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イプセン作の「人形の家」に出てくるノラと、「蝶蝶婦人」の主人公、蝶蝶夫人はどちらも女性の強い面を描いているキャラクターだと思います。けれど、彼女らの「強さ」の表し方は異なっています。
ノラは自分の家庭を犠牲にし、蝶蝶婦人は自分の命を犠牲にします。
この違いは文化の違い、国が違っている事が原因なのでしょうか?他にも何か原因となるものがあれば教えて下さい。

A 回答 (1件)

 このご質問では、女性の強さとはなにか、人の強さとはなにか・・・・・といったことをあらためて考えさせられます。



 まず「人形の家」のノラ、彼女は「ここに鍵を置いていきます」と言い残して家を出ます。この鍵を置く・・・ということには実は大変大きな意味が含まれています。古くヨーロッパでは「主婦の鍵」という習慣がありました。妻は結婚の際に夫から鍵を手渡されますが、この鍵を持ち続けている限り、相続権はもちろんのこと、家政や出納をはじめ使用人の雇用処遇などにいたる一切を夫と同等の立場で夫に代わって取り仕切る権限を保証されていました。それでもなお、こうした、ある面では安定した生活をも捨て去ってさえ、ノラはもっと真に女性としての満たされた人生を求めて外界に羽ばたいたというわけです。つまり、正しく言えば、彼女は家庭を犠牲にしたのではなくて家庭生活に見切りをつけたと言うべきでしょう。
 こんなノラ、たしかに自分の思うままに理想を追い求め、信念のままに行動したという見方をすればたしかに「強い女性」の姿でしょう。ですが、では、忍従とまではいかないまでも、自分の理想は今となっては単なる果たせぬ夢と諦めて、より円満な夫婦生活や明るい家族関係を築こうとひたすら家庭の中で努力する女性は弱い女性ということになってしまうのでしょうか。

 さて、蝶々夫人の場合、これはもうピンカートンという男性の重婚によって、一時期を相思相愛で過ごし、その後も帰国した相手をひたむきに愛し信じきって待ちわびていた純真無垢な日本女性の心が踏みにじられてしまうという、女性にとってまったく許せないとんでもないストーリー、当てつけ自殺のひとつもしたくなって当然でしょう。
 でも蝶々さんの場合は少し違います。実に冷静なのです。彼女のもとに現れたのは待っていたピンカートン本人ではなく彼のアメリカでの妻ケイトだったのです。でも、蝶々さんは取り乱しませんでした。深い悲しみと気が狂いそうなまでの悔しさを精一杯飲み込んでいたことでしょう。それでもなお穏やかな表情を作りながら現実をしっかり受け止め、礼儀正しくケイトに接し、幸せを願って自分の子供を彼らに手渡すことまでを約束し、これから先の幸せな生活が出来るようにとケイトに祝福さえ贈ります。そしてその直後「名誉のために生けること叶わざりし時は、名誉のために死なん」と仏壇の前に座り、父の遺品の刀で喉を突きます。

 なんという崇高さ、これこそ世界に例を見ない日本女性(当時の武士階級出の?)ならではの鮮やかなまでもの強さ・・・・・・だとは思います。でも、答えはこれだけだったのでしょうか。もし、蝶々さんが、「ケイトさん、事情はよく分りました。貴女を責めたりはしません。まして、男として最低なピンカートンにはいささかも未練はありません。ですから、こちらから気持ちよくご縁を切りましょう。いいえ、この子はわたくしの子、あなた方のお世話にならずともわたくしが立派に育て上げて見せます」と言い切っていたら・・・・・弱い負け犬になってしまったのでしょうか。

 こうして見ると、女性の強さ、人の強さ、それは時代や場所には関係なく、文化にもあまり関係なく、考え方次第、見る角度次第、結果次第、「こうだから強い」とひと口に言いきれないものを感じてしまいます。難しいですね。
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この回答へのお礼

なるほど!そう考えれば国の違いや時代はあまり関係無いのかもしれませんね。

参考になるお答え、ありがとうございました。

お礼日時:2008/01/09 15:07

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