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 イエスは人々の罪を一身に背負う覚悟を決めて十字架にかかったのだと思いますが、そうだとすると、なぜこんな泣き言のような、神を恨むような言葉が出てくるのでしょうか。

 正しい解釈を教えてください。

A 回答 (3件)

リンク先から引用


「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」は、詩篇22篇1節、後に神への賛美が続く出だしである。イエスは神をたたえる言葉を述べようとして、途中で息絶えたものと考えられる。

だそうです。

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%D0%A5%AF …
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この回答へのお礼

続きがあったのですね。これならば納得です。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/15 22:03

私という人間は


「哲学って、たくさんの経験から 大勢の人に有意義なことをさらに煮詰めて考え、そこから未来を見通し、現実社会を改善してゆく対話を開始するための学問や方法論のことだというふうに自分の中で考えがまとまったために、 哲学の本などほとんど読んだことがないのに、したがってむずかしい専門用語なんてそれこそゼロに近いだろうような知識しかない者なのに、その専門用語を中学生にも解るように解説できないのなら哲学者として失格だという主張を掲げて あらゆる哲学者さんたちに挑戦してみたくなった者、 ゆえに このOKウェーブの哲学カテゴリーにも出没を始めた」者です。

 ほんとは でいるかぎりこのカテゴリーのすべてのQと関わりたいのですが、現在めちゃくちゃいそがしい肉体労働者の形で、さらに83歳の母と暮らす身、 時間の無さといういい訳を ここには良しと判断する者(いい訳のすべてを悪とはみなさない。という考えについては、ここでは略します。)。
このカテゴリーは、
 時間を気にしつつ書きやすいところから片っから書き始めようと思っています。

こんにちは、 

 私の考えでは、 まず神 あるいは存在という事実の 存在自体が(ここまで解りますか。 たぶん難しくないとは思います。)人間の知能とおなじような「意味」という概念を理解できる意識を持っている存在であるとするなら そういう存在は、(以後「神」と記す。)

わたしにとって 常に 自分の意識の小ささ、いたらなさの自覚をうながしてくれる存在です。   だって それだからといって絶対者なんて絶対ありえないのですが、「神」は 存在するとすれば(そう考えるのが自然ですが、あなたという哲学者がどうかんがえようとかってです。)偏在に決まっているのですから また未来のずべてが解るとかいうのではなくてあくまで相対のうちではあっても全能に決まってますから、 { うーむ 書き方がむずかしくなってますね。}
 言い換えれば わたしの 人の痛みを理解するこころや能力なんて いかにたかがしれてるか それに対して神の全部 それを知ってるに決まってる ということなのですが、  わかりますでしょうか、

 それにたいして、自分のちいささが 恥ずかしいというこころが、自分にとっての「神」の概念だということです。

 で  エリ・エリ・レマ・」サバクタニ についてですが、

「神」でないので あなたがどのような理由で この質問をこのカテゴリーに書いたのか解りませんが、  

わたしも 学生時代ですが新約聖書のこの最後のキリストの絶望の言葉のような言葉はひっかかりましたので、60歳になろうとしている今の哲学からこのことについて哲学したことを書いてみます。

 ひとことで言えば キリストという人は ほんとに「神」みたいな人だったのだろうと思います。

 そのぐらい善人のこころも悪人のこころも その因果となった苦しみも 楽しみもその多くの深さも 深く深く深く想像力深く理解できた天才だったのだろうと思います。

 で、「神」の心を意識を代弁しないではいられないようなはげしいはげしいはげしい気持ちパッション(情熱)に突き動かされて生き抜いた人なのだと思う。

 なら  もう意識ももうろうとしてきて、考える力さへ脳に
かすかに残る程度となって、  さいごに絶望した人のこころ挫折し希望を失った人の心、最大の心の悲痛が キリストの言葉として出てきて叫ぶなんて、   ああ ほんものの人間がここにいる って いう感じで
まさに「神」みたいで、すごいです。

 正しい解釈かどうか知りませんが、これ以外には あまり考えようがないんですが、

 間違ってるかもしれませんが いちばん意味を感じる解釈であるような気がします。

 「神」は、助ける役割の存在ではないですよ。 どう考えてもそんなちゃちい存在じゃないですよ。  人間が人間で自分で考えて「神」も見つけていくっきゃないし、  そして、すこしでも良心をもそこに見つけて
 
 人間て、キリストの事にしても偉大すぎるでしょ それをすこしでもみつけながら すこしでも希望を持って前へ進んでくしかないし、

 エリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ、神よ なぜ私を見捨てたのか)
なんて、まさに 

 キリストが  人間 強く生きて という最後の最後の最後の叫びでありメッセージなんではないか  と思うんです。

 すみません  あまし うまくかけないですが。

 
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
キリスト教とは関係ない独自のご研究ということで承りました。

お礼日時:2007/07/16 20:22

[エリ・エリ・レマ・サバクタニ]


そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」だそうですが、これが正しいですね。その他の弟子の解釈は間違いでしょう。弟子たちは誰もその場にいなかったからね。
正確な意味は、「エリア、エリア、ラファエロ、迎えにおいで」
ですね。イエスは最後まで救世主として自覚してなくなったのです。それが真実ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/16 20:21

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