プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

私は長年精神科に通院しています。
対人関係が上手く築けないことが問題です。
過去に「ボーダーライン・パーソナリティ」「自己愛性人格障害」
「アスペルガー障害」など、主に対人接触に関する障害名をいろいろつけられました。

最近「認知療法」というのを知りました。
しかし、関連サイトなど読んでみると、疑問が沸いてきます。

「認知の歪み」ということですが、
その認知が歪んでいるという根拠は何処にあるのでしょう?

例えば「私はダメ人間だ!」と思うとき、それを「認知の歪み」と見なすのか、本当に「ダメ人間」であるかの基準は何でしょうか。
詰まるところ、認知の歪みを正すというのは、
いい意味で「自分の都合のいいように解釈する」ということのように思えるのですが・・・「酸っぱいリンゴ」とどこが違うのかイマイチわかりません。

認知療法=「自らに不都合な認知」を「都合のいい認知」に変換するという解釈だとすると、私にはそれは「現実のダメな自己」から目を背けさせる便宜と思えるのですが・・・

A 回答 (6件)

わかりませんが、とにかく、元気がいい奴や、上になったりする奴は、


意外と、アホであると思います。

そうゆう定義自体が、飲み込めない話しなので、単純に『そんな事考えなくていいんじゃないの?』となんだか地に着いた話になると思います。

元気のアル奴は、結構自分に都合のいい考え方をしている場合も多いと思います。まあ、その代わりに体調を崩す人もいるともいますが。
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この回答へのお礼

>単純に『そんな事考えなくていいんじゃないの?』となんだか地に着いた話になると思います。

まあそういうことかもしれませんが、

私は非常に自己否定感が強く、常に自分をダメ人間だと思いつづけてきました。
しかしそれを「認知の歪み」と簡単に言われることはどうも納得がいかないのです。
「仰る通りあなたはダメ人間です!」と言われたいわけではありませんが、
(負であっても)自己イメージを一言で覆されることに抵抗があります。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~beloved/projectm/kod …

↑このような解釈を悉く「歪み」と言ってしまえるものでしょうか?

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/16 04:13

>認知療法=「自らに不都合な認知」を「都合のいい認知」に変換するという解釈だとすると、私にはそれは「現実のダメな自己」から目を背けさせる便宜と思えるのですが・・・



全くその通りだと思います。自分への言い訳や、良いほうの解釈によって、気持ちを和らげようと言うものです。
あなたはそういった通常の良識ある思考で考えられているので、回復期に入れば病気は十分乗り越えられると思います。

ただ、便宜・・・というと負のイメージが強いようですね。良い例えかどうかは分かりませんが、昨今あった政治家による事務所費事件での彼らの対応はまさにこれです。実家を事務所にしていたなど言っていますがきっと嘘でしょう。しかし、彼らは自分の都合のいいようにしか話しません。『法に触れてはいないし、問題のある処理はしていない』・・・と言うけど、野党から『問題ないなら領収書を出せ』とつっこみが入っても領収書は出しません。総理も『問題ないと聞いている』と自分の責任については話しません。『問題ないと確認した』とは言いません。
しかし、これは正当な(限りなくグレーで有るし、国民は納得しないが)逃げ口だと思います。そこで落ち込んでいては待っているのは辞任です。これはすり替えによる自己防御の一つだと思いませんか。

もう一つ、身体醜形障害の方の場合は、治療にさえ入れないことが多々あります。彼らの多くは外見に問題がない(むしろ外見は良い方が多い)にもかかわらず、『自分は醜い』と思い込んでしまいます。精神科の先生に『あなたはどちらかと言うと綺麗ですよ』と言われても『先生は私の醜さが分かってくれない』と思い、ひどく落ち込みます。本人に病気だという自覚はほとんどありません。

これは自己防御がうまく機能していないから起こる病気なのでしょう。彼らが落ち込む必要などないのに・・・。必要なことは自身を持つことだけなのに・・・。彼らもまた、認知療法などは『現実の醜い自分から目を背けさせる便宜』と思うでしょう。

もしあなたに可能であれば、認知療法というウソ臭い治療方法があるが、それに良い意味で騙されてみませんか。それができればきっと、あなたはいい方向に向かえるのではないでしょうか?

長文となりましたが、批判やご意見いただければ幸いです。

この回答への補足

肝心なことを忘れていました。

身体醜形障害の方は「自分で」醜いと思っているだけで、
社会(世間)からそのように指摘されたことはないですよね。

しかし現在の私の認知を形成したのは他ならぬ社会一般からの
フィードバックなのです。

無論身体醜形障害の方も、「どこかで」「誰かに」傷つけられたのかもしれません。

しかし「どこでも」「誰にでも」ダメ人間と言われつづけてきた私が
「認知の歪み」等といわれて納得できるでしょうか?

自己欺瞞と感じても仕方がないのではないでしょうか?

補足日時:2007/07/16 17:31
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございます。

>「身体醜形障害」・・・というのですか?
それに関するご説明はもっともだと感じました。
私がその立場ならやはり
>認知療法などは『現実の醜い自分から目を背けさせる便宜』
と思うでしょう。

でも私が当人たちを見れば逆に「なんでそんなに自分を醜いと思わずにはいられないのだろう?」と感じるだろうし、
苛立ち、腹立たしい気持ちになるかもしれません。

私が抵抗を感じたのは、予め「歪んだ認知の仕方」というものが決められていて、
そちらが「真」で、悩んでいる人間(の認知)を「非」であると決めてかかっているようなスタンスかもしれません。
また「歪み」という言い方に抵抗があるのかもしれません。

>認知療法というウソ臭い治療方法があるが、それに良い意味で騙されてみませんか。

「不都合な認知で苦しんでいるのだから都合のいい認知に切り替えよう」
・・・結局はプラグマティズムなんでしょうけれど、
なんだか自分をだましているような・・・
「自己欺瞞」のような気がするのは何故なのでしょう・・・

いえ、政治家の喩えに比べて私はそんなにまじめでも清廉潔白でもないです(苦笑)

あなたの身体醜形障害についてのご説明がよくわかるだけに、
自分でもちょっと混乱しています。

こちらこそ、よろしければまたご意見伺えればと思います。

お礼日時:2007/07/16 17:07

>「私はダメ人間だ!」と思うとき、それを「認知の歪み」と見なすのか、本当に「ダメ人間」であるかの基準は何でしょうか。



本当のダメ人間なんているのでしょうか?もっとよく考えれば、ダメ人間というのはそれぞれの人が主観的に思うだけであって、普遍的で絶対的な基準などないことがわかります。しかし、自分をダメ人間と断定してしまうことがあります。これが認知の歪みです。世の中はグレーゾーンのものばかりで、ひとつのことにはいい面と悪い面と存在しています。しかし、認知が歪んでいると、白か黒か、完璧かダメかなど合理的でない考え方に偏ってしまいます。

人格障害傾向やアスペルがー障害の方は偏った考え方をする方が多いので認知療法から得るものは大きいかと思います。偏った考え方はストレス製造機みたいなもので、それこそ24時間ストレスを生産してくれます。

>「認知の歪み」と簡単に言われることはどうも納得がいかないのです。「仰る通りあなたはダメ人間です!」と言われたいわけではありませんが、(負であっても)自己イメージを一言で覆されることに抵抗があります。

「自分は誰にもどうすることもできない状況であることをなんとか証明したい」ようにも見えますが、どうでしょうか?答えが簡単で抵抗があるのは「負の自己イメージ」ではなくて、「自分はそんな簡単な人間じゃない」と思いたい『高い自尊心(自己愛)』ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

反論のつもりなどないのですが、
「ダメ人間である」という絶対的・普遍的な基準は存在しませんが、
同時に「ダメ人間ではない!」という根拠もありません。
例えば0点か100点でなくとも、
45点以下は「赤点」(失格)という基準がありますよね。

別に哲学の議論ではなく、私はどこへ出ても、45点以上を取ったことがありません・・・つまり世間の目から見た自分です。

「絶対的ダメ人間」ではなくとも、「世間的(社会的)ダメ人間」です。
これまで社会は私にこれでもかというほどダメ人間のレッテルを貼りつづけてきました。それらのフィードバックから、
もう「人のせい」や「気のせい」にはできません。
「彼ら彼女らの言う通り」・・・という現状です。

>「自分は誰にもどうすることもできない状況であることをなんとか証明したい」ようにも見えますが、どうでしょうか?答えが簡単で抵抗があるのは「負の自己イメージ」ではなくて、「自分はそんな簡単な人間じゃない」と思いたい『高い自尊心(自己愛)』ではないでしょうか?

的確なご指摘だと思いました。
不思議なことにこう言われてもまるで不快感を感じません。

M沢S夫という医師に「自己愛性人格障害」と診断されたとき、
「ああ、こいつは何にもわかってないな」と感じました(苦笑)

とはいうものの、自分にはどこかへんに気位の高いところがある気もします。
なんだかメビウスの輪のような自分の自尊心に当惑しています・・・

よろしければご意見伺わせてください。

お礼日時:2007/07/16 17:31

まず自分がだめ人間であると言う基準が自分の中に作られている


ということ自体が問題であって数値はあくまで数値であってそれ
以上のものでは無いと思います。たとえ0点でも0点=だめ人間
とは決め付けられません0点は0点です。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。

>まず自分がだめ人間であると言う基準が自分の中に作られている
ということ自体が問題

そうですね。確かに仰る通りです。

でも一般に学校のテストでも、会社の成績でも、
数字はその人の評価い直結していますよね。
無論本来はあなたの仰る通り、0点でも、1件も契約が取れなくてもそれは
その人の人間性とは無関係です。
けれども社会にはそのような視点は存在しません。
0点取れば親や教師、果ては友人にまで馬鹿にされます。
会社でも「ダメな奴」扱いでしょう。

社会の中で、数値はあくまで数字であるとは言えないと思うのですが・・・

先ほどの「自尊心が高い」というご指摘もそうですが、
この「ダメ人間であるという」基準が、
「ダメなものをダメといっただけ」という世間側の主張と、
「ダメダメと言われ続けた結果」
>「自分はダメ人間であるという基準が自分の中に作られた」のか・・・

非常にスパイラルな問題です・・・

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/16 22:37

>別に哲学の議論ではなく、私はどこへ出ても、45点以上を取ったことがありません・・・つまり世間の目から見た自分です。



あなたの言う世間とは誰を指すのでしょうか?少なからず私はあなたをダメ人間とは思いません。これは事実です。
もっと言えば、ダメ人間と誰かに言われたとしてもあなたがこの先ダメ人間であり続ける必要はないし、自分の生き方は自分で決められるし、作っていけます。もしあなたがいろいろな理由をつけて結局ダメ人間であり続けようとするならば、それには理由があります。もしかすると、「世間」や「生まれつき」やその他いろいろなもののせいにして、『自分はこの先もどうにも変えようのないダメ人間』とすることで、現実を見ることを避けているのかもしれません。高い自尊心(自己愛)が傷つくのを避けているのかもしれません。
知性的に考え、巧みに話の要点をすりかえたりするのも、知性的に頭で処理することで自身の感情にぶつかることを避けているからかもしれません。あなたは自分を(高い自尊心を)守るために必死なのかもしれません。
ただ、あなたがそれを続ける限り、どんなにあなたにとって有意義な誰かの言葉もあなたには届くことはないでしょう。

どんなに蔑まれて育った人間でも、その人の努力で幸せになれます。これも事実です。

あっ、話に関係ありませんが、M沢S夫を私は嫌いです。
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この回答へのお礼

再度のアドバイスありがとうございます。

>『自分はこの先もどうにも変えようのないダメ人間』とすることで、現実を見ることを避けているのかもしれません。高い自尊心(自己愛)が傷つくのを避けているのかもしれません。

その通りかもしれません。
多分あなたの仰るのが正しいのだと思います。
けれども自分にはどうしても「高い自尊心」という言葉の意味がよく分からないのです。
単純に言って、自尊心の高い人なら自分のことをここまで貶めないだろうと思うのです。

>あなたは自分を(高い自尊心を)守るために必死なのかもしれません。

この部分も、括弧の部分を除けば「そうだなぁ」と思います。

率直なところ、私の言い分を聞いていて、私とやり取りをしていて
ご不快に感じますか?
高慢で鼻持ちならない、
理屈っぽくって何かにつけて自己を正当化する奴と感じますか?

私はあなたのご指摘を的確だと感じています。

何か言い返すのも、あなたに対してというよりも、
自己の分裂がもう一人の自己と葛藤しているのだと思ってください。

もう少し締め切らずにおきますので、もしお暇がありましたら、
気が向きましたら、私がわからない「高い自尊心」についてご意見を伺えればと幸いです。

再度のお答えを頂けなくとも、貴重なご指摘感謝しています。

PS

>あっ、話に関係ありませんが、M沢S夫を私は嫌いです。
はっはっは!ありゃ金儲け第一の山師ですよ(笑)

お礼日時:2007/07/17 03:57

>多分あなたの仰るのが正しいのだと思います。


>けれども自分にはどうしても「高い自尊心」という言葉の意味がよく分からないのです。
>単純に言って、自尊心の高い人なら自分のことをここまで貶めないだろうと思うのです。

自尊心とういう表現がわかりづらかったかもしれませんね。高い自尊心というよりも高い自己イメージの方がわかりやすかったかもしれません。それは理想像、「あるべき自分」みたいなものです。
低い自己イメージと高い自己イメージが共存することがよくあるんです。たぶんそれによって心のバランスをとるのだと思います。高い自己イメージは現実に直面すると壊れてしまいやすいので、それを回避しようとします。そして高い自己イメージが低い自己イメージを貶めたりいじめたりすることもあります。

自己イメージのスプリットをなくしていきたいと思うなら、「現実の自分」を認めることです。否定しないことです。
ダメならダメでいいんです。
ダメ人間で堂々と生きてていいんです。ダメ人間で楽しく生きればいいんです。
世間にはじかれるというのなら、ダメ人間を受け入れてくれる「世間」を探せばいいんです。必ずあります。

>率直なところ、私の言い分を聞いていて、私とやり取りをしていてご不快に感じますか?

感じませんよ。もし私の文章がそう感じさせてしまったのならすいません。「理屈」を言うのもあなたが生きていくために必要だから身につけた技術でしょうし、物事を深く突き詰めて考えていけることは大切なことだと思います。

考えれば考えるほど求めていた答えから遠ざかっていくことがあります。それは、そもそもの出発点である感情を見失ってしまうからです。もしそこに迷い込むようなことがあるのなら、原点に戻って、赤ちゃんのように感じてみることです。

あっ、こちらはあなたの文章から勝手に推測しているだけなので、見当違いのこともあると思います。ですのでご自分で判断していいとこどりをしてくださいね。
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この回答へのお礼

いろいろとご多忙のところ、再三お付き合いくださいましてありがとうございます。

・・・以前ある人に、「あなたは他人から見た自己イメージとあなた自身の自己イメージの間にギャップがありすぎる」と指摘されたことがあります。
つまり私は「その人」から見ると、
「そんなに自分を貶めなくとも・・・」=「普通の人」に見えたのでしょう。
私は自分を客観的に把握していると思っていたので、そういう指摘は意外でした。けれども悪い気持ちではありませんでした。

「自尊心」というよりも、「高い自己イメージ」といったほうがわかり易いですね。
自分に果たしてどのような「理想像」が秘められていて、それが私を苦しめているのかわかりませんが、先のご指摘のように、現実の自分と乖離した
高い自己イメージ・・・というよりも、等身大の自己イメージを掴みきれないから、上記の指摘やあなたのアドバイスのような言葉が生まれるのでしょう・・・

>ダメならダメでいいんです。
ダメ人間で堂々と生きてていいんです。ダメ人間で楽しく生きればいいんです。
世間にはじかれるというのなら、ダメ人間を受け入れてくれる「世間」を探せばいいんです。必ずあります。

そうですね。よく分かります。
そのようなスタンスを保ちながら、
>自己イメージのスプリットをなくしていきたいと思うなら、「現実の自分」を認めることです。否定しないことです。

その為の等身大の自己を探せたらと思います。

一朝一夕にはいきませんが、
上記のアドバイスを心の隅に置きながら・・・

お礼日時:2007/07/17 16:06

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