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衒学的というのか、知識をいたずらにつけることっていうのは、意味があるのでしょうか?いわば、知識をつける趣味です。特に、自分の生活上有利になるとか言うことではなく、まったく自分の人生に関係ないカルチャー的な知識、そういうものを蓄積していく意味というのはあるでしょうか?

これが昔の貴族社会とか上流階級社会だといみがありました。サロンなどで、機転の利いた会話ができることが、人脈的にも実利的にも有利に働いたということもあったでしょう。ところが今日的に、一庶民が博学であったところで何の得があるのか、さっぱりわからなくなります。むなしさと紙一重なきさえしてしまいますが、どう考えたらいいのでしょうか。

A 回答 (13件中1~10件)

こんにちは。


身に付けた知識といいますのは見識として用いられ、結果として外に現れ出るものです。ですから、衒学的というのはまだ十分な見識の育たない未熟な状態を指します。この「見識」というものを追求したのがソクラテスですね。

知識といいますのはこれを実践するためだけに身に付けるわけではありません。そのあらゆるものが自己の視野を広げる要素となりまので、それは使わなくても必ず役立ちます。何故ならば、果たしてそれは行動選択の結果として必然的に外に現れ出るものだからです。
「理性行動」とは思考結果に基づいて選択されるもの指します。ですから、知識を身に付けるならばその分だけ「情動行動に対する理性行動の比率」が高くなります。
この理性行動といいますのは未来の結果を予測して選択される計画行動であります。これに対しまして、知識をひけらかすというのは自己顕示欲に基づく「情動行動」に当たります。
このように、知識といいますのはそれを見識として用いない限り我々は「正しい未来の結果」を選択することができません。では、知識といいますのは見識として働き、未来の結果を左右するものです。ならば、人類が知識を身に付けるならば、その結果は必然的に人類の未来に反映します。

「下手な考え休むに似たり」といいまして、人間、視野を広く持たなければどんなに考えても正しい結果を得ることはできません。知識といいますのは幾ら身に付けても決して無駄にはなりませんから、心配はいらないです。
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この回答へのお礼

ひけらかすとか、社交で有利になるとか、実効性があるとか、それは確かに余計なことなんでしょうね。あるいは使い方を間違えている。正しい判断を下しやすくするために、高々人間の頭脳にいくら詰め込んでも、無駄になるような代物ではないでしょうね。

お礼日時:2008/02/16 21:19

どうも、一般的なことは言えませんがこれが私の回答です。


私の回答の中では知識=情報だと思ってください。

知識を身につけることは「己の思考を先へと進ませ、答えを出す」為に必要です。
質問者様が思考の末にどんな答えを出すか、その為の知識が他の回答者様の回答や私の回答です。
つまり質問者様の質問そのものがそれへの回答になっていると言えるでしょう。

まぁそもそも、生きる上で意味のあるであろう情報ならば、必要のない情報よりも眩い光を放つでしょうか?
そんなことはありませんし「道端の石ころを蹴飛ばしたらどの位飛んだか」そんなことが実は重要かも知れませんしね。

それと私が生きる上で目標としているのは「死ぬまでに私となり、その思想に到達すること」です。
言葉で表すと少々ややこしいですが、質問者様もそれを目指してみてはどうですか?
勝手ながら…まずは今の私の言葉がどんな意味を持つか、思考することをおすすめします。
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この回答へのお礼

思考というのは、筋肉を動かすエネルギー放出作用なのかもしれないですね。そう考えれば、確かに「無駄」というレッテルを貼らなくてもいいでしょうね。

お礼日時:2008/02/16 21:06

私は、人間の厚みは、その人が何れだけ役に立たない知識を身につけているかどうかで測られると思っています。



その人の生活にとって是非必要な知識は、並みな人間だったらその知識を人から教わらなくても誰でも何と探り当てて身につけるものです。ですから、役に立つ知識を何れだけ持っていようとも、その人が文化的に優れたレベルにいると言うことは出来ません。また、文化とは人間を幸福にしてくる重要な要素の一つですから、貴族社会とか上流社会などの俗なレベルの問題ではありません。
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この回答へのお礼

「厚み」が実は効果的であるか否かでなく、重要性を常に持っていると考えれば、決して無駄ではないでしょうね。

お礼日時:2008/02/16 21:07

貴方自身の問題です。

現代を読み解くにあたって、私は哲学的な思考が役に立っていますよ。思考という知的な道具を、おもちゃにするか、実学にするか、それは使う側にゆだねられています。
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この回答へのお礼

「実学」に転化するその基礎理論のようなものだということはいえると思います。なるほどですね。

お礼日時:2008/02/16 21:08

お茶の世界では「一期一会」といいますね。


今、そのひと時を楽しむ。ぐらいでいいのですよ。
後のことなど、問題外です。
子供におもちゃを買ってあげたり
誕生日にケーキを買ってあげたりしますが
それをすれば、どういういい事があるとか思わないでしょ?
ただ、喜ぶ顔が見れれば十分ですし。
一つの楽しむ道具なんですから
その時を楽しんでください。
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この回答へのお礼

はい。
お茶の精神というのは深いですね。スローライフの原型のようなもので、絶対必要なものです。そのものを実用化しないで価値化するのはいいことです。

お礼日時:2008/02/16 21:10

それは言葉を豊かにし、生活を豊かにする事だと思います。


精神(こころ)を豊かにする事だと思います。
役に立たない事もあるでしょう。
そのままになってしまう事もあります。
でも、自身の成長には繋がると思います。
むなしい事は無いと思いますよっ
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この回答へのお礼

確かにそう思えてきました。
使わないということで逆の醸成されるかもしれない。

お礼日時:2008/02/16 21:17

無理をする必要は無いと思いますが、やりたい事が有ったら、やった方が良いかと思います。

頭は鍛える事によって、又新しい興味を誘います。生きている間は何かに挑戦して言ったほうが良いと思います。毎日毎日の積み重ねで人生が成り立って行きます。良い事も悪い事も全てが、やった事に対して、受け取るのは自分だからです。

又、頭は鍛え続けた人と、怠け続けた人では一日ではその差は出ませんが、一ヶ月、一年、十年、三十年という事になったときには、その頭は違うものになっていると思うからです。ですから、常に何かに興味を抱いて、その事を、追求してゆく事は大事な事かと思います。
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この回答へのお礼

体同様、頭を鍛えることって重要ですよね。
何十年単位で意味があるという風に考えるのは難しいですが、そういう気持ちを持っていること信じることが大事だと思いました。

お礼日時:2008/02/16 21:16

哲学というカテゴリーなので、処世術としての視点でなく、人間学という視点から考えてみます。



知識というのは、人にひけらかすためにあるのではなく、自分の内容をいかに豊かにするかという問題ではないでしょうか。
名もない町で何かをしてるということを知ることによって、そこから世界の原理構造が明らかになることもあります。自分の思考体系を確固たる物にするには、個々の事象をつぶさに検証することが必要です。
知識の羅列でなく、知識を総合的に組み立てていくという論理性を持つことで、全ての知識は自分の生きることに繋がっていくのではないでしょうか ね 
論理がなければ、単なる物知りの長屋のご隠居か、おたくになってしまいます。
あなた自身の考え方に全て係っています。
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この回答へのお礼

世界の構造原理とか、処世術とか、よりよく精神を保つ秘訣とか、そういうものが無駄に思える知識から編み出されるものかもしれませんからね。

お礼日時:2008/02/16 21:15

無意味かどうかわからないので、質問者さんのような結論に


至らないのですが・・・。
お店のポイントカードぐらいに思っておけば気が楽なのじゃ
ないの?
人生において、いるものか何でいらないものが何かの答えは
神様から教えてもらっていないとトルストイの作品では書いて
いましたよ。
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この回答へのお礼

やっぱりポイントカードは日々使ってこそ意味ありますね?ついにたまったものを失念して無駄にしてしまうということがない様にしたいものです。トルストイは正しいようです。要るかもしれませんね

お礼日時:2008/02/16 21:14

>知識をいたずらにつけることっていうのは、意味があるのでしょうか?



あるでしょう。アタックチャンスでヨーロッパに行けます。
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