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こんにちは!

南京の虐殺について、最近気になった事があります。
歴史のカテゴリーをさがしたのですが、社会になかったので、こちらで質問させていただきました。
私自身、中国の上海で何年か学生をしていた身分ですので、中国の歴史について興味があるのですが、南京事件についてはだいぶ意見が分かれるようですね。南京事件の是非はさておき、

南京事件の人数に問題がある理由のひとつに当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点をよく聞きますが、これはどういうことなのでしょうか?

現在の南京の人口は700万人ほどらしいです。中国最大都市の上海で1800万人ですので、南京の700万は妥当なところだと思います。そしてWikipediaによると1949年当時の人口は250万人。下記URL参照:
ニュースからです。私にも人数が正しいかどうかは分かりませんが、当時の南京には100万人弱の人が住んでいました。ので、被害人数の方が多いという事はありえないのではないでしょうか。

現在の南京の人口は約770万人です。1949年には250万人ほどいました。それが1945年には20万人もいなかったというのはありえないのではないでしょうか?(下記のWikipediaを参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …

この数から考えて、虐殺が起こったと言われる1940年代半ばに20万人以下だったというのはありえないのではないかと思うのです。

なぜ、多くの人の間で当時の南京の人口は20万人以下だったと言われるのでしょうか?なにか別のデータがあるのでしょうか?

宜しくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

「味方(中国)の軍がもうヤバい、敵(日本)の軍隊がもう郊外まで来てる」と言う状況で、いつまでも南京市内に留まっている市民が何百万人も居た、と考える方が不自然です。



普通は、日本軍が来る前に逃げ出すでしょ?

怪我とか病気とかで逃げれないとか、中国軍が「我が軍の維持のため、この地区に居る人間は脱出してはイカン!逃げたら殺す!」とか言ってたとしても、逃げ遅れたのが20万人も居るとは思えないです。

それとも、当時の中国には「敵が目前まで迫ってるのに、逃げもせず自宅でノホホンとしてるような馬鹿」が20万人も居たんですか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、逃げ出した説ですね。実際、沖縄等ではアメリカ軍が攻めてきた時に何割ぐらいの人が逃げ出したのでしょうか?

お礼日時:2008/01/21 03:54

日本を愛しているからです。


悪いところがあってもそれでも日本が好き、でなく良いところしかない日本がすきなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。盲目に日本を愛するあまり、日本の悪いところに目を背けようとしている説ですね。

お礼日時:2008/01/21 03:56

こんにちわ。



仰るとおり、この事件は色々な意見がありますね。
>当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点

これは、中国側の「トンデモ説」の中に、犠牲者は2百万人だ、いや3百万人だ、というものがあるので、それに対する評論です。

日本側の「トンデモ」はそんな事件自体無かった、という説です。

両方とも「トンデモ」同士が一人歩きしてます。

数万人から数十万の間、というのが最近の定説ですかね。
それならば、あまり矛盾がありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。とんでも対抗説ですね。中国では20-30万人というのが公式的な見解ではないでしょうか?南京事件記念館でもそう書かれておりました。

お礼日時:2008/01/21 03:59

Q、なぜ、多くの人の間で当時の南京の人口は20万人以下だったと言われるのでしょうか?


A、「例え、200万人が居住していようとも、その大半は逃げ出した」という主張かと。

昨年、私は、南京事件の当事者の話を聞く機会に恵まれました。
今では数少ない生き残りの方の証言ですが、かなり、衝撃的なものでした。

1943年1月から翌1944年1月まで、コードネーム「若杉参謀大尉」として南京の支那派遣軍総司令部に勤務された三笠宮殿下のお言葉は次のようです。

>南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。
>それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、
>また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。
>ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。
>これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

参謀大尉のお言葉、それに兵隊自身の体験談から、私は「逃亡説」は意図的な為にする主張と思います。

>偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、
>真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は体験してきた。

私は、三笠宮殿下が体験されてきた時代を「逃亡説」でもって再び引き寄せてはならないと思いますね。

なお、祖父とともに満州に渡り祖父の遺骨と共に帰国した父の妹の話は傾聴に値します。
「そりゃー、良い日本人もいたし悪い日本人もいたよ」
「そりゃー、良い中国人もいたし悪い中国人もいたよ」
「しかし、あの広い中国を知れば、『逃亡説』を唱える気にもならんやろに」
「仲良くするのが一番たい」
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この回答へのお礼

ありがとうございます。実は私も南京で当時の中国人に話しをうかがったことがあります。

>偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、
>真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は体験してきた。

その通りですね・・・。愛国心って時に盲目で怖いものになるんですよね。

お礼日時:2008/01/21 04:04

> 現在の南京の人口は約770万人です。


多分、もう少し多いと思います。中国では転居の自由がないので、南京へ働きに出ている人は「一時滞在者」扱いとなり、人口にカウントされないことが多いためです。


さて。
南京陥落直前の人口(民間人)は、概ね20万人、多くても25万人程度というのが妥当な線だと思われます。プラス、軍人が9万人ほどです。
合計で、30万人前後、と考えるのが現実的な線ではないでしょうか。


戦闘前の日本軍の爆撃の時点で 50 万人以下まで減り、日本軍が進軍を始めたことで市民は脱出を図りますが脱出路である長江を中国軍が優先的に使ったことなどにより、結局 20 万人ほどが取り残された、ということになります。
この20万人という数字は、ドイツ人ラーベが本国に報告した数です。
また25万人という数字は、陥落後に調査団が入って調査し報告された数字です。

中国側の主張としては南京での民間人虐殺数は30万人であった、ということであり、陥落後一ヶ月の時点で人口が25万人以上いたことから、計算が合わない、というのが
> 当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点
の意味内容です。

民間人はほぼ全員安全区域にいたのですが、この安全区域自体、4平方キロ弱で、千代田区の1/3程度の広さしかありません。ほとんどの建物は平屋ですから、現実問題として、50万人や100万人もが数日であれ暮らすことはちょっと難しいのではないかと思います(日本軍が南京市郊外に着いてから陥落までは9日です)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり逃亡説が主流のようですね。

>民間人はほぼ全員安全区域にいたのですが、この安全区域自体、4平方キロ弱で、千代田区の1/3程度の広さしかありません。ほとんどの建物は平屋ですから、現実問題として、50万人や100万人もが数日であれ暮らすことはちょっと難しいのではないかと思います

そうですね。新しい情報をありがとうございます。

お礼日時:2008/01/21 04:07

南京事件の人数に問題がある理由のひとつに当時の人口よりも殺された人の数の方が多いという矛盾点をよく聞きますが



20万の都市で30万人殺せるはずが無いうんぬんですね。

まずそれは、歴史を顧みない人間のタワゴトだと思ってください。
よく言われる(わかりやすいため本を読まないネット民にうけているようです)トリックですが、
20万人というのは、南京市の一画(約1/10の面積)の「南京安全区」の人口です。

ですから、「南京市」の人口とは全く違います。
両者を意図的に混乱させるトリックですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
安全区の人口を南京市全体といっているのですね。

お礼日時:2008/01/21 04:11

南京大量虐殺はありませんでした。


なぜなら写真がないからです。
当時中国の武器は日本軍より劣っていた。
よく考えてください。虐殺された側の武器はなんですか? 30万人が虐殺されたのならあたり一面死体の山です。わたしが中国人の立場なら虐殺死体の写真を撮りまくって国際世論に必ず訴えます。
「日本軍はここまで極悪非道な軍隊なのだ!」
とやるでしょう。そうすれば世界が中国に同情してくれ味方になってくれるはずです。戦車100輌より大きな武器になります。
いいですか。30万人ですよ。死体はあたり一面にあるはずです。どうして写真がないのか? 虐殺がなかったからです。真実は東京裁判でアメリカ人の証人が述べた通り「たった一人」なのです。
ではなぜ単なる噂が真実になったか?
それはアメリカがこの戦争を正当化し、さらに原爆投下さえも正当化するためにはナチスのユダヤ600万人虐殺に匹敵する日本の悪事を探していたからなのです。この噂は「渡りに船」だったのです。あなたがもし純粋の日本のかたであるならありもしない虐殺を信じてはなりません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
写真はありますし、実際に中国の友人の祖父に直接聞いたこともあります。彼自身は割りと日本に友好的な方でしたので、嘘をついているとは思えません。

純粋な日本人、純粋でない日本人はこの際関係ないと思います。私は愛国心というものに縛られず、物事の真実、本質を知る事が何より大事だと思っています。

お礼日時:2008/01/21 04:15

日本軍が南京を攻略する前の12月1日に、南京市長が全市民へ安全区(難民区)内へ避難するように命じました。


安全区というの仏人宣教師ジャキーノ神父が、日本軍の承認する「難民地区」を上海南市に設立して良民の保護に当たった先例にならい設けたもので、この管理は南京市長の申し入れを受けて南京安全区国際委員会の外国人15名による自治組織でメンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名で組織されている。

この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている
翌年の1月に難民に食糧供与をするため、人口の掌握をしたときには25万に増えている、これは近隣の町へ避難した人が戻ったと考えられるが食料を得るために難民として着ただけとも考えられる。
また日本軍も難民区に潜入している便衣兵を摘出するため「良民証」を給付しました。良民証は10才未満の子供と60才以上の老人を除外して給付された物であり、この給付数が16万に達しています。

また当時の日本軍も国際委員会からの情報をもとに食料や物資を南京に送っており人数の差異があれば相応の餓死者等が発生したはずである。

南京市内の人は安全区に避難していたが郊外にも人はいたのではと思われるかも知れないが、国民党軍は焦土作戦を用いており城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村は軍事作戦として焼き払われました。現在では非常識に思えるかも知れませんが戦力が劣った方が敵の侵攻を緩めるために行うのは常套手段です。独ソ線しかり、アフリカの独英戦では逃げるときに井戸にガソリンをいれ飲めなくするなどWW2でも行われる事です。
 
余談ですが、日本占領後の翌年の2月に国際連盟で日本を非難する決議が出されていますが、このときの中華民国代表は
南京では捕虜を含めた2万人程の虐殺が行われたと主張しました。
しかしながら、日本批判の決議に中華民国の意向は含まれず、南京での事件は扱われませんでした。
これは各国が南京安全区国際委員会により南京市内での状況をある程度認識可能であった事が理由なのでしょう。

なお南京市の人口は、1937年3月末(占領の9ヶ月前)の時点では101万人程であったとのことです。

占領前について
ラーべの南京の真実を引用
11月28日、
察庁長王固盤は、南京には中国人がまだ二〇万人住んでいると繰り返した
12月6日黄上校との対話
なぜ、金持ちを、約八十万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首に縄を付けても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?
12月8日
われわれは全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き上げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。城壁の外はぐるりと焼き払われ、焼け出された人達がつぎつぎと送られてくる。
12月10日
日本政府と蒋介石はなんといってくるだろう。一同、固唾をのんで待っている。何しろ、この街の運命と二十万の人の命がかかっているのだ

南京アメリカ大使館通信
I、十二月十日後の主な報告
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ五分の四が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やはり逃亡説が有力そうですね。詳しい回答をありがとうございます!

お礼日時:2008/01/21 04:16

もう答えが出ているようですが


Wikipediaの
南京大虐殺論争 人口推移に解説があります
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC% …

南京事件については
東京裁判でパール判事が意見書で 以下のように書いています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80% …
南京事件については「すでに本官が指摘したようにこの物語の全部を受け入れる事は、 いささか困難である」と
十数万~数十万もの大虐殺に関する証言や証拠に強い疑問を呈した上で
「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた  
戦時ふ虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」として一定の犯罪行為が存在した事を指摘した。
そして「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。
彼らはたんに誇張されていることを愬ているのであり、かつ退却中の中国兵が、
相当数残虐を犯したことを暗示したのである」
という弁護側の主張で締めくくっている

これが客観的に見た南京事件の事実ではないかと思います
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
リンクのほう、参考になりました!

お礼日時:2008/01/21 04:18

内務省を作った岩倉具視周辺自体が


英香港印系ユダヤ政商らの工作員として日本で岩倉家に養子入りして、
朝廷近くに入り込み、
公武合体派に見せかけ、憲法でも西郷どんが親韓大使として朝鮮派遣してくれと自分の辞表を提出し、講義したにもかかわらず!
朝廷の名を使い、却下させた人物でもあり、
その結果、600人もの官僚が辞表を出し、
その後も辞職が続いたといいいます・・
反対陣に入り込み、そのリーダーとなったとき、
本音に翻る・・・
これがユダヤ政商らの常套手段ではないでしょうか・・??
(毎日放送の大阪平松市長?大丈夫かな??)
こういう英香港印米ユダヤ政商らに行政制度を作られた明治政権での
内務省(元々は、地方に任されていた徴税権と裁判判決権?が
外国の威嚇勢力と対抗するために、
日本本位の政治家らも明治政権の中央集権化は賛同したのでしょうが
そのときに、大蔵省に徴税権も使い主としての主導も集約され、
現在、トヨタといえども英香港$系の社長が経営する事態となり・・
今度は、日本国家として官僚らが国民に実態を知らしめて、
反対運動が起こることを恐れている??
そこで、官僚を失墜させ、国防機能も占領してしまおう・・
というのがシナリオのように思えます・・??

南京事件をまるで予想していたかのように?or重要関係者ように??
第一報を報じたのが、
内務省・正力松太郎が社長となって関東大震災時、
王希天事件(暗殺されたことになってるが、実は上原陸相の下で、野方村(後に中野町)字上高田の【上高田救命院】で、
炭疽菌増殖技術を渡辺政雄に教え、それがのちの石川四郎731部隊に使われ、本物の周恩来、呉達閣、張学良ら抗日地下活動家らと連携)と連動した(日本国民?恐らくは抗日活動家らが口封じに殺害?が誹謗中傷で虐殺したということになってる)朝鮮人殺害事件をマスコミ業界で
もみ消すために、
1924年2/25、前警視庁刑務部長(のちの衆院)正力松太郎が読売を買収し、社長就任し、朝日新聞(元々は読売とも日本の新聞・・毎日が黒幕??)も支配下に置き、
早稲田卒の橋本登美三郎を朝日新聞に入社させ、
満州特派員として記者として中国に駐留させている・・(中国人?)
1936~37年8月、橋本登美三郎、南京支局勤務、南京通信局長を務め
  12月、南京を日本軍が占領した際、
    まるで予想していたように!?
    15人もの大所帯の部下の記者を引き連れ、
      一番乗りし、
     橋本は南京大虐殺については、否定的な証言をしてるが、
       外信部長、 元朝日新聞社東亜部長を歴任している・・
     
終戦とともに、橋本氏は新聞社を退社し、
     佐藤内閣(岸系が英香港$資本人脈を育ててる?)で内閣官房長官となり、
     政界にも基盤を作り、
1968年佐藤内閣時、旧姓橋本の額賀氏は、
   橋本登美三郎氏とまったく同じ学歴、学科、クラブ出身ということで、
   産経新聞静岡支社政治部入社し、
   いきなり!三木武夫と角栄さんの番記者となって・・
1978年2/1、退職し、
   12月、茨城県議選挙で初当選し、以後、堂々たる橋本登美三郎後継者として
   1980年、橋本氏を落選させ、その後継者として国政へ踏み出す・・
   浜幸に一杯食わされた社会党飛鳥田氏スキャンダル事件で衆院ハプニング解散した時、
   ダグラス・グラマン事件、松平永芳氏が自衛隊から湯好くに宮司に就任し、真の戦犯である松岡、白鳥両氏の合祀をこっそり行ってしまい、
   昭和天皇はご立腹され、
   以後、靖国にはご参拝にはならなかった・・
  つまり・・白鳥、松岡(岸、安倍氏の祖先。満州で岸氏が若い官僚のころ、英香港ユダヤ政商資本のキーマンと結び合わせた人物、叔父さん)は、
   戦争の黒幕をご存知の昭和天皇が
   心底立腹されてる両氏を靖国に合祀することを許した政治勢力であるということ・・

  いつも通り、、取り留めないのですが・・
  南京事件が実際に起こった起こっていないという問題の前に、
  どういう経過で、そうなったのか・・という点を再度、洗いなおす必要があると思いますし・・
  そうすれば・・
  なぜ、急に南京に多くの人が集まったのか・・
  彼らはどこから誰に導かれてきたのか、
  それらが浮かび上がってきますでしょうから、
  日本人が南京虐殺をしたということを前提に問題究明をするのはまずいのではないでしょうか??!?
   
     
  

(ちなみに・・抗日活動お表舞台で堂々と推し進めることが可能になった岩倉具視を支えた?導くこととなったキーマン・・・
松平春獄、由利公正、山内豊信(土佐藩主)らは、
海晏寺を墓所にしています(一般のお参りは不可)

この寺は『吾妻鏡』では
・・
下河辺行秀(源頼朝の御家人)が、
鎌倉幕府が成って間も無い頃、

那須野の狩に名誉の射手に選ばれたが、
鹿を射損んじ出家
執権北条泰時の頃、後の天福元年(1233)三月、
僧智定坊となった行秀は鎌倉に遺言状を送り、
熊野の那智浦から戸を釘で打ち付けた舟で補蛇落山へ渡ったとあり、
孫の時頼が、
鎌倉建長寺の蘭渓道隆を迎えて開山
補蛇落山海晏寺の創建し、
墓地には、熊野三苗とわざわざ記録が残されてる鈴木幸純(日本で鈴木姓が一番多いそうですが、、
戦時中の企業鈴木商店などが現在も安倍、渡辺、額賀、斉藤明政権時
もスキャンダルで潰されずに生き残ってるということは・・??)

また、熊野神社、おイセさんもいつの間にやら歴史を塗り替えられてしまったようで。。

現三重県知事体制がある・・??

神社の紋が荒波で
江戸時期の古文書によると、
サメの歯を報じたというので、
熊野水軍(海賊)時代には、
すでに!この地も拠点とされていたのかもしれませんし・・

そうなると・・
『おかげ参り』などの非日本的な庶民の言動や文化も理解できるように思えます・・

『エベス(夷もとは当方の異国)さん』という商売の神様が
元々の菅原道真(中国の国花、梅に象徴)など海辺におかれた偉人を
シンボライズして利用し、
その宗教施設にお金が集まるようにしている・・??
伏見稲荷が『正一位』を乱用し、
自分の末社まで神格化させている・・

日本の神道は英香港ユダヤ政商らの祖先の代から
日本文化の壊滅を意識的に行っている・・


他方で、日本古来の神道の機能を牛縄させている・・
大阪の上本町に20年程前にはあった神主さんの協会?だか・・??もなくなっている・・

コンクリート化され、
柵で人を拒み、
かつての鎮守の森の気配が失せている・・

破壊されずに現存しているのは・・
殆ど!英香港米ユダヤ政商由来の遺跡と習慣が伝えられている・・・

Huuuuuuuu・・・
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございます。
すみません・。。私には少ししか理解できませんでした。

お礼日時:2008/01/21 04:20

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