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自信のない人に「もっと自分に自信を持って!」と言うのは、
そばアレルギーのある人に、「根性でそばアレルギーを克服して、おそばを食べられるようになって!」と言うのと同じようなことではないかと以前から考えています。
「本人でもそれはどうにもしようがないのだ」という理解で受け容れられるべきものが世の中には色々あるように思いますが、どうでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

自信はその人の心から生まれるもの。


アレルギーは心とは関係なく、まあ言ってしまえば化学反応。
それを同列に考えることはいかがでしょうか?
もちろん「鬱病」患者に、「もっと頑張れ」は禁句ですけどね。
自信がないから一歩を踏み出せない人に、「もっと自信を持って」と励ますのはいいんじゃない?
勿論その環境や状況が変われば、不適切な発言になることもあるけど。
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文面から色々な場面が浮かぶ


1。自分を信じれない能力がある人に対しての言葉
2.自分を信じれない能力がない人に対しての言葉
3.間が空いたので他にかける言葉がなかったのでとりあえずかけた言葉

質問者は2のことに言及しているのだろう。
たしかに自信と能力を言葉一つでつけるのは不可能である。
しかし言葉の内容よりも、言葉をかけられたことによる心の安定、もしくは言葉のかけかたによる気持の変化に目をむけるべきではないか。そう思えば決して酷な注文ではない。

逆に内容のほうに目を向ける。
はっきりいって言葉一つでつけられるわけがない。しかしその言葉の先を見よう。これから自身のつくようなことを期待するといった隠された意味がそなわっていないだろうか。もしそうであれば決して無駄な言葉ではない。その言葉がきっかけとなることもあるかもしれない。しかし余計なプレッシャーや不快感だけを募らせる人もいるだろう。そんなときは良いように解釈をして心の清潔を保つが吉。

ところで無責任とはどういう意味だろうか。そんな大して重くもない言葉に責任など生じるものなのであろうか。ただあまり考えずに言語野に置いてあった言葉がたまたま湧いてそれをタイプしただけなのだろうか。質問者に問いたい。
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無能な男 22才 軽いコメント~



僕はマジで、頭よくない、運動+体力ないから
TVCM・ドラマなんかで自信を持て とか言ってるの見てると
不快な気持ちになってる。

小学低学年の問題もままならないのに・・・。
ま、ショウガない。
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全くそのとおりです。

もっと自信をもて、と言う人が多くいますが、
人それぞれです。簡単に自信など持つ人は、言い換えれば、自意識過剰で、自信のない人が、正常でしょう。だから自分なりに頑張るのです。
だけど物足りない。うまくいかない。それが当たり前の世界です。
誰でもできることを、人と同じく、もしくは、人以上頑張る事でじゅうぶんです。でも、あなたのそばの例えは、筋違いです。例え方が間違ってます。
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些細でも成功体験を積み重ねていけば自分に自信がもてるよ。


と、アドバイスした上でその通りの成功をしたら(えてして自分では気が付かない)褒めちぎる。

ここまですると無責任ではなくなります。
ただし依存が発生するほど惚れられるので(頼りにするとも言いますが)ある程度面倒を見たら動物の子離れの儀式みたいなことをして自立させなければならなくなります。

実体験に基づいた意見です。
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質問者さんの例えは少し分かりかねますが。


以前、環境大臣が公害病患者に「皆さん、元気を出して下さい。病は気からと申しますから」と言った事件がありました。その大臣は、現在の都知事です。この発言と同じことを例えとしているならば、その例えは妥当ではないでしょう。
どうすれば自信を持てるか示さずに、只「自信を持て」と言うのは、無責任を通り越した行為です。自信を持てない人がそう言われたら、「どうして自分は自信が持てないのだろう」と更に自分を追い込んでしまうことになるからです。
多分、言った本人はかような事態を考えず、善行を施したと思っているでしょう。しかし、それは無責任ではなく罪ある行為です。
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実力はあるのに、自信が無くて能力を発揮できない人には、


「自信をもて」は適切なアドバイスです。

実力も無いのに「自信をもて」は、無責任ですね。
ただし、自信を持つ事で 実力が上がる場合もあります。
精神の変化が、肉体に影響を与える事は質問者もご存知と思います。

人には、どうにもしようがない事も 確かにあるとは思います。が、
1)あきらめたらそこで終わりである。
2)あきらめなかった人が奇跡をおこす。
このような話は良く聞きます。

あきらめさせた方が、その人の為なのか? あるいは逆なのか?
私はケースバイケースだと思っています。
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私もそれには同感ですね。

頭ごなしに「自信を持て」ということは、頭ごなしにその人の状態を否定していることになると思うんです。

励まし方ってやっぱりあるんでしょうね。その人が何で自信が無いのか、その原因をよく理解してあげて、共感した上でないと何も言えませんよね。そして何の根拠も無く「自信を持て」と言うのではなくて、自信の無い原因を取り除く方法を探す態度が必要ですよね。

ただ、どうしようもないのだと諦めてしまうのは、程度にもよりますけどね。本当にどうしようもないかどうかの判断は中々難しいものがあるかと。
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哲学カテに質問する人って 真剣なのですね。



ふつうなかなか気がつかないことに ふと気づいたりしてそれが疑問となったりするわけですが、 そちらの質問はその典型みたいに思えます。

なるほど、おっしゃられるとおりですね。

そう言われてみれば、人を励ましたい時には、私は実際にその人が出来ることをやらせて出来たら一緒に喜んだりするとか そういうことはあったりしてもそれでさへ「もっと自分に自信を持って!」といういう言葉は使う機会が思い浮かびません。

テレビドラマの中でなら それらしい自然さがありそうでも、現実の世の中では 不自然で無理があり、配慮が感じられない 逆効果のほうが多い言葉に思えてきました。

私の場合、 子供の頃 分数を習う時期にある因で体を壊し、なんども死の床をはいずっていましたもので、 設備業の仕事の必要からやっと分母が下で分子が上という記号がなんであるのかもすこしわかってきたりしたということがあったりした人間です。

また、指が今でも80歳の母より弱く、それで肉体労働をやってきた60歳なのでいろいろ人からけなされ、こずかれ、そんなこともたくさんあった人生でした。 

で、その私の人生の印象から言えば、 自信のない状態というのは、その原因の奥は たとえもともとの能力がどうあっても、深いという状態を意味します。

人は ふつうの人なら 出るくいは打ちたくなるところ(村社会の日本の歴史の血にはとくにそれが強かったりします。)  勢いや自信のある人には 後でへこまされることを直感して何も言いません。 ずるいですが、自然にそうなってしまうので、これもしかたないです。

しかし、自信の無い人にたいしては、なんと努力してるだけで気になります。  反感とか白い目線、この人はどうせだめな人間なんだ、という集団催眠のようなものが その人の心に襲い掛かります。

いよいよ自信なんて持てなくなります。

これだけじゃないですが、 まわりまわって、一度自信を深く失った人が大人になって能力と自信を取り戻すのは並大抵のことじゃないです。 できるかもしれません。 でもその原因は深いです。

「もっと自分に自信を持って!」なんて、簡単に言えたものじゃないです。

それは、そちらのそばアレルギーの例えと同じぐらいの重みが確かにある世界だと思います。

具体例をあげます。

新聞配達をしていた時のことです。 あるときまったく無表情の学生さんがアルバイトで入ってきたのですが、 あまりにも無表情なため、みんな驚いて同じ人間として理解できなくなってしまったのです。

「おはよう」と明るく声をかけても、目も動かなければ、顔も動かないのですから、まった無反応なのですからどうしようもないです。

何を話しかけることも出来ません。

でも、私は何故だか知りませんが、もしかしたら自分も似た苦労はしたせいなのか? なんだ普通の能力を持ってるじゃん、 何故から知らないけれど何かよほど深い原因があってたまたま表情を失ってるだけで、ぜったいおかしい人間じゃないと 確信できたのです。

しばらくして、その配達店の所長さんが私に、「みんな、この子には順路を教えられない(新聞を配る順序のことです。)。でも もしかしたら君なら教えられるかもしれない」と その所長さん自身、私に対して直感したものがあったようで、そう言ってきました。

で、私はどうしたと思います?

ふつうに、いつものとおりについてこさせただけです。 というより、いいつもよりつっけんどんにです。  でも、解ると思いますが、心の中で絶対出来るようになると信じていました。

そして、いつものように、それが出来そうな時期に「そろそろ、この路地だけ配って」と命令しました。 つまりまったくいつものとおりにです。

そしたら そいつは一件だけ間違えてちゃんと配ってきました。 

「おぼえは早いほうだけど、一見間違えたな」とかは言いましたよ。でも、これみんなにも大体同じようにいうことです。

その時です。 やっぱり内心うれしいことでしたが、 そいつがニヤッと一瞬苦笑いしたのです。

解りますか? ほんとうは自分だって出来るんだとそいつはほんとうは自分を信じたかったのです。

そしてそれは、それを信じることができた瞬間だったのです。

まったく他の人と同じ時間内に、そいつは順路を憶えてしまいました。

ほんとうは 当たり前のことです。  ふつうの能力を持ってたのですから同じ時間となるわけです。

さて、「おはよう」とふつうに言うと、今度はニコッとするようになりました。 まだ「おはよう」とは言えなくても、  其の表情はでも 普通以上に明るい目をしていました。  あたりまえです。  いままでふつうに「おはよう」と自分を信じては声をかけてくれていなかったからです。

と 何日か後 そいつのお父さんからお礼の電話がわざわざかかってきました。 なんどもなんども、「こんなの始めてです。ありがとうございました。ありがとうございました。」 

やっとその子が 何も出来なかった原因の大きな部分が見えてきました。

「おとうさん、私は何もしてませんよ。 信じてあげただけです。いや信じていただけです。」といった意味のことを最後には私は言っていたと思います。

まして、ふつうより能力が実際にない人に対して、安易な励ましの言葉とか私だったらかけません。

でも、 でもです。

なんとか自信を持って欲しいと思います。 世の中の厳しさをむしろみつめつつ、 それでも、

一人では何もしてあげられなくても、もしおおぜいの哲学が集まれば、ただしい哲学が集まれば、 絶対 いつか おおぜいの人がもっと自信をもてるようになるような世の中は、来る 

と信じています。  
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もっと自分を信じてに置き換えれば、良いのではないかなと思います。



少しマシな程度ですけど、同じ意味だと思います。

要は受け取りようと、その後の対応かと。


受け取るほうはちょっときつい言い方だとは感じますが、言うほうは好意も含めての発言だと思うので、その人との関係も大きく影響する言葉ですね。
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