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 輪廻とは 輪廻転生として 生まれ変わることであり 業とは 因果応報であり これら両者を合わせて 人生を捉えるとするならば そのときには 次のような疑問は起きないのでしょうか。
 いまこの世において もしわたしが 悪なる被害を受けたとするとき そのことも その結果としての被害内容に対応した原因があったということでしょうか。すなわち わたしが いづれかの過去において 悪なる行為をおこなったその報いであるという解釈になるのでしょうか。
 つまり 疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。

《輪廻》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
《業》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

 なお 解脱によって 輪廻の種子を断つことが出来た場合には もう人間などとして生まれ変わるということはないということでしょうか。つまり 言いかえると いま生まれて来ている人は みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。

 単純な疑問が浮かびました。よろしくどうぞ おしえてください。

A 回答 (82件中1~10件)

『比喩』では納得できないんですか?

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

★ 『比喩』では納得できないんですか?
☆ 因果応報が比喩だとは考えられないですし 比喩とは どういうことでしょう?
 何らかの自分には分からない原因があったということですか?
 よく意味がつかめないのですが 噛み砕いておしえてくださいますか。
 また
★ 補足要求
☆ となっているとも いま 気づいたのですが これは いったい どういう意味でしょう?

お礼日時:2008/04/21 23:43

因果応報じゃなく、輪廻転生が比喩(たとえ話)だと考えられないですか。

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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 輪廻転生が 比喩(たとえ話)だということは 実際には こういうことでしょうか。
 人は生まれ変わることは ない(もしくは そんなことは 分からない)けれども 現実に人が無明の状態にあることを 何度も生まれ変わるというふうに表現しているということでしょうか。
 早く解脱しなさいということを言っているのだと。

 そうすると 現世のみで 業(因果応報)を考えると 生まれてこのかた 関係なかった人から被害を受けたというのは その原因は 遠く人から人へ回りまわって 何らかの原因となる自業を犯したという解釈でしょうか。

 つまり要するに いっさいの行ないは 自業自得だというのが 一般的な解釈になるでしょうか。そういう思想なのでしょうか。
 つまり 法律による刑罰というのは 加害者だけが処罰されて 被害者は処罰されないとすれば それは この古代インド人の考え方にかんする限り まちがっているのだとなるでしょうか?

お礼日時:2008/04/22 00:03

そのような考え方は一部の宗教指導者にはとても都合が良く誰にも証明できない事をまるで衆知の事実のように言えば相手は簡単にへこみます。


今の不遇は前世行いが悪かったからだと納得してしまいますね。
これはインドのバラモン教の考えなのでしょうが大衆を骨抜きにして自らの地位を不動のものにするのにとても便利でしたね。

でもこのような思想がまかり通るなら場合によってはこの世は闇ですよ。全く身に覚えの無い前世の犯罪とやらを現世で責任を取らされる、これがどんなに理不尽な事かちょっと考えれば分かります。文明が3000年も後退してしまいます。

仮にbrageloneさんが「貴方は前世で人殺しをしたので現世では懲役二十年に処す」これが輪廻の法則だと言われたら納得できますか?
甘んじてその判決を受けますか。
冗談じゃあないですよね。
近代国家は殺人犯に対しても心神耗弱状態云々で罪に問えない場合が有ります。人殺しをした事が誰疑う事無く証明出来てもです。

なのに前世での犯罪で裁かれるなんて納得出来るはず無いでしょう。私はそのような理由もあって貴方の前世は・・・などと言う馬鹿げた話は大嫌いです。あまりにも卑怯だと思うからなのですよ。

>いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。

冗談じゃあないです、そんな理不尽なこと絶対に認められません!!!
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですよね。いままで こんな単純なことが 疑問に浮かばなかったんですけれど どうなっているのでしょう。たぶん 日本では一般に この因果応報説は 仏教のおしえだと思って 受け容れられているように思えるのですが これで いいのでしょうか。

 善因善果(または 楽果)そして 悪事を犯したことを因として悪い性質を帯びて生まれてくるというような悪因悪果(苦果)なら それでよいというように わたしたちは わかったようになっていたと思うのですが 悪人の行為の被害者になるという悪果は どんな場合でも その被害者じしんの過去の悪因によるということであれば 問題であるはづですよね。
★ 文明が3000年も後退してしまいます。

☆ この哲学カテゴリだけででも はっきりさせたいと思うのですが。
 さらにこの問いの行方を見守ります。

お礼日時:2008/04/22 00:19

>早く解脱しなさいということを言っているのだと


そうだと思います。

>何らかの原因となる自業を犯したという解釈でしょうか
>この古代インド人の考え方にかんする限り まちがっているのだとなるでしょうか?
人を善人と悪人に分別できるのですか?
被害者は善人で加害者は悪人ですか?
brageloneさんは善人ですか、それとも悪人ですか。

宗教的な考えを裁判所にもっていってあっているとか間違っているとか・・・・・
私にはこの質問の真意が読み取れませんねぇ
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人を善人と悪人に分別できるのですか?
被害者は善人で加害者は悪人ですか?
brageloneさんは善人ですか、それとも悪人ですか。

宗教的な考えを裁判所にもっていってあっているとか間違っているとか・・・・・
私にはこの質問の真意が読み取れませんねぇ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これについては かんたんですよ。
 サリンばら撒き事件に遭う あるいは 天災としてでも その年でいえば 神戸大震災に遭うといった被害です。
 善ではない悪としか思えない結果をこうむった場合を 言っています。それは 自業自得だという説なのだろうか。こういう疑問です。

 また 古代インド人が そのまま 現代の裁判に出るとすれば まったく違った反応が現われるでしょうねという意味です。

お礼日時:2008/04/22 00:41

申し訳ないですが、言葉遊びとしか思えないです。



輪廻転生という物語が示唆している意味について考察するべきだと思います。

この回答への補足

 あらためて補いつつ うかがいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どこらへんが
★ 言葉遊び
☆ であるのか ヒントをくださいますか。また
★ 輪廻転生という物語が示唆している意味について
☆ 何か示唆するところを おしえていただけるなら幸いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 理屈をどう処理するのか これを問うていますが 《言葉遊び》だとは 思いません。納得が行きません。
★ 輪廻転生という物語
☆ があって これをわたしが 多少なりとも心得ていて それにもかかわらず それに意を用いず理解しようとしないのではなくて そうではなく そのような物語なり仏説なりのことを 残念ながら わたしは知らないのです。おしえて欲しーい。
 何のご返事もなければ ただのふざけたご回答だったと解釈します。

補足日時:2008/04/22 14:58
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 でしたら どこらへんが
★ 言葉遊び
☆ であるのか ヒントをくださいますか。また
★ 輪廻転生という物語が示唆している意味について
☆ 何か示唆するところを おしえていただけるなら幸いです。

 輪廻を措いておいても いっさいのおこないは 能動のことでも受け身のものでも 自業自得なのですかという問いです。《業》とは 確実に 因果応報という説だということのようです。
 ひとつの思想としても 一度 あきらかにしておくとよいでしょうし もしわが国では 仏教の名のもとにそういう考えがあるとするなら それは 受け身である場合としての一部分は 見ぬ振りをして あとの能動的なおこないにかかわる善因善果と悪因悪果のほうのみで捉えているのではないでしょうか。おかしな話に映ります。

お礼日時:2008/04/22 01:10

いつもお世話になってます。



生死の問題、心の問題、理屈で解決が付きますか?

brageloneさんの質問も心の疑問、心の問題、葛藤ですよね、理屈ですよね、輪廻転生どうの自業自得どう。
の。

不安を安心に変えようとしていますが、不安安心、人間に備わった事実ですよ(一元)  

自分にとっての不安は取れない=理屈で解決できない。


生死の問題、心の問題、理屈抜きで解決(解消)とは行きませんか。
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この回答へのお礼

 ri-zyuさん ご回答をありがとうございます。

 おっしゃるところを聞いて 持った解釈はこうでした。
 そのへんは 理屈をこねないものなんだよという態度が 暗黙の前提となっている。
 つまり 理屈はそうだが そのように理屈で導き出した結論というのは 問題の解決にはならないものだ。

 うぅーん。
 こういう質問の仕方にすれば どうですか。
 つまり 自業自得というのは 自分にも分からない原因としての自業があるのですか。
 なおそれでも分からない場合 そういうときにも 分からないなりに 自業自得だと受け取るというのが この思想ですかと。

 理屈なのでしょうが あらためて思っても きわめて単純な疑問だと思うのですけれど 質問にならないというようなことでしょうか。
 つまり 仮りに サリン事件に引っ掛かったとするなら 諦めるでしょうが そのとき 自業自得という思想で諦めるのかどうかなのですが。

お礼日時:2008/04/22 01:26

お邪魔します。



こういうことですよね?
「サリンの被害者、スマトラ島沖地震の被害者、阪神大震災の被害者、原爆の被害者、戦争の被害者全員は悪人だったから 当然の報いを受けたので、一切同情は無用なのか。助ける必要はないのか。悔い改めよと鞭打つことで、鞭打つものは感謝されるべきなのか」


でですね、、、
因果律の破れは存在するんです。

例えば悪人が善人の行いの報いを受け、善人が悪人の行いの報いを受ける。
こういうことが実際にあるのが現実です。

これを仮に因果律の破れといいましょう。

で、プラトンは、師ソクラテスのやったことにびっくりしたんです。
ソクラテスは善の存在を信じ、貫いた。

プラトンからすれば、ソクラテスは罪を犯していないにもかかわらず、罪だとされ処刑されました。
プラトンはソクラテスに不正に対して不正で報いろと言ったが、そうしてしまうと、自分は正義を擁護するものじゃないことになるとして、ソクラテスはプラトンの提案を退けた。
ソクラテスの死後、プラトンは考えた。

罪の無いものが罪があるとして、処刑されていいものか。
悪人の行いが善人に報いて、果たしてそんな世界に生きる価値などあるのか。
馬鹿馬鹿しいじゃないか。

で、うんとこさと考えて、国家だったと思いますが、こんなこと書いていたと思います。
罪が無いものが罪があるとして、鞭打たれ、十字架刑に処され、槍で疲れても、最後まで善人の業をなした人こそ、善人だったってことになる。

それを人間はできる。
それが、不毛で悪人の業が善人を襲う世の中に光をもたらす。

みたいなことを考えたんだと思います。
プラトンはソクラテスが死刑を受け入れたことに、とても驚いたと思います。


その思想が、イエス物語の作家に影響を与え、イエス物語が作られた。
ペトロは、イエスが罪が無いのに罪があるとされ、鞭打ちされ、十字架に処され、槍で突かれるということをイエスが受け入れたことに、プラトンがびっくりしたように、やはりペトロもとても驚いた。

そして、希望をそこに見出した。

因果応報の破れで、悪人が栄え、善人が滅ぶこともある世界に光が射したわけです。


輪廻思想というのは、ある意味、どうにもならないことを受け入れる ということにおいては機能すると思います。

ハンムラビ法典だったと思いますが、目には目を、歯には歯をってありますよね。

オリエントの世界では、主人と奴隷は、今のような感覚ではなく、どっちかというと、社長と社員みたいな関係。

年季が開けると、それ相応の対価を払って奴隷だった人を自由の身にしていた。
雇用期間中に、もし主人が腹をたてて、奴隷の目を突いてしまったら、期間が開けていなくても、奴隷に対価を払って自由にしなければならなかった。
歯を折った場合も同じ。

現世で償いをするわけです。

ですが、暴行こそ受けないにせよ、侮辱されたり、罵られたりした場合、それに対する法律は無い。
で、年季が開けるまで、奴隷の身分の人は我慢した方が利口。
年季が開ければ、それなりのものを持たされ自由の身になるので、途中でかんしゃく起こして、主人に逆らってとんでもないことにならないようにするため、我慢していれば、来世はもっといい人生になる という方便だったんじゃないかと。


輪廻転生するとされる有名な人、ダライラマですが、彼は前世でどんなひどいことをしたのでしょうか?
中国が「この人がダライラマの生まれ変わり」とし、チベットは「この人が生まれ変わりだ」とした。
少なくとも5人 ダライラマだとされる人はいるのだそうです。

それぞれの敵対する勢力が、子供を教育して、「この人が生まれ変わりだ」と主張する。

誰が本当に生まれ変わったのか誰もわからない。
でも、ダライラマが生まれ変わっているとしても、現世にまた生まれ変わってしまっては、、、、、

現世にまた生まれてしまっては、解脱したことにならない。
ましてや、権力闘争に巻き込まれてしまっては、前世でどんなひどいことをしたのだろう となってしまう。

> みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。

生まれ変わりを信じれば ですが、私は信じていないので、たとえ災難にあったとしても、「それは当然の報いです。 前世の悪行ゆえに災難にあったのです、来世はもっとマシな人生になるために、私の言う事に原をたてず、ありがとうと感謝しましょう」と言われたら、蹴飛ばすかも。

そして「私に蹴飛ばされたのは、あなたの前世の報いってことですね。怒らず、私に感謝してください。もう一回蹴飛ばしますが、絶対に怒ってはだめですよ では 蹴飛ばします ボカスカ」

すっきりしますねぇ。

そんなことやったら、来世にひびく?

私そんなのちっとも信じてません。
信じている人は私に蹴飛ばされても、ありがとー というしかないわけです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 たぶん――多分 ですが―― 《因果律の破れは存在するんです》と言ってしまえば この業の理論は それ自体 意味がなくなるのではないでしょうか。しっかりした見解をもってそう思うのでもないのですが。
 けれども 《破れ》はない つまり例外はないというために どこまでも果てしなく生まれ変わるという輪廻思想を打ち出しているのではないでしょうか。その長い過程においては 自業自得として納得できる出来事があったであろうという説ではないでしょうか。
 とりあえずは このように ブラフマニスムもしくはブッディスムの説として 論じていただくとよいと思います。つまりは 日本におけるそれに関連した思潮を考える緒口になると思うのです。

 《そもそも因果応報の破れは いかに?》という議論は 残念ながら 予定していませんでした。一言 考えを述べます。冤罪を甘んじて受けるなら 善を貫けて 希望が見出せるという思想は その都度 次元が変わって受け留められるやはり因果応報の理論であるように思えるのですが いかがでしょう。

 後半のご所説は 業と輪廻の理論は ばかばかしいという主張でしたら わたしも そう思っております。前世や来世を無記としたブッダであるのに 輪廻に根ざした業を説くとは・・・というのが わたしの本音です。
 なにぶん ウパニシャッドなり何なりについて明るくないものですから さらにご回答を待ちたいと思います。

お礼日時:2008/04/22 01:58

 bragelone様 このことではないですが、勉強していることに関連しているのが、仰せの輪廻転生ですので、怖いもの知らずのままちょいと知ったかぶりで勉強のちっちゃな知識を晒して、またbragelone様のイジメに泣かされてみます。



 1. どんなことも原因があって現象してきているというのがカルマの法則というものであるようです。創造界という現象の世界を創り、維持し、溶解消滅させる原理(当為)の一つとなっているとのことらしいです。
 2. 輪廻転生もその一つの現象とのことです。
 3. 因果応報もそして、その一つの現象であり、原理であるとのことです。
 
 (1.)の何事も原因というものはあるものである、ということはbragelone様も否定はする必要がないのではないでしょうか。
 (2.)と(3.)については、これで現在や今生のことなどを説明されては、どうも納得できない、むしろ不当ではないか。というお話であると存じます。特に前世に原因がどうの、こうのというのはともすれば不当な利用もされるであろうし、弊害が多いのではないか。というお話なんですね、多分。本当にそう、bragelone様が考えておられるかどうかは別にして、お話の外様(外容、外的様子・体裁は)。
 このことをきちんと説明してみてください、というのことなのですね。多分。
  
 これは創造の開始や神仏のことと同じように、物的・理論的根拠を出して説明することは無理、いや限界、いや困難なのではないでしょうか?
 このカルマの法則の適用というより、この原理でいろんなことを理解し説明することも、人間としては一定の慎みと覚悟のなかでの受け取りとなるのでしょうか。
 ここにいる人間というものの分と際。これはやむをえないものではないですか。
 突端的端末の人間、個人を存在させているものは、つまりそのものとしての自分は別でしょうが。
 突端的端末としても、秘すれば花、という世阿弥の所作が望ましいと存じますが。
 
 私達が読んでいる、バガヴァッド・ギータにも『仮に友人としてあまりに根堀、葉堀に粗雑、粗野に荒々しく尋ねることより、友人と相伴い、友人になることで、自然にわかり、明らかにされ、なぁんだということにもなるものだ。』とかいうことばがちょいとあったようにも記憶しております。

 bragelone様には既に、アウグスチヌスですか、大なる方を通して出会われておられるので、私などは言わずもがな、ではありますが。

 こういう言い方をすると、多分bragelone様はまたいろいろ仰せでしょうが、一度にカチャンとした、自分が決めた一定の枠とか概念とか理屈とかで包みとって、入れ込もうとするのは無理のようですよ。
 おかしいなと思いながら、いる内に理解ではなく、是とするのはなく、なぁんだそうかとなることの一つではないでしょうか。
 みんなで寄って集かって、大きな天空のほんの一つまみにもならない事項を取り上げ、あげつらっていても、bragelone様にはおかしい、おかしいとしかいえないのではないかと存じます。
 主たる方の、natureは精妙、微妙ですし、創造の現場にもいってないし、前世やその前の前世にも、その前の前世にもいっていないし。ずうっと後の来世にもいっていない人としての存在をしみじみ知って、対する原理のひとつであると存じます。
 カルマの法則のほかに創造の原理は同じ一体のものですが、いくつかの原理があるのではないでしょうか。
 すみませんね、一定の教えでの独り言になってしい、またbragelone様の渇きを癒せませんでした。
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご専門の領域でしたね。ご回答をありがとうございます。

 たぶん このようにお声をかけていただいて 思ったことは ドンキホーテのごとく いえいえ ガラっぱちの目明かしのごとく あのブッダ葬送に向かって 突進しているようだなぁでした。

 わたしなりに整理してみます。
(1) 世界の始まりから この時空間には ものごとの因果関係がはたらいているようだ。
(2) 《ものごと》にかんしては 自然科学や社会科学という経験科学の眼と手とで その因果関係を明らかに捉えようと人は 努めている。
(3) 自然科学の因果律は それとして 解明されてきたし これからも解明してゆくだろう。
(4) 自然科学的な因果関係を基礎として 人間はさらに 人間関係つまり社会的な因果関係をも 思想として(そして 昔から 信じるという振る舞いのもとにも) 捉えようとして来ている。
(5) 社会関係にかんする因果律は それがあるとすれば 因果応報として説かれている。つまりは 善悪といった価値観を伴なった因果関係が現実の歴史であるとも 主張する場合が出て来ている。
(6) 仮りにこの因果応報説に従うとするとき 従うとしても――つまり もうここで今問い求めている結論になりますが―― その因果関係が 何もかも明確に分かるものではない。人間どうしの関係行為とその社会的に錯綜する行為関係が 自然科学のように 実験の繰り返しや理論の模索を通じて検証していくというような形で 把握されるというものではない。
(7) 少なくとも共通の解としておしえていただいたことは 安易に 善因善果や悪因悪果を持ち出すのは その因果応報のことを じつは何も 分かっていないその自分を白状するようなものだ。となりますでしょうか。
 
 ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・

* 輪廻としての前世や来世という継続 これも想定もしくは比喩ということになるでしょうか。(つまり 歩み寄りとして・共通の事項としまして)。
* 顔見知りとしてのお付き合い(添う文化) これを大事に!!というところも 大いに関係していると言うべきでしょうね。
* 吹けば飛ぶような突端的端末も ここにありと しかも 言わないで生きている。・・・これによって 因果応報の鎖から解き放たれるとさえ夢が拡がりました。
* 感謝のことばは 胸にしまって取っておきます。

お礼日時:2008/04/22 11:22

No.8すみません。

コメントにちょいと長い一言。
 ご専門の領域でしたね。(単に勉強中だというだけです。)
 たぶん このようにお声をかけていただいて 思ったことは ドンキホーテのごとく いえいえ ガラっぱちの目明かしのごとく あのブッダ葬送に向かって 突進しているようだなぁでした。(この文章は理解することがまだ出来ておりません。)
 わたしなりに整理してみます。(以下の箇条書きにの文章については、申しわけありませんが、一部は理解できるのですが、どうもご表現が違うばかりではなく、私の意図した内容とは少し違うようです。)
(1)~(7)
 
 ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・(この古文がつながりの中で把握できないでおります。)

* 輪廻としての前世や来世という継続 これも想定もしくは比喩ということになるでしょうか。つまり 歩み寄りとして・共通の事項としまして。(歩み寄りとか、共通の事項というお言葉は理解できませんが、輪廻転生という結果現象は厳然たる事実と自分は承知しております。カルマという因果律はこれまた、厳然たる宇宙原理の一つ側面であると承知しております。比喩や理解ではなく、理解しようが、受け入れようが関係なく。)

* 顔見知りとしてのお付き合い(添う文化) これを大事に!!というところも 大いに関係していると言うべきでしょうね。(添う文化の問題はここではあまり関係ないと存じております)
* 吹けば飛ぶような突端的端末も ここにありと しかも 言わないで生きている。・・・これによって 因果応報の鎖から解き放たれるとさえ夢が拡がりました。(吹けば飛ぶような突端端末ではありません。それは大小も越えている、概念も越えている方の一つのありようと心得ております。私達はそのことを知り、自分をそれだけにかぎることのないように、謳歌し、精進するのだと存じております。)

* 感謝のことばは 胸にしまって取っておきます。(至らないことばかりでもうしわけありません。)

 ちがうことをしている者同士って、なかなか文章って難しいですね。
 申しわけありませんでした。

この回答への補足

 うぅぅん。そうなんですか。一つひとつ確かめてまいります。
 全体としては この世界を閉じて捉えるのではなく 開かれたものとして受けとめるということ その姿勢をご指摘していただいたと思い
☆ ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・
という希望を見ました。
☆ ドンキホーテ
につきましては 疑問質問を持って暴走するくせが また出たのかなと思ったものです。
☆ 歩み寄り
は わたしが 厳密に言えば 輪廻転生を 主義として 前提していないので しかしながら一般的には 想定としては そのように考える立ち場を共有できると思いました。
★ カルマという因果律はこれまた、厳然たる宇宙原理の一つ側面であると承知しております。比喩や理解ではなく、理解しようが、受け入れようが関係なく。
☆ 自然科学の分野での因果律は 現在分からなくても いづれ認識することが出来ると思われるのですが 人間のおこないとしての社会的な因果応報にかんしては これを人間が《理解することが出来る》とお考えなのでしょうか。つまり 《宇宙原理》を想定することは まったく ふつうに行なわれると思うのですが これの中味を知ることは人間には出来ないのではないでしょうか。因果応報は 知ることができるのでしょうか。
 知ることが出来なくても 
★ 突端的端末
☆ なるわたしも その原理のもとで 自由に生きていくことができる。ですから 安易に 善因善果・悪因悪果を 特に他人に対して 決めつけて言ったりは しないものだというふうに解釈しました。そして そのためにも
☆ 知り合いとしての信頼関係とそこにおける添う文化が 
土壌としてのように かかわってくると捉えました。

☆ 感謝の言葉
は一度言ってしまうと もう表へ現わしたことになり 外化され その意味で疎外されていきます。とって置こうと思いました。

★ ・・・カルマの法則 /  輪廻転生 / 因果応報なる原理・・・ 
★ これは創造の開始や神仏のことと同じように、物的・理論的根拠を出して説明することは無理、いや限界、いや困難なのではないでしょうか?
☆ ですから 《因果応報を人間は明らかにして知ることは出来ない。出来なくても その原理に向かって自己を開いている(受け留めている)ことが 大事だ》と採りました。
★ このカルマの法則の適用というより、この原理でいろんなことを理解し説明することも、人間としては一定の慎みと覚悟のなかでの受け取りとなるのでしょうか。
☆ とのごとくです。ただ 次の箇所つまり
★ ここにいる人間というものの分と際。これはやむをえないものではないですか。 / 突端的端末の人間、個人を存在させているものは、つまりそのものとしての自分は別でしょうが。 / 突端的端末としても、秘すれば花、という世阿弥の所作が望ましいと存じますが。
☆ ここにつきましては 読み解くのが むつかしいとも思いました。《秘すれば花》を頼りに読んだかたちでした。
 
★ 私達が読んでいる、バガヴァッド・ギータにも『仮に友人としてあまりに根堀、葉堀に粗雑、粗野に荒々しく尋ねることより、友人と相伴い、友人になることで、自然にわかり、明らかにされ、なぁんだということにもなるものだ。』とかいうことばがちょいとあったようにも記憶しております。
☆ この文章からも 《知り合いとしての人間関係が大事だ》と採りました。
☆ (1)から(7)までの内容について 
どれだけでも突っ込んでいただければ 為しうる範囲になると思いますが お応えしてまいります。

 表現というのも むつかしいですね たしかに。・・・これに懲りることなく ご投稿いただきますようお願い致しておきたいと存じます。

補足日時:2008/04/22 13:26
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 bragelone様はご自身の守備範囲があまりにきっかりきまっているので、その中でのご理解に、再編集と再構成になっているかと存じます。


 ですので、いまのように全体を問題の対象にしていきますととてもご説明しにくいと感じました。
 輪廻転生を 主義として 前提しようがしまいが、宇宙の法則の一面でありますと申し上げている次第です。
 知的認識や探求はあまり私の言うことには中心の問題の中にはいっていきてはおりません。
 人間知もいいのです。
 いっさいは私はもうしあげておりますので、繰り返しになります。申し訳けありませんがどうか、拙文をそのままお読みいただけませんでしょうか
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

★ ・・・そのままお読みいただけませんでしょうか
☆ 説明いただいた世界観そのものとして受け取ることにします。ただし その内容に合意したわけではありません。

★ ご自身の守備範囲があまりにきっかりきまっているので、その中でのご理解に、再編集と再構成になっているかと存じます。
☆ たぶん krya1998さんの世界観が それにかんして《守備範囲》と言っていいのかどうか分かりませんが 《きっかり決まっている》ということでいらっしゃるのだと思います。
 わたしの場合は 分かる範囲から――つまり 守備範囲の中からむしろ外に出ようとして――《再編集と再構成》しつつ 模索するというのが 思想形成の仕方です。信仰や主義主張として 持論は持っていますが いわゆる教理やそれとしての世界観があるものではありません。それは 表現の仕方が どこまでも自由であるから 固定しないと思っております。
 《きっかり決まっている》のが 固定だと申し上げるつもりで言ったのではありませんが たぶん むやみやたらに わたしのように 外へ出かけようとすることは なさらないのだと思いました。すでに成っている その世界観をそれとして 尋究されている こう受け取りました。修行という柱もおありなのかも知れません。

 ただいまの中間結論として 《輪廻転生および業(因果応報)》を そのままでは わたしに関しましては 飲むことは致しかねています。というところでしょうか。
 よろしかったら 質疑応答の行方を見守っていてください。

 

お礼日時:2008/04/22 16:53
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