで緩和されるかと思っていたものの、最初から回答者の投稿内容に対して非常に個人的感情を土台にした判断を下していらっしゃる。それも回を追うごとに強まっている。それだからネルヴァルのような作品についても狭量な捉えかたをなさるのかなと思います。
貴方の御質問に投稿したこと後悔しています。

この回答への補足

私の質問に対し多大なご苦労をかけたことお詫びします。
多分私が感情的で質問者様が地雷を踏んだのだと考えてらっしゃるのでしょう。証明できなくて残念ですが、私はサイコではありません。普通の人間です。(このサイトではよくこういうことが問題になるのでつけくわえておきます)始めの部分で私もそういう種類の人間なのでといってのは比ゆですし、こちらの態度を和らげることで私は本当の言葉を探ろうとしたのです。
私は今質問者様に反発はありません。
ただ二番目の回答あたりからいかに反発を感じたかということを誤解のないように説明したいと思います。

補足日時:2007/06/29 14:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私は質問に関連のない回答だったから反発したわけではありません。どんなに回答と関係のない自由な回答であったとしても、(いかにぶっ飛んでいても)それが束縛されたものでない限り私は耳をかたむけたろうと思います。というかそういう回答を、待っていました。また束縛されたものであっても正しい足場からの言葉だったら問題を感じませんでした。
私の言いたいことをどうやって伝えたらいいのか分かりません。私には質問者さんの仰ることが別の立場になろうとしながら話す人の言葉に聞こえた。
イヤミなようですが、暗示的な要素を用いて話を進めるのが許されるのは精神のまっ白さと、思考の欺瞞のなさが強さとなって、他人にことばをかけるとき強者であれることが許されるような存在だけではないですか?そうでない場合は自身そのもので話すべきだと思います。それとも、真相の掲示ができる方なのでしょうか?私は責めているわけではありません。
さらに、私は裁判沙汰の話でうんざりしてしまったのです。しかもそれは自由な提起ではなく、質問者さんの厳しい悲壮さが感電してくる感じなのです。
質問者様は大変深い思慮と知識をお持ちの方ですが、その厳しい悲壮さが邪魔して、私のような一般の人間が聞く場合どのように感じるかを述べました。
最も、今はもう反発を感じません。その厳しい悲壮さのあり方が、あなたの誠実だということが分かるからです。むしろ好感を持っています。
ただ、そうだとしても、私は貴方の今いるその場所が(私や、他人に対する時、貴方が座っていらっしゃるその場所。)貴方の場所だという感じがしません。思慮深い方ですが、自由な気を感じません。そうだとしたら、別の足場のあり方があるはずだと思います。思慮部深く知識のある方だからこそ、足場のあり方が大事だと思います。
すべては提起の仕方の問題でした。

お礼日時:2007/06/29 14:32

何度も連続投稿ゴメンなさい。

。。
御質問本文を拝見した当初は、「いかがなものでしょうか」という疑問形からネルヴァルの表現方法に対して、たいへん批判的な気分でいらっしゃるのかな?と感じました。それでコトバというものの扱いかたが独特な例を、ネルヴァル自身が精神的持病を持っていたということもあって、とくに精神病質の視点から説明を試みてみたのです。
精神的な問題というのもレベルがいろいろですから、完全な発病状態にある人、日常の生活レベルのなかで大小の問題を発現させる人、また同じ「文学作品」という括りのなかでも扱われかたが様々であること、そういった諸々を挙げながら説明してみようとしたのですが、なるほど御質問者様の御気持ちは最初の頃よりも分かってきたように思います。
でも
>今度はばっちしです。分かりました。
>そういった作家に問題を感じないわけです。回答者様は問題を感ずる。

さあ、どうでしょうか???
ここを拝見して、また疑問を感じてしまいました。
だって私は最初からネルヴァルのような作家に何の問題があろうか?というスタンスですもの?むしろ、では御質問者様はネルヴァルに問題を感じていないにもかかわらず何を質問なさったのでしょうか。
ANo.2様への御礼を拝借して失礼ですが
>結局読んだこと自体が幻になってます。。
因果関係や時間がよくわからないから分からない~ぐちゃぐちゃにして読者を巻き込もうと言う魂胆でしょうか?
>関連がよく分かりませんでしたが、この中にも何か脈絡というか意図があるんでしょうかね。。?

ここを拝見して、やっぱりそうかと思ったので引き続き投稿させていただきましたが。。。

>現実のヒントそのままが物語に入るわけじゃありませんよね、一面の汲み取りでしかない。起点でしかない。ヒントになるものが現実で果たす役割や位置関係がそのまま物語と一致する訳でもないですし、当たり前の言い方ですが。場所や前提(想像界と現実が逆転する)が変われば要素の果たす役割も効用も違いますよね。。?

さあ、それは私には分かりません。と言うよりも「現実のヒントそのままが物語に入」っていてもいいじゃないか?と思います。「一面」どころか前面汲み取り大いに結構。一般読者には関係ない。と思うんです。
但し。条件下によっては、そうはいかない場合も、もちろんある、「ヒントになるものが現実で果たす役割や位置関係がそのまま物語と一致する」ことを企図されている場合もあり得るし「役割」や「効用」に影響を及ぼす場合もあり得る、コトバというのは、そのくらい力のあるものだということをネルヴァルの作品が与えてくれるものと対比させて、可能な限りで現実的な例を挙げたに過ぎません。「裁判沙汰」も、その一例に過ぎません。それはまさに
>頭の中をそっとしておいてくれない
暴力的な世界で、そんなものに比べたらネルヴァルの独り言は我々にとって、いかにも罪のない、想像の翼を羽ばたかせる切っ掛けにはならなかったのでしょうか?と言いたかったのです。これは実際読んでいない者の弱みでもありますが。。。
そうですねぇ、こんな長々投稿するよりも、ひと言簡潔に「時間枠やら流れやら関連やら、そんな背景はどうでもいいから、自由に楽しむべし」って回答すればよかったですかねぇ。そういう雑多な背景の諸々を突き抜けて楽しめなかったのだろうかな?と思ったのです。御質問を読んだ限りでは。

>ネルヴァルの真意を読み解けるかどうかって全然別ですよね?まるで選挙に投票しない人間、社会参加しない人間は文学の真意を知れずみたいな。。

ですから全然、私が言いたいことと違う。(説明のヘタさかげんを棚にあげまして;)
「ネルヴァルの真意を読み解けるかどうか」に何が必要なのでしょうか?
「物語はフィクションである」
ネルヴァルにとって、本当にフィクションに過ぎなかったのでしょうか?そこに読者をコントロールしようという野心や欲望の片鱗でもありましたか?彼にとっては、まさに魂の真実からの吐露だったのではないのでしょうか?何故、貴方は彼の魂の声に寄り添って御自分の心の翼を広げるままにしないのでしょうか?何故、疲れなければならないのか?
――とまあ、このように思ったわけなのです。

>私は「フィクション」の中の言葉に圧倒されます。それは現実に力を及ばせます。

その現実に及ぼす力は、現実を悪くするものですか?そうではないですよね?「フィクション」だと分かっていながら貴方はネルヴァルのコトバに圧倒された、それは何ら邪な影響を及ぼす力ではないはず、享受してください、私は、こう言ったつもりなのです。

>物語が政治的にいかなる暴力性を持っていても構わない意味ではありません

ええ、そういう「物語」も存在し得るのです。暴力的な「物語」は現実生活の時間や物事の流れに悪しき影響を及ぼします。
それとネルヴァルの物語とは、いかに違うでしょうか。
こうした作品は私自身それほど、なじみがあるわけでありませんので、鑑賞態度などとアドバイスする資格もないようなものですが、時間の流れとか現実の関連とか、果ては意図ですとか、そういったものを介在させてもしょうがないと思うのです。先にも申し上げましたが作者の魂の声に寄り添い自らも心を飛翔させんとするならば。「疲れ」てしまってるようでは残念なことじゃないかと。

うーん、最初から、こう簡潔に言えばよかった(笑)何やってんだろ;
gb様の御回答を待ちましょうね、ホンモノでいらっしゃいますから。
ああ~ホント失礼しました、何度も御返事させてしまって申し訳ない(苦笑)
貴方の読書が実り多いものでありますように。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私の話の流れを読んでくださってます?
だって私はネルヴァルのような作家に何の問題があろうか?というスタンスですもの>ここで私が問題がある問題がないを扱ったのは回答者さんが引用なさった裁判沙汰の話の中で申したのです。ネルヴァルはここでは何の関係もありません。
またその下の物語についての話も、回答さんが作家が親しい人を巻き込む話をなさっているから申したのです。話の前提を変えられては困ります
で。。。私がいかがなものかと述べたのは問題をかんじたからではんなく、どういうものなんだろうという素直な疑問です。疲れたと申したのは現に分からなくて疲れたからです。ここは私の説明不足だったかもしれません。
今回の回答の、示唆的な内容の部分から、やっと回答を頂いたなという印象です。
私は、回答者さんのコトバ自体(物語に対する理解など)ではなく、個人的な感覚ですが、私への回答態度に、ある種の態度に反発を感じたため、失礼な言葉を述べました。この私の態度はお詫びしなくてはならないでしょう。
ただ私がそのような感じ方をしたのは事実です。私の言葉、私のニーズにこちらを向いて話て下さいということを、私は失礼な言葉にはなりましたが、全面で訴えたわけです。細かい言葉の中に私はそれを感じます。最も、今回の回答からだいぶ和らぎましたが、それでもひっかかるものがあります。勿論変人の戯言だとつっかえしてくださって結構です。
2番の回答者さんはここでは関係ありません、私と貴方の話ですから、回答はどこにもないでしょう。もうすでに、ホンモノの回答については、私と貴方の間では話し合われていませんよね?態度と態度での話し合いになっています。だから内容については水に流してしまいましょう。

最後まで不愉快なお礼であったことお詫びします。ですがこれが精一杯の態度です。最後の部分の示唆は得る部分がありました。感謝致します。

お礼日時:2007/06/28 11:38

御返事拝見しました。


>微妙な疑問を混ぜこんだことで回答者様の手間をおかけしたようで申し訳ない。
妄想者についてゴチャゴチャ書いたのは、私自身が「お前、何のこと話してんの!?」と言われる種類の人間であるため、ついつい反発しまったのです。

ああ、そうなんですか?(笑)
いやいや私のほうの説明が拙かったと思います。こちらこそ失礼しました。ことほどさようにコトバのやりとりは難しい。私の技術も未熟なもので;

>その、作家の裁判沙汰>>の部分ですが、正直私にとっては「どうであってもかまわない」、というのが正直な感想です。こんなにうるさいこともないと思います。結局物語は「フィクション」だと思うからです。話に親しい個人をさしこんでいたとしたも、それは想像の起点でしかないという気がします。もちろん深い問題に発展する場合もあるでしょう、<時と場合によります>

他人事のスタンスなんですね。ですから私が拙くも取り上げた例が御質問者様にシックリ来なかったのでしょう。
私が、このような例を持ち出したのは何故かというと、こういった類の一連の事が実際私の身の上に起きたのですが、そのこと自体を、さしずめ「文学的創造行為」「文学的実験」と称する作家でもなんでもない人と日常の延長線上の場所で出会ったからです。
私自身は元々もの書きを目指していた時期が若い頃にありまして、コトバというものに無関心ではいられなかったのですが、だからといって決してコトバに対して全幅の信頼を寄せてはいませんし、むしろ問題点のほうを重視しています。従って文学というものにも最上の位置を与えておりませんと同時に単なる娯楽であればいいとも思いません。もちろん仰るとおり「時と場合に」よると思います。

ところで御質問者様はネルヴァルのコトバによって
>気が触れそうなくらい疲れ
>ぐったり
>クライシス
>揺さぶられるものはありましたが、そこまで入り込む情熱は今のところありません。
>こういう火薬の投げ込みみたいな文学っていかがなものでしょうか。

と、疑問を呈しておられます。その疑問は、まさに彼のコトバの力を重くみたからに他ならないのではありませんか?でないと

>結局物語は「フィクション」だと思う

この御意見と矛盾しますよ?
そこで私が申し上げたのは、日常の延長線上でのコトバというのは現に生きて活動を行っている人間にとって実に危いものである、楽しめることばかりではない、場合によっては取り返しがつかない事態をも引き起こす。それは、たとえ文学というジャンルにおいて指し示されたものであろうと現実に今生きている人間であれば、同じく現に今生きている人間その表現によっては訴えられる事態にもなり得る。
しかしネルヴァルなどは先にも申しましたように国も時代も違う。ましてや御質問者様にとっては、どのような作家においても

>「どうであってもかまわない」、というのが正直な感想

なのですね?少々イヤミな言いかたになりかねませんが、しょせん他所事ではないか、というスタンスをとるならば、そもそもネルヴァルの真意を紐解かなければならない必要性もなく、またそうすること自体、全く不可能でしょう。

実は文学というジャンルに限らず、コトバというものは多分に政治的な側面を含んでいるものだと思います。
私が何故、日常生活のなかのコトバのトラブルメーカーを、わざわざ取り上げたかというと、こうしたことが、たとえばナチスのプロパガンダのようなものと底のほうで繋がりを持つ面を孕んでいるからなのです。大げさではありません。
そこでコトバの持つ圧倒的、侵食的な影響力――これがあるからこそ、時に裁判沙汰にもなるわけなのでしょうが、その対比のもとに改めてネルヴァルへの視線を御検討いただきたかったのです。

>作家がもしコントロールしていたらつまらないよ、ということを私に示唆して下さっているのでしょうか?
私には回答者様の声が聞こえてこないのです。

作家は自分の産み落とした作品世界のなかで神に等しい権力者です。それでも経験のある人は、決して、その権力を全うしきるものでもないことを知っている人は多いようですが、これを言わば現実にやっちまおうというのが、私が引き合いに出した現実世界での大なり小なりコントロールを企図する者です。そして現実の周囲に何らかのコントロールを及ぼす意図を持つ者は必ず対象からの望ましい反応を要求しますが、ではネルヴァルは、そのような意図を持って自分の読者に何かを要求するのでしょうか?
ネルヴァルを読んで「クライシス」だと仰る御質問者様は、コトバの力というものに圧倒されていらっしゃるのか、ではネルヴァルのような存在のコトバを、どのようなスタンスで受け止めればよいのだろうか。
私は、そのことを示唆したつもりだったのです。
ANo.2様の
「それを読むわたしたちは、キジの羽によって刺激されたわたしたちの想像力を解き放ってやらなくてはならない。」
先にも申し上げましたが、ここのところ、大事だと思います。
まだ「声」は届きませんか?説明がヘタでゴメンなさい。

この回答への補足

お返事アリガトウございます。今度はばっちしです。分かりました。
また反論ぽくなっちゃいますが、、、

他人事のスタンスなんですね>そう思われても仕方ないですが、それは違います。よく考えて下さい。私はそういった作家に問題を感じないわけです。回答者様は問題を感ずる。

ここの分かれ目に正しいも間違っているも存在しないと思いますが、それが問題であると感じない私にとっては 他人事であるスタンスどころか 私にとっては誠実な態度な訳です、他人事のスタンスとは違います。ここは頑としてハッキリしております。

私は依然として物語のヒントを私的な生活から得るということに問題を
感じません、上手く説明できなくて申し訳ないですが。。

現実のヒントそのままが物語に入るわけじゃありませんよね、一面の汲み取りでしかない。起点でしかない。ヒントになるものが現実で果たす役割や位置関係がそのまま物語と一致する訳でもないですし、当たり前の言い方ですが。場所や前提(想像界と現実が逆転する)が変われば要素の果たす役割も効用も違いますよね。。?
場所や前提が変わると言うことは何においても、天地がひっくりかえるくらい、物事の要素の意味を変えると思います、これは微妙な違いじゃないです。
ここは余談ですが、さらに感覚的にいえば、頭の中をそっとしておいてくれない世界が私は恐いのです。人間の神秘の部分はそのまま現実に適
用するわけじゃないんだ許してくれよぅ、と言うでしょう。

補足日時:2007/06/27 23:49
    • good
    • 0
この回答へのお礼

しかもこの裁判沙汰がどうでもいいと感ずる私が ネルヴァルの真意を読み解けるかどうかって全然別ですよね?まるで選挙に投票しない人間、社会参加しない人間は文学の真意を知れずみたいな。。
さらに、、物語はフィクションであるという私の意見に対し
>この御意見と矛盾しますよ?
のとこですが、よくわかりません。フィクションである物語から私が打撃を受けるというのがそんなにおかしな矛盾したことでしょうか???????私は「フィクション」の中の言葉に圧倒されます。それは現実に力を及ばせます。
コトバが政治に影響を及ばせるというのは勿論よくわかります。だからこそ自由であるべきだとも思います。
ただし物語が政治的にいかなる意味を持つかと言うことと 私がその物語からいかなる影響を受けるかということはまったく別だと感じます、全然影響しあわないことです
ここが分かれ目なのでしょう、私にはこの二つに何の関係があるのか理論でも感覚でも理解できないでしょう。
(注*物語が政治的にいかなる暴力性を持っていても構わない意味ではありません)、 
頑固ですみませんでした。
きっと読みのスタンスが違うんでしょうね。

お礼日時:2007/06/27 23:55

御返事拝見しました。


いくつか御理解いただけていないようですので再度。と言っても、もちろん「話がぶっ飛んでらっしゃる」私が悪いのです(笑)

まずネルヴァルを単なる「トラブルメーカー」であるというとらえかたを私はしていません。そんな必要はない。まぁ確かに彼は御質問者を「クライシス」に突き落としはしたわけですけど(笑)しかし、それはそれだけネルヴァルの力量でもあるわけですし貴方が彼の作品に真摯に向き合おうとした証でもある。

>トラブルメーカーの言葉が純粋な魂の言葉ではなく、むしろ隠すためであるという仰ることは分かるのですが、その辺の線引きは難しいものだと存じます。隠すための言葉で語ると言うことがその彼にとってのむき出しの魂のあり方なのかもしれません。だとしたら別に隠れるための魂のあり方ではない。また、そういう自分自身のあり方を妄想の人は自覚していることもあるのではないか

ネルヴァルを単なる「トラブルメーカー」であるというとらえかたを私はしない、する必要もない以上、私が現実の日常生活で出会う人々と同一線上には扱いません。すでに文学のカタチとして指し示されているもの、それはつまり我々の側にも基本的に選択権が与えられているわけですけど(そしてANo.2様のおコトバをお借りすれば「読者というのは単にページをめくっているだけではなく実は大変な働き者」であるように、作者と読者は対等、読者によって作者の仕事は完成される。その点カフカの遺言は意味深)現実の日常で否応なく巻き込まれるトラブル、これには選択の余地がない。むしろ選択を敢えて行おうとすること自体に激しい摩擦が生じてくるものです。このへんの重みが断然違う。だから日常のなかでトラブルをもたらしてくる相手に対しては、それに応じた手段で闘います。それが、たとえば妄想のようなかたちで暴力的にもたらされるならば、必然それを読み解かなくてはならなくなる。楽しみでやるわけにはいきません。
そして、やがてのことに読み解いてしまえば、そのツマラナサにウンザリし果ては侘しさすら催してくるのです。こちらから求めたわけでもなんでもないのにね。それが現実の背景を知っていることの違いだと思います。

>隠すための言葉で語ると言うことがその彼にとってのむき出しの魂のあり方なのかもしれません。

そうです。ですから「隠す行為によって、かえって本心が出てしまってる」と申し上げました。そして
>そういう自分自身のあり方を妄想の人は自覚していることもあるのではないか

このへんは微妙です。すでに述べておりますが明らかな病理として発現している場合には、そのあり様は日を追って激甚となり且つ本人の自覚も殆んど或いは全くないようです。しかし、ここまで来ると、まず普通に生活ができない。ここでは日常生活を辛うじてではあっても営むことができている人のことを取り上げているのです。そういう人の「隠すコトバ」或いは、もっと進んで「撹乱するコトバ」これは間違いなく現実の身近の周囲の人を「コントロールするためのコトバ」です。ですから実際に、それに巻き込まれた者は、あたかも文学作品のようには楽しむことができない、と申し上げたのです。まぁ「コントロール」せずにいられぬ理由に本人の隠れた病理が含まれているという見方もできるかしれませんが。

>そういうことを言い出すとすべての文学で取り扱っていること自体日常でありふれたツマラナイことではあると思います。

文学というのは何といっても人間、そして人間の生活から生まれ、それを描きだすものです。日常的なものがつまらないわけではない、むしろそこから出発している。それが最終的に、どのような荒唐無稽さを伴ったとしても。或いは逆に最後まで説得力に富んだ現実味を伴っている作品には尚更、我々の単なる印象を超えて思考の枠組みにまで影響を及ぼしてくる力強さがあります。
時に話題になることですが、ある作家が身近に接した個人などを、その作品中に登場させたことで裁判沙汰の騒ぎになることがありますね。何故でしょうか?
翻って日常生活のなかで、作家でもない一般人が単なる自己中心の思惑のために周囲の人々を「コントロールするためのコトバ」を使う。或いは単なる本人の娯楽のための戯言として出発したものであっても、そのコトバに戸惑う者が実際いることに味をしめ、その戸惑う様を楽しむために結局は「コントロールのためのコトバ」を吐くようになる。
やがて一人では物足りなくなり自分と徒党を組んで、その楽しみに加担してくれる仲間を求めて止まぬようになる。あとは――どうなるでしょうか?
その人は、いつも怯えなければなりません。罪の菓子を頬張り、その甘味を味わうたび自分に言い訳をして、仲間にも味わうように勧め、自分の正体がバレないよう必死に取り繕い、戦い続けねばならなくなります。その姿が私はツマラナイ、と言ったのです。
もちろん、こうした人を自分の作品のなかで存分に役立てることはできますけどね(笑)
最近も私いくつか太宰治氏に関する質問に答えていますが、実生活で起こしたトラブルと、その作品との関連にまつわるものばかりです。

>妄想の人は妄想「する」のではなく妄想に「囚われる」のだとしたら。
>患者にとっても真実の瞬間が存在するわけで。。。

どうでしょうか。「囚われる」というより、むしろ「逃げ込まずにいられない」というのが実態なのではないかと思います。
ネルヴァルにしたって生前は周囲の人々に「トラブルメーカー」と目されていたかもしれない。しかし私たちにとっては「国も時代も違う、むかーしフランスに生きてた、とある病的な男の人の美しい独り言」に過ぎないのです。だから、むしろ「クライシス」なまでに感興を催させたとしたら、それは作者も、むしろそれ以上に読者側が大したものなのではないかと思います(笑)

>>現実の背景を知っているような相手だと~~責められて当然です。
の部分です。↑
>推測できる立場にある者は楽しませてもらえませんとは読者のことですか?自分自身まで強制的に利用されるというのも読者のことですか?すいません、ここの部分の脈絡が分かりませんでした。

分かりにくくて御免なさいね。
先述しましたが、現実の日常でかかわった個人などを何らかの作品中に取り上げたことで、そのモデルとなった人物に訴えられる…ということが実際に起こります。さて、このモデルは、その作品を楽しめるのでしょうか?
また作品ともいえないような日常の生活の延長線上で、情報が殆んどない相手を自分の妄想の材料として扱い、それを現実のなかに還元しようとすること。
コトバの暴力、表現の自由、文学作品ひいては芸術全般の問題となりかねませんが、ことに文学は人間と、その生活に題材が密接な繋がりを持つものですから問題が大きくなる。御質問者様は、どう御考えになるでしょうか。

ANo.2のかたが上手に説明なさっておられますが(私は、いつも感心しているのです)「時間軸に沿って出来事を話す代わりに、頭に浮かんでくる順番に話している」そして尚且つ頭に浮かんでくるものの内容が事実でなくても全然いいわけです。

「ものごとを直接表現する代わりに、象徴や暗示、メタファーを用います。
たとえば、山道に落ちている一本のキジの羽だけクローズアップして、時間軸からも、因果の文脈からも切り離す。」

何故、象徴や暗示、メタファーを用いなければならないか。
何故、時間軸、因果の文脈から切り離さなければならないか。
それを用いることで何を達成しようと試みているのか。
その試みの前後を読み解かなければならないのか。

「それを読むわたしたちは、キジの羽によって刺激されたわたしたちの想像力を解き放ってやらなくてはならない。」

まさに、ここにこそ我々一般読者の目的(というのも語弊がありそうですが)があるのではないでしょうか。
他者の想像力を「コントロール」することが目的であってはツマラナイものです。また、それが目的である場合には、他者の思惑を執拗に探ろうとしますから、すぐ分かる。
自由に羽ばたいてこそです。ネルヴァルは、そうさせてはくれませんでしたか?
どうせ見るなら上質の夢が見たいものです。たとえ悪夢であっても。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度回答感謝です。
微妙な疑問を混ぜこんだことで回答者様の手間をおかけしたようで申し訳ない。
妄想者についてゴチャゴチャ書いたのは、私自身が「お前、何のこと話してんの!?」と言われる種類の人間であるため、ついつい反発しまったのです。

日常の方は、そうですね、仰る通り否応なし巻き込まれるものだと存知ます。何かどうしても食い違ってしまいますね、ネットって、なんてややこしいんだ!!???笑) 私が日常の延長線上に、、と申したのは現実のトラベルメーカーの話で本のことじゃないです。

文学については。。私は文学論議は知識ゼロですし興味が持てないのでご期待にそえるお返事ができないのですが。。
その、作家の裁判沙汰>>の部分ですが、正直私にとっては「どうであってもかまわない」、というのが正直な感想です。こんなにうるさいこともないと思います。結局物語は「フィクション」だと思うからです。話に親しい個人をさしこんでいたとしたも、それは想像の起点でしかないという気がします。もちろん深い問題に発展する場合もあるでしょう、<時と場合によります>が、基本的に問題を感じません。

現実のコントロールのコトバについては、もちろん楽しむのは無理だと思います。
でも何で、回答者様はトラブルメーカーの話をされたのでしょうか?それと強者のコントロールのことについても。始めの回答で妄想者やトラベルメーカーについてのお話から始まっていたので、何か作家のことと関連を感じていらっしゃるのかな、と思い疑問をつらねてみたのです。作家がもしコントロールしていたらつまらないよ、ということを私に示唆して下さっているのでしょうか?
私には回答者様の声が聞こえてこないのです。

お礼日時:2007/06/27 19:49

ネルヴァル、むずかしいですね。


わたしはあまりここらへんは詳しくなくて、以前『火の娘たち』を「わっかんないなー」(笑)と思いながら読んだことがあるきりなんですが。

まず、こういう作品を前にしてわたしたちが「わからない」と思うのは、「何が書いてあるのかわからない」ということから起こります。
ちょっと寄り道してみましょう。

まず物語というのは、「だれがどうした」という最小の単位でまとめることができます。
「桃太郎」であれば、「桃太郎が鬼を退治する話」という具合に。

さらに物語には出来事がいくつも起こります。
そうした出来事は、通常
・時間的
・因果的
の脈絡で配置されます。

時間的、というのは、出来事Aが起き、出来事Bが起き、出来事Cが起き……といろんな出来事が起こる、それを並べていくことです。
因果的の「因果」は、親の因果が子に報い…ではなくて、原因と結果、ということです。

たとえば子供の作文によく見られるように、
・朝起きて、顔を洗って、歯磨きをして、朝ご飯を食べました。
という記述は、出来事を時間軸にそって並べたものです。

因果的な記述というのは、
・朝寝坊したから朝ご飯が食べられなかった。
というふうに、ふたつの出来事「朝寝坊」と「朝ご飯が食べられない」が原因と結果というかたちで関連づけられたものです。

ここでちょっと気に留めておいてほしいのは、「出来事」というのは時間の流れに沿って記述されるのに対し、「因果関係」というのは時間軸をさかのぼる、ということです。
「朝ご飯が食べられない」という出来事があったから「朝寝坊した」という原因が求められる。
つまり時間軸に沿った記述を読みながら、わたしたちの意識はたえずさかのぼり、前の出来事との関連づけを行っているわけです。そうしながら同時に、無関係な描写や出来事やことがらはたえず取捨選択によって、忘れていきます。
つまり、読者というのは単にページをめくっているだけではなく、実は大変な働き者なんです。

ここで「わからない」というのは、この関連づけができない、ということです。
事実、起こった出来事の時間軸を攪乱するだけで、話はいっきにややこしくなっていきます。フォークナーがその好例です。
試しにここで時間軸を攪乱してみましょう。
・大判小判を手にしている桃太郎の場面
・おばあさんが川へ向かうところのクローズアップ。
・山を散策しているキジから落ちた羽。
・鬼が後ろから金棒で桃太郎に襲いかかる。
・子供をさずかりますように、と手を合わせているおじいさん。


こんな具合に時間軸解体版「桃太郎」は、『エミリーに薔薇を』並みに難解な作品となります(たぶん)。
個々に言及される細かな出来事の関連づけができないから、それを通して語られる「桃太郎が鬼を退治する話」が見えてこない。
これは何の話かわからない! ということが起こってくるんです。だからわたしたちは途方に暮れる。

「あんたの話は何を言っとるのかちっともわからん」と言われる人は、たいていこの時間軸に沿って出来事を話す代わりに、頭に浮かんでくる順番に話しているんです。よく5W1Hとかいう人がいますが、そんなややこしいことも考える必要はありません。自分が話そうとする出来事を初めから最後まで時間軸に沿って語っていけば、必然的に話はその要素を満たしていくはずです。
そもそも言語というものはそういうふうになっているのですから。

さて、ネルヴァル(やっと出た)がとった手法は、のちに「象徴主義」と呼ばれる一群の人々を生みだす契機となったものです。象徴主義はものごとを直接表現する代わりに、 象徴や暗示、メタファーを用います。
たとえば、山道に落ちている一本のキジの羽だけクローズアップして、時間軸からも、因果の文脈からも切り離す。
それを読むわたしたちは、キジの羽によって刺激されたわたしたちの想像力を解き放ってやらなくてはならない。

おっと時間がなくなった。
つづきはまた書きます。良かったらもう少しあけておいてください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。
大変分かりやすく説明して頂き、感謝です。
そうなんですよね、時間がまずややこしいんです。シルヴィなんか読んでても、昔の女の話をずっとしてたかと思えばいきなり現在の女が問題になってる。ぼうっと従って読めばいいのかじっくり外側から時間枠を見るべきなのか。。結局読んだこと自体が幻になってます。。
因果関係や時間がよくわからないから分からないというのいうのは仰る通りですね!ぐちゃぐちゃにして読者を巻き込もうと言う魂胆でしょうか?(笑
あと、火の娘たちの中で、物語がいくつかと、詩と、劇話と、それからナントカへの手紙とかが入りこんでて、その関連がよく分かりませんでしたが、この中にも何か脈絡というか意図があるんでしょうかね。。?低レベルで申し訳ないんですけど、、
質問は、ずっと開いているので、お時間のある時にお立ち寄りくだされば幸いです。
 
 

お礼日時:2007/06/27 15:46

「何をいうのか!すべてが感じる力をもっているのに! 」


とはピュタゴラス大先生のおコトバだそうです。とあるサイトで見かけたんですけどピュタゴラスは秘密結社を作っていて √(ルート)の秘密を口外した者は殺されるとか何とか荒俣 宏『神秘学マニア』に書いてあった気が、と述べられていました。
最近、私に対して、これに近いようなことを縷々述べ続ける人がいて、あまりに底が浅いもんだから元々シブサワ系というのか幻想小説系が好物の私は、もうちょっとマシな幻覚見せられんのかい!って思っきし蹴っ飛ばしたとこですが(笑)

私の叔母は発狂者でした。
発病した前後は、もう本当に妄想が酷かったですが、発病する直前は、それが妄想かどうか周囲は判断し難かったものですから、最終的に暴れだして警察の御厄介になるまでに赤の他人様に大変な御迷惑をかけてしまっております。
タチが悪いのですね、本人は妄想だとはサラサラ思っていませんから、いかにも尤もらしいことを言っているうちは周囲は振り回されて誤解が誤解を生み争いを引き起こし。常軌を逸していると気づいてから「アンタの言ってることはオカシイのよ」と言って聞かすと本人は必死で怒りますし、かと言って「ああそう、そうなの」などと適当に合わしていると妄想度合いは更に激甚を増します。
本人にとっては夢がリアルなのです。その妄想――夢に耳を傾けていますと当人の失望や憤り、悲しみ、願望が手に取るように分かります。これは、こちらが本人の性格、気質、その背景を知っているからです。
よく知らない相手だと、そりゃ騙されます。でも、けっこう世間では多いみたいですよ、こういう「ギリギリ」の人。なかには、わざと最初から「ギリギリ」をやってみせる人もいます。いわゆる「トラブルメーカー」ですね。その理由は大概、欲求不満です。こういう人のコトバは純粋な魂の声なんぞではない、むしろ隠すためのコトバです。しかし隠す行為によって、かえって本心が出てしまってるから滑稽になるのです。見るに耐えない。無理やり食わされるこっちが困る。
シュールレアリスムのブルトンがやってたっていう自動筆記じゃないですけど、ダイレクトな心の声や意識下の世界を表現するという試みとは根本で食い違っているものなど、珍しくもなんともない、日常ありふれているとさえ言える。タイクツ。
ナマの人生、一番オモシロいのは、あるがままじゃ~。
その点、書店や図書館に並んでる本など、どんなに破天荒だろうとタチが悪かろうとカワイイもんです。本のカタチしてること自体が、お約束。さて
『夢はもうひとつの生である』
19世紀フランス後期ロマン派作家・詩人、ネルヴァル。
「こんな人物と友情を育めたゴーチエって相当なお人好し?」という意見も見かけました(笑)
「ゴーチエの親友」、「自称 貴族」。
ネルヴァルは精神的な病や神経症の激しい発作を抱えて周囲の人たちから、もうダメだろうと見做されてしまい、生きながら葬られたような人生だったそうです。「生きながらブルースに葬られ」(笑)
最後は自殺だったそうです。
夢と現実の境界線上を揺れ歩く――
――『死者の視線』(by篠田 知和基)
居場所なき影としての死者。だが死者には夢をみるエネルギーだけが残されている。夢に魅入られた死者は己の夢を憧れと神秘でもって荘厳する。その荘厳の一つひとつを、つまんでみたり引っくり返してみたりしたところで何も出てきやしない。そんなことしたって御質問者がそうであったと仰るように疲れるだけです(笑)私たちは、ただ、その哀しき荘厳を、そっと眺めさせてもらうのです。

現実の背景を知っているような相手だと、自ずと推察が働く部分はあります。全く何をも意味しない物語や、うたなどあるでしょうか?
むしろ現実が、どのような影の落としかたをしているか、いかにして現実の影から遁走しようとしているか、それが推察できる立場にいる者は楽しませてもらえません。何故なら自分自身までが強制的に利用されてしまっているからです。それが気に食わない利用のされかただと当然、不興を買って争いになります。責任取れない病人なら仕方もないけど、自覚があってやるやつぁ、責められて当然です。
さてネルヴァル。
国も時代も違う、むかーしフランスに生きてた、とある病的な男の人の美しい独り言を、2007年の日本の女の子がフト聞いた。「クライシス」なまでに「揺さぶられるもの」があった。それでいいじゃないですか?
現実の生活のなかで生身の人として出会ったのでもなく、研究者でもないのだから。一番楽しめる一般読者の特権です。享受してください。
それくらいネルヴァルに美はなかったですか?
おっと実は私、読んだことないんです。偉そうなこと長々と言ってしまいました。たはっ;
多分、もっと詳しいかたがマトモな解説をしてくださるでしょう(笑)

「眠れない。枕の感触が変だ。開けてみると、なかに骨がいっぱい入っている。」
バリー・ユアグローとかも、また違う雰囲気でオモシロそうですよ。
まだ生きてる人みたいだから(失礼?!)理解し易いだろうか?
個人的には夏目漱石の『夢十夜』は読んでみようと思ってる作品の一つです。あと『夜半の寝覚め』とか。『雨月』なんか個人的に、いまでも大好きですが、日本の幻想譚のほうが、やっぱり理解し易いのかな?心情的に。

読んでもいないのに、お呼びでない;失礼しました。。。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答有難うございます。
うぅん、なかなか話がぶっ飛んでらっしゃるので(失敬。)、つかみきれたかどうか確かではないですが、思うところお返事したいと思います。
それでは妄想の人についての部分から、、、
ネルヴァルを妄想の人という捉え方をするという意味で、引用されたのでしょうか?
トラブルメーカーの言葉が純粋な魂の言葉ではなく、むしろ隠すためであるという仰ることは分かるのですが、その辺の線引きは難しいものだと存じます。隠すための言葉で語ると言うことがその彼にとってのむき出しの魂のあり方なのかもしれません。だとしたら別に隠れるための魂のあり方ではない。また、そういう自分自身のあり方を妄想の人は自覚していることもあるのではないか、と思うこともあるのです。
だとすると我々周りの者は だまされる上にさらにだまされると言うことになります。現実や幻がゴッチャになっているとはいえ、それ自体のあり方がダイレクトである魂もあるということで。
仰るように、こんなことを扱うのは日常ありふれたツマラナイことかもしれません。ダイレクトな心の声を聞くということとは食い違っているのかもしれません。ただ私自身はとりたててつまらないとは思っていません。日常の延長線上に同レベルにあるとゆうことで。。。。
また、そういうことを言い出すとすべての文学で取り扱っていること自体日常でありふれたツマラナイことではあると思います。

また妄想の人は妄想「する」のではなく妄想に「囚われる」のだとしたら。
実際に幻覚患者などは、自分の幻覚にとられる時をを予期しているようにも思われます。患者が妄想に「囚われ」あるいは 幻覚を「予期」するのだとしたら、患者にとっても真実の瞬間が存在するわけで。。。こんな部分を橋渡ししてけば面白いですよね

話が脱線してきました、失礼。。

ここの部分がよく分からなかったのですが。。
>現実の背景を知っているような相手だと~~責められて当然です。
の部分です。↑
推測できる立場にある者は楽しませてもらえませんとは読者のことですか?自分自身まで強制的に利用されるというのも読者のことですか?すいません、ここの部分の脈絡が分かりませんでした。

漱石の作品は面白そうですね。
丁寧なご回答感謝でした。

お礼日時:2007/06/27 11:02

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す