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 人生には、選択を迫られる場面がよくあるものです。「もしも、あの時違う道を選んでいたら・・」と、しばし感慨にふける方も多くいらっしゃる事でしょう。

 みなさんが今までに経験した「究極の選択」についてのエピソードなどを是非教えていただけないでしょうか。

 よろしくお願いいたします。
 

A 回答 (5件)

趣旨から外れてしまうかもしれないことをお許し下さい



いま自分の人生を振り返ったときに、究極の選択と呼べるものは全て、
命を授かった未知の瞬間に呑み込まれてしまいます。
生を受けたその時から、回り道はあるにせよ、より良き生を育むことで、
毎日究極の選択を繰り返しているように思われます。

あくまでも自分の雑感なので、一般論ではありません
時の流れに身を任せています、悪しからず
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなりまして、申し訳ございません。

 深いお言葉ですね。返す言葉もありません。その通りであろうと私も思います。「時の流れに身を任せる」なんて、実は、凡人にはなかなか出来ない事なんですよね。mcqgogoさんという人物が、ますます謎の存在(良い意味で)になってきました。また機会がありましたら、よろしくお願いいたします。

 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/10/26 23:15

ああもしも自分が発生せずに済んでいたならば山よりも大きく海よりも深い生きる苦しみに喘ぐことなく今も無の境地で永遠に安らぎ続けていたことだろう。

生まれたこと、これは究極のしくじりだ!

参考URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~crazyboy/oripan/essa …

この回答への補足

 
 長期の海外出張のため締め切りが出来なかったのですが、
 ご回答いただいた皆様、ありがとうございました。
  

補足日時:2004/06/14 00:33
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 言わんとしている事を汲み取れない訳でも無いのですが、正直に申し上げて、hb875さんには精神的な幼さを感じてしまいます。

 ナルシスティックな回答は現実的に何の役にも立ちません。もう少し有意義に人生の時を過ごす事が出来たなら、今回の回答を訂正したく思う事でしょう。

 今後の活躍を期待します。
 

お礼日時:2004/06/14 00:32

私の知人はある決断を迫られていました。



知人が担当していた資産家の患者が死の間際、多額の寄付をしてくれました。
その資産家は、「この寄付金で、尊い命を救ってください。」
とだけ言い残し、他界されたそうです。

その時の知人には、小学生になるとても仲の良い患者がいました。
その子は重度の疾患を抱えており、
アメリカで臓器移植手術をしない限り、余命幾ばくもない状態だったのです。

その時、知人は迷っていました。
寄付されたお金を使えば、その小学生はアメリカで手術を受けられます。
(システム的に諸問題はありますが)
しかし、彼が以前ボランティアで参加していたアフリカの医療チームでの体験を考えると、
そのお金をアフリカの子供達のために使うのなら、数千人もの命を救えることになります。

金額的に、どちらか片方にしか使う事が出来ません。

身近にある感情移入した一つの尊い命か、
それとも、遠い国で満足な医療を受けられない数千人の尊い命か…

とても難しい問題です。
知人がその時に下した決断については、今は述べずにおきましょう。

逆質問になって恐縮ですが、aoihoshiさんなら、その時どうされますか?
よろしければ返答ください。
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなりまして、申し訳ございません。

 いろいろと気を使っていただいたようですね。でも、ご心配は要りません。この質問は、哲学カテゴリーに相応しいものだと考えております。

 さて、ご質問に答えさせていただきたいと思いますが、私は、今回のそのご質問の趣旨をはかりかねています。なぜなら、人間なんて所詮、偽善者たる存在であると考えているからです。確かに、人1人の命は、とても尊いものですし、数の論理から言うのならば、迷わずアフリカの子供達を救おうと考える事でしょう。

 しかし、ならば私は逆にwow2002さんに問いたいです。ご自分の最愛の子供さんが不治の病に日夜苦しんでいるとして、ご自身の全財産をつぎ込めば高度な医療を受けられて、高い確率で助かるとするならば、他人の事など考えている余裕などがあるものでしょうか?ご自身の子供の事より、他の多くの命を救いたいなどという、そんな考えが浮かぶものでしょうか?

 人間には仲間意識があります。そして、感情があります。人が複数集まれば、必ずグループが出来ます。人は、1人では決して生きられるものではありませんよね。各宗教や各政党、市町村・都道府県・全世界の国々を見てもおわかりのように、人は、群れなければ容易に生きる事が出来ない存在です。・・言うまでもなく、その原点は、最小単位の「家族」にありますよね。

 ゆえに、感情移入した存在が身近にあるのなら、何を迷う事があるのでしょうか?・・それとも、今回の文面からは読み取れない他の事情があるのでしょうか?

 今、私に言えることは、ここまでです。

 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/10/26 23:14

私も、高校時代、「文系・理系」の選択がありました。


農学部もいいが文学部も、という・・・。文学部に進んでいたら、いまごろ中央アジアあたりで遺跡の発掘しているかな?

さいきん、縄文遺跡の研究が農学部や工学部の研究者によって進んでいる(DNAの分析で三内丸山遺跡の縄文人は栽培をしていた、とか)のを知ると、やはり、そういう発想の人は多かったのでしょうね。
さいきんの高校って(とくに公立で)、高校入試の段階で理数系とか人文系とか分けているのは間違いだと思いますね。たんに大学入試の訓練のための都合だけで。

あと、誰しも思うことかもしれないけど、「今の妻でなく、○○さんと結婚していれば・・・。」というのは・・。
(藤圭子さんが前川清さんと離婚していなければ、ヒッキーは誕生してなかったわけだから、結果論というのは恐ろしい・・・ほどのもんでもないか)
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 自分が興味を持っている事を職業に出来たら、どんなに素晴らしいことでしょう。三内丸山遺跡は、私も興味をいだいていました。約5千年も昔の縄文人が定住生活を営み、巨大な集落を形成して、秩序ある社会を形成していたとは、本当に驚きです。それまでの縄文人に対する原始人的なイメージが払拭されましたものね。

 人との出逢いも不思議なものがありますよね。私も時々思う事があるんです。もしも、あの時、あの人と出逢わなかったら、もう結婚していたのかな~って。

 もしも、藤圭子さんと前川清さんとの間に生まれた子供が歌手デビューしていたとしたら、直立不動のハスキーボイスで、今の時代、意外と売れていたかも知れませんね~。(そんなわけないか・・)
 

お礼日時:2002/10/02 18:54

こんにちは。

究極の選択というには大げさかもしれませんが経験談を。

5年前私は大学受験で、A美大の建築学科とB美大の写真学科に合格し、迷った末に写真学科に進学しました。そして卒業後、C大学の工学部の建築学科に在籍しています。ふと、大学の講義を受けながらもしあの時A美大の建築学科に行っていたらば今頃卒業して2級建築士の免許を取ったり1級に向けて勉強していたりするのかな、と思うこともありますがこればかりはわかりませんもんね!遠回りして再び志した道だからこそ見えるものもあるの「かも」と思いつつ、頑張っています。

以上、私の「究極の選択」でした!趣旨が違っていたらばすみません!!
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 時間をかけてでも、迷った道を見直そうとする考え方も尊いかも知れません。自分のやりたい事をいろいろと試すには、若い時期にしか出来ませんものね。立派です。

 私も高校2年までは、理系志望だったのですが、当時の恩師に影響された事があったため、文系に進む事になりました。あの時、そのまま理系に進んでいたら、今頃私は「研究者」「女医」・・(まさか・・)
 

お礼日時:2002/09/29 16:31

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