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タイトルの通りです。人はなぜ生きるのでしょうか?
古くから考えられているテーマだとは思いますが、皆さんの意見をお願いします。

また、私が働いている塾の中学生に同様の質問をされたのですが、つまらない回答しか出来ませんでした。
哲学的でなくともウィットにとんだ回答がしたかったのですが、どんな回答がうけるでしょうか?

両方でも、どちらかでも色々な方のご意見お待ちしております。
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (17件中1~10件)

チャップリンのたしか『ライム・ライト』だったと思います。


足を痛めたバレリーナが老人(チャップリン)に、同種の質問をする場面があります。その答えはすばらしいものです。またバックに流れているメロディも一度聴いたら忘れらないものです。いまでもつい口をついて出てきます。ぜひ観てくだささい。きっと何かのヒントになります。

ここでは無粋にこう述べておきます。

花の種に水をかけます。すると芽がでて、花が咲き、種をつけます。

種はなぜ芽を出し花を咲かせるのか。

不思議といえばこれほど不思議なこともありません。
水が浸透圧の原理によって種皮にしみこむ、細胞内のどこかにスイッチがはいり、厳密な物理・化学原理に支配された世界が展開されます。
質問者さまの問いが、「生命」とは何かという問いに重点があるならば、分子生物学から進化論哲学までふくめた一大研究のテーマです。

ここでは少し違う角度から。

花は花になるために生きている。

「人はなぜ生きるのか」でした。
「人」が問題なんですね。
花がそうであるように、「人は人になるために生きる」でどうでしょう。
では「人になる」とはどういうことか。
ここからはたいへん難しくなります。答え方が多様化するといってもいいい。
たとえば夢中でリンゴをほおばっているとき、「なぜ、食べるのか」という問いが入りこむ隙間はたぶんありません。「食べる」ことが即「目的」なのです。目的を実現しつつあるときに「目的は何か」という問いはナンセンスですから。
どかへ向かって歩いているとき「なぜ、そうするか」と問えば「~へ行くため」という「理由」「目的」が有意味になります。ここでの「歩く」ことには「なぜ歩くか」という問いが可能です。どこへも行かない動きが「踊り」の本質であると言ったのはフランスの知性派詩人ヴァレリーでしたが、まさに「踊り」とは「動く」ことが目的であります。

「なぜ生きるか」の問いが有意味に思えるのは、それ自体が「目的」になっていない「生き方」をしているからだと思われます(ちょっと身も蓋もない言い方ですみません)。

そういう生き方はどこにある?

わたしは、「道徳」がその答えに近づく道だという気がしています。では「徳(virture)」とは何か。「徳」は英語では「生きる力」を意味します(語源的に)。
わたしたちは、ややもすると、生きていたって仕方ないやと弱気になりがちですが、「徳」とはわたしたちの生の根底でわたしたちを支えてる「力」である。
これはちょっと普通の「道徳」観とは違いますが、西洋にはギリシアの昔からこんな見方があったのだと思います。
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この回答へのお礼

人に生まれたから人なのではなく、哺乳類霊長目ヒト科として生まれたそれぞれが徳を持ち人となるべく生きていくんですね。
20歳だから大人なわけではないという考え方に似ている気がします。
為になりました。すごく解りやすいです。
丁寧にどうもありがとうございました。

お礼日時:2009/08/31 11:31

そのときの質問の相手、状況によって回答は異なると思います。


ウィットなどが役に立つこともあるとは思いますが、それがこの問いに対する本質的な回答とはなりえないと思いますので。
時に、中学生ぐらいの学生が教師に向かって質問したことであるのであるならば、休み時間や授業後のことであったとしても、これは真摯に応えてあげたいところです。しかし、自分でも未だ見出しえないその答えを、今供出することは難しい、難しいが、最大限の答えとしては、「先生も、この問いに関しては君と同じ学生だよ、学びの途中です。君の考えを、よかった教えてくれませんか。」というものでしょうか。ともすれば、本当にその答えを、学生から聞くことができるのですから、今の機会の返答としては上善といってよいのではないでしょうか(^^)。
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この回答へのお礼

もちろん生徒が本気で考え悩んでいれば私自身も真面目に答えたいと思っています。
当方大学生のバイトということもあり、生徒も友達感覚というか軽い気持ちで尋ねてきたので
私としてはあまり堅い答えよりは、多少くだけた返事の方がいいかなと思い、今回の質問に至りました。

もちろん、状況を見誤れば生徒を傷つけてしまい大人の信頼を失うことになります。
ですのでteruteru_3さんの仰るように、きちんと判断をして真摯に答えることも大切だなと思います。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/09/04 10:51

私の好きな作品では、その答えに


「見るためだ」
と ありました。

実際のところは視覚が不自由な方もいらっしゃるので
「感じるため」
が正しいのかも知れません。

なぜ・なんのために生きるのか という問いは、
なにか生きる責任が最初からありそうな前提ですが、
「感じ、それに対しての思考と行動そのもの=生きている」
という、責任からの開放とも言える視点は
私には衝撃でした。
何を感じ、そこで何を考え、どう動くか
その時、自分自身が責任や意味を生み出します。
責任は課せられてはいないのだ という見解です。

えんぴつが1本あったら、
なにか文字を綴るのか
絵を描くのか
なにかを彫り刻むのか
回して遊ぶのか
見つめつづけるのか
何もせず他のものを探すのか。
小さな例で言えば、これも「生きている」と言えそうです。
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この回答へのお礼

デカルトは「私は考える、ゆえに私はある」と残してますが、相手だったり、モノだったりを感じることで自分を確認する。
更にモノに対する幾多のアプローチの中から一つを自分で決定していくことで、自分自身の人生が出来上がりそれを生きていく意味とするわけですね。

みなさんのご意見はとても参考になります。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/09/04 10:44

私個人としては


死ぬのが怖いからだと思っています。
だって痛いのは嫌です><
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この回答へのお礼

確かに死ぬことは恐ろしいですね。どうなるのかがわかりませんから。
ただ、今生きていることがどん底で、現状以下が考えられないような人が自殺を選ぶのかもわかりませんね。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2009/08/31 11:25

不満があるから、そういう質問をする場合が多いと思います。



でも、もし、満足しているうえで、そのような質問をするのなら、
それは、単に、暇だからでしょうね。

私も、しょっちゅう、死んだ方がいいと考えます。

でも、そういうときは、愛する人のことを考えます。
愛する数学の問題を考えます。

でも、生きている、というのは、どういうことでしょうかね。

私には、ただ、何かが存在する、という状態なのですけど、
他の状態があるのでしょうか。

つまり、他の状態を体験することができるのでしょうか。

なぜ、という質問は、
選択できるもののように思ってしまいますが、
選択できるのでしょうかね。

そこから考えるのもいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

とても難しく、凄く考えさせられました。
きっと偉い哲学者様方が何千年前から考えて今までに答えが出なかったものを、
私のような凡脳に説けという方が間違っているんでしょうけど
それでも自分のために考えたいと思います。自分なりの答えを見つけて生きることが出来れば素敵だなと。

どうも丁寧にありがとうございました。

お礼日時:2009/08/29 20:48

誤字訂正



 思い込み生じる苦しみや

⇒思い込みから生じる苦しみや


 愉快に行きたい、楽しんで生きたい。そうでなければならない。 と躁的な在り方をしている人が、その反対の人間をも作り出しているとすれば、躁的な人間、ポジティブや前向き思考に偏っている人間が、邪悪であると考えられます。

 充実、充足した人生を送るのは良いことですが、愉快に、楽しく ということとはまた別の話です。
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この回答へのお礼

何事も是非を最終的に決定するのは各々自身だということですね。
他人に価値観を押し付けられることで、傷ついたり、辛い思いをする人がいるというのはよくわかります。

充実、充足と愉快に、楽しくの違いをきちんと理解できていない人が多いように感じます。
丁寧にありがとうございました。

お礼日時:2009/08/29 20:42

 何を思い知るためか。



 「楽しくなければならない」、 「~でなければならない」などといった傲慢さ、思い込み生じる苦しみや、それによって生じる他者の苦しみ、世界への悪影響の効果 などです。
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 いろいろです。



 おそらく、人によって違います。

 人における一般的な意味において、と言うのなら、思い知るためですね。
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この回答へのお礼

この疑問の答えそのものが人それぞれに異なり、
またその人にとっても複数あるんでしょうね。

思い知るために生きるというのは、わかるような気がします。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/29 20:38

死んでないから生きている。


では、納得してもらえないと思うので、、、

ほかの動物も同じですが、他の動物の方が生きるために必要な食料の確保に多くの時間を割きますよね。

人間は動物の中でも生存率が悪く、弱い生き物ですが、知能が高くなったので、道具を使って食料を確保するようになり、一日中食料の確保に時間を費やさなくなった。

余った時間を娯楽に使うようになった。
原始的な生活をしている集団にも、音楽や踊りがあります。
文明というものを発展させてきて、生きることの楽しさを開発していった。


ところが、、、、
製造しそれを使用し満足を得るという生活から、自分で製造せず、より良い効率の良い製品を作っているグループと取引をするようになり、製造・生産よりも消費することがメインな人が増えてきた。


人間は製造したり生産する喜びの変わりに消費することに喜びを感じるようになったわけです。

その消費のために逆に労働をするようになったわけです。
喜びの場所が逆転したわけですね。

消費するために労働をするようになった。



塾に通う生徒は、「良い学校に行くため、良い仕事につくため」つまり労働につぐ労働をするために塾に通っているわけです。

将来のより良い生活のために、今時間を勉強に費やすという犠牲が良いことであるかのように錯覚させられ、頑張れば何かが得られるという神話を信じるわけです。


で、頑張った先にあるものは、大量消費するために必用なお金を確保するための労働という現実を知ることになる。

頑張った先に待っているのは でかい歯車。
流れで歯車に当たり前のように自ら乗って走りだすわけです。


神話を信じた結果、自分が一時的に幸福感を得られる品物を手に入れるわけですが、いっくら物を手に入れても、さらにもっと もっとと麻薬のようにもっと刺激に多いものを手に入れようとする。

欠乏漢からさらに歯車を回す。

そしてその歯車に乗った以上、もうその歯車から降りれなくなる。


実際 抜け出した人はいます。
40歳になったら仕事をやめて生産をすると決めた人が、その資金のために労働をし、40歳になったとき、仕事をやめて農業を始めた。

物質的にいけば、サラリーマンをやっていた方がよろ多くの物を買え、生活レベルがいいわけです。
それがわかっていても、そこには無い喜びを得るために生産の方に行ったわけです。


ソクラテスの弟子プラトンは、人はただ生きるだけでは意味がなく、より良く生きることこそ人間の美だ みたいなことを言っていた。
人間の徳と表現していたかな。

美しい生き方。魂が喜ぶ生き方。
人によって何が美しいと感じるか違うか?
共通していると思います。

ではどういうのが徳のある生き方かとさらにプラトンは考えたわけで、それがキリスト教の考え方になり、徳のある生き方を知った人の言う通りにしていれば、徳・美がわからない人も徳のある生活ができ、魂が満足するはずだ という考え。

プラトンの弟子のアリストテレスになると、一部の人のみが徳を知れるわけではなく、万人が知ることができ、実践ができるというもの。
それは簡単にいうと なにごともほどほど。


スポーツは新陳代謝を良くするが、やりすぎたら故障し、体を痛めて生活レベルが悪くなるばかりか、短命に終る。
マラソン選手が短命なのは、有酸素運動のしすぎにより肉体の酸化が早まったんじゃないかと。
名誉と引き換えに命が短くなる。

アメリカでは禁煙運動が盛んになり健康ブームになったため、ストレスの発散でスポーツをする人が増えて、ストレスで体が弱っているところにストレスとなるスポーツをしたため、短命になる人が続出。

タバコを吸うことで毛細血管が萎縮し、血管が硬くなっている人だと、やぶれて脳内出血とかする人も確かにいますが、やりすぎはそのような結果になるが、吸わなくてストレスたまって、スポーツして死ぬくらいなら、ストレスが大きな塊になる前にガス抜きとして、禁煙した人は禁煙解除して吸えばいいと思うんですね。

肺がんで死ななくても、ストレスにより内臓が悪くなって死ぬ人ぬわけで。
アメリカではストレス太り、肥満、内臓が悪くなり死亡の人が禁煙ブームの結果増えているそうです。
禁煙ブームで死者が増えてしまった。

何故ストレスが異常にたまるのか。
大量消費するため、歯車に乗ってがむしゃらに走るから。
もう降りられないと思って、歯車の上で走るしかないと走るから。
だからストレスがたまって短命になるわけです。


健康のためにジムに通う費用を稼ぎ出すために、残業をする。
本末転倒です。


確かに学歴社会なので、よりサラリーの良い仕事につくには、学歴がものを言う。
お金を人より多く稼ぎ大量消費するために、がむしゃらに勉強をする。

それだけでは、何のために生きているのかわからなくなる。
ですが、質のよい教養を得て、人生をより良くするためには、やはりその質の良い教育をする機関に入って知識を得た方が、人生がおもしろくなる。

従って今勉強することは、将来のためになる。

だけど、サラリーの良い仕事につくのが目的だと、大量消費という麻薬にはまることになるという危険もある。
まあ 多くの人がそれにはまって、何のために生きているのかわからなくなり、失業により大量消費ができなくなり、自暴自棄になる人も出てくるわけです。
他人が出世しただけでは、自分のサラリーが減るわけではないので、妬みが生まれるわけです。
会社の評価はあくまでどれだけ会社に利益をもたらしたかであって、より良い生き方かどうかの判定ではないのに。



結論を言えば、何故生きるかなどどうでもいいことなんです。

いかに一度限りの生を愉快に生きるか、楽しませてもらうか。
これが重要って言っといてください。

既に死んでいる大人は沢山いる。
人生を愉快だと楽しめない多くの大人が、子供に希望なんて与えられないでしょ?
だから嘘つき大人を子供は信用しないわけです。
死んでいる大人たちの多くを見て、子供は自分の将来を失望することになるわけです。
逆に愉快に生きている大人がその子の回りにいれば、その子の将来も明るくなるわけです。

不幸の連鎖を断ち切るためには、大人が愉快に生きることだと思うんですね。
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この回答へのお礼

人間も動物の一種なんだと認識しながらも、こういった観点で物事を考えたことは無かったのでとても興味深いです。

残念ながら本末転倒な生き方をしている人間というのは私自身も含めて、非常に多いような気がします。
きちんと生きる意味について(答えが出なくても)自分自身で考えること、
日々を有意義に過ごすことが大切なんですね。丁寧にどうもありがとうございます。

お礼日時:2009/08/29 20:36

昔、自分の友人がその質問に見事な答えを出しました。


「その答えを知るために生きている。」

堂々巡りですが、的を射ていると思いました。
人生の全てを懸けて自分なりの答えを出せれば良いのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

きっとその通りなんだと思います。
自分の意味を決めるのは最終的には自分自身だということですね
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/08/29 20:31

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