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こんにちは。キリスト教を勉強し始めたばかりのものです。

昨夜悪夢にうなされて夜中に目を覚まし,思わず神に祈ってしまいました。
「神様,私を試みに会わせないでください。この悪夢が正夢にならないようにしてください。」
みたいな感じで(こんな感じでいいですか?)。

しかし,朝起きて冷静に考えると,クリスチャンは神のなすことはすべて善だと考えるのですよね?
だとすると,何のために祈るのかよくわからなくなってきました。悪夢を見たことも神に感謝すべきなのでしょうか?悪夢が正夢になるかどうかもすべて神にゆだねるべきで,祈るべきではないのでしょうか?

あるいは,神が全知全能であるならば,祈るまでもなく私の願いは届いているはずだと思うのですが,だとすれば人は何のために神に祈るのでしょうか?

アドバイスをよろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

マタイ6章9節にキリスト直伝の祈りの基本文があります。


ここには書かれていませんが、最後に「キリストのみ名
を通してお祈り致します」を必ず入れてください。
マタイ4章1節からイエスはサタンの誘惑を受けますが
その時「サタンよ離れ去れ!」と言いました。同じように
怖い夢を見たときや、霊的な物を感じた時もこの言葉は有効です。
こんな感じです。「キリストのみ名において命じる、サタンよ離
れ去れ!」夢の中でも、もし言えるなら言ってください。
気を付けてください、私たちに回りには数多くのサタンが
居て、不可解な霊現象が神からかのように振る舞います。
霊現象を避けましよう。
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>しかし,朝起きて冷静に考えると,クリスチャンは神のなすことはすべて善だと考えるのですよね?



信者にとっては、私達が悪だと考えることも、善になる。
例えば大量殺人集団がやったことを、その集団の信者は善だと思考するわけです。

オウムがそうでしたよね?
大量殺人をやったのに、信者はその集団は善をやったと信じている。


例えば、洪水を起こして、ノア一家以外絶滅させたのは、神となっていますが、じゃあ 隣の国が自分が気に入っている人以外の国民を皆殺しにしたとしても、その国の信者にとってみたら、善なわけです。
国際的に叩かれることでも、信者にとっては、すばらしい事をおやりになった なわけです。


例えば聖書では他の人々が住んでいた土地を奪うために、先住民を絶滅させるように指令を出しています。
容赦なき聖絶です。
オウムが日本を支配するため、信者以外を皆殺しにしようとしたのと一緒なわけですが、オウム信者にとっては、偉大な神 麻原なわけです。


キリスト教は勢力を伸ばすために、まず宣教師を送り、現地の情報を収集させ、その後軍隊を送って征服する というやりかたをしてきた。
神の善意を地球の隅々にまで伝えるってわけです。
逆らう奴は聖絶する という方針だった。

軍隊を維持するために金が必要。
なら、異教徒を冤罪にして、その財産を奪えばいいってわけで、殺して財産を奪った。
その奪った財産で兵力を増強してきた。

神の軍隊は日本にまで及んだ。
大量殺人兵器を売りにやってきた。
貧しい日本はその代金を支払えなかったので、キリシタン大名は日本人を彼らに奴隷として売り飛ばした。
そうやって地方のキリシタン大名は大量殺人兵器を手に入れ、日本のトップに立とうとした。
大名じゃなく、その妻を信者にすれば、将来その子供が信者になり、キリスト教徒になるので、その子供が大量殺人兵器で天下を取れば、日本はキリスト教がどうにでも牛耳れる国になるって戦法なわけです。

日本のキリシタンはその野望を実現させるために、そのために命をかけて戦った。


盲目になった信者がやってくれたら、本土に軍隊を送り込まなくても、現地の信者がやってくれるってことですね。


信者であるあなたは疑いを持ってはならない。
まさか騙されて殺人を、破壊を、強奪を、詐欺をさせられようとしているのか?と疑ってはならない。
疑えば地獄に落ちると教わっているから、そんな恐ろしい集団に疑いを持つなんて、死んでもできないですよね?


全知全能だから、あなたがチラっと今回疑ったことを神は知っているはずです。
さあ あなたが神だったらこの危険分子であるあなたをどうしますか?
夢を実現させ、罰を与えますか?
二度と疑わないように、神はいかに恐ろしいものであるか、身にしみてわからせるためには、あなたが神だったらどう焼いて食いますか?

体でわからせないと駄目ですよね?
頭でわかっただけでは、今回のように疑惑が頭をもたげるので、その疑惑を今後二度と起こさせないためにも、頭じゃなく体でわからせる必要がありますよね?

口先では信じていますと言っても、体は正直で、疑っていますと反応している。
さあ 体でわからせ二度も疑惑を発生させないために、どう痛めつけましょうか?
この危険分子を。
殺しましょうか?
そうしれば二度と疑うことはできない。
でも、他のものにも疑ったらどうなるか 見せしめに使うという手もありますよね。

単に殺しただけでは、誰も何故死んだのかわからないですよね?
じゃあ 本人は生かしておいて、ヨブのようにあなたの周りの人々が不幸になり、あなたが「神の善を疑ったためこうなってしまった。 疑うと私のようになります。神は恐ろしいです。盲目的に信じるしかないです。さあ あなたも信者になりましょう」と、ニュースで放映してもらうってのはどうですか?

まあ 家族があなたを病院に入院させるんじゃないかと思いますが。。。。。

でも、あなたはやることはやったという満足感と神への絶対的な信仰を体現したわけですので、あなたにとっては100%の信仰になるわけです。

オウムと一緒ですが、オウムもクリスチャンも信仰心においては全く同一。

で、賢い人々は、その武力に屈してクリスチャンになるのですが、独裁者にまっこうから「ニセモノ!」と向かっていっても殺されるだけなので、信者でありながら、イエスではなくマリアに対して信仰を持ったわけです。
うっかり教会にそれがバレると、冤罪を着せられ殺されるので、絶対にバレてはならない。
信者は教会に行き、マリアになぐさめを求め、実際なぐさめられたから教会に殺されずに、真の信仰を貫けたわけです。


グノーシスでは、ユダヤ教やキリスト教が信仰している神は、レベルが低い神だとしています。
神にもいろいろあって、その中の低いレベルの神であるという考え方。
その神の独裁政権により、人々は盲目的に信じるように牛耳られており、その独裁政権の世界から逃れるためには、本当の神を探すしかない としています。

キリスト教ができた頃、グノーシスの神の概念もありまして、キリスト教はグノーシス派を異端だとして、迫害しました。

何故グノーシス派がレベルが低い神だと思ったのかというと、もし善の神なら、人間を不幸にするはずがないから。

あなたに悪夢を見せるなどするはずが無いから。
悪夢を見たということは、あなたの崇拝する神は、低俗な神だってわけです。

だから全知全能じゃないので、その神が独裁支配する世界には悪がはびこる。


という考えみたいです。
低俗な神に力を持たせるには、その低俗な神に貢ぐ信者を増やせばいいわけですよね。
あなたがその低俗な神に力を与える者の一人なわけです。
この世に悪をはびこらせることに一役買っているってわけです。

わかりません?
例えば、ある集団が世界を支配しようとして、大量殺人兵器を欲しがったとします。
金いりますので、信者の寄付が必要で、信者が多ければ、信者が権力者であればあるほど、殺人兵器を大量に仕入れることが可能なわけです。

あなたがその集団に寄付したお金で買った殺人兵器で、その集団が支配しようとした地域の人間が殺される。
間接的ではありますが、あなたが殺したわけです。

というわけで、寄付する時、よーく考えてくださいね。
騙されて悪の手先となり殺人を犯さないように。
ああ、そうでした、信者にとってはそのポアは善になる。

そういえば、キリスト教ができから、人類の殺人はいきなり増えたそうです。
彼らの神の国の実現のために、今までに無い規模の殺人が起こりだしたってことですね。

神の祝福は、生めよ増えよ地の果てまでもだったのですが、なぜが地の果てまでも殺せという殺人命令になっている。
どこでそうなったのでしょうね?
キリスト教ができてから、神の祝福は聖絶のことをさすとはっきりとわかるようになった。

全知全能ならそういうまどろっこしいことせず、とっとと洪水でも核爆発でも起こして、地球を木っ端微塵にしちゃえばいいのに。
きにいらねーからと殺してきたように、何度でも人間を絶滅に追いやろうとたくらめばいいんのに、どうしたのでしょうね?
まだ人間を絶滅させることができないこの愚鈍な神。
大したことないですね。

というか、その神 人間の都合で作った神ですよね?
その神の創造主は人間。

というわけで「聖なる 聖なる万軍の主よ」とあなたが讃える軍隊の神の創造主は 人間なんですね。
あなたが創造主なわけです。
あなた次第で神の性質は変わるってわけです。
あなた次第で、悪夢が実現するかどうかが決まるってわけです。

納得していただけたでしょうか?
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信仰ってなあに?



思わず神に祈ってしまいました。

これでいいの。
難しく考えない正夢になったかな?これも信仰だよね。
時々神もその方をテストします。
「祈っても関係ない」とか思ってないでしょう?
自然体でいいの、頭で考える宗教ではない。常に祈り、常に感謝する事
です

>祈るまでもなく私の願いは届いているはずだと


いいえ、祈ったら神様は聞いておられますよ。後は神の御心ならその祈り対して答えられます。

後祈りと言う話すだけではありません
「主よ、お話ください。ここにいます」と聞くのも祈りです。
ちょっと難しいかな?
理解できる場所を探してください。わからないというなら説明はしますけど
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/prayer/index.h …お祈り/お祈りとは

参考URL:http://www9.ocn.ne.jp/~fine/file3.html
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祈りの意味も方法も、これが正しい、とは決められないと思います。



神様は人間をはじめ存在するものの親だと思います。私たちは神様の小さな子供なんだと思います。
小さいとき、嬉しかったことや悲しかったこと、こんなことを思ったよ、こんなのだったら素敵だな、っていうことを何でも親に話したりしますよね。
ねえねえおかあさん、とか言って。
私のなかでの「祈り」はそれです。
神様、私はこう思います。とか、そんな風に。

自分の考えばかり書き散らしてしまいました。
しかも私はキリスト教をちゃんと学んだことのない小娘です。
それでも神様が大好きですよ。

拙い文章や考えで、お気を悪くされたりしたらすみません。
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こんにちわ。

生まれながらのクリスチャンです。
小さい頃から、
「『困ったときの神頼み』的な祈りは本当の祈りではない」
と教えられて育ちましたので、「~して下さい」「~をお願いします」
ということはなるべく祈らないようにしようと思いつつ、
やっぱり祈願ばっかりになってしまいますねえ。どうしても。
理想的には賛美と感謝がメインで、懺悔ととりなしの祈りを加えて、
あとは個人的な願いをちょこっと付け足すくらいがいいと思います。
そうは言っても、気付いたら現世利益を求める言葉が口をついてた、
ということが多いですね。私の場合。幸福を願う気持ちは誰にでも
ありますし、決して悪いことではありません。だけど、幸せって何?
って考え始めると、祈りの内容も自然に変わってくると思うんです。

キリストは弟子たちにこう教えています。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

神様はあなたの願いを全部ご存知ですから、
求めれば必要なものは全て与えられます。

「クリスチャンにとって祈りとは呼吸のようなもの」
と聞いたことがあります。だとすればそこに理由はありません。
「なぜ呼吸するのか」と問う人はいないように、
「なぜ祈るのか」という問いにも、答えはありません。

「祈りとは神との対話である」という話もよく聞きます。
神に話しかけない人は、父親を無視する子供のようです。

ご質問の件ですが、
「神様、私を試みに遭わせないで下さい」という祈りは
聖書的に(キリスト教的に)正しいと思います。
いわゆる「主の祈り」(いつも礼拝で祈る祈り)の中でも、
「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」
と祈ります。「試み」には2つの意味がありますが、
1つは神から与えられる試練です。必要なものだとしても
人間にとっては辛く苦しいものですから、こう祈ります。
2つ目は悪魔からの誘惑です。人間は弱く、簡単にこれに
負けてしまいます。しかし悪魔の存在も結局は神様の手の
中にありますから、最終的な勝利は約束されているのです。
この世を悪魔が支配しているように思えても、本当に宇宙
を治めている方に信頼して生きることで救われるのです。

>悪夢を見たことも神に感謝すべきなのでしょうか?

すべきです。
あなたの見た悪夢がどんなものだったかは分かりかねますが、
1.悪夢というのはいい夢です。
  現実の問題に対処するための、心の訓練です。
  夢見を良くしたいなら、枕を変えてみましょう。
2.悪夢を見れば「こんなことが現実に起こらなくてよかったあ~」
  と安心し、今の平安を感謝することが出来ます。
3.その夢が正夢かどうか、というのは人間の勝手な判断です。
  夢はファンタジーの世界であり、現実とは違います。
  あなたが目覚めているときに何が起こっても、眠っている
  ときに起きた夢の中の出来事とは何の関係もありません。
  (逆に外の刺激が夢に影響する、ということはあります)
4.悪夢のような出来事が現実に起きたら、その時こそ神に
  感謝してください。絶望のただ中で神に出会えること、
  祈ることが出来る喜びに勝るものはありません。
5.なんだかんだ理由をつけて、しょっちゅう祈りましょう。

最後になりましたが、
あなたに祈る機会を与えて下さった神に感謝します。
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私は、聖書は持っていますがクリスチャンというわけではありません。


しかし、祈りたくなることはあります。
対象は特定されておらず、「神仏全般」ということになってしまいますが・・・。
このような私が祈るのは、それこそ「困ったときの神頼み」という不謹慎な行為かもしれませんね。
しかし、そうとわかっていても、つい祈りたくなることはあります。

「思わず祈ってしまう」ということになるのでしょう。
これは宗教を信じているか、そうでないかに拘らず、人間であれば誰しもが捉えられたことのある感情ではないか、と思います。

クリスチャンの方にこのようなことを申し上げるべきではないのかもしれませんが、念ずること自体によって直接何らかの効果が現われる、とは思いません。
しかし、『念ずることによって生じるであろう個人の内面的変化(あるいは変革)』が他者に影響を及ぼすことは十分に考えられるでしょう。
むしろ、そのようにして世界は空間的にも、時系列的にも連鎖していると解釈できるように思われます。
そのことを私たち人間は無意識のうちに知っている。
それゆえに「思わず祈る」のではないか、という気がします。

クリスチャンでない者がこのように申し上げるのは不遜ではありましょうが、
「神に祈る」ということは、自分の中で何事かを【浄化】させ、それによって得られる内的変化が、幾多の連鎖を経てやがては世界のある部分にも変化をもたらしてくれるように・・・。
と願うことなのかもしれません。

【浄化】は「昇華」と言い換えても良いでしょう。
祈ることは、自らの中にある本能的(悪魔的)なものを乗り越え、「さらなる高みへ変化」(=昇華)させようとする営みでもあるように思われます。
それによって獲得できる清々しさが、困難に直面して慄く自らの精神を癒してくれる、という効果も必然的に伴なっており、それもまた、「思わず祈る」ことの理由ではないか、という気がします。
 
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no4です。


>本当にそんなきれいごとですまされますか?

まさに、きれいごとばかりととられるような文章であなたの気持ちを逆なでしてしまったらば申し訳ありませんでした。
私自身、自分の生活で起こるさまざまな出来事に右往左往する毎日でありますから、質問者様がおっしゃるとおり自分の身の上に置き換えると本当に恥ずかしいばかりであります。

私なりの理想を申し上げたまでなのですが、自分の意見における補足としてまた臆面もなくつづってみます。

ふりかかる困難とは、回避するべきものなのでしょうか。
例えるならば、
ダイヤモンドが宝石店のショーウィンドウに飾られて眩いばかりの輝きを放つにいたるまでには、幾度となく繰り返される研磨工程を経なければなりません。
何度も傷つけ、カットされそしてあの美しい光を放つにいたります。
苦難や困難とはその研磨工程のようなものではないでしょうか。
また、足元に咲く花も、見上げるように大きな木も四季を通じて生きる中に私たち人間の人生に通じるものを表現しているかのようにも感じます。
燦燦と降り注ぐ日の光の中、心地よい春風が吹く環境だけであの太い樹木になりえたでしょうか。
吹き荒れる嵐の中、凍てつく寒さの中、やがて迎える春に花を咲かせそして散り行く花は花弁の全てを失って、そして実を実らせるのです。
困難や不幸とされるものは、その先にある花や実を得るがためのなくてはならない事象です。

平坦な道のりを歩き平穏無事に人生を送れたとしてあなたは何を教訓としてそこから学ぶでしょうか。
振り返ったときに、あのときは本当にどうしようかと思ったけれど
何とか乗り越えられた。という思い出は人生にとって印象に残るよき日々となるのではないでしょうか。

もしもあなたを見守る天使がいたとして、
あなたを本当に想うならば、降りかかる困難をことごとく退けるでしょうか。あなたがどんなにそれを望まなくても、長い視野に立ってみて後々あなたのためになることだとすれば敢えてその困難へといざなうのではないでしょうか。

ですから、祈りにおいて「困難に対して立ち向かう勇気を」・・と
「どうかこんなひどい目にあわないように」・・・では聞き届けられる願いと、届いてはいるけれど聞けないものとに分類されるんだと思います。
すべてはあなたにとって、よい方向へと進んでいくためという基準があるのだと思うのです。

困難には意味があります。
それは困難を経験すると、自分が通った同じ過程で苦しんでいる人を見たとき何か感じずにはいられなくなるのです。
たとえば、あぁかわいそうだな、とか、つらいんだよなぁ・・から
自分の経験を話してアドバイスしたい、励ましてあげたい、何とか助けてあげたいなどなどその程度はさまざまですが、すべてそれも祈りだと思うのです。

困難に対する前向きな姿勢を培うことから始まり
自分でそれを実際に経験し
そして自分と同じことで苦しんでいる人に対する湧き出る思いが祈りとなるのです。

何のために祈るかと問われれば、
自分の前向きな姿勢に対して自分に祈り
そして、苦しんでいる人を見たとき自分の痛みに置き換え祈る。
その祈りがやがて大きくなり他人に対する奉仕へと実を結ぶのだと思います。

ちなみに私は無宗教です。
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たびたびすみません、No1です。


祈ることが間違ってるわけじゃないですよ。ただ、気持ちのありようとしては、全部任せますっていうのが正しいというだけのことで。
それにキリスト教では、人間は不完全なものだからしょうがないよね、という部分があるので、客観的に見ていた感じですと、信じてればおおむねオッケーな気がします。死ぬ間際でも阿弥陀様に帰依すれば成仏できる浄土宗みたいな感じで、最後に信じてたら天国いけるという説教をどこかで聞いた気がします。
祈りたいなら祈ればいいんですよ。聞いてくれるかどうかは別で。
必要なのは、形式じゃなくて、信仰心ですから。
ただ、大草原の小さな家という物語がありますが、あれでも、赤ん坊の息子をなくしたインガルスの夫婦は、詩篇23篇を2人で唱えてました。不治の病の人も、まあきっと、治してくださいとは祈らないでしょう。治るといいけど、治らないのだとしたらそれも神様のみむねなのです。
神様のいいようにしてくださいという気持ちで祈るものがクリスチャンの祈りだというのは間違ってないと思います。
出来るできないは別ですね。

あと、勘違いされているのかも?と思って書くのですが、キリスト教の神様に祈っても、現世利益的なメリット(メリット?)はありませんよ。病気が治るとしたら、それは神様を熱心に信じたご褒美みたいなもので、基本的には、死んだら天国入れてくださいと祈るだけです。
現世のことは、手を貸してくださいというぐらいしかないと思います。
繰り返しますが、祈ることが悪いわけじゃありません。ただ、方向は違ってるだろうと思います。

まあ、私はキリスト教への信仰心がゼロなので、クリスチャンは、もうちょっと現実的な祈りをしているかもしれませんけども…。
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No1です。


>私はどうしても前者の気持ちで祈ってしまうのですが,これはキリスト教的ではないということですよね?
いやまあ、クリスチャンだって人間ですから、そういう気持ちになってしまう場合も多いんじゃないでしょうか(笑)。
ただ、全部助けてくれ、じゃなくて、自分で何とかできるように助けてくれとか、そういう祈り方になるかもしれません。
ローマ人への手紙に「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである」という聖句があり、また、コリント人への第一の手紙に「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(訳が口語訳と新共同訳とばらばらですみません、覚えていないもので)とありますので、基本的に、困難なことは神様の試練という考え方になるんじゃないでしょうか。ヨブ記とか酷いですからね(笑)。
それっぽい説教に合わせて祈るときは、これらの試練に耐えられる力を与えてくださいとか、そんな祈りになったような気がします。

ということで、
>でも,何かあれば祈らずにはいられないのが人間ですよね?そのときに,「きっと神は聞いてくださる」と思って祈るか,「すべてを神にゆだねます」と思って祈るかでは心の持ちようがだいぶ違う気がするのです。
これは、本来はヨブのように全部任せてしまうのが正しいのでしょうけども、まあそうも言ってられないので、神様がいいと思うだけ助けてくれと、そういうふうに祈るものかと思います。
きっと耳には入れてくれるでしょうけども、神様的に必要最低限これだけあれば耐えられるでしょうという程度だけ手を貸してくれるんじゃないでしょうか。

祈るかどうかは、讃美歌にあるのですが、「祈りは口よりいで来ずとも誠の思いは閃くなり」とかそんな感じで、口にする必要は必ずしもないのかもしれませんね。
ただ、何もしないと人間弱いですから、堕落しちゃうし、声に出したほうが何となく呼びかけてるっぽいし…という感じで、儀式化していったのではないかと推測しますが、これについては私見ですので、あまり真に受けないでください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>ただ、全部助けてくれ、じゃなくて、自分で何とかできるように助けてくれとか、そういう祈り方になるかもしれません。
自分で何とかできるようなことは祈らないんじゃないでしょうか?自分ではどうすることもできずに神の力をただ一つの希望としている人もいるはずです(不治の病気に犯された人とか,最愛の人をなくした人とか)。そういうときに,自分でなんとかできるように,みたいなきれいごとみたいな祈りが正しいとされるっておかしい気がするんですけど…。
人間って祈らずにはいられない動物だと思いますので。

お礼日時:2008/03/31 20:32

私なりの考えを申し上げます。



祈りとは

困っている人、傷ついている人、落ち込んでいる人、苦しんでいる人の為に捧げられるもので、是非そのために自分を役立たせる機会を与えて欲しいと望み、どんな困難をも乗り越えていける自信を奮い立たせるものです。

決して自分に降りかかる火の粉を振り払って欲しいと祈るものではありませんし、困難とはそもそも自分を成長させるための促進剤だと捉える前向きな姿勢を培うものでなければなりません。

人は自分と同様に尊い命を持った同胞です。
祈りとはその同胞のために、自分を役立たせたいと熱望するその心の衝動でなければなりません。
そうであるのならば、その願いは必ずかなえられます。
困っている人の為に自分を役立たせる機会が、必ず与えられるのです
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この回答へのお礼

本当にそんなきれいごとですまされますか?
自分に災いが降りかかってきたとき,それについて祈らずにはいられないのが人間ではないでしょうか?

お礼日時:2008/03/31 19:14

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