プロが教えるわが家の防犯対策術!

釣り暦約30年です。
 最近、釣りは魚を虐待する行為ではないか、と言う疑問が拭えず自問自答を繰り返しております。
 私は主に渓流のフライフィッシングをやっていますが、他人からは「健康的で素晴らしい趣味」「自然を愛するアウトドア派」などと言われる事もあり、非常に複雑な心境です。

 もちろん、食料としての魚を獲る(釣る)行為は私達が生きていくために必要な行為であり、なんら非難されるものではありません。食料調達手段としての狩猟も家畜を育てる行為も同様ですし、極端に言えば、スーパーで肉や魚を買ってくる行為も直接的・間接的の違いだけで同じ類のものだと思います。

 ただ、趣味としての釣りを考えると、魚をハリにかけて引き回し、命懸けで抵抗する姿を見て喜んでいる、という残虐な一面があります。
 それでも、食料として必要な分だけを確保して帰るなら、まだ救いがあるかも知れませんが、ある種の釣り人は(私も含めて)キャッチ&リリースと称して、食べるわけでもない魚を自分の楽しみのためだけに傷付けています。

 また、釣り場のゴミ問題をはじめとするマナー悪化や、外来魚による生態系破壊等、自然保護に反する行為も見受けられます。
 私自身、釣りに行くために自動車で山間部へ分け入り排気ガスを撒き散らしますし、どんなに気を付けても釣り糸が切れてハリやオモリを回収できない事があります。
 釣りというのは、なんと罪深い遊びなのだろう、と思ってしまいます。

 一方、多くの釣り人が釣りを通じて自然に対して感心を持ち、魚達をはじめ動植物に深い愛情を持って接していることは間違いない事で、釣りは自然と関わりと持つための一つの手段であると思います。釣り人がいなければ、日本の自然はもっと壊滅的に破壊させていたかもしれません。

 また、世界中で釣りが趣味として広く受け入れられているのを考えると、やはり人間の狩猟(漁?)本能の表れなのかとも思ってしまいます。食料を直接調達する事が少ない現代社会において、釣りをする事で自分の狩猟本能の帳尻を合わせている、と言ったらこじ付けでしょうか。

 私は釣り自体をやめられないからには、食べない魚はせめて最大限の努力をしてダメージを最小限に抑えてあげることと、自然に対するインパクトを限りなく「0」に近づけるにする事で、今は無理やり自分を納得させています。

 だらだらと長くなってすみません。
 以前のように自信を持って釣りをしたいのですが、釣りを正当化する理論をお持ちの方がいらしたら是非聞かせて下さい。
 それとも、やはり釣りは虐待でしょうか?自然破壊でしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは。


釣歴20年ほどの若造ですが、失礼します。

自分は餌釣をしています。
幼少の頃から父と釣に勤しみ、釣りの楽しみは釣果を食するところまで入っています。
パック売りの魚肉しか見ない子供へ命の教育。
そんな意味もあったんだと思っています。
故に、バカみたいに釣って近所におすそ分けするなんて事はありませんでした。

それが強く、一時期フライもやりましたが、やはり殺すだけの釣りは楽しめなかった。
その辺の心の機微は、きっと質問者様のお悩みと同じだと思います。

環境の事を言うとですね、車に乗るだけで環境破壊なんですよね。
何かに比べてどれだけエコであろうが、排出ゼロに勝るものは無い。
生きている上で既に、確実に地球を汚している。
動物なら、いつか必ず土に返る。
その土に様々な命が育まれる。
その自然サイクルに、人間だけが入っていない。
だから、私の餌釣りは環境に優しいんだなんて思ってません。
車を使って大気を汚しつつ川へ行く。
5匹の魚を殺して腹を満たすが、土には何も還らない。
これで終われば私はただの有害生物でしかない。
かといって、二酸化炭素を空気に変える能力も無い。

しかし、その「業」を違う何かで返す脳みそは持っている。
これだけ地球に負担をかけた分、出来る範囲で何かで返すことができる。
緑化関係の募金でもいい。
もちろんボランティアでもいい。
家で使う洗剤を低公害のものにするだけでいい。
便所で節水すればいい。
排気ガスを抑える運転をすればいい。

釣りの話に戻しますが。
釣りの分、人よりも自然に対する配慮をする。
これしか自分を納得させる理由はないと思いますよ。
無論、他の命を奪うことで楽しんでいるわけですから。
そこから唯一学べるのは、無益な殺生をしないことかな。
食べることだけが有益じゃなくて。
その分、地球に何かを返すとか。
命とはなんぞやを考えるとか。
それも充分有益かと。

とめどもなく、失礼しました。
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この回答へのお礼

貴重なご意見をありがとうございます。私は40歳近くにもなって、いまだにこんな事で悩んでおり、お恥ずかしい限りです。
 人間の「業」という考え方には非常に共感をおぼえます。
 地球上の生物で人間だけが突出した存在であり、人間だけが地球を破壊したり、他の生物を必要以上に殺す能力を持っていますよね。
 自然のサイクルに組み込まれようとすれば、人間は原始的な生活をするしかなく、それでは60億人は生きていけませんから、社会そのものが成り立ちませんね。
 確かに、生きてるだけであらゆる生物や自然に影響を与えています。釣りをしないからって、無罪ではないでしょう。
 「釣りの分、人よりも自然に対する配慮をする」←その通りですね。私も環境保護等に対して関心もあり一般の人よりは行動しているつもりです。それは釣りを通して学んだ事だと思います。
 釣りする事(殺して食べる事もキャッチ&リリースも含めて)と、魚に愛情を持っている事は、何故か自分の中では共存しています。例えば、肉牛の養殖をする人は、殺して食べるために牛を育てていても、牛に愛情が無いとは言えませんよね。理屈では無いのかもしれません。

お礼日時:2007/12/27 11:39

釣りが虐待なら養殖や家畜、農業も含めて確信犯ですね。

自然破壊に関しては、ゴミの持ち帰りや鉛の使用削減など、しっかりやれば良いと思います。やれることをやりましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
養豚・養鶏等のように、釣りが生きるために必要な手段であれば悩まないのですが…。
釣り場でゴミを捨てていく人の神経はどうなっているんでしょうね。
私は鉛を使いませんし根掛り等も極力回収しますが、100%はできませんから結果としてゴミを捨てているのと一緒ですけど。

お礼日時:2008/01/22 09:37

お釈迦様は、人間は(植物を含め)生あるものを殺して食べなければならない存在なので、罪深い存在であるとおっしゃっておられます。

ですからNo1の方が書かれているように魚に感謝しながら食べればいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
色々考え過ぎずに食べて完結させるという方法はスッキリしますね。
そうすると、淡水の釣り、特に渓流釣りは否定せざるを得ないですね。絶滅してしまいますから。
いっその事、渓流釣りは禁止するほうがいいのかもしれませんね。

お礼日時:2008/01/22 09:26

どうも、幼い頃から釣りをしてる20代です。


私は釣りが楽しいからしてきました。また、美味しいから食べてきました。

人間てこんなものじゃないですかね?
残酷なことが楽しいからやめられない事ってないでしょうか?
残酷な事。奇麗事言っても世の中には大小たくさんあります。

いじめ。虐待。戦争。体罰。

質問ばかりですいません。また低学歴で文章がうまくないですが。

これは受け売りですが、地球ってキレイですか?地球の為ってどういうこと
ですか?
昔地球は二酸化硫黄の塊でした。それを単細胞の微生物たちが侵略してきた
のです。エコロジーは人間の為のエゴなのです。(淋しいから。子孫っを残すため)

美しいと思う地球を守りたいのは人間のエゴです。

人類はあと、何百年したら滅びます。地球はあと、何千年したら滅びます。
(曖昧な表現ですいません。なにかのテレビ番組で記憶は曖昧です。)

結論から言うと人間無駄なことが大切なのです。私も子孫繁栄、給料、体裁
良く悩みます。人間悩む事が素晴らしいんじゃないですかね?
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この回答へのお礼

貴重なご意見をありがとうございます。
確かにそうですね。地球上のあらゆる生物が、生きるために他の生物を殺して食べて生きている以上、私の疑問は些細な事かもしれません。
地球環境を今のような状態に破壊してしまったのも人間ですし、エコロジーは人間が自分のためにやっているに過ぎない事も事実だと思います。
>人間悩む事が素晴らしいんじゃないですかね?
そうですね。こうやって答えが出るかどうか分からない事で延々と悩んでいるのも人間だけですよね。

ご意見をお寄せ下さいました皆様、このような取り留めのない悩みに付き合って頂いてありがとうございました。
皆様から色々なご意見を頂きまして大変参考になりました。どの方のご意見も非常に貴重なものばかりです。この場を借りて改めて御礼を申し上げます。
今後、皆様の回答を私なりに整理して納得できるまで考えてみようと思います。考えが行き詰ったら別カテゴリー等で再度質問させて頂くかもしれません。宜しければまたお付き合い下さい。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2008/01/02 11:41

 魚を釣って傷つけたり殺したりすることを「虐待」と言うかどうかですが、まぁ、慈しみかわいがっているわけではないですから、そういえるのではと思います。

言い換えると「魚釣りは罪深い行いか?」と言うことでしょうが、このことはどのような観点から考えるかが大切なのではないでしょうか。
 まず、法律では密漁に該当するような釣り以外はおとがめ無しのようです。「動物の愛護及び管理に関する法律」というのがありますが魚類は対象外です。
 環境及び資源の面で考えると、魚を捕獲するという点で趣味の釣りは非常に効率が悪いと思われます。網を使っての大量捕獲に比べれば影響は微々たるものでしょう。釣り人の出すゴミの問題はけっこう深刻なのかもしれません。釣り人がよく訪れる釣り場は陸地、海中ともひどい状況です。
 道徳的、宗教的問題。人それぞれの心の問題が色々と議論になるところだと思います。釣った魚は優しくリリースするからと言っても、見た目は唇にきれいにハリ掛かりしていてもあわせたときに喉の奥やエラを致命的に傷つけている場合もけっこうあります。リリースが免罪符になるとは思えません。
 釣った魚は食べることで供養するというのは、釣った本人の罪悪感の処理方法としてはよろしいかと思います。釣られた魚にとっては殺されると言う点で関係ないことでしょうが、、。生きていくと言うことは他の生命を奪って食べていくことです。これは仕方ないことですが、遊び快楽の為だけに命を奪うのでなく、魚を食べることで「生きていくため」という正当化がある程度できるのかもしれません。

 質問者様が罪悪感を抱くこと無しにこれからも釣りを続けることは無理なのではないでしょうか。でもしょうがないことだと思います。この問題を突き詰めていけば、人間が生きていくことが罪であり、死んで消えて無くなるのが一番という結論になりがちです。どのあたりで折り合いを付けていくかが各個人の価値観ではないでしょうか?
 私の場合、たまにこのようなことも考えますが、釣り場に着くとひたすら釣りまくることばかり考えております。たくさん釣れれば地獄に堕ちても、、、、そんな感じです。
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この回答へのお礼

貴重なご意見をありがとうございます。
釣り人として魚に敬意と愛情を持って接しているつもりですが、結果としてハリに引っ掛けて引き摺り回しているわけですからね。特に釣りをしない人からすれば虐待に見えるでしょう。
ただ、釣りが虐待かどうか微妙なのは、それが魚を獲る手段、つまり人間が生きて行く上でかつて必要だったものだから、という気もします。食べるために獲るのは"○"、楽しみで獲るのは"×"であれば、食べるために獲る事には喜びが無いかどうか、という疑問も湧きますね。
単純な原始社会で考えれば、釣りというのは、自分で歩いて行ける範囲で、自分と家族が食べる分だけ獲ったら家に帰っていたでしょう。もちろん、釣る楽しみもあると思いますが、資源を食い尽くすほどの人口も無く、川や海へ自動車で出かけたりせず、最新式のハイテク釣具を使って近所に配りきれないほど釣ったりしないでしょうね。
突き詰めると現代社会そのものの否定になってしまうのかも。
>質問者様が罪悪感を抱くこと無しにこれからも釣りを続けることは無理なのではないでしょうか。
そうかもしれませんし、こんな疑問はそのうちに忘れるかもしれません。結局のところ、私は釣りが大好きだし、綺麗な水辺で一日をノンビリ過ごすのが好きですから。

お礼日時:2008/01/02 11:14

>私は主に渓流のフライフィッシングをやっていますが・・・



私もフライ好きですが、よく考えてみるとキャッチ&リリース云々の話ではないと思います。プラスチックのルアーで釣るのなら鳥獣の毛を使わないですがフライだとそうは行きません。ジーロンなどの化繊もありますけどハックル、エルクヘア、ラビットマスク等はどうしても使いますので、アウトドア派ではありますが純粋に自然を愛しているとはいえないでしょうが、まあ食肉になった家畜の毛をもらって使っているぐらいの気持ちでやっております。

キャッチ&リリースに関しては方法論が先行することが多いようですが、100%口だけに掛けることは不可能なので針を使う以上あまり差は無いと思います。フックの無いドライフライで魚が出たら勝ったことにする、としたらそれはもはや「釣り」ではありません。また解らないではないですが、魚に彼らの同属を食しているヒトの気持ちをあまりにも込めるのもどうかと思います。誰にでもダブルスタンダード的な面はあると思うので、リリースするにしてもイートするにしても全ては自分の中で思えばよい事です。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
確かにフライの材料提供のために鳥獣の品種改良までしている現実には耳を塞ぎたくなります。まさか、羽根だけ取って肉を捨てるような事はしないと思いますが。
キャッチ&リリースについては反対意見も多いですよね。私は渓流域の釣りが好きなので、自分で食べるための最小限の魚以外はキャッチ&リリースは必然です。そうでないと狭い渓流域では魚が減少して釣りそのものが成り立たなくなり、更には流域の魚が絶滅しかねません。
キャッチ&リリースの否定は、釣りそのものを否定する事になってしまいます。
ならば、資源豊富な海水域の釣りをすれば良いじゃないか、という事になりますが、それでは疑問が解決しないんですよね。
出口の無い迷路に嵌っているのは自分でも分かっているんですけど…

お礼日時:2008/01/02 10:16

質問者の自問は、たぶん正当なことだと思います。


そして、なお釣りの残虐性について
明確な答はないと思われます。

すでに数名の方が答えているように
行動には裏表の意味や結果が生じるように
これについて議論は、時間の浪費にもつながりかねません。

人間が元からもつ残虐性という本質(性質)に
直結した、快感を得るための狩猟行為に属するものに
釣が属するのであれば、
この見地からの考察を行う必要がありますが、
ここまで大げさに、またその答の正当性さえも
だれも立証できないのですから、
「人間は釣が好きなのである」
で、いいような気もしますね。

趣味のことに、罪悪感をもつのでは
楽しみも半減しませんか
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
明確な答えは無い、というお考えは確かにその通りかもしれません。考え方は人それぞれですし、何が正しいかなんて誰も証明できません。
人間の行動には裏表があるというのも仕方のない事ですよね。
ちょっと話がズレますが、だいぶ昔、北極圏で氷に閉じ込められたクジラを人間が大挙して救出し、それを先住民達が遠巻きに見守っている、というニュース映像を見たのを思い出しました。放っておけばクジラは先住民たちの冬の生活を潤したはず、またはホッキョクグマやホッキョクギツネや他の生物達の大事なカロリー源になったはずなのに、そこに文明の手を加える事の愚かさ。
人間が増えすぎてしまったのが原因なのか、文明が発達し過ぎたせいか。当たり前のように獲って、当たり前のように食べる事が難しくなってきました。
おっしゃる通り、最近は釣りにのめり込めなくなりました。ここらで潮時なのかもしれません。しかし、今まで30年やってきた事が間違っていたと思えず、自分なりにもう少し考えてみようと思います。

お礼日時:2008/01/02 09:56

ANo5です。


ちなみに、狩猟の文化は絶滅の危機にあります。
キャッチアンドリリースの出来ない狩猟、土地が狭く野生動物のすみにくい日本。

そのため、殆どの日本人は狩猟をしなければいけない状況になったとき、道具があったとしてもまともに狩猟をする事が出来ないでしょう。
鳥の捕まえ方、猪の捕まえ方、ウサギの捕まえ方・・・
どんな道具を使ってどうやって捕まえるか想像できますか?

それに対して釣り人たちのおかげでメジャーな釣りの文化。
結構な割合で釣りをした事がある人が居るのではないでしょうか?
殆どの人が釣りをしている人を(テレビなどで)目にした事があると思います。
道具さえあれば釣る方法を想像できますね。
もしつりの文化も消えかけていたのならば、針と糸と竿を渡されてもどうやって使うのか分からないでしょう。
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この回答へのお礼

taunamkzさん、再度の投稿ありがとうございます。
狩猟という大切な文化が廃れていく事は残念ですね。
狭い日本で、狩猟の場合は釣り以上に自然環境へインパクトが大きい事が原因の一つでしょうか。日本の国土では狩猟人口の増加は許容できないでしょうし。
それに、我々が動物を殺すことを怖がるようになったのも原因でしょう。スーパーでパック詰めの肉を買ってくる事はできても、鳥獣を絞めて解体して食べる事に抵抗を感じる人が大部分でしょうから(私も経験無いです)。「自分で殺すのはイヤだけど肉は食べる」という人には偽善の香りがしますよね。
自分で生物を殺す必要が無くなった社会、これが矛盾の根源なのかなと思います。

お礼日時:2008/01/02 12:07

釣りは伝統文化です。


釣り人は大昔から続いてきた釣りと言う伝統を伝えている一人なんです。
針の大きさ、針の形、重りの重さ、重りの形状、糸の結び方、さおの長さ、仕掛けの作り方、釣れる場所・・・
これらの技術は本や映像として残す事は出来ますが、一度途絶えると復活させるのは難しいと思います。
師匠が居ても一人前の釣り人になるには時間が必要だと思います。

もし釣り人が居なくなったらどうでしょう?
人間は養殖した魚を食べ、「昔の人は海や川に糸を垂らして魚を取ってたらしいぞ」と言う伝説しか残りません。
テレビ局では「本当に魚は釣れるのか?」なんて番組を作るかもしれません。

現在でも養殖結構な量の魚が取れています。逆に釣りで取れる魚の量は微々たる物でしょう。
労力に対してリターンが少なすぎます。
これではいずれ釣りの文化はなくなってしまいます。(漁は殆どが網になってしまいました)
そのために普段から訓練をつみます。限りある資源で訓練する為にリリースと言う技術も発案されました。
このような重要な釣りの技術を「遊び」「スポーツ」として後世に伝えているのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど、確かに釣りは何千年も続いてきた重要な伝統文化ですね。
大昔から食料調達手段として発達してきたのですからね。
今では多くの先進国では食べ物が豊富になり、食料調達手段としての意味が薄れて、「文化」「遊び」として残ったのでしょう。
伝統文化を継承する者の誇りにかけて、釣り場のゴミとか、生態系を崩す違法放流等、自分勝手な行動は慎みたいものですね。

お礼日時:2008/01/02 09:01

狩猟とは漁労や採集活動と並んで、人間社会の最初期から存在する生業。


(Wikipediaより)

まあ、釣りも狩猟の名残りでしょうね。
もっとも、今では、映画「釣りバカ日誌」でも判るように完全な娯楽・レジャーの類。

http://www.tsuribaka-movie.jp/

ところで、もうすぐ、「エイリアン VS プレデター2」という映画が封切られます。

http://movies.foxjapan.com/avp2/

人間が、次々と狩られていくストーリーは前作に同じです。
「今年のクリスマス、地上に平和はない」
「人類はもう、逃れられない」
実に、おどろおどろしいコピーです。

まあ、魚を我が身に置き換えると、質問者もプレデターも似たり寄ったりです。
「釣り人の行くところ、水中に平和は無い」
「お前達魚はもう、逃れられない」

<殺生禁断か狩猟解禁か?>

動物愛護、慈悲の精神を突き詰めりゃ、これは殺生禁断という思想に行き着きます。
食物連鎖、弱肉強食も自然の理ですから、殺生禁断までいけば極論でしょうね。
ならば、食物連鎖、弱肉強食と一線を画したレジャーとしての狩猟はどう考えるべきか?
私が思うに、これは一つの伝統であり文化でしょうね。
しかし、文化であれば、動物愛護、自然保護、生態系保護などの文化との関連を抜きには語れないでしょう。
ですから、動物愛護の観点から、自然・生態系保護の視点から色々と意見もあるかと思います。

さて、結論ですが、人間は車であれ釣りであれ、そういう文明の利器、伝統・文化と不離一体の存在。
それらを悪と否定して、原始社会に後戻りすることを良しとする人間なんぞいません。
それらを悪と否定して、殺生禁断で一生を送れる人間なんて普通はいません。
<そういう文明の利器、伝統・文化と不離一体の存在>が、まあ、一つの合理化論でしょうね。

しかし、ほどほどに。
なんせ、私の妻は、無益な殺生を好みませんので・・・。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
プレデターと一緒ですか…
確かに、釣りは殺すのが目的ではなく、実際に食べる分以外は殺しませんが、魚にとっては命が掛かっているわけで同じ事ですね。
しかし、食べるための殺生とその名残としての釣りと、やっぱり同じような気もしますし…なかなか難しいですねぇ。

お礼日時:2007/12/30 00:45

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