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読んでくださりありがとうございます。
吉原について3点、知りたいことがあります。

1.初期の、引き手茶屋よりも揚屋が主流だった頃は、太夫だけでなくその次の位である格子女郎も指名されてから揚屋に出向いて客に会っていたと聞いています。
太夫が揚屋に向かうのがその頃の「花魁道中」だったと思うのですが、さて、格子女郎が揚屋に向かう際も人目を引くような道中があったのでしょうか?

2.いわゆる張見世(の中でも格式の高い大見世)の格子の中にいて、客が付くと二階の部屋に行く…という部屋持ちの女郎は格子女郎ではないのですか?このシステム自体揚屋があった頃と時代が違うのでしょうか?

3.江戸時代は火事を防ぐため町人はどんな大店でも内風呂を持つことは禁じられていたと聞きます。吉原の遊女たちはお風呂はどうしていたのでしょう?吉原の町内にいくつか銭湯があったのか、置屋は風呂を持っていたのか教えてください。

長くなりましたがどうぞよろしくおねがいします

A 回答 (3件)

>>私の読んだ本には、「格子(女郎)は格子の中に部屋を構えて客が付くと自室に入れる。

自室を持っているのが位の高い証」と書いたあったので混乱しました。

おっしゃる通りです。
「太夫」「格子」は、階級としては1番、2番の格式を持っていましたので、個室を与えられていました。しかし、あくまでも、引手茶屋で客と会います。この時に行われるのが「花魁道中」で、気に入れば、3度目にして、やっと娼家へ客を連れて帰り、自分の個室で、初めて夜を共にしてくれました。大概は、「太夫」「格子」の自室は1階にあり、10畳以上あったと言われています。これは、その衣装があまりにも大げさで重さもありましたので、2階には上がれなかったためのようです。
「散茶」以下は、2階に誰でもが使用できる部屋が幾つかあり、その内の空き部屋で「事」をすませました。

>>散茶が登場する以前、太夫、格子、端しかいなかったころは、それでは端女郎しか見世にいなかったのでしょうか?

吉原(元吉原)が拓かれた当時は、「端」しかいませんでした。
しかし、幕府が公娼制度を保護するにために、各町内の風呂屋にいた湯女を捕らえて吉原に入れました。(湯女も男の相手をしました=私娼です)。
こうして遊女の数が増えるにつれて、高級人向けに次第に「階級分化」してできたのが「散茶」。「端」よりは上位にランクされました。そして、「太夫」「格子」「散茶」「局(=端)」「次」などと細分化されていきました。
遊女のランク付けも、時代により変遷しており、「太夫」は、容姿だけではなく、「八代集」「源氏物語」「竹取物語」などを読み、「レ(かえり点)」のない漢文をすらすらと読める。和歌の素養もある。また、囲碁や将棋などの相手もできるほどの教養を身に付けていました。遊女の中の超エリートというわけです。
従って、お客の方としても、女を買うだけにしては、あまりにも高級過ぎて、宝暦年間(1751~)頃には「太夫」は消滅し、替わって「花魁」が登場しました。こちらは、「太夫」ほどの教養がなくても推薦されて、その位につきました。ちなみに、「おいらの姉女郎」が「おいらんのもの」・・・「おいらん」へと変わったと言われています。

>>見世にも格付けがあったようですが、大見世、中見世といったランクは散茶が登場してから出来たものなのでしょうか?

そうですね。ランク付けが定着し始めると、次第に見世もそれらの遊女を抱えるにふさわしい造りへと変わっていきました。

第一級の娼家は「惣籬(そうまがき)」、「籬」とは、見世の正面と脇土間の横手にある格子のことで、「惣籬」は極端に言えば、家の裏手を除いては家全体が格子囲い。大見世。
次が「半籬」、籬の上1/4位が空けてある造りで、別名「交(ま)じり見世」とも呼ばれました。中見世。
そして、「惣半籬」で格子が下半分だけしかない。小見世。

元禄14年(1701)に刊行された「けいせい色三味線」の中の「新吉原遊女名寄」によると、
1.太夫・太夫格子のみを抱える遊女屋
  二軒(京町三浦屋・新町巴屋)
2.太夫・太夫格子・うめ茶を抱える遊女屋
  一軒(角町茗荷屋)
3.太夫格子のみを抱える遊女屋
  四軒(新町長崎屋・角町藤屋・江戸町山口・江戸町二丁目車屋)
ここまでが大見世。
4.散茶のみを抱える遊女屋
  三十四軒(一軒あたり10~20人)
  江戸町二丁目や角町に集中していた。
5.うめ茶のみを抱える遊女屋
  二十九軒(一軒あたり5~23人)
  角町・新町・京町二丁目に集中。
ここまでが中見世。
6.五寸局のみを抱える遊女屋
  七十二軒(一軒あたり2~15人)
  江戸町一丁目・京町・角町に集中。
7.三寸局のみを抱える遊女屋
  九軒(一軒あたり4~8人)
  伏見町に集中。
以上の81軒が小見世。
8.なみ局・次などしか抱えていない遊女屋
  その他あまた。
と、記載されています。
(写真製版されたものを私は持っています。)
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この回答へのお礼

大変よくわかりました。
何度もお答えいただいて、本当にありがとうございます。
ネットで調べても知りたい部分があいまいだったのですが、これですっきりいたしました。
ありがとうございました!

お礼日時:2008/04/29 00:55

私は、自称「歴史作家」です。



まず、吉原の歴史から、
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞った者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

さて、本題:
(1)について、
遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(2)について、
見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(3)風呂については、遊女屋は小さいながらも、各遊女屋にありました。しかし、お客を入れることはしませんでした。あくまでも見世の者だけでした。
当時、江戸の薪は高く、また、防火の意味から一般社会では風呂の設置は禁止されていました。あの多数の商人たちが働いていた大店・三井越後屋(現:三越)の使用人たちでさえ、銭湯に通いました。

なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

蛇足:
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。
(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。
(3)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。
(4)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございます。
私の読んだ本には、「格子(女郎)は格子の中に部屋を構えて客が付くと自室に入れる。自室を持っているのが位の高い証」と書いたあったので混乱しました。
散茶が登場する以前、太夫、格子、端しかいなかったころは、それでは端女郎しか見世にいなかったのでしょうか?見世にも格付けがあったようですが、大見世、中見世といったランクは散茶が登場してから出来たものなのでしょうか?

お礼日時:2008/04/28 11:44

こんばんは。



池波先生への質問のようですね。

3.しかわかりません。
吉原に銭湯はあったようですが、江戸の職人技で、一畳あれば風呂場にしてしまう技術があったそうで、待合の端のほうにお風呂があったようですよ。剣客商売で読みました!すみません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
剣客商売はドラマでしか見たことがありませんでしたが、小説も参考になりそうですね。
ありがとうございました。
ちなみにドラマは1,2のキャストのほうが好きでした(^^;

お礼日時:2008/04/28 11:31

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