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うつ、アダルトチルドレン、回避性人格障害・・・
色々な名前があるようですが、心の状態に病名をつけることは危険なことではないでしょうか。医者が治療のために行うのであればわかるのですが、医学知識の無い者が、たとえ医者に言われたとしても自分を回避性人格障害などと呼ぶことはむしろ危険ではないでしょうか。
名前はイメージであり、そのイメージが悪ければそのイメージと自分を重ねて落ち込む悪循環を生むんじゃないでしょうか。
病名が病人を作っているという側面があるのではないでしょうか。

A 回答 (8件)

>心理的に負担になるのでしたら解答などしないほうがよろしいですよ。



残念ですが、反応を見て非常に楽しませていただいております(笑)。
ああ、いまだにこういう人もたくさんいるんだろうなあ、と。
で、大丈夫ですか?(笑)

一つ追記しておきたいのは、やや同じことの繰り返しになりますが、
患者さんや来談者側は病名を確認することで、情報や支援を得やすく
したいという気持ちがある一方、心理職の専門家の間でも現実は、
患者や来談者に何かの病名やカテゴライズを当てはめることへの
議論や葛藤があるということですね。
心理職の仕事にもさまざまな種類(カウンセラー、精神保健福祉士など)
がありますが、どれも共通しているのは
「その人のその人らしい自己解決能力を引き出し、促すこと」が
最終にして最大の目標です。病気や障害の名称を出すことで、
悪化や余計な甘えを引き起こすリスクを感じる一方、
「インフォームドコンセント」「説明責任」との板ばさみにもなります。
前回の回答どおり、一つの病気をとっても相手には相当な個別性があります。
経験豊かで上手な専門家なら、事前に基本的なアセスメント(査定)を行い、
その人にあった上手な言い方で告知とフォロー、支援ができるのですが、
残念ながらこの国では心理職の倫理や基準、教育制度も発展途上のため、
そこを上手く対応できていない事例も見られます。

余談ですが、アメリカで心理職が普及しているのは、法曹界の制限ではなく
心理職への倫理教育や規定が厳しいという背景があります。
来談者との関係性において、プレゼントの授受やカウンセリングルーム外での
接触もご法度なのは万国共通ですが、失敗事例と心理職への処分内容も
詳細を学術雑誌などにしっかり公表して、引き締めをはかっています。
日本で国家資格化が叫ばれているのは、心理職養成の教育水準の引き上げ、
資格の統一化、医療との連携強化という側面が大きいですが、
その中に倫理教育の強化や、(日本で一番水準が高い)臨床心理士の倫理規定の
法制化も含まれてくるでしょうね。

ということで、こちらが最も言いたいことは、
患者さん側の情報や支援を得やすくしたいという気持ちがあること、
患者さんにも多様な個別性があるため、名称を当てはめることが
必ずしも甘えや悪化を引き起こすとも限らないので
全てをそうだとくくってはいけないということ、
我々心理職をめざす者・専門家も、葛藤や失敗事例もあるけども
「甘え」を「甘え」にさせない支援をする努力が必要であることは
よくわかっている、ということですね。

この回答への補足

もしアドバイスがあったら彼にしてやってもらえないですか。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3568872.html

補足日時:2007/12/03 23:17
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この回答へのお礼

>「その人のその人らしい自己解決能力を引き出し、促すこと」が最終にして最大の目標です。病気や障害の名称を出すことで、悪化や余計な甘えを引き起こすリスクを感じる一方、「インフォームドコンセント」「説明責任」との板ばさみにもなります。

この言葉が聞きたかったです。お医者さんがそれを心に留めていれば多分それは患者にとってもプラスになることだと思いますし、このQ&Aを見ている人にも伝わるものがあったと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/03 23:14

No.1、4です。



>病名をつけたがるというのは、自分の状況の理由を求める気持ちからだとおもうのですが、

yes。

それも理由の一つだと推測できます。

ただ、たった理由は全員同一じゃない。
人によって違う と思えるんですね。

・名を与える。
(名前がわからないとイライラしますが、名前を知ることで、イライラ感が一時収まりますよね。)


・他罰。
(自分が根本原因じゃなく、他が原因だとすることで、最悪の事態を回避する。)


うつ という人と遊んだことありませんか?
キャッキャとはしゃぐ。
軽い鬱だからなのかと思ったんですが、ケースバイケースで、演じていると思えたんですね。
自分が好きなことは楽しめる。
最初は鬱だからはしゃいじゃいけないという抑制がかかっていたようで、盛り上げてものってこない。
すねたように、こっちが接触するたび、拒絶する。
で、ほっといて他の人とキャッキャと騒いでいたら、ついに誘惑に負けたようで、やってきましたよ。
最後には 輪の中心になって、ガンガン盛り上がってくれました。

私の先入観なのかもしれませんが、本当に鬱なら、脳内物質のせいで本人ではどうすることもできず、何に対してもアンテナが立たないはずですよね。
興味あるものにはアンテナが立つ。
これは普通の健康な人も同じ。

真性の鬱の人とも交流していましたが、夜は激元気で多弁で、多動で自分でも抑えられないほど楽しさに満ちているようだが、朝ひどい状態になる。
躁に夜なってしまうのかもしれませんが、朝は完璧鬱。
どんなに刺激しても反応せず泣くだけ。

鬱も程度があり、軽い鬱の人もいる といわれる。
ええ、世の中のほとんどの人は、鬱も経験しているでしょうし、仕事に失敗したら落ち込みますし、成績が悪ければ勉強する意欲落ち込みますし、恋人に振られたら寝込むかもしれません。
正常の反応です。 異常じゃあない 正常の反応。

ただ、性格により、そっから違ってくる。
阪神大震災で同じ情況になった主婦二人が寝込んだ。心理的ショックで正常な反応。
ところが一人は3日後に、炊き出し部隊で活躍し、もう一人はそのまま寝込み続けた。
医師に言わせると、その寝込見続けた主婦の鬱になった原因は、阪神大震災じゃないのだそうです。
震災はあくまで誘因にしかすぎない。
脳内物質がうまくコントロールできにくい体質。
恐らくビタミンとか脳内物質の構成する物質に必要なものを、体がうまく摂取しにくい体質なんじゃないかと。
3日後にベッドから起き上がった主婦は、それができる体質だった。
病気が原因じゃなく、リカバリー力の高い体質、抵抗力の高い体質かどうか。

というのも 一つの原因で理由だと思うんですね。


まだありますよ。
重複しますが、人間の発達において、何度も転換期がやってきます。
8つくらいだったか忘れましたが、発達の段階において、いろいろなことを取得していく。
母親との交流を通して、人を信頼するという能力を獲得するが、それがうまくいかないと他人に対する不信感 というものを強くする。

反抗期も必要で、ここらあたりから自我の形成を確立しだし、親は自分とは違う他人であるということを受容するのにとても大切な時期。
失敗すると、親離れできない。 つまり自我を獲得できない。

すると自分の今の状態は、親が原因である、過去が原因であると他者になすりつけるしかなくなるわけです。
自我を確立していないから。

成人するといつまでも、「親のせい」にできない。
そんな幼稚なことをやっているわけにはいかないわけです。
でも、成長が阻まれたため現在幼稚な主張をするしかなくなった としたら、自己防衛として立派な言い訳になる。
誰に対してか、 自分に対して。


回避性人格障害。 初めて聞きまして、解離性人格障害(ボーダーライン)のことを言っているのかと思いましたが、今調べたらありますね。
ひきこもり状態にある人の事のようですが、自己防衛によるものだと思えます。
前回書きましたが、これも発達段階において失敗しているからと思えます。

学校に行くのは何も学問を学ぶだけではなく、他者との交流をうまくやれるようになる訓練のため。
成功すれば友ができ、失敗すれば人を避けるようになる。


何度も発達が成長の段階で起こり、全部成功している人など、そうそういないと思います。
どこかで失敗している。
じゃあ、再度 友人を作る、他人に親しみを感じる というプロセスを与えるってわけで、それで給付金制度ができ、ひきこもっている人に発達のチャンスを国が提供しているわけです。

ですが、これは自分で獲得するしかないんですよね。
教えることができない。
あくまで場を提供し、本人がそのなかでもまれながら、手に入れるしかない。

でも、おそるおそるで、ちょっとした刺激にもう耐えられず逃げ出す体質の人たち。
その人たちが殻にこもるための正統な自分への言い訳が、病気だから 強いトラウマがあるから 他者が悪いから なわけです。
弱い自分を受け止められず、原因を他にすることで、自己防衛を続ける。


まあ、それも一時的なものならいいですが、安住を保証する名案じゃあないので、溜まらず「たすけて~」となるわけです。


で、、、、
新世紀エヴァンゲリオンって知ってます? アニメなんですが・・・
この主人公の場合、人に言われた通りにするというのが彼の処世術。
自己防衛なわけです。
これにより他者とのトラブルを避け、社会で生きていく。

このドラマはATフィールドという概念があるんですね。
ATフィールドとは、他者と自分を隔てえる壁。 心の壁なんです。
他者の強い個性に侵食されそうになると、殻を硬くし、殻に閉じ避難する。

このドラマは引きこもりの人に対するメッセージなんです。
ひきこもりの人たちはこれが映画となり放映されたとき、ブーイングを起こしました。
彼らは怒って「庵野 氏ね!」と掲示板に書いた。
庵野はこの映画の監督の名前です。

2作目の映画の時、彼らの1作目を観た時のブーイングの表情が実写として採用された。

これほど殻から出ることに恐怖を彼らは感じているわけです。


新世紀エヴァンゲリオン、 意味は新世紀における良い知らせ(福音
です。
ユダヤ教から分離したときできたのが、新約聖書(新しい福音)で、キリスト教の聖書となりました。
ひきこもりの人たちにとって、このアニメは良い知らせ(福音)なのか。

何故彼らはブーイングを起こしたのか。
殻を撤去させられてしまったから。
外から出されて外に放り投げられたと思ったのかもしれませんが、そうじゃなく、殻自体が存在しなくなった つまり 何かあると帰れる家を破壊させられてしまった と捕らえたのではないかと。

病名を取り上げられたようなもの。
殻にこもる正統な理由を取り上げられたようなものだと思ったのではないか。

このアニメの優しいところは、人は何度でも蘇ることが可能だと示したこと。

主人公は帰還し生命の海と一体化したんですが、その理由は他者の存在を認めなかったからなんですね。
で、この世と一体となり ひとりぼっちになった。 いえ みんなと同一になり、他者と自分を隔てえる心の壁が消失したので、どこからが自分でどこからが他人なのかわからない状態になり、彼の母ユイは「ひhとりぼっちでも生きていく」という選択をし、主人公は「傷つけられてもかまわない、他者が欲しい」と願った。

彼の願いにより他者が実体化した。
その他者のクビを主人公は絞めるんです。
そして絞めながらオイオイ泣くんです。
その主人公の他者を締めながらもオイオイ泣くのを見た他者は、主人公の頬を優しくなでる。
そして言うんです。「気持ち悪い」と。

他者を望んだため、他者が存在し、その他者にさっそく傷つけられています。 笑

これが、監督のひきこもりの人に対するメッセージ。

人は反復し、時には後退しながら、進化し続ける。
何度でも繰り返す。 
魂のルフラン というのがTV版のエンディング曲。


と、、、。
何故人は病名をつけたがるのか。
上記に書いたとおり、もっと深部を探ると、別の原因により起こっていると思いますが、それは発展の過程の一時的な失敗だと思うんですね。

そういうのを、理解するというのが心理学であり、心理学は治療じゃなく、他者を理解するという目的の学問だと思うんですね。

心理学者と精神科医は違う。
精神科医は治療をするが、心理学者は治療をしてはいけない。
法律で禁じられています。
ですが、治療ではなく理解するための学問として研究し、他人いその理解の過程を教える、手助けするというのならok。

ですが、心理学者が病気名だと誤解されるようなことをしてはいけない。
命名したものが、それは病気名だと人が誤解するようなことは避けるべきだと思います。


精神科医の立場からと、心理学者からの立場からは見解が違うし、心の問題に関しては線引きをきちっとしていないので、精神科医でありながら、心理学者でもあり、心理学として発言したものが、精神科医だからと、精神病であるかのような誤解を招き、人に都合よく乱用、あるいはそれによって、使用した人(自分は○○であると言う人)が不利益をこうむってしまっては駄目だと思うんですね。

そういうことを願ってしまう社会だと、人はどんどん殻にこもることを促進してしまい、他者と争い、親を子が訴え、社会を憎んでしまうことになってしまう。

そうならないように、国は給付金を出したりして、優しく援助しようとしているんですね。


私は不登校になった時期があったんですね。
母親すごかったですよ。
私を部屋から引きづりだして、玄関の外に放り出しました。
行くところないので、学校に行きました。
ですが、再度 また ひきこもりが起こった。
何も言わず、何もせずの状態。
そしたら、母親は「ダンスしよう」と私に言いました。
二人でダンス踊りましたよ。 笑
あれはなんだったんでしょうね~ 笑。

そしてとうとう家出しました。
巣からの独立で、自我の確立がとうとう始まったってわけですね。
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この回答へのお礼

エヴァンゲリオンにはそんな意味もあったんですね。
最近ふと思うのですが、弱い人間に強く生きろというのは酷なのだろうか、逃げることを許さない社会は生き辛いのではないだろうかと。
言葉は悪いですが、この世界は強い者の世界なのじゃないかと思ったりもします。なにか強弱の法則は社会がどんなに変化しても変わらないようなそんな感じがします。この世は修行の場であるというのも頷ける気がしてきます。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/03 22:59

>maremareさんと私では立っているポジションが違うため、それの見え方が違うのですね。


>互いに自分のテリトリーの方が人間の数が多いと主張していますね。

あなたはそうでも、私はそんなことは一言も言っておりません。
あなたの思慮と知識は浅はかで、ご質問で言われるところに根拠がありませんね
とは、遠回しに言わせていただいておりますが。

あなたの目には、全てのケースが「甘え」「病名が悪化させている」と
十把一からげに見えているようですが、精神疾患の判断の難しいところは、
人のこころそのものに個別性が多様にあるところです。
精神疾患や人格障害であることに甘えている・いないの判断すらつきにくい
ケースもあったり、十分克服可能なものと治療に前向きに立ち向かう人、
克服したがっているが十分な支援がなくこころが折れかけている人、
受け入れられない人、あきらめかけている人など、受け止め方や向き合い方も
実に多様なケースがあります。例えば、確かに病気に甘えている人もいますが、
「それは甘えだ」と非難しているだけでは何にもならないのです。
どこが症状でどこが甘えなのかを自分で受け入れられるよう教えてあげたうえで、
疾患や問題に立ち向かう方法論や恐怖心も、同時にケアしなければなりません。
また、躁うつ病のように、一生のお付き合いになってしまう病気には
病名と対処法をしっかり告知し、操とうつが入れ替わるときの
社会への適応の仕方も学んでいただかなければならないんですね。

また、例えばうつ病患者にはもともと生真面目な人が多いと言われていますが、
悩ましい症状を早く治したいという焦りが生じ、合理的な判断がつかない状態で
自己努力で荒療治した結果、こじらせて落ち込みの症状が悪化する、という
負の連鎖を繰り返すケースも多いのです。そういう人には、自己努力の方向性が
間違っていますよ、と教えてあげれば軌道修正して立ち直ることが十分可能です。

情けないことですが、日本の精神医学界では人格障害に対する認識は
個々の関係者間で大きくわかれているようで、精神医学による克服には
疑問符をつける医師も多いそうです。しかし、だからと言って
自分でも理解できない苦しみにある者が出ている以上、「甘え」として追い返したり、
カテゴライズや研究対象からはずしてケアをしないわけにはいきません。
精神医学からのアプローチが難しければ、心理臨床からのアプローチで
可能性を探る、克服できないならとりあえず社会適応への方策を考えるなど、
病気の事実を受け入れる・それに甘えやあきらめの気持ちを持たせない、という
(語弊はありますが)「飴とムチ」的な二つのスタンスを持って、
問題の研究・解明、サポートにあたる必要があります。

>しかし例えば多くの人は月曜日に会社に行くのは気が重いと思いますが、これは精神疾患ですかそれとも甘え(言葉が適切で
>はないですがあえて)ですか。精神疾患の入り口がストレスつまり心理である以上ボーダーラインは引けないのではないですか?
>心理が病気の原因であるがために予備軍が無数に存在するのではないでしょうか。

月曜日に出社するのが気が重いという一般的な事象を、疾患か甘えか?と
ラインを引こうとすること自体が間違っています。
強いて言えば、体も気力も思い通りに動かせるのに、自分の意思で月曜日に
ずる休みを選び、そのことで後悔も自責の念も起こらないのが単なる甘えです。
疾患になると、たとえば抑うつ状態なら身体症状も出ているため、
そちらがつらくて思い通りに気力と体が動かせません。
でも、行きたくても行けない(行きにくい)ことに強い自責感が生じてしまいます。
でも、それは月曜日という曜日の概念とはほぼ無関係に起こるものです。
また一方で、出社するという行為に恐怖心があって足がすくむ人、
誇大妄想や万能感で月曜日からテンションが高い人もいれば、
既に月曜日という曜日感覚も概念も完全になくなっている人もいます。
疾患と一口に言ってもこのとおり実に多様です。

また、精神疾患発病の原因はストレスや精神面の問題だけではありません。
近年では、遺伝子、先天的・後天的な脳機能の問題(脳内の神経伝達物質の
分泌異常、脳萎縮など)といった器質面からの知見も要因として出されております。
生育環境や処理不能なほどのストレス負荷の高さなど、環境要因が
器質面にプラスされて発症する、という複雑なものです。
乱暴なたとえですが、スペックの高いコンピュータでも複雑で負荷の高いデータ処理を
させるとフリーズしたり、何の処理でバグが見つかりフィックスせざるを
得ないという感じですね。そういう意味では誰もが疾患になる可能性があります。
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この回答へのお礼

>あなたの思慮と知識は浅はかで、ご質問で言われるところに根拠がありませんねとは、遠回しに言わせていただいておりますが。

だいじょうぶですか?
経験者とありますが、精神疾患の経験者ですかそれとも医療に携わっているという意味の経験者ですか?
心理的に負担になるのでしたら解答などしないほうがよろしいですよ。

お礼日時:2007/12/03 00:31

kigurumiさんの意見楽しいですね~。


でも、国家が精神病者に優しくなりはじめたのは
ほ~んの最近なんですから  もう少し手柔らかでもOKかと;

前の回答に似たようなことを書いた関連で書き込んじゃったんですが、ひと昔まえは本とひどかったんですから。

とりわけ日本国家の精神医療がだれだけ 世界的にも遅れたものであって、どれだけその経費が節約され無駄な軍費などに使われ、数々の精神医師の意思の苦労・志がふみにじられたか・・・・

戦後日本の精神病院は完全な商売・それがガンガンガンガン急増し病院は単なる収容所。どんどん儲かる~!!病院に医師・看護人なんて数人しかいなかった。
多くの院長は遊び気分で診察してればよかった
ライシャワー事件で精神病者は狂人扱いされ、キチギイは鍵の中へ!
糞尿にまみれて家畜のように暮らしていた描写を読みました。
家族に助けてなんていっても検閲があって無駄・・そのまま薬づけでおしまい。
宇都宮病院事件とか病院内の暴行も有名ですよね 

40年前くらいには
病院の裏庭に、ロボトミーの脳が入った壜がころがり(聞いた話)、精神病者は牢屋の中で家畜のように暮らしたりしていたわけですから・・

見かねた外国の反響でやっとこさ、今調べたんですが昭和62年に精神保健法とゆー内容の微妙なものができて それまで福祉の対象とならならなかった精神病者がやっと「精神障害者も他の障害者に准ずる」・・

結果としてkigurumiさんの言うとおり 今の精神病者はほんと幸せ。
過去の分ひどかったからといって、国家が保護するのが過剰になりすぎぬよう
ていうことですかね・・
心理学も、病名も、まだまだやっつけ仕事のようなものと思います
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この回答へのお礼

日本という国は短い時間でめまぐるしく変わってきたんですね。
精神疾患に対する考え方も今は過渡期ということかもしれないですね。

それと、猫の本読みましたよ、あんな生き方が出来るように日々思索しております。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/02 01:17

No.2です。




適応機制(防衛機制)というものが人間には備わっている。
これは欲求不満や不快な緊張感・不安から自分を守り、心理的<満足>を得ようとする無意識な解決策のこと。

<逃避・孤立>・・不快な場面、緊張する場面から逃げ出してしまうことで消極的に自分の安定を求めること。 
例:学校に行きたくない子が腹痛を訴えたりなど。

<退行> ・・より以前の発達段階に逆戻りして、甘えるなど未熟な行動をとること。
例:すぐ泣く、わめく、幼稚な言動をする など。

<注意獲得>・・自分の存在と価値を他人に認めさせたいため、他人と異なった行動をとる傾向にある。

<合理化>・・・自分の行動や失敗を自分以外のところに原因があり、都合の理由をつけて自分の立場を正当化すること。

などなど。


ライカードなどの人格特性の中の<不適応型>。
・外罰型・・自分の過去を受け入れることができず、人生で目標が達成できなかったことを、他人のせいにする。
あるいは自分以外に原因をおっかぶせる。


http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/clinical/ …

ここの<エリクソンの発達段階説>
発達に成功した場合と 発達に失敗した場合が書かれています。


心の状態に病名をどうしてつけたがるのか。

健康だとされる人でも、精神科や心理分析家に診断してもらうと、3つ4つの名前がつくそうです。
あまりにもひどく病気じゃないが病気としか思えないほどの異常さ、性格の極端なゆがみ、それによって他人に被害を与えてしまう、本人もとても困った状態になるような人は、病気じゃないが異常ということで、人格障害と診断されるかもしれません。

普通は「異常者」と同じようなニュアンスなので、精神科医は本人に告げないらしいです。
とあるネットで私が書いたところ、少なくない人から「自分は人格障害だと医者に言われた」と答えられたんですね。
そこからすごかったです。
彼らによって血祭りにあげられ、「なるほど。。。 確かに医者はそう診断したんでしょうが、でもね 医者は患者に『異常者』ということを告げるかなぁ・・・」って思ったんですね。

「ちょっとやそっとどころじゃなく、病的なまで著しく歪んだ性格です あなたは」って医者が本人に告げるかなぁ・・・って納得しなかったんですね。
確かに人格障害だと医者に告げられたと投稿してきた人たちによって私は袋叩きにあいました。
「この人はひどいひとです。病人に対して ひどいことを みなさん 私はもう自殺します。この人が謝罪しない限り。 今日本当に自殺しますから!」って。

だが、ふふん・・・って私思ったんですね。
あまりにも見え透いている書き込みだったから。
人格障害者の特徴である「誰でもすぐ嘘だとわかることを、平気で言う」ことをしていたから、ふふん なるほど って思ったわけです。

もう、それ(人格障害だと診断されたこと)はわかったから・・・・。
と思ったんですが、あまりにも相手の方々が私の興味をかきたててくださったので、IPを検索かけたんです。

IPとエージェントが一緒 つまり 同一パソコンから発信されており、それはそれは企業じゃなく個人に当てられるIP。
そしてそのIPは沢山のハンドル名を名乗っており、それらは、私に対し「あなたのせいでこの人は自殺するかもしれないんですよ 自殺したらあなたはどうするんですか」という非難を書いていた。

つまり全部 同一人物。
男性だったり女性だったり。
そして、その人は別な書き込みもしており、しごくまっとうな発言もしている。
書き方の特徴も分析し、やはり同一人物だと推測できた。

「コイツ 女だと思っていたら男だった。 しかも、今回のスレッド以外での別ハンドル名による内容はしごくまともだ・・・・。


プリズムにあたる光によって輝きが違うように、いく面も持っていると言われる人格障害者だからか。

ノー。

この人は人格障害などじゃあない って私思ったんですね。
他の発言からして、ネットでおふざけをして楽しんでいる人。
攻撃的な面も、この程度ならどこにでもいる。
ただ、ネットだから、攻撃性が露骨になっているだけで、恐らく面と向かって話をすれば、普通の人だと思えた。

何故、彼は病気の自分 というものを作り上げたのか。
私、自己顕示欲じゃないかと思ったんですね。
そのやり方が、そのようなネットで俳優をすることだった と思えたんですね。

自己実現に失敗している、、、、って思いました。

別のなにかになろうとした。
自分というものを捨てようとしていた。
そのためなら異常者という役も演じる。

演技なので、本人の核じゃあない。
何故 本人はありのままの自分を認めようとしないのか。
発達に失敗して、自己否定をしているから と思ったんです。

でも、その人の自己否定の行き着く先は、自分じゃない別の人。
永遠に自分を手に入れられない。

これがその人が対決しなければならない根本の問題。
病気とか障害とかは根本問題じゃない。
病名をつけたところで、偽のラベルをつぎつぎ張っているので、結局本人も納得できず、ラベルの数が増すだけ。

「これが私です」とありのままの自分を認めるまで続く。

と、つらつら思ったのですが、発達段階にある ということだと捕らえると、「がんばれよぉ~」ってエールを送りたくなります。


ということで、私は心の状態に病名をつけたがる心理は、発達過程にあるからだと思うんですね。
発達じゃなく後退?
かもしれませんが、、、

でも、人間は後退することもあるが、いずれは前進する生き物であるという楽観的希望を持っています。

ただし、失敗すると、、、、
宅間死刑囚のようになる。
だから 発展の過程として後退するのも、ほどほどにしないととんでもないことになると思います。


で、こういったすぐに病名をつけたがる症候群の発生の原因は、精神科医や心理分析家、カウンセラーだと思うんですね。

この人たちがもしいなかったら、こういった症候群は生まれないんじゃないか って思います。

以外や以外で、解決を職業とする人たちが生み出している。
この人たちの元をおとづれる人が多いほど、病名をつけたがる症候群が製造される。

そう考えると諸悪の根源は、、、、と思えるんです。
恐らくこの職業についている人たちは、猛反発するでしょうけど。

アメリカはこの人たちが生み出したものによって、社会ヒステリーが起こり、自殺者、社会不適合者が急増しました。
彼らに助けを求めたら、もっとひどい状態に陥ってしまったんですね。

アメリカは大混乱になり、法曹界が介入して、やっとヒステリーが収まった。
どういうことをしたかというと、精神関係の職業の人たちに制限をつけた。
それを契機に、パニックは下火になっていった。

心を扱う人たちが一歩間違うと、自殺者、社会不適合者、家族の破綻など、マイナスのエネルギーを社会に噴霧してしまうことにもなるんですね。

天使が悪魔になる というより 天使は悪魔にもなるうるってわけです。
というわけで、心関連の職業に国家資格を与え、もっと規制をするべきだという声が上がっているんです。
それほど国家を破滅させるほどの危険も生み出してしまうので。
ところが、医師会は国家資格を与えることに反対していてお流れになり、心理学系の職業は。

ただ、心の病名をつけてもっとひどい状態になる人たちの不利益を考えると、やっぱり国家資格にして規制をかけないと、日本はとんでもないことになる と思います。
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この回答へのお礼

kigurumiさんは色々事情をご存知のようですがその筋の方ですか?
でもその職業をあまりよく思っていないみたいだし・・・

病名をつけたがるというのは、自分の状況の理由を求める気持ちからだとおもうのですが、その理由を安易に病気という自分の外側に求めてしまうことが事態を深刻化させてしまう要因のひとつだと思います。これは薬でどうこうできることじゃないと思いますので、心の持ちよう一つということでしょうかね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/02 00:09

#2です。



おっしゃるとおり、まだ軽症の方に病名をつけるのは、
本人の受け止め方によってはショックを受けるということで、
医師もあえて病名をはっきり告げないケースもちゃんとあります。

ですが、患者さんにとっては自分が何かの病気なのか、もし病気だったら
何をしたらいいのか、どうしても不安や疑問がたくさん起こるんですね。
軽症でも合理的にものを考えられなくなってきているため、
それだけでも大きな不安を感じています。そこでなんとか安心感を得ようと病名を探し、
それに見合った解決策をすぐに探そうとしたり、医師や専門家、知っていそうな方に
「私は○○かもしれない」「私は○○だと思う」と言って
不安や疑問の解消に走りまわるという感じです。あなたはどうしても
精神疾患と甘えのボーダーラインがつかないとお考えになりたいようですが、
そうおっしゃる根拠、病名をつけられる人は少数だとおっしゃる根拠は
どこにあるのでしょうか?
#2に書いたとおり、合理的にものを考えられないというのは、
ストレスや環境要因がその人の処理可能な量をオーバーして、脳の機能が
パンクしてしまってる状態であり(脳内の神経伝達物質の分泌異常が起こっています)、
自分で都合のいいように感情や物事を制御するのが不可能になっているのです。
自分で自分のことが制御できないのは、それだけでも恐怖に近いものが
あります。その不安感をなんとか解消しようとわかりやすい手がかりを
探そうとしているのです。また、自分の将来も客観的に思い描けないため、
一歩進むのに恐怖で足がすくんでいる方もいます。
そこを「甘え」と一方的にみなさず、一歩進ませるための支援、
一歩歩いてみて恐怖や不安が起こったときのフォローもしないと、
本人も治りたいのに不快な状態が続いて苦しむんですね。
そこで私は、あえて「このままの状態を続けるつもりですか?」と
逆に問いかけますが、大半の方が「でも、それはやっぱり嫌だ」と
はっきり回答し、前に進んでみますとおっしゃっています。

「がんばれ」「甘えるな」と言うだけでは無理なのは、ここに理由が
あります。その人が自ら一歩前に進んでいただくために、
不安や思い込みを除去する具体策を客観的に示すことが大事なんですね。
病気ごとにそれに見合った具体策が細かく研究・実証されているので、
もし患者さんが自ら「治りたい」という気持ちをもって求めるなら、
専門知識がある者が必要に応じて、病名と治療方針を告げることも大事です。
一方で、確かに何でも病気に当てはめるやぶ医者も精神科には多いのですが、
それは患者さんの「甘え」とは話が別です。患者さん本人が不調で
自分のことをうまく説明しきれないために誤診をしてしまったり、
大事な情報を把握できない状態で診断せざるを得ない、という事情もあります。
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この回答へのお礼

もちろん重症化すれば誰の目にも明らかです。そういう方々はお医者さんにお任せします。
しかし例えば多くの人は月曜日に会社に行くのは気が重いと思いますが、これは精神疾患ですかそれとも甘え(言葉が適切ではないですがあえて)ですか。精神疾患の入り口がストレスつまり心理である以上ボーダーラインは引けないのではないですか?
心理が病気の原因であるがために予備軍が無数に存在するのではないでしょうか。分母の数が大きくなれば相対的に分子の数は小さく見えると思うのですがどうでしょう。

maremareさんと私では立っているポジションが違うため、それの見え方が違うのですね。
互いに自分のテリトリーの方が人間の数が多いと主張していますね。

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/11/30 22:49

こう言っては申し訳ないんですが、それはあなたご自身に


こころを病むということに対するネガティブなイメージ(異常性、狂気など)
があり、名称が出てくるたびにネガティブなイメージを想起してしまうために
そのようなお考えになってしまうのではありませんか?

病名というのは、ある一定の症状傾向が出ている状態に対して
便宜的につけているという意味では、よくある器質的な病気、
たとえば「がん」とか「インフルエンザ」といったものと
なんら変わりません。確かに、中には自分の病名を利用して、
治すことに足を一歩も踏み出そうとしない人々もいますが、
病識がある人(自分が病気である自覚を持つ人)が病名を語るのは
自分を「インフルエンザ」などと語っているのと同じ感覚です。
それを受け止める世間の側に、まだ精神疾患に対する偏見や誤解が
あったりするので「イメージが悪い」となるだけです。

上記のとおり甘えている人々もなかにはいますが、
自分の病名を受け入れ名乗ることができるのは、病識がある証でもあります。
精神疾患の治療において「病識」は、自分で病気を認識して
治療に正面から取り組める姿勢ができるため、
非常に前向きな意味を持っています(逆に言えば、病識を持てない人は
いつまでも治らないため、病気を受け入れるケアや説明が必要です)。
なので、苦しみながらも前向きに治療に取り組む方も多いんですよ。
落ち込んだりしてしまうのは、病気のイメージと重ね合わせるからでは
ありません。患者さん本人に病名に悪いイメージがあるのではなく、
病気そのもの、つまり病気の症状がただ落ち込ませているだけか、
自分の病名に対するいわれなき非難や偏見に傷つくからですね。
もっと受け入れ態勢ができていれば良くなっていたのに、と
がっかりするような事例をあきるほど見ております。

#1の方は病名を「個性」という名の言い訳のように語っていますが、
まず精神疾患の方は、自分が異常かどうかもわからないほど
合理的にものが判断できない状態です。それを言い訳にして
休もう・逃げようという考えすら全く思いつかないほど
こころの中が混乱しているため、中には働けないのに働こうとして
会社・学校などでで倒れてしまう方も多いんです(特にうつ病など)。
仕事から逃げたことで収入が無くなり、いつまでも公的支援を
受けられると限らないということをわかっているからこそ、
自分の将来に希望が持てず、それでますます病気を悪化させる方も
いらっしゃいます。なんらかの人格障害をアピールしている方々も、
単なる甘えで言っているかどうかは、この社会での「生きづらさ」、
自分の異常さを受け入れたくない気持ちなどで、見る人が見れば
本当の障害か甘えかの判断がすぐつきますし、障害をよそおった
単なる甘えなら、すぐボロがでます。また、障害そのものが
「私は○○障害です」と語る気持ちを引き起こさせるという、
やっかいなものもありますね。

「メンタルヘルス」カテゴリーなどでも、こころの病気を
本物か単なる甘えか、と判断を求める声がよくありますが、
単なる甘えは「その気になればいくらでもできるのに
自ら“やらない”方向を選んでいる」状態、
病気は「その気になりたいのに、気力も体力もなぜか制御不能で、
やりたくても “できない”状態でジレンマに陥っている」です。
精神疾患に無理解な方々が、それらを混同してしまって
いるんですよね。世間の人々にメンタル不全の実態について、
もっと正しく認識していただきたいと思っております。
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この回答へのお礼

おっしゃることはもっともだと思います。
私も十把一絡げで言うつもりは無いのですが、心理やメンタルヘルスのカテを見ていると、どうも病名をつけるべき人は実はとても少数なのではないだろうかと思うのです、数を数えたわけではないんですが。
重症化してしまった精神疾患の方にそれを言っても仕方ないことですが、まだその入り口に立っている人には病名はむしろ治療の邪魔だと思うのです。あまりにも気楽にうつやその他の名称を使うのは、それこそ自殺行為なのではないだろうかと。
お医者さん自身、「うつ」というこの便利な言葉を多用してはいないでしょうか?
甘えと精神疾患のボーダーラインを引けるはずもないのですから、自分に病名というレッテルを貼る必要などないのではないだろうかと思う次第です。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/30 18:58

アダルトチルドレンも人格障害も病気じゃなくて、気質・個性です。



どういう状態かを説明するより「アダルトチルドレンという特長が顕著にあります」と代名詞を言えば、だいたいですが、他の人にどういった人かなんとなく捕らえてもらえるという感じだと思います。


<人に見捨てられたくないという恐怖心にさいなまれた状態です。自傷をしてしまい、現実感が無く、誰とでもすぐセックスをしてしまい、酒を浴びるほど飲んでは、問題を起こしています>というより「私はボーダーラインです」と言った方が、他人にアピールできる。
聞きなれない言葉だと余計に注目されるし。
そしてボーダーラインのどの特徴があるのだろうと関心を持ってもらえるし。


で、「どうして自分に病名をつけてたがるのか」ですが、安心感を得たいからじゃないかと。

自分でも異常だと思っている。
それでアダルトチルドレンとすれば、病気のせいで異常な状態に陥っており、直れば他の人たちと同じになれるが、今は病気だから仕方ない という自分への言い訳だと思います。

何度も言いますが、アダルトチルドレンは病気じゃなく個性。

それを個性だと認めることは拒否で、病気だから仕方ない としている。
本当の自分は別にいて、今か仮の姿だって自分に言い聞かせるため病名がいるんです。


で、「自分の特徴を病気とすることは悪循環じゃないか」ですが、一つの過程だと思うんですね。

得体の知れないものは恐怖心を覚えます。
名前が無いと実体がわからず、とらえどころがない。
でも名前をつけることで、ともかく対象を認識できるんです。

なんとなく あーで こーで、、、より ACって名前で読んだほうがとらえやすいですよね。
そしてそれに異常というラベル張り、拒絶しながらも手放そうとしない。
甘んじることで妥協点を見出している。

そういう人に手放せと言っても無理です。
命に代えても絶対に手放そうとしません。
それくらいなら死んだ方がマシくらいに、病気であることを保持しようとします。

手放させようと援助する人を敵とみなします。

何故なら病名がその人のアイデンティティーだから。


疾病利得というものがあります。
病気になると、他人は自分に優しくしてくれます。
普通は許されないことを、病気だからと許してもらえます。
甘えも許されます。怠けることも病気だから仕方ないと許してくれ、その人の変りにその人の荷物も背負ってくれたりします。
楽ちんです。
こんな楽チンな状態を得たものが、どうして好き好んでこの楽ちん状態を手放しますか。

だから病名が欲しいんです。
病気であれば、怠ける理由ができるし、できないことを正当化できます。他人より自分に対して言い訳ができる。

でも、ひとまず異常状態には違いないから、異常というラベルを本人が貼りたいのなら それでいいのではないか。

ひとまずはいいかもしれませんが、長期化するし、成長の機会が目の前にめぐってきても、それをつかまない可能性が高くなる。

その人が問題と向き合わない限り、誰もその人からその人が勝手につけた病名を手放させることはできない。

本当に愛していたら、ひっぱたいても、手放させるでしょうけど、そうなると死闘になりますから、よっぽどその人を親身思ったり、愛している人しかやらないでしょう。

そしてどうしても手放そうとしないので、やがて一人去り、二人去り、とうとう孤独になる。

そうしたら、また別の人の注目を集めて振り向いてもらおうと街頭に出てプラカードを掲げる。
マイクを使って叫ぶ。

「私は○○なんです。困っています。親切な方 私の話を聞いてください、近くにきてください 孤独なんです。優しい人 私の側にずっといてください、もう孤独はイヤなんです 哀れに思ってください」と病気をプラカードにかかげ、信者を勧誘する。


すると優しい人がよってきて「どうしましたか お困りですか」など話を聞いてくれる。
でも いつまでも歩けるのに歩こうとしないのを見て、その人もやがて呆れて去っていく。
そしたらまた病名をプラカードに書いて駅前に立つわけです。


駅前はいろんな人が通りますので、初めてその人を見る人もいる。
そしたらまたもやひっかかる カモが。
釣れる 釣れる。
こんなおいしい暇つぶしは無い。
絶対に手放すものか となる。

悪循環です。

そして何十年と歳月は流れ、はっと気づけば社会から取り残された浦島太郎。
そのとき、本当の地獄がやってくる。
怠けた代償、病気のせいにした代償が老後にやってくる。
もう 誰も背負ってくれない。
いままでのツケがいっぺんに背中に乗る。
とても背負えないが、オオカミ少年の評判はとどろいており、もう誰も助けてくれない。

孤独死です。

誰が悪いか、本人です。
病気のせいにして いつまでも自分の個性を認めず 怠けた続けた本人です。


でも 以外とそういった人多いんです。
気分障害といいますか、自分が好きなことには夢中になって遊べるが、労働となると「うつだから働けない」と逃げて、生活保護を受ける若者が増えているのが社会問題になっている。

国は今まで生活保護をしてきたが、それじゃあ 本人を駄目にすると、医療費の負担を打ち切り、代わりに自立するための給付金を出すことになったんです。
自立するため訓練をする費用を出す。
本人に渡すとパチンコに使ってしまいますから、訓練施設を受けさせるということで、訓練施設に給付する。
ソコに行かなければならないわけです。

社会に復帰するための訓練を受けさせる。
病気だなんだって言って逃げることもできるでしょうけど、今まで暇つぶしに通っていた病院の医療費の補助は打ち切り。
今までのように楽にいけない。

だったら、どうせ暇つぶしなら訓練を受けた方がいい となる。

かもーーん かもーーん。


そういうわけで、国が甘かったことから、多くの自傷病気の人を生み出して、自称社会不適合者を生み出してしまった。

だからその責任をとって国は方針を変えたわけです。

働く能力がありながら、病気のせいにしてのらりくらりと逃げる若者に鞭入れる親みたいなものです。
いわゆる愛の鞭ってやつですね。

でも、能力があるので、きっと抜け道を探す知恵を使うと思います。
抜け道を見つけてのらりくらり働かなくても血税で養ってもらおうする知恵を職業に使わず、楽する方法は無いかと使う。
どこが病気だと思えるほど冴えた能力を使って抜け道を探すんですね。
人を操って自分の楽になるように操作し、自分も騙す知恵の保持者。


という魂胆を持つ十分社会に適合できる能力を持つ自称病気の若者 VS 日本国家。

どっちがバトルして勝つんでしょうね。笑

これで変わらなかったら、また国は方針を変えてもっと鞭打つと思います。

お尻に火がついたら、さすがに病気のせいにして労働を拒んでいた若者も、観念して働くんじゃないかと。

そうなれば愛の鞭も効果あったってことですね。
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この回答へのお礼

kigurumiさんはこの種のテーマには一家言お持ちなのですね。ちょっと過激かとも思いますが、一つ一つはとても納得できました。
全ては本人次第ということですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/30 00:37

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