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 アニメ・マンガ・TVドラマ・映画そして小説 さしづめ これらの分野で 先端をゆく表現には どんな形式がありますか。どんな思想として捉えられますかというのが 趣旨ですが 社会の流れや世界の動きの中で 作品が どのように位置づけられるのかとしてなど おしえてください。

 芸術至上主義という考え方があります。表現が それ自体として いろんな意味でともかく よいというのであれば それでよいという思想です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【恋愛至上主義】とは、
 恋愛を人間における最高の価値と考える思想・思考形態を指す。結婚後であったとしても、恋愛の情熱が無くなれば別れることを選び、また他の異性と恋愛に走ることもやむを得ずとする主義である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とヰキぺディアにありましたが(――ちなみに 芸術至上主義は まだ作成されていませんでした――) これに沿って考えるなら 《つくり捨て・使い捨て》の傾向があるとも 邪推されて来ます。
 とは言うものの 現代においては 単に《ロマン主義》的であるとか《幻想的で退廃的》であったり《神秘的》であったりするとかすれば おもしろいとは限らなくなっているのではないでしょうか。複雑であります。
 推測するに 《物理学や生物学の成果を ふんだんに取り入れて そのあと 想像力によって飛躍させるかたち》ではないかと思います。そうだとすると 想像力の用い方が 問題になるでしょうか。
 (このQ&Aで 《ワ゛テック》という小説を勧められて読んだことがあります。これは 神学が取り入れられていました)。
 (同じく ここで 《ナルト》を勧められ その解説を読みました。解説だけで 長かった。よく分からなかったぁ。《エワ゛ンゲリオン》も解説を読んだ記憶がありますが もうよく覚えていません)。

 昨今 資本至上主義とも言うべきマネーゲームが 大きな失敗に陥り
そのような貨幣論理の追求は ひととおりの限界に到ったとも言われます。ひととおり暴れまくったわけです。芸術表現に関しては いかがあい成っているでしょうか。ふと 関心が湧きました。

 上記の芸術分野に関することは すべて 憶測です。したがって その分 具体的な内容にかんしては 話が合わないかとは思いますが よろしくお願いいたします。
 ともかく 今頃ですが 芸術評論も 重要ではないかと思ったので(と言っても そこに首を突っ込もうとは思っていませんが) とりあえず みなさんから おしえを乞いたいと考えました。

A 回答 (40件中11~20件)

そうですか。

 21年9月ですか。

私は22年9月です。 しかも27日になって、あれ「昨日だった^^」と、すでに61歳になって一日たってることに気がついたという顛末。

ちょうどbragelone様は私より一年「歳上」なのですね。 哲学には関係ないかもしれませんが この世代って 結構子供の頃の話題でなつかしく盛り上がったりしますね。

あ、  こんな回答(手紙みたいな)あってよかったのでしょうか?

ま、機械ですら車軸という重要な部分に歯車のゆとり部分が必要といいます。

寛容の翼を!

 



《電車男》 この大変話題となったテレビドラマもチラとしか見てません。 でも、それ以上のドラマがすでにネットのあらゆるところで始まっているのですよね。

私は子供の頃、 虚弱児施設にて、かなり新鮮な形でテレビ時代の幕開けと接しています。 おそらくドキュメントにしろテレビドラマ作品にしろそのころのテレビ映像製作者たちはそれこそ新鮮なロマンの只中にいたのだと思います。  しかし それはやがて、マスコミともども、マンネリ化の内に落ちていった部分も多きところ、

この情報化社会の始まりにては、今度こそ本物が、その長所がどこまでも新鮮なまま伸びていきますように、との祈りが私の中にはあります。

とともに、この年代の者として情報化社会に今を生きてる者としての強い責任も感じてしまう者です。



さて、 アニメなんですが、 その前に劇画がその土台となっているわけですので、 私の青春時代の劇画への夢の話から始めます。

いや、その前に、 わたしが生まれたところは、千葉県の銚子から少し外れた飯岡というとことなのですが、 その地での記憶は 短い時間しか覚えていない変わりに、 海辺まで駆けていって泳ぎこそ出来なかった私ですがあの九十九里浜の砂浜をかけまわってはしゃいだ楽しい思い出があります。

でもその後なのですが、都会での 壮絶とも言える生死の境の生き地獄をくぐり虚弱児施設にて助けられ ようやくなんとか普通の健康をとりもどしたわたしなのですが、   もはや  生まれた地のことなんてすっかり忘れてました。

でも 大学の時、ふと、    ふとなんですが、 その飯岡のあたりをのんびりと旅行気分で散歩してた時がありました。

あれ?  あ  あそこは もしかしらたあの丘の上の私たちの住んでいた家のある場所か?  あの角を曲がれば  いや、ここじゃない、もうひとつ向こうの曲がり角かな なんてところにやってきた時のことです。

その道の角を曲がったとたん、私は思い出しました。  あ

ここだ、妹といっしょに ここを駆けて 海のほうへ、  ここだ、この道だ。というところにて、 わたしは、おもわずまわりを見渡していました。

なつかしかったです。 言葉でなんかその何かを言えるもの、書けるものじゃないです。(と言葉で書いてますけどね^^)

で、その路地から さらに私の家のあった丘の竹林がまわりにある砂の細道を登って  なんと今でもその家がちゃんとあるのを、その屋根が見えてきたことで確認したら、もはや、感極まってしまって、  立ち止まり、その屋根をしばらくみてたら、   そうだ、それならば、この家の裏のさらに高台の丘の裏の、子供の頃 砂まみれで遊んだ自然の滑り台がまだあるかもしれないし、 そこへの下からのなつかしい道もあるのだろうかと、 なつかしさをかみしめつつ 再び砂の坂道を降りて、  裏に回る道がそのままあったのを確認し、 私はその後 どたっと、 なつかしいなつかしい砂の滑り台に倒れこみました。

その時です。 背中が すごいことを私に教えてくれてました。   

い     生きてる。   私は生きてた。  生きてここに再び転がってる    うわあああ 生きてるよ と歌いだしんです。  
あれは 歌ですね。   それも    なんとも  とても  とても言葉でなんか

つづきはあるのですが、この話はここまでとさせていただきます。

ここなんです。 この言葉では言えない何かを 私は絵なら表現できるのではないかと 後でですが考えました。

しかも、その絵が ちょうど私自身か それに似たドラマ展開の後の、このふるさとの描写であるような連続した絵によるドラマ画であったならば、 もしかしたら、 このなんとも言えない 深い感動を 人の人生にも伝えることが可能なのではと思ったということなのです。

まだ、踊り心(この体験も一枚かんでいます。)に気がついてない段での始めての表現の世界への 情熱のようなものが、 なんともまだまだ未熟児だった青二才の私の心にもここにて、芽生えがあったということです。

その頃、私はさかんに、ちょうど絵画教室に通ってた友に、滔々とこれからの時代は劇画の時代だと 演説をぶっていました。 えらそうにです。

むむむ、 またまた 「「資本主義」」の話以前に、話がいやに長引いてます。

ともかく その時代はやってきて 想像以上にすばらしい面と やはりマンネリ化してしまった面と、 たくさん あった時代でしたね。

そのすばらしい面について、 書く紙数はなくなりましたが、 その本物をこそ、私たちは「おたく」を越えて 海外にも伝えていきたいものです。

昨今の JYUUDOUと柔道の問題、柔道の国際化の問題を私も、柔道でなんとか体を鍛えなおした人間の一人としても、言うところの感性教育の面からも このOKウェブ上の格闘技カテで茶々を入れてる者でもあるのですが、これも本気で取り組んでゆくつもりです。

今は、いろいろマンネリ化していると感じて長い間 その偏見ゆえにも見てないのですが、昔見た すばらしい劇画について その中身についてなら憶えていますので  次はそのへんから書いていってみたいと思います。

ほんとになんともすばらしい劇画がたくさんありました。 それが正しく海外に伝わって欲しいですね。 私にとっては 人事なんかでない話ですが…。
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この回答へのお礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 古賀稔彦が バルセロナ・オリンピックで 試合前に足に怪我をしたにもかかわらず 痛めた足のままで 闘い 優勝したのは 感動的だったことを覚えています。つまり 一本勝ちの精神であり いわば芸術性を感じます。

 なるほど アニメの前身は 劇画でしたね。漫画ではなく また いまのマンガでもなく 新しく出現しましたね。漫画は 《カムイ》を全冊 読んでいた知り合いがいて それに反発して わたしは 読まなかったということもありましたが。

 フジテレビの《電車男》は よかったですよ。実話だというのですけれど ほんとうかなぁという部分も ありました。それは マドンナの《エルメス》が 電車で酔っ払いに絡まれたところを 助けてもらったという恩があるので その助け手となった相手とは 遠きおもんぱかりによって つき合い続けたのではないかという小さな疑いです。つまり 義理からの行動であるような ないような。・・・

 ふるさとは その後 移った者にとっては そうとう気持ちを動かすものがあります。なつかしい という感情とは如何に?という問いも おもしろいかも知れません。

 マンネリ化といえば タモリが おもしろいかも知れません。かたちは もうじゅうぶん マンネリ化しているのですが なお新鮮さを失っていないようです。
 
 北野武について 感想でもいいですから どんななのか 関心があります。わたしは 買っていないのですが 評判や人のくだす評価について 知りたいという思いがあります。

 これまで出て来ませんでしたが ハリー・ポッターと言えば――と言っても 関係はないのですが―― ふと 《ソフィーの世界》のことを思い浮かべました。じつは 読んでいません。図書館で借りて 読み始めた事実はあるのですが どういうわけだったか もう記憶にないかたちで 途中でやめています。そのままになっています。これなども 話題になりましたから 触れてもらうとよいと思いますね。(このQ&Aで 出ているようですが)。

 どうも フランスでも 一部では コスプレやらをおこなって オタク文化は 絶好調のようですよ。

お礼日時:2008/09/28 16:09

柔道にかぎらず、すべてのスポーツでのスポーツそのものの美も 追求するとけっこう奥が深いと思います。

 私の中の美の定義の広さからも そういう判断が出てくるのだと思うのですが、 一限定でスポーツの美という観点のみを追求しても アスリートの方々の動きの美はさまざまな価値と美を含んでいると私には思えます。  

フィギュアースケートは 美やその構成点をも加味した競技スポーツになっていますし、 競技ではないアイス・ダンスの世界も、その技術がフィギュアーの技術のはげしい訓練の後のダンスの世界なのですから、半面はスポーツです。   しかも それはフィギュアースケート競技の金メダル級の実力を持ってしてもなかなかアイス・ダンスの世界に入れないという厳しさを持っているものと言われています。

まさに典型的な スポーツ芸術の世界ですし、、かつ「イナバウアー」など、普段競技としてしか見ていない人達まで そこに美を感じるような大衆性もあったりします。  

スポーツと芸術ということでしたら、そのへんも興味ある話題とかになりえるかと思います。

でも、私の関心は「感性」にあります。 その「感性」の土台としての身体の健康にはさまざまな思索をしてきましたし、 その健康を おもしろく楽しく自然に夢中になってるうちに身につけてしまう そのような価値をこそ、スポーツに何よりも求めている人間です。

ご指摘の「一本」の美についても、 柔道は私自身がそれによって虚弱体質かなんとか抜け出すのに役立ったスポーツでもあり、それこそいろいろ考えていたりします。

直接その一本の「美」とは関わりの無い地点でしょうが、スポーツカテにてのそのへんの質問へ私の方からも回答した文がありますので、URLを紹介します。

「最近の柔道の質の低下を嘆(技・ポイントの判定)という質問への私の回答がたくさん出ています。
http://okwave.jp/qa3980968.html

興味があれば、読まれてみてください。 また、一本と「美」ということについては、 その後さらに 話題となりそうならば、わたしなりに突っ込んでみようとは思っています。  が ここは先をつづけます。



「カムイ」には記憶がありますが、 かなり劇画スタイルのものと、漫画チックに武将の歴史の大きなスケール(時空)を描いてるものと、二種類あったかと思います。 作者とかには興味が無かったので憶えていませんが、中身には、興味深く読んだ記憶があります。  しかし かなり昔なのでいまではうろ覚えです。 それぞれ、絵には迫力ある特徴があり個性がありました。 当時の私にはとても描けない世界でした。

実は 私自身劇画が書きたくて 挑戦はしていますが、 いくつか大きな壁にぶつかって挫折しています。  興味があれば告白(^^)します。

が、ここは先をつづけます。


「電車男」についてですが、

>つまり 義理からの行動であるような ないような。・・・<

テレビでの演出はそんな感じのものでしたね。 部分的に見ただけですので詳しくは解からないのですが、 ストーリーは少し解かりますし、テレビでの電車男の態度は まさにそんな感じでしたね。 でも彼の優しさはたぶん勝利した(幸せに結びついた。まわりの人達の善意ある祈りにかなう、あるいはそれ以上の幸せに結びついた)予感はありましたよね。善意の勝利をほのぼのと描いたネット文化の物語というおもしろさは うまく出ていたと思いました。

感謝と 義理の問題。 リスペクトがどのようにその奥に働いていたかによっても違ってくるかと思います。  リスペクトに関してまた信仰の問題とかもでてくるかもしれません。  電車男さんの実際はどうだったのかとか(^^)の詮索とは別な地点にて、 けっこう深い話題にもつながっていけるかもしれませんね。

しかし、これが、「恋愛至上主義」からですと、これは不純だということになるのかもしれません(^^)。  

でも、ここでは先をつづけます。

***

なかなか資本主義のあたりにたどりつけないので すこし自信がなくなってきました(^^)。 ゆっくり 進んでいくしかないのでしょうけどね。

紙数のつごうで、 今回はここまでとします。


つぎは、タモリと 北野武についての私の方からの感想のようなものとなります。 (予定ですが^^)。

ハリーポッターと 「ソフィーの世界」については、ひとまずですが、飛ばします。
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この回答へのお礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。
 別の質問として 《復活とは?》も掲げましたが 現代芸術についても 追究します。

 柔道の技については 分かりません。肩車も山嵐も 残念ながら ついて行けません。試合を見て 芸術性があるかどうかは 分かります。余計なことですが 谷亮子は 強いのか弱いのか(と言いますか 芸術性があるのかどうか) よく分からないところが 見ていて ありますね。分からない《とき》があると言ったほうがよいのでしょうか。――これは ここまでです。

 《カムイ》という作品じたいも 見ていません。アイヌ語の神のことだとは分かりますが。

 北野武論は おもしろいのではないでしょうか。

 きょうは これだけです。映画も ひさしく見ていません。

 * アニメなどについて よく知っている人は わたしのように批判的な見方をしている者に対して あまり 話しかけて来ないかも知れません。考えてみたら。

お礼日時:2008/10/01 22:36

予定どおり、タモリのことから書きます。



若い頃 たまたま何かの用事で日比谷公園を歩いていた時、ジャズ野外フェスティバルというのをにぎやかにやっている一角があったので無料でしたし、そういうのは始めてでしたので、中に入ってみると山下洋輔トリオのジャズの公演で、 そこにタモリが司会をしていました。

山下洋輔というジャズピアニストの名前も タモリの事もまったく知らない時でしたが、 一番印象的で魅力的だったのは、なんと当時の私にとってはタモリだったのです。

資本主義社会では、接客やセールスの世界が発達しているわけですが、そのセールスの世界で、一つのセオリーとして、人は親しくならないとほとんど同じ商品をそのメーカーから買わないという法則のようなものがあるようなのですが、  そこに雑談8割、商談2割というベテランの法則というものもあり、その雑談部分には ゆっくり丁寧にアナウサー式に商品説明的に話してはならないという法則がまたあるそうです。

ゆっくり丁寧に解かりやすく、 これがだめなのだそうです。

8割の部分には、何を言ってるかさへ解からないぐらいでいいから、 特徴のあるテンポとその速さが必須だとのこと、

ひるがえって、 タモリには、その独特のテンポと勢いがあったわけです。

そんな話し方をする人は見たことなかったでしたし、ともかく実際の野外ではとくにそのテンポは魅力的なものとして若い私の心の響いていました。

それからはるか後になのですが、 いわゆるタモリ語と言われる 自動発声言語(ジュベリッシュ)の技術を使った でたらめ中国語とか アフリカ語とかのそれらしい一人会話演技の世界の、元々のジュベリッシュ(自動言語)の技術を私自身も習得しています。

やり方自体はとても簡単です。 

ラララと、ラ音で音階はつけずに発生します。 それに合わせるような形でと最初はもかく自動的であるかのようにでいいので、でたらめにも ラララカサリラリコサナハヤとか適当に言葉をつけてゆくのです。 空でです。 書いたものを読んでいてはたぶん身につきません。  そして自動的にいかないようだったら すぐにラララララとラ音に戻して再びそこで調子づかせて、適当に自動的にかってに言葉がでてくるまで そうであるかのようでいいですので、 つづけてゆきます。  すると やがてほんとうに何も考えなくても ラ音調の舌回しの延長でまったく自動的に発生しさえすれば子音や母音が自動的に選ばれて出てくるようになります。

これがジュベリッシュです。  ここまでは個人差がほとんどなくやればだれでも 大体同じ時間内に出来るようになるそうです。

ただし、最初は一人でやるより何人かでやったほうがいいらしいのですが、 すくなくとも 一度コツを憶えてしまえば 後は一人で簡単にラを言わなくても出てくるところまで持っていけるようになります。

それを演劇風、会話調にしたり、笑いとか感情をうまく入れたりと発展させていく段には、その人のそれまでの演技力とか経験とかがでてくるわけです。

タモリの場合は アナウサーの会話とは逆の魅力的で新鮮な会話の中にそれを応用していたわけです。

あとは、こうした技術には 繰り返しの修練がものをいいます。 なんらか徹底して 司会とかを繰り返しその魅力を身につけていったのだと思います。

また、これは北野武の魅力にもあてはまると思うのですが、けっこう図太いところがあります。  なんでも思いっきりとびこんでみる実践肌であることと、いじめや批評にびくともしない体質です。  “いじめがい”が無いので何をしてもバッシングされなくなっていく という便利な体質です。

私の子供時代には、もともと体力はあったのですが、その図太さがなかったため、 いじめにより心身おかしくなっていったわけです。

それはそれで生きていられたから、またおおらかな先生がたが多かった虚弱児施設に入れたから助かったのですが、 そうでなければ、廃人となってとっくに死んでいたでしょう。

図太さを 関係性で考えるなら 傲慢ともいえます。 でもこの傲慢というのは 欠点と長所が紙一重であるその典型のようなところがあると思います。  すぎなければ たいていリーダー性や実践力とかのプラス作用として働きます。 常識をよく知っていて、肝心のところを必要に応じて引っ込ませればいいわけです。  そのへんのうまさが、タモリも北野武も抜群だと思います。

タモリの司会の魅力の息の長さについては しかしながらこれ以上ここで論じる必要はないのではないかと思います。 詳しくこまかいところを知ってるわけでもないですし、 現代芸術の世界を追いかけるならば たしかに北野武のほうがおもしろいと思うからです。

ここまででも けっこう長くなってしまいました。 

回答の機会を与えていただければ、つぎこそ北野武論です。 例によってくわしい知識は知らなくても、 本質的にはかなりいい線に迫れるのではと思います。  

紙数のつごうで、またまた ここで終わりますが、もうすこしつづけさせてください。

北野武論のほうから、演劇やアニメの方にも また投資の世界についての私の疑問についても話を持っていけたらなという感じの予定でいますので。

よろしくお願い致します。

形上は 専門家として 自信ありという形にしていますが、 このあたりに自信があるということではありません。 参考というか ちょっと変わった人生からの物語として、楽しんで読まれていただければと思うだけです。

ベテランセールスマンのように 最後まで話を持っていければいいのですが、なんか自信がなくなってきました。  商品の中身に自信があっても売れなければしかたがないのと同じで、 そのへんの80%のあたりに自信がうまく持てない感じです。

セールスマンになんか負けたくないです(^^)けれど…。 年季の入った世界は、 タモリもふくめ簡単には追いついたり追い越せたりはしないのでしょう。

この回答への補足

 質問です。
 ★ 自動発声言語(ジュベリッシュ)
 ☆ の《ジュベリッシュ》って どこから来たことばですか? 見当がつきませんでした。

補足日時:2008/10/03 10:06
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この回答へのお礼

 arayata333さん ありがとうございます。催促してしまって 応えてくださって・・・ありがとうございます。
 きょうは すっかり 観客になっていました。すっかり聴衆です。
 いくらか違った一面を見せてもらった感もなきにしもあらずですが そういえば もともと パーフォーマーの側にいらっしゃるのでしょうか。文章も そうなのでしょうか。

 北野武は まだということですが タモリは どうなんでしょうかねぇ。つまり そのわざの冴えているところも もちろん そうなんですが わたしの当てようとしていた焦点は まだまだ微妙であるかも知れません。
 と言っても よくはつかんでいないわけで。・・・たとえば 《間合い》と言っても これも よく知らないですから 間合いがおかしかったときに そう感じるというだけですし。・・・はぐらかしや 話のすり替えや あるいは 要するに ボケ一般ということなのでしょうか。そのテクニックが知りたかったのでしょうか。
 でも テクニックと言ってしまうと どこか違うようですし。・・・

 ひとつ 思い出しました。こう言っていました。
 笑っていいともで 書道のコンクールというコーナーがあって タモリが 先生の役を担い 出演者の習字を品評していたことがありました。これが 視聴者から えらく不評を買って 《おまえは なにさまだ!?》と言われたそうです。タモリは 《はっきり言うよ。それは それは へこんだよ》と言ったあと こうつけ加えました。《なにさまだって言ったって お互いさまだよ》と。
 これは おもしろかったです。
 たぶん 武とは 違っているのではないですか。人であることの性格として。そして お笑いの性格として。この辺に 関心があったりします。・・・また催促してしまいましたが 芸術性は 奥が深いようで・・・こちらも いささか 貪欲になります。・・・

お礼日時:2008/10/02 23:23

おはようございます、brageloneさん。



【QNo.4367998 復活とは? 不死の境地とは?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html

あわせて読んでます。
で、【QNo.4367998】 の中ででてくる《人生論》なんですが、
先にこっちで《芸術》云々とでてますから…
【アルトゥル・ショーペンハウアー】
http://kuroneko22.cool.ne.jp/Schopenhauer.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7% …
http://www.schopenhauer.org/index2.html
が、ふと浮かびました。

●《物理学や生物学の成果を ふんだんに取り入れて 
そのあと 想像力によって飛躍させるかたち》

この意見に、うんうん、と読みながら頷いてます。

というのもですね、夕べひとしきり『ウミホタル(海蛍)』をネットサーフィンしながら開いてみていました。これがめっちゃ、おもしろい!不思議がいっぱい。何が面白いかといえば、ウミホタル(海蛍)って“ミジンコ”の仲間なんだそうです。知ってました?(和名がウミホタル:学名Vargula hilgendorfiiヴァルグラ・ヒルゲンドルフィー)。http://homepage1.nifty.com/MILKY/kokomitene/umih …
青白い光を放つ生物、不思議だよなぁ-。
http://www.umihotaru.jp/umitoha.html
【ウミホタルの発光の観察】
http://www.tdk.co.jp/techmag/inductive/200611u/i …
【ウミホタル心臓の生理学的研究】
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/cbs/sotsuken/1999g …
【減数分裂時に染色体末端(テロメア)を束ねて
ブーケ構造を作るタンパク質を初めて発見】
(不妊症の原因解明につながる可能性)
http://www.jst.go.jp/pr/info/info275/index.html
【染色体のはなし】
http://www.microbes.jp/rika/rika_no19/rika_no19. …
【微生物管理機構】
http://www.microbes.jp/
【パンダの糞やシロアリから有用菌を分離】
http://eco.goo.ne.jp/business/csr/ecologue/wave2 …
【光と色の3原色】
http://www.laser.phys.tohoku.ac.jp/~yoshi/hikari …

芸術で、あそぶ、でおもいだすのが
遊ぶ亀と書いて、遊亀さん。
いつだったか、とあるお宅ではじめて遊亀さんの作品を目にした。
その作品をはじめて目にしたとき、版画だなとおもったんだけど
近づいてよくみてみると手書きの絵だったんだ。落款に目をやれば
『遊亀』と。
「やられた」
と、思ったのが始まりで小倉遊亀さんの作品に興味を持つようになった。
遊亀さん、105歳でなくなられる前まで現役。すごくない?晩年になっても大きな作品も多数てがけてる。あのパワーはどこからわいてくるのか?いまじゃもう尋ねてみることできないけど、尋ねることができるのだったら聞いてみたい。そうそう“ミジンコ”をみていっていたら、こりゃまた元気なご夫人ご壮健。その人の描く絵を見たよ。堀文子さんの画文集。
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP …

【『性のお話をしましょう――死の危機に瀕して、それは始まった』】
団まりな著
http://www.tetsugakushobo.com/book/093.html
【ドイツ語とフランス語の相違点】
http://homepage3.nifty.com/taketoki/dokufutu.html

【量刑】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%88%91
【主要先進国における平均寿命の推移】
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1610.html
【『昔、桃太郎 今、ちびまる子か?―他小論集』】
森本周子著

よく人は、驚かされると「寿命が縮まるかとおもった」と、口にするけれど寿命は縮まるのだろうか?その昔、人生50年といっていた時代から現在(日本人の平均寿命は男性が79・19歳、女性が85・99歳といずれも過去最長とか。)をみることができたならば、さぞやビックリすることだろう。この人生50年を少なく見積もって人生40年としたならば、今日の日本人は昔の人の倍の時間を人は生きていることになる、恐れ入りやの鬼子母神ときたもんだ。で、先に挙げたご長寿の方々はことあるごとにいろんなモノ・コトと出会いの中でその度、驚き、感性を磨いていたんじゃないかな。
ある意味、寿命は縮まっていた。言い換えると若返っていたんじゃないだろうか。老いるほどに子どもに返るともいう言葉があるように。

原点回帰で、ひとつ。
先ごろ、裁判員制度に向け過去の類似事件等の量刑をデーターベース化し検索できる検索システムが構築されつつあるとか。判断基準となるものをもたない一般の裁判員の判断の助けのひとつとして考案されたことなのだろう。しかし、ふと疑問におもうことひとつ。参考にするであろう類似事件の量刑なのだけれど、単に 犯罪の種類と刑をボタンを押せば早分かりできるものではないと思う。類似といえども年代、社会情勢、その時々で世相は異なっている。なにせ、人生50年がいまや人生80年、90年、100年となろうかとしているのだから。

量刑のあり方を見直すところからはじめるときなんじゃないだろうか?

【「法定刑引き上げと刑罰論」】
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/06-2/ok …


『月に吠える』より. 笛 萩原朔太郎

子供は笛が欲しかつた。
その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。
子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。
子供はひつそりと扉のかげに立つてゐた。
扉のかげにはさくらの花のにほひがする。

そのとき室内で大人はかんがへこんでゐた、
大人の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のぢれんまが大人の心を痙攣させた。
みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけてゐた。
それは春らしい今朝の出来事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。

本能と良心と、
わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人の心のうらさびしさよ、
力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓のあたりをさまようた。
人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽霊の通りゆく姿をみた。
大人は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた
「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」
けれどもながいあひだ、幽霊は扉のかげを出這入りした。
扉のかげにはさくらの花のにほひがした。
そこには青白い顔をした病身のかれの子供が立つて居た。
子供は笛が欲しかつたのである。

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つてゐた。
子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭脳をみた。
その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつてゐた。
子供の視線が蠅のやうにその場所にとまつてゐた。
子供のわびしい心がなにものかにひきつけられてゐたのだ。
しだいに子供の心が力をかんじはじめた、
子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。
みればそこには笛がおいてあつたのだ。
子供が欲しいと思つてゐた紫いろの小さい笛があつたのだ。

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。
それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。
おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。
けれども子供はかたく父の奇蹟を信じた。
もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、
卓の上に置かれた笛について。

この回答への補足

 littlekissさん 盛り沢山!! (韻を踏んでいる!)

★ 《笛》 萩原朔太郎 ~~~~~~~~~~~
 本能と良心と、
 わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人の心のうらさびしさよ、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここがいいですね。ただし《本能》という言い方は 旧いですよね。《肉と霊》ですかね。
 
 ★ 団まりな 著『性のお話をしましょう――死の危機に瀕して、それは始まった』
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 性の本質は遺伝子の修復と若返りで、遺伝子のミックスは修復の一方法に過ぎない。からだを作る細胞に運命付けられた分裂回数の限界を突破しリセットするしくみなのだ。ディプロイド(体細胞)とハプロイド(配偶子)との往還にこそ神秘を解く鍵がある。(《案内》)
 ◆ 遺伝子が生命の主役であるかのような昨今の生物学の潮流に対し、細胞を主役の30年以上の研究を続けた団まりなさん(「朝日新聞」)
 ● 本書を読むと、遺伝子がすべてを決定しているかのような表現がいかに奇妙かがよくわかる。(「日経サイエンス」)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんなこと 知らなんだ。もっと 知りたいです。

 ★ 【ドイツ語とフランス語の相違点】
 ☆ これは まだ 序ノ口。能格( ergative )言語――たとえば バスク語――くらいと 比較対照しなくっちゃ。

 ★ 【「法定刑引き上げと刑罰論」】
 ☆ 刑罰の本質論――カントがどうだヘーゲルがこうだと説明しているところを あとで 読みます。考えます。保留です。

 ★ 森本周子著【『昔、桃太郎 今、ちびまる子か?―他小論集』】~~~~
 ある意味、寿命は縮まっていた。言い換えると若返っていたんじゃないだろうか。老いるほどに子どもに返るともいう言葉があるように。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この箇所 なるほど おもしろい考えだと思いました。

 ★ 【パンダの糞やシロアリから有用菌を分離】~~~
 パンダの糞とシロアリから分離した有用菌で、 水素を取り出し、生ゴミを分離処理。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 海ホタル
 ☆ ふむふむと ふむふむと ふむふむと。

 ★ 【アルトゥル・ショーペンハウアー】~~~~~~~
 ▲ 我々の肉体が衣服に包まれているように、われわれの精神は虚偽に包まれている。―「幸福のためのアフォリスメン」―
 ☆ 裸は 真実ということになるのか? 衣服には いろいろあるさ。虚構だと言っても それが 欺かれなければ 虚偽とはなるまいに。虚構とはさみは 使いよう。
 ▲ 信仰の強制は、不信仰を喚起するだけである。
 ☆ 強制しない心のあり方〔のみ〕を 信仰と言う。自由と同義なり。これを 強制されたからと言って 《不信仰を喚起される》というんじゃ 視野が狭い。分かっているから ほっといてくれ くらいは返さなきゃ。
 ▲ 宗教とは蛍のようなものだ。光るためには暗闇を必要とする。―「パレルカ-ウント-パラリポメナ」―
 ☆ それは 悪い宗教。もしくは 集団としての宗教は 個人の信仰が 自殺して その殻を残した姿であるから すべて 悪い。そういう悪としての側面のみが 現われて来る。もともとは 暗闇に走ったきらめきが 信仰なのだから。
 ☆ ショーペンハウアー先生 旧いぞなもし。
 ★ 読書は他人にものを考えてもらうことである。 / 本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。―「読書について」―
 ☆ とんでもない。わたしを見たまえ。そこは 戦場なり。ま 語弊を避けて 井戸端会議と言いましょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★(wikipedia)~~~~~~~~~~~~~~
 ● 矛盾が支配している未完成な現実の世界に対しては、完成したイデアの世界には調和がある。そこでイデアの世界において芸術に沈潜した人は、意志なき、苦痛なき喜びを少なくとも一時的には得るであろうといわれる。
 ☆ こんなふうで 芸術は いいの?

補足日時:2008/10/03 14:28
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この回答へのお礼

 ● 意志の転換を成し遂げるのは、「汝はそれなり」という直覚的な知のみであるといわれる。この知に達して、マーヤーのヴェールを切断して、自他の区別(個体化の原理)を捨てた者は、同情 (Mitleid) ないし同苦(Mitleid)の段階に達する。このとき自由なもの(物自体)としての意志は自発的に再生を絶つのであり、ショーペンハウアーの聖者は、利己心・種族繁殖の否定に徹し、清貧・純潔・粗食に甘んじ、個体の死とともに解脱するとされている。
 ☆ おかしいと思うけれど パスです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ スペースが空きましたが 上の《解脱》の理論のおかしさについて 評するのは 控えます。それは じつは 読んでいないからです。つつしみぶかいところも 見せておかないと。
 刑罰の本質論は 先送りです。けっこう長い。

お礼日時:2008/10/03 15:56

体調がよくないので、あまりゆとりがありません。

  あまり考えないで回答の今までの流れにまかせてみます。

「復活とは? 不死の境地とは?」という質問も見てはいますが、回答のゆとりがない状態です。 そのへんの私の中の回答は単純すぎるので、自分のその感覚とかがほんとうに正しいのか聞いてみたかったりするのが回答を書きたい理由となります。 なんとかうまくゆとりがとれれば書いてみます。

ここは、北野武論からです。

本格的お笑いは、なんらか状況を見つめるパワーによって、またそこからのゆとりによって(その心の状態と、コントロールパワーによって)生まれるといいます。

そのへんで特徴的なのが、今の若手の中の「太田と田中(グループ名とかは関心がないためか憶えていませんが)」のお笑いです。

若いのに、ふざけていても何を話していてもそれを「見ている」自分と、そこからくるゆとりが 即興的にも落ち着いた笑いの世界を生み出しています。

北野武の場合にも昔から、 「見つめる」というよりも「クールにすら見つめている」とう感じがあり、 それが悪乗りのタケチャンマンを演じてる時にもそのお笑いの特徴となっていたかと思います。

彼が出演した映画なら二つ見ています。

監督した映画は、まだ見ていません。 そこが世界に評価されたのは何故なのかのあたりには興味が沸いてしまう人ですね。

見た映画は、二つとも喜劇とは間逆の どうしようもない悲劇の心理をせつせつと物語る映画で、 そのうちの一つはじっくりと見る機会があったものです。

北野武は、そのある貧しさの中のどうしようもない弱い主人公の状況の悲しさを、悲しい顔とかではなくて、それに自分自身がなりいってその状況、どうしようもなさを「見つめる」ことで  まさにその「どうしようもなさ」を語りかけるという 彼の特徴をすばらしく生き示した演技をしていました。

もう一つの 実は部分しか見れなかった映画でも、殺陣の場面にまさにその「どうしようもなさ」からの「クールな見つめる目」が生きていたのです。 

北野武監督としてのデビュー作は たしか殺陣の場面の多い映画だったかと思うのですが、 そのような重層的なリアルさが、西洋が心のどこかに求めているものと出会ったというような そんな何かがあったのかという推理のようなものは あったところです。 

そこの興味があるので 一度じっくり見てみたいなという気持ちになっているということなのです。

殺陣は 人の生死とかかわる演技の世界ですので、哲学と表現の世界の論議として きっと価値ある何かが生まれえる主題かとは思います。

これ以上の くわしい論議は、したがってその後のこととして、どこかで再び触れる機会があることを祈りつつ、

ここは、先をつづけます。



【なんで?】どこかの大学教授でもその道のなんらかのプロでもないだだの肉体労働者の社会的ポジショニング(資本主義社会では この位置取り行動を経ない行動は、たいへんな回り道をしいられたりしますし、が故にそのへん偽ってさへ行動を重視する考えの人もいたりします。)の者が、
なんで、bragelone様に、普段隠している専門家の立場をとり、そのある責任からの回答をしたい気持ちとなっているのかを ここに書きます。

私は 常に死を意識して生きてる人間のようです。 けっこうこれで長生きするのかもしれないですが、 体調でも崩せばすぐ「もう、長くないかもしれない」という気持ちにもなってしまう人間です。

bragelone様のような 理論的な能力のある人に、 私の感性の哲学 五感の哲学を 出来るだけ多く伝えてしまいたい、 どうしても自分の中では、それが間違ってるとは思えないし、 ここ何年かに知ったことですが、それはこれからの社会にとってあまりにも重要な哲学にも思えてきてるので、 できるだ早く その考えを自分だけのものではない存在にしたい。

これが、 こんなふうに この「芸術ジャンル」の質問に 食いつく理由なのです。

* 

アニメを よく考えてみてください。 それはかなりの総合芸術です。 絵の技術だけではそれは成り立ちません。

作者が一人で、登場人物の物語も作る場合がほとんとでしょう。 そうするとまずは、映画のシナリオの技術と似た学習も必要となってきます。 その上で各登場人物の絵に、俳優術の魂をも載せていかなければならないのです。 自然なリアルな演技の世界を 絵の中の人物に自分がなりいって、いきいきと演技し、かつ演技構成もふくめた演出と その全体の監督も勤めるめる形となります。

現代では アニメ段階になると多くの分業とかも生まれているかと思いますが、基本的には、総合的な知識無しには、生まれてきません。

ここに、もう一つ大事なのが 映画での場面場面の組み合わせによるさまざまな表現の世界であり、アニメは当然、その知識も応用しているわけですが、

では、それが、北野武映画監督を越えているかというと、おそらくまだ劇画が始まって間も無い頃の新鮮なさまざまな試みは、体系だって引き継がれていなくて、 むしろ、そうした天才的は俳優性の入り込めないような技術とか組織によるマンネリ化が現在起こってもしまっているように思えてならないのです。

アニメも劇画も ほんとうにその価値を深く分析してくれ 未来への希望や見とおしを与えてもくれるような批評ならば、 おそらくその面がなぜかしっかりと社会的の場で評価批評批判されていなくて、遅れている分、

ほんとは、誰もが その真の批評家を求めている世界なのではとも思います。

アニメや劇画には、北野武を越える重層的な心のリアリズムの世界が可能だと私は思っています。

場があるならば、そのへんもどんどん書いていってみたいのです。

この回答の場にそのずべてをとても書ききれるものではないので、急いでもしょうがないのですが、  こうして、この回答にても、このへんの論議には真剣になってしまうということなのです。

またまた 中途半端になってしまいましたが、 今回 私の方からのこの「回答」への意味合いは、少しわかっていただけたかもしれません。

このような発言の場が、>貧しい者にも与えられる<(どこかに書いていましたね。)ということは、ほんとにありがたいことです。

今後とも どうかよろしくお願い致します。  ((アラヤタ武より(^^)。))

この回答への補足

 arayata333さん 言ってみれば やっと始まりましたね。なかなか 専門畑に入っておられるようで。

 ところが――あまり 恐れてはいなかったのですが だから いけなかったのですが―― いま一つ よく分からない。という事態が 起きました。
 一点 かすかな光が当たったと思ったのは 武が テレビドラマで エホワ゛の証人の一人を演じたのを見た記憶がよみがえったことです。
 スーパーの店長で 天候の移り変わりに応じて 仕入れる品や棚に並べる品を 考えて選ぶことによって 売上を伸ばすという得意わざを持つ人物です。そのように 平凡な市民が エホワ゛の証人の信者になったことで 例の 輸血を拒むという教義に従うという事件が 起きました。そのあとの結末が どうだったか なかなか 思い出しませんが その役を たしかに うまく こなしていたという記憶であり その印象の強さです。
 あぁ そう言えば と思ったところがあるからです。

 ただ――ただ です―― そのことが 作品の思想と どういうかかわりを持つか。こういう話になると もう どこが どうなっていて どうなるのか。つまり そのような演技の見事さと いまの思想性との関係の問題が どうなるか。――見当も つきません。
 というような情態です。

 アニメにしても 作成の段階での努力の質であるとか 全体観をどうはたらかせるか とか むつかしい側面があるということだけは 分かります。分かりかけました。

 どうなのでしょう? 要するに 武も 爆笑問題(太田&田中)も アニメの労作も 現代社会における位置づけとして よくやっているという評価で いいのでしょうか? 
 ただし マンネリ化も 同時に 起きているとも。・・・

 あとは やはりと言うべきでしょうか 主観の問題 わたしの趣味の問題 これも あるように思います。というのは わたしは まだほんの十年前までは けっこう ワ゛ライエティ番組を見ていました。けれども 武もさんまも 志村けんも ナインティナインも その他その他も 面白いと思っても 二度見たいとは思わないのです。録画してまた見たいというのは タモリだけなのです。
 ここは もう趣味の違いの分野に入るのでしょう。
 けれども 少しは 弁解するなら タモリは その面白さは 受け身から出たギャグなのではないか。そして ほかの人たちは むろん 個性ごとに違っているでしょうが 積極的な姿勢からしかギャグを出していない。時には 攻撃的な姿勢で 面白みをかもし出してやろうという姿勢のことです。そこが ちがうのではないか。とは思ったりしています。
 受け身のは ユーモアで 能動的なのは ヰットだと思います。ヰットの面白さだと 一たん その面白さが分かるという場合というのは その場で 相手に合わせていて 相手の緊張度にも ついていった場合だと思うのです。という意味は あとで 緊張を解いて くつろいでいるときには 別の感じになると思うのです。
 もっとも 若いときには そのテンションが ずっと 持続しているので 相手に合わせる姿勢も 持続していくとは 思います。

 いま こう思いました。
 笑いなら笑いを どう取るか ではなく 笑いの質を論じてみたい
 つまりは 芸術性のあり方 作品を 主観としてでいいから どう受け取ったか こういう切り口が さしあたっての知りたいところです。
 どうも arayata333さんは 専門的すぎて 素人の感受性のままの批評を超えておられるところがあるかも知れません。
 ううーん。ともかく ここまで来ました。このわたしの評論の姿勢に対してでも あるいは 自己表現として そのまま思うところを述べるかたちででも ともかく わたしも 自由に応じますので そちらも 自由に 論じてみてください。ほかのみなさんも さらに 参加してくださると おもしろい探究になると思うのですが。

補足日時:2008/10/04 20:33
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こんばんは、brageloneさん。




ANo.14《この回答への補足》

●☆ こんなこと 知らなんだ。もっと 知りたいです。



って、いいました?いいましたよね?


うんじゃ、資料をおいてきます。


【ありし日の】
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsproto/journal/jjp35/2- …


【樹状細胞と 免疫制御メカニズム】
http://www.aeplan.co.jp/adv/j-igaku-z.pdf
【樹状細胞】
http://1kai.dokkyomed.ac.jp/dc.html


【47NEWS】
http://www.47news.jp/CN/200510/CN200510070100091 …
【IGノーベル賞】
http://www.dr-nakamats-shop.co.jp/nobel.html
http://dr.nakamats.com/
【タンパク質中の20種類のアミノ酸 】
http://www2d.biglobe.ne.jp/~chem_env/amino/amino …
【「特許」と「実用新案」の違い】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1064654.html
【◎特許法等の一部を改正する法律】
http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/ho …
http://www.jpo.go.jp/shiryou/hourei/kakokai/pdf/ …
特許法第百八十八条第一号中「附する」を「付する」に改め、
同条第二号中「附した」を「付した」に、「を譲渡し、貸し渡し、
又は譲渡若しくは貸渡のため展示する」を「の譲渡等又は
譲渡等のための展示をする」に改め、同条第三号中「を生
産させ若しくは使用させるの」を「の生産若しくは使用させ
る」に、「譲渡し若しくは化し渡す」を「譲渡する」に改める。

この回答への補足

 No.14でいただいた参考URLの
 ★ 【「法定刑引き上げと刑罰論」】
 ☆ は 思ったかたちの内容ではなかったと思います。刑罰という法律規定について 具体的にもとづくべき思想を 探究しているのですが なぜか ピンと来ませんでした。法律作成にかんしての技術的な考え方といった細かいところまで 入っていくようです。もちろん それとして 必要なのだと思います。

補足日時:2008/10/07 04:22
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この回答へのお礼

 littlekissさん ちがーいます。
 
 知りたいと思ったのは
 ● 本書を読むと、遺伝子がすべてを決定しているかのような表現がいかに奇妙かがよくわかる。(「日経サイエンス」)
 ☆ というところです。

 ◆ 遺伝子が生命の主役であるかのような昨今の生物学の潮流に対し、細胞を主役の30年以上の研究を続けた団まりなさん(「朝日新聞」)
 ☆ にかかわって
 ★ 【樹状細胞と 免疫制御メカニズム】
 ☆ が あるのですか? これだけでは よくわからなかったです。

 ましてや
 ▲ ディプロイド(体細胞)とハプロイド(配偶子)との往還にこそ神秘を解く鍵がある。(《案内》)
 ☆ ことなどは 分かりません。

 よろしくお願いします。
 DNAには 強いですか? つまり ふつうは 遺伝子と環境(ミームとかいう)を挙げるのでしょう? その説が 上の研究で 変わったのですか?

お礼日時:2008/10/06 12:51

訂正です。



同条第三号中
「を生産させ若しくは使用させるの」を「の生産若しくは使用させる」に、
「譲渡し若しくは化し渡す」を「譲渡する」に改める。


誤)●「の生産若しくは使用させる」

使用させる→使用をさせる

正)●「の生産若しくは使用をさせる」




誤)●、「譲渡し若しくは化し渡す」を「譲渡する」に改める。

化→貸
譲渡→譲渡等を

正)●、「譲渡し若しくは貸し渡す」を「譲渡等をする」に改める。






特許法第百八十八条第一号中「附する」を「付する」に改め、
同条第二号中「附した」を「付した」に、「を譲渡し、貸し渡し、
又は譲渡若しくは貸渡のため展示する」を「の譲渡等又は
譲渡等のための展示をする」に改め、同条第三号中「を生
産させ若しくは使用させるの」を「の生産若しくは使用をさせ
る」に、「譲渡し若しくは貸し渡す」を「譲渡等をする」に改める。
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この回答へのお礼

 ・ショーペンハウアーの芸術論は 評価を受けているそうですが それについて 触れることができず 悔やまれています。

お礼日時:2008/10/06 12:53

たしかに、わたしという この場における先の生徒は、先に進みすぎているところもあるかと思います。

 でも それはすべて、1プラス4は5だといった程度の積み重ねが はるかにかもしれなくても先に進んでいるだけです。  でも すこしそのへんで迷っています。

北野武論ですが、 演技の迫力とか印象深さとかでしたら、一応は演劇界にはその程度の演技の出来る人はたくさんいると思います。  

それこそ、実は 近代演劇で言われる「表象」という概念の実際の演技でのコツを知ってしまえば、ほとんどの人がかなりのレベルのその意味での演技力を身につけることができます。  あとは単なる練習量の多さが決めてとなるとさえ言えてしまう単純な世界です。 (このへんは演劇専門家はかなり複雑に考えているようですが、わたしの体験からはこのへんはけして難しいことではないと言えてしまいます。)

ただし、「表象」という概念も そのコツもすぐにわかるというわけにはいかないようです。

おそらく北野武の場合は 理論的にも「表象」を理解してそのコツをつかまえたのではないと思います。  偶然か素質かで 知らないうちに演技力が普通の人を超えてしまったのだと思います。

私は、こういう表現の世界の面で、たしかに先に多くを知りすぎているでしょうが、 これはたとえばこの「表象」のコツの世界を 体験してるからにすぎません。  このコツの世界をかなり強烈に体験していれば だれでも北野武のクールな演技に対しても 私と同じようなクールな見方が出来るようになるというだけの話です。

問題は 彼のクールさです。  けしてはばが広いわけではなくて、鋭いだけです。  そのへんを西洋は見落としています。   そんなふうな推理が働いています。 いまのままでは、北野監督の作品は見ていないのであくまで推理ですが、これも、ただ単に、彼の「自他を見つめる目」については評価をしていても、それを広い人間性の見地からは>かって<いるわけではないので、それで見ないでもある程度 こんな推理が働いてしまうというだけなのです。

「自他を見つめる目」という人間性の根っこのような哲学は、私自身の哲学の根っこにあるものですので、 そこからも専門性とは別の目が働いているかもしれません。

bragelone様の キリスト教哲学の広さから考えれば、西洋の評価を気にする必要はないことなのかもしれません(今のところの推理からの 自由な意見を述べればです。)

その意味では タモリのほうが、幅が広くてあらゆる交友関係を生かしていたりして度量の大きさとかを感じますよね。  資本主義社会のタレントの鏡なのかもしれません。     

実は いろいろあり、 うまく進められていません。 詳しくはともかく、迷いつつ書いていたりもして、  ペースをさらに落とす形となりそうです。

人はどうせできることしか出来ません。 それでいいのであれば、 すべてはキリストの身胸のままに、と大きく世界を解釈して  この筆とさせていただきます。
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この回答へのお礼

 arayata333さん 断片的な―― 一つの事項だけを取り上げての――応答になると思います。

 ★ 彼の「自他を見つめる目」
 ☆ これは 
 ★ クールな演技
 ☆ のことですか? つまり 演出・演技をとおして 観衆に受けとめられた表現内容のことなのか それとも 武の個人の演技じたいが そうなのか。

 わかりにくいかも知れませんが これでも 多少は考えたのです。つまり 運動としては わたしは 大学の二年間だけですが 野球部(それも 高校まで触ってもいなかった硬式)にいたので そこから例を出しますが ファインプレーというのは 見方が二つに分かれると思うのです。
 それは うまい選手なら 何でもなく処理するのに対して うまくない選手のばあい ぎりぎりの捕球となって 美技だと見えることになるというものです。
 この事例を どういうふうに充てはめるかですが。一つには 個性があって存在感をもった人物を 演技によって 印象づけることと 作品の全体として 何を表現しどんなことを訴えたかったかということとは 別だと思ったのです。
 たとえ個人のファインプレーにならなくても 作品としての自己表現が 全体として 最終的に うまくいけば OKだという見方もありうると思ったのです。
 〔オーケストラで ピアノやワ゛イオリンをソロで演奏する場合は 溶け込むことと 個人の演奏との両方が 大事でしょうが。つまり演技も 俳優個人と全体の按配の両方が大事なのでしょうが〕。
 
 張り切って書き始めたのですが もうここまでです。言おうとしたことは 素人の観衆は 俳優の演技の確かさやうまさを見て評価をするよりも それよりも 作品を問題にするのではないか。これです。
 逆に言うと 確かな演技があってこそ 人は 作品を全体として見て その内容を鑑賞しようとするわけなのですが。つまり まとめて 基本的には 縁の下の力持ちのような役割を 演技者は 要請されるのではないでしょうか?

 素人の目とのすり合わせを お願いします。

お礼日時:2008/10/06 13:33

実は、もしかしたら何年もの間OKウェブに参加出来ないのではないかと差へ思われる状況とかがあり、 体調もよくなく、なかなか大変なところ(^^)です。



でも、逆に続けて書く時間が、少しですが取れましたので、ANO18の補足を書きます。

「表象」についてなのですが、 実は私自身がとんでもない演技音痴な人間でしたので、それがその「表象」がなんであるのかを知ってそのコツをつかんだとたん、それこそ劇的に衝撃的にいきなり出来るようになった過程があるということなのです。  ですので、そのへんの告白だけ 急ぎ付け加えます。

演技音痴なんてものじゃなかったかもしれません。 私は どうやってもまともな演技が出来なかったのです。

実は私は 若い頃アマチュアの演劇サークルに入っていました。 踊りの勉強のひとつのつもりでもいました。

でも、わたしだけ どんな役をやろうとしても、他のみんなについてゆくことが出来ませんでした。  

大学での子ども会サークルにて、実はパントマイムでならこんなことがありました。

4日前になって 私があるパントマイムを子供たちの前で演じることになったのですが(押し付けられてしまったのですが)  それを演じようとするとみんなは寄ってたかって私の演技をけなしました。 私自身めちゃくちゃだと解っていたので、みんなの意見を聞いて練習を始めたのですが、 なんと少しもうまくなっていく気がしませんでした。

合宿ですので、昼間は一人で続けて練習しました。 そして、なんと私は意地になってしまったのでしょうか?若いエネルギーで食事の時間以外は一日中練習をしてみたのですが、 うまくいかないため 夜は徹夜でその合宿場の地下にあったトイレで練習を続けました。 2日目になっても 私の演技はほとんど変化しませんでした。 それでまた私は徹夜でした。

いざ本番の日の朝がたですが、 私は自分自身で「あっ これでよかったのか」という動きをとうとう、 そのトイレで見つけたのです。

繰り返し繰り返し、気持ちをいれよう入れようと努力してもそれでもうまくいかなかったのに、 とうとう突然のように これでいい、という感じを捕まえたのです。

さあ、みんなの前で最後のリハーサルの時が来たのですが、 いつもより以上になんと、全員が私が動き始めるやいなや、わーーっという状態で私に詰め寄りました。 いつものけなしを いよいよ、切羽詰った気持ちで言い寄るつもりだったのでしょう。

でも ほとんど私のぶつかりそうになりながら、突然、みんなの動きが止まりました。、 そして、見入ってくれたのです。

これ自体劇みたいですね。 でもほんとうのことです。 もちろん 子供たちもひきつけられていたそうです。

こんな体験を持っている私が、 いざその演劇サークルでは 根をあげていました。 まともに「せりふ」が言えないのですから。

しかパントマイムならば 練習の仕様ならばなんとかあったのですが「せりふ」まわしとなると、 どう練習したらいいのかすら あまりにも下手で糸口がつかめませんでした。

おかげで 私は、演劇サークルでは 効果音担当となることになりました。

キューポラのある街という演劇をやったときには、川口市まで電車の音を実際に録音もしにいきました。 これも話せば おもしろいお話(失敗談)とかいろいろあります。

でも、ともかく 市では入賞をはたす実力者ぞろいのそのアマチュア演劇サークルにては、私は、というとう芽の出ないままの形で 効果だけを担当する人間でしかなかったのです。

それが やがて、その後 別な地域にて農業学校に通っていたときなのですが、 私はとうとう、「表象」ってなんだかを知ることになります。

すみません、話は 今回はここまでです。

でも ともかくこんなぶきっちょな人間でも 「表象」のコツを捕まえれば
いきなり プロ並みの先輩たちにも追いつけるようになるという、それほどの何かがこの演劇論の中の「表象」の世界にあるということは確かなのです。

それだけ 付け加えておきました。
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この回答へのお礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。見る視点が 互いに対極にありますね。
 たとえば そういう演技者の側の視点は どんなだろうと思ったことは そう言えば わたしにも 一度ありました。

 どこからか どういうわけか 田中美佐子が 演技がうまいと聞いて ドラマというよりも コマーシャルでの演技を それとして よく見ていたことがあったのです。
 あぁ なるほどなと なんとなく分かったとは 思いましたが いま その内容を言葉にせよと言われても なかなか むつかしいです。たぶん こういう一面が ありました。それは 演技は 現実性を基礎にして なんらかの真実を伝えることだと思うのですが――つまり うそを言うという演技は それとして ほんとうに 嘘を言っていると見えるように振る舞うことだと思うのですが―― このとき なんらかのウソが 演技の所作には 用いられるようだと思ったことです。

 田中美佐子は その一部のウソをも――つまり この部分は ウソを演技しているのですよと――分からせるかたちで 全体として その商品の宣伝をおこなっている。こう受け取りました。なるほど 無理がないというものでした。
 じっさい かのじょが そうしているのか それは 分かったものではありません。だから 演技がうまいのか これも 分かったものではありません。分かったことは 無理なく伝えようとして ウソの振る舞いをも入れ かつ それとして 見る人に 分かるようにし 全体として わざをきとなっていると わたしには 伝わったということです。

 ★ 表象
 ☆ が 演劇の中で どう演じられ また どう理論化されているのか 残念ながら まだ 分かりません。むろん わたしは 今まで そういうことを考えたこともないのですから 直接に接して 理解するしかないのでしょう。
 取りあえず わたしも ここまでです。素人相手に大変だと思いますが ここは 素人におしえる場だと思って 勘弁してください。

お礼日時:2008/10/06 14:23

体調というのは、ただの風が長引いてるだけなのですが、さすが歳なのかいやに疲れる形となっているという具合です。



PCの危惧は、会社のパソコンを使わせていただいていることからのものです。 別にたいした問題ではありませんでした。

それよりも、逆に続けて書く時間がまた出来ましたので、 さっそく書きます。

やっぱり うれしいところです。

思ったとおり、 もう論理的な思索が始まっていますね。 私だったら手がかりが少なすぎて考え始まってはいないところを すでに重要な観点が思索されています。  

スポーツで解りやすいのは、マンウォッチングのスポーツと言われているサッカーですが、 最近の駆け引きや戦術の世界はだんだん高度になりつつあるところで、かえって解りにくくなってるところもあるかと思います。

でも、田中ヒデでしたっけ例によって名前ははっきり覚えていませんが、彼は司令塔として ヘリコプターのように上からものが見えるかのような能力を あれだけ激しく動きつつ他の選手をはるかに超えて把握しているのだと聞いています。  個人フレーとチームワークのあたりで面白いところですね。 

そのへんは、演技は、会話などではとくにやり取りのタイミングとかも重要ですし(キャッチボールやフェンシングがよく俳優術の科目に取り入れられています。) もちろん、それを上から見つめるかのような全体の把握も全員が出来るようになっていることが サッカーと同じく理想です。

それから 次のANO19へのコメントももう書かれていましたが、田中美佐子の演技(“「うそ」と演技”のあたり)については、 これは「表象」よりも 「仮定(もし)の法則」で考えた方が解り易いです。

近代演劇の本質的な部分は この「仮定(もし)の法則」と「表象」の二つで出来ていると思っても 過言ではないと思っています。

たった二つですので憶えやすいと思います。 印象に刻んでしまってください。

中身は「仮定の法則」のほうが 説明なら簡単です。

ですので、ちょうど、嘘と演技ということの解明をというあたりの説明とも掛け合わせる形で、 こちらの「もし(仮定)の法則」の方を先に説明します。

つぎに できるだけ早く、「表象」についてもこれは物語を使って話してみたいと思います。 近代演劇の父スタニラフスキーも物語で説明する名人だった人としても知られています。

「もし(仮定」の法則というのは、 「もし、“自分自身が”が その役の状況を生きていたら」というふうに「“自分自身が”」という言葉の意味合いを間に入れ、自分がそうだった場合を仮定(もし)して役を考えるということです。

物まねやたんなる紋切り型の 演技ではなく、こうして自分自身が その役の状況を舞台上に生きる感覚を俳優たちは手に入れることができたのだと言われています。  そういう革命的な理論でもあることは確かです。

もちろん、舞台にその状況を生きると言ってもさめてはいるわけです。

相手を瀕死の状態まで殴りつける演技があったとしても、その役がそういう状況(設定)であったとしても 実際にそうするわけではないわけです。 しかし、そういう気持ちをそこに俳優は 演技をとおして、自分自身が生き生きと生きることを自覚しつつ、かつそれを観客に「生き示す」ことができるのだという理論です。

これを田中美佐子の演技にあてはめるなら、 そのCMなりの設定された舞台にて「もし(仮定)自分が嘘をついていたならば」という状況を田中美佐子自身の心の設定して それを一方でどこかで見つめながら「生き示す」、 つまり生き生きをそれを演じる というあたりでも説明できるということになります。

でも 彼女の場合は、とうぜん近代俳優としてそのへんの生き生きした様も演じつつ、 同時に「形象」というもうひとつの専門的な概念のほうもうまいです。  

この「形象」というのは、ジュディオングが昔テレビで気が動転している様子を目をしばたかせる形を意識的に使って演技しているのを見たことがありますが、 自分の内面で役を生きるという意識からの自然状態に身をせるというだけでなく、形が与える表現への影響をこまかく客観視して演じるということです。 ジュディオングの場合は そのへんが私にもわかるような簡単な「つくり」で演じてしまったと言えますが、 田中美佐子の場合は それは見せないはずです。    でもその何かの匂い 作られた芝居の部分を見抜いたのならbragelone様の直感は すばらしいですね。

この「形象」は、けして普遍的なものとは言えませんが、プロたちの間では細かく論議されたりします。 しろうとや、私のようにそれに携わっていない人間には追いつけないところがあったりします。

でも、そのへんは、餅は餅屋に任せておけばいいところと思います。

大切な観点は やはり「表象」という概念と「仮定(もし)の法則」です。こちらの方がはるかに 本質的で普遍的で大事な観点だからです。

(そして、何故か? こちらの論議のほうは あまり進化も深化もしていないようなのです? そこが私自身の疑問でもあるところなのです。)

演劇に関しては これで少し何かが見えてきたのではないでしょうか?

ひきつづき 次には「表象」について説明してみますが、そこで使う物語は私の創作ではなくて、昔読んだトルストイの晩年の童話のひとつです。ご期待ください。

ぜひ、考える手ごまを増やした上で いっしょに考えていただきたい課題です。

よろしくお願いいたします。
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この回答へのお礼

 arayata333さん 長い序論をくぐりぬけてですね。

 あぁ サッカーは 乗り気ではなかったですね。日韓共同開催の選手権のとき 結果が出なかったですね。中田英寿は ヘリコプター俯瞰視ができるのですか。そういうことは知りませんでした。
 そのかれが われわれ観衆に期待を持たせる言い方をしていたので けっこう見たのですが 結果を出せなかった と思ったことは 覚えています。 ひいきでもなかったんですが 贔屓の引き倒しのごとくなってしまいました。
 なるほど
 ★ 個人プレーとチームワーク
 ☆ との調和は 第一命題ですね。

 ○ 田中美佐子
 ☆ は うそを交えていますよと 分かるように 演技している。しかも そのウソを自分が包んでいて みなさんも 軽くこのウソを包んでくださいとでも言っている。そのような印象です。

 ★ 「もし、“自分自身が”が その役の状況を生きていたら」 / 「生き示す」
 ☆ これは 役作りをして 役に《成りきる》というのと 違いがありますか? 〔《表象》に移っていただきたいとは思うのですが〕。

 ★ スタニスラフスキ
 ☆ は てっきり 話題や話の筋を すり替えたり ボケたりする方式だと思っていました。

 今回は この程度です。ありがとうございました。

お礼日時:2008/10/06 23:30

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