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 美術史を専攻していますが、最近の専門書の中で、よくフーコーの表象論という言葉を見かけます。
 いきなり「これはパイプではない」を読んでみたのですが、今ひとつよくわかりませんでした。
 フーコーの表象論、あるいは表象論というものについて、教えてください。
 また、初心者にもわかりやすい、表象論を論じたフーコーの著作や解説書なども教えていただければ幸いです。
 よろしくお願いします。
 

A 回答 (3件)

 「これはパイプではない」だけを読んでもわからないと思います。

『ドン・キホーテ』第二部を論じた箇所やベラスケスの絵画を題材に論じた箇所を読んでみれば、共通した構図が見て取れるでしょう。といってもフーコーの『言葉と物』などは難解で、いきなり取り付いても脳味噌ねじれてしまいますね。

 美術史のご専攻ということなら、ベラスケスの関係で「フーコーの表象論」という言葉に出くわしたのではないでしょうか。おそらくそうだと思いますので、これで話します。
 が、ベラスケスの『侍女たち』について話す前に、対比材料として「ふつーの絵画」を思い浮かべていただきたいと思います。フランドル派みたいな、わりと写実的な絵画です。

 風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています。
 人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。モデルは画面から画家/鑑賞者を見返しているかもしれません。または、画面内で別の何かを見ているかもしれません。が、前者の場合でもモデルと鑑賞者との間には「見る・見られる」関係があり、それは画面の内と外との間での関係です。いずれの場合にも、鑑賞者と画家は画面の外にいます。
 風景画の場合でも人物画の場合でも、「見られる絵画」と「見る・見られる」関係の中で関わりあう別の項、「見る者」「描く者」は「画面の外にいる」。このことをご確認ください。これが対比のポイントです。

 では、17世紀スペインの宮廷画家、ベラスケスの『侍女たち』です。
 絵画を言葉で説明するのは難しいのですが、kunstさんはおそらく図版をお持ちでしょうからご覧になりながら読んでください。図版をご覧になれない他の読者も、上に書いた「ふつーの絵画」と対比すれば何が問題かはわかると思います。
 で、画面ですが、宮廷の一室です。人物は都合11人。それと犬一匹。
 注目点はいくつかありますが、まず第一に「画家自身が登場している」ことが挙げられます。ベラスケスらしき画家自身が、画面左手に、絵筆とパレットを手にしてまっすぐこちらを見ています。「鑑賞者を見ている」ということです、いちおう。…「いちおう」と言ったのは、この画家が取り組んでいる絵画もまた画面に描かれているからです。画面左端に、大きく。ただしこちらから見えるのは裏側です。表側は当然画家の方を向いています。だから鑑賞者には見えません。しかし画家が何を描いているかは察しがつきます。これが注目の第二点です。
 画面のほぼ中央、部屋の奥の壁に鏡がかけてあります。その鏡には二人の人物が映っています。スペイン国王フェリペ(4)世とマリアーナ王妃です。画家はこの二人をモデルに絵を描いているのです。そのモデルである国王夫妻は、実に「鑑賞者と同じ位置に」立っていることになります。
 そして第三点。その鏡のやや下に、こちらを見ている王女マルガリータ姫が描かれ、彼女に視線を向ける若い侍女がその両脇に。画面右端にはオバサン侍女と子ども。オバサンはまっすぐこっちを見ています。ここで、王女マルガリータとオバサン侍女は「こっちを見ている」と書きましたが、彼女らが見ているのは「国王夫妻」です。「ふつーの絵画」なら「画面の外」にいる画家や鑑賞者を見返すはずの視線が、ここでは画面内に(反射して)登場している国王夫妻に向けられているのです。
 さらに第四点。「鑑賞者」までもがこの絵画には描き込まれています。画面中央の鏡のすぐ右に開いた扉があり、この扉のところで一人の男がこちらを見ています。描かれた空間の一番奥から、こちら方向を見ているのです。すなわち彼だけが、描かれた空間全体を一望のもとに視野に収めているのです。「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として。

 フーコーはこの作品を分析して「代理表象の体系によって自己完結している」と評しています。この絵画を描いているベラスケス自身は「絵筆とパレットを持った画家」として「表象」され、真のモデルである国王夫妻は、本来なら画面の外にいるはずの鑑賞者の位置を占めつつも「鏡」に反射する形で「表象」され、国王夫妻に場所を奪われた鑑賞者までもが「様子を見に来た男」に代理「表象」されて画面に描かれています。
 上記の「対比のポイント」を想起していただければ、フーコーが何を言いたかったのかはおわかりいただけると思います。すなわち、「ふつーの絵画」ならば画面の外にいて、描かれた事物・人物と「見る・見られる」関係を取り結ぶ画家や鑑賞者が、「代理表象」される形で画面の中に取り込まれてしまっている、ということです。絵画を成り立たせている制作・作品・鑑賞というすべての諸関係が画面の中にある。そういう意味で「自己完結している」のです。

 フーコーが何のためにこんなことを言ったのかについても軽く触れておきます。
 鏡を2枚、向かい合わせに立てて、その間に立って鏡を見るとどうなりますか。「自分の姿」が無限に連なって見えて、とても不思議な気分になりますね。これと似たようなことなのです。つまり、「見る自分が見られる自分であり、見られる自分が見る自分である」というこの関係が、無限に連鎖している。この例では「前と後ろ」という二方向一次元でこういうことが起こっていますが、現実社会では多方向多次元でこういうことが起こり、その網の目が「主体」や「知」や「権力」を成り立たせているのだと、彼は議論しています。「見られること」で主体が成立し、その主体が「見ること」で他の主体を成り立たせる。こういうふうに相互に表象しあって映じているのが「世界」だということです。

 ちなみに『ドン・キホーテ』の話も構図は同じです。『ドン・キホーテ』第二部には、なんと「第一部を読んだ」という読者が登場してくるのです。「ふつーの小説」では本来作品の外にいて、作中人物と「読む・読まれる」関係を取り結ぶものであるはずの読者が作中に取り込まれて、作品を「自己完結」させているというわけです。

 なお、関連書籍ですが、講談社新書の『フーコー』が安価で手に入りやすいと思います。著者は中山元さんだったと思います(すんません、どっか行っちゃって)。ただ簡潔すぎてわかりにくいかも。同じく講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズで『フーコー』というのもあります。kunstさんが直接必要とする部分ではないでしょうが、「フーコーが何のためにこんなことを言ったのか」という背景を押さえるにはよいかと思います。
 美術史関連ですと、絵画と鑑賞者の関係の変化を追ったものとして『闇の光 -近代芸術とニヒリズム』(石原達二・剄草書房)が面白かったです。が、基本的に専門外ですので、こんなところでご勘弁ください。

この回答への補足

 丁寧なご返答どうもありがとうございます。
 これまでいくつかフーコーについての概説書を読んだのですが、表象論については触れられていなかったので、serpent-owlさんの解説は非常に参考になりました。表象論を理解するのは、フーコーの思想の全体像も把握指定なければだめなのですね。今度「言葉と物」や、serpent-owlさんが挙げられている本を読んでみようと思います。

 ところで、serpent-owlさんが文中で述べられている「表象」と「代理表象」の違いがよくわかりませんでした。この言葉の意味と違いについて詳しく教えていただければ幸いです。理解力が足りなくて申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いします。
  

補足日時:2001/05/19 00:15
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 少々事情があってしばらく回答が書けませんでした。

すっかりお待たせしてしまって申し訳ありません。

 最初のご質問から。
 フーコーは「representation」を用いています。これが翻訳される際に「表象」となったり、あるいは彼の意図を汲んで「代理」と訳されたりします。「代わりに置かれるもの」のような意味合いです。
 そして「像」「イメージ」と考えてよいかということですが、ここはむしろ「世界を切り分けた枠」という比喩でどうでしょう。フーコーは「タブロー(表)」という言葉を用いています。「一覧表」みたいなものです。
 博物学を例にとります。「生物」という全体をまず考え、これをまず「動物」と「植物」に分けます。「動物」をさらに「脊椎動物」「節足動物」…などと分けます。「脊椎動物」をさらに「哺乳類」「爬虫類」と、「哺乳類」をさらに…こうしてやっていくと、生物全体は「種」という「枠」に切り分けられていきます。
 こうした「枠」は一つ一つが部品となって「生物の分類表」という壮大なタブローを構成することになります。こういう形で、博物学は生物の世界を「切り分けて枠に整理している」のです。そしてこの「枠」の一つ一つが「表象」です。表象と表象とが支えあって世界全体を構成している「かのように見える」ようにしているもの、です。
 が、いま「かのように見える」と書きましたように、その「世界の切り分け方」は他にも考えられる切り分け方の一つにすぎません。切り分け方が変われば、おのずと見え方も変わる、すなわち「表象」のありようも変わるわけです。
 つまり、「表象」というのは、「あるものを見えるようにするもの」でありながら、同時に「他の見え方を隠蔽する」という作用をも発揮しているものなのです。もっと短く言うと、「見せることで隠す作用をはたすもの」、です。
 前回、「見えているものが、本当に見えているとおりであるかどうか」という反省が現象学から始まったと述べましたが、フーコーの考え方も、いちおうこれを引き継いでいると言ってよいでしょう。

 すると、2番目のご質問にも足がかりが得られませんでしょうか。
 「絵画が表象するもの」というのは絵画の画面に見えているものを指し、「絵画によって表象されるもの」というのは画家が描こうとした対象物を指します。フランドル派みたいな写実的な絵画では、前回書いたように絵画そのものは「透明なガラス板」になることを志向します。画家は、自分が見たものと同じものを鑑賞者にも見せようとします。ここでは「絵画の中のもの」と「画家が見ているもの」とを一致させることが目標となっています。
 それが19世紀には崩れてくるということでしょう。この過程は前回挙げた『闇の光』でも紹介されています。特に印象派の登場によって、絵画は「ガラス板」ではなくなって「絵画の画面そのものが自己主張を始める」ことになるのだ、と。印象派では、対象を忠実に描き取るばかりではなく、画家の「印象」も画面に投影され、ある場合はぼんやりと滲んだ画風になり、ある場合は微細な「点」に分裂・解体された画風になります。画家の印象を投下された画面(表象するもの)は、もはや「表彰されたもの」と一致しないのです。
 引用されている箇所での「表象」という語の意味合いは、つまり「表わす」という程度の意味でしょう。フーコーが使っている「表象」ほど、ややこしいことはないと思います。

 さて、3番目。
 構造主義ですか。すると1番目に戻る部分が出てきます。
 「構造主義言語学」と言えば、おそらくソシュールのものです。これをこの場で詳述するのはかなり苦しいのですが…、とりあえず必要な範囲だけ何とかやってみましょう。
 1番目のフーコーの話に引きつけて言えば、「言語もまた世界を切り分けたタブローだ」ということです。これも例を挙げましょう。「虹」です。日本では七色ですね。英語圏では? 六色なんです。さらに、リベリアあたりの少数民族、バッサ族の言葉では、なんと「二色」。いいですね、おおらかで。
 人間の目に見えている自然現象としての「虹」は同じものです。なのに、民族によって「色の分け方」がちがう。これは…もちろん民族ごとに目の良し悪しがあるという話ではありません。要は、「同じ現象を切り分ける、その切り分け方がちがうのだ」ということです。切り分けられて出来た一つ一つの「枠」が、フーコーの言い方で言えば「表象」ということになります。(ソシュールは「記号」「記号作用」といった言葉を使いますが、)

 美学との間にどの程度の影響関係があるのか、あまり知りませんが、ソシュールの言語学は現代思想の最も重要な源泉の一つであり、最も基本的な土台になっているものですから、一度ご覧になっておかれてはいかがかと思います。丸山圭三郎さんの『ソシュールの思想』が、おすすめできます。

 では、お待たせしたことにつき、重ねてお詫び申し上げます。
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 「表象」という語は、idea、perception、Vorstellungなどといった欧語の訳語です。

それぞれ「観念、理念」とも「知覚」とも「目の前に立てること」とも訳せる語であり、言葉自体は古いのですが、用いられ方は非常に曖昧でした。この言葉にいくらか厳密な輪郭が与えられ始めたのはフッサールの現象学以降です。
 元祖現象学は簡単に言ってしまうと「意識が何かの内容を持つ」=「表象を持つ」という段階から一時退却して(判断停止・エポケー)、そこから改めて認識を問い直し、組み立て直し「事象そのものへ」到達しようとするものでした。ここでは「表象」は意識の内容というほどの意味になります。
 「表象」が本当に見えている通りのものなのかという反省はハイデガーにも引き継がれます。「世界像の時代」という講演が特にこれを主題的に論じています。いわく、「科学は世界を像に変えてしまった」。科学的なものの見方が、世界の生き生きした具体性を引き剥がした「表象」としてしか物が見えないようにしてしまったというような、科学批判です。
 ハイデガーの議論はフーコーにも結び付きますので、軽く追います。
 「表象 Vorstellung」は「前に立てること」です。意識主体はある物を「前に立てる」ことで「対象」として見えるようにし、自分との関係の中に組み入れます。しかし実は、ここでは事物をあるがままに見ているのではなくて「自分が見たいように見ている」のです。自由に加工・操作できるものと見ようとして見ているということです。そして「対象」はそのように見えてくるわけですが、しかしそれは「あるがままの事物の姿」とは乖離しています。「像」なのです。

 フーコーの『言葉と物』も、それに近いと言えば近いことを問題にしています。「言葉」と「物」の乖離です。われわれは、「物」を見ているようで実は「言葉」を見ている。そういう意味で、われわれが生きている世界は「表象の世界」です。フーコーさんは、われわれが生きるこの現実としての「表象の世界」を鮮明に語るために、ベラスケスやドン・キホーテを取り上げているのです。物なら物という実体的な裏付けを欠いた「表象」が浮遊し、そんな「表象」たちが互いに他を支えあう形で自己完結している世界。そこにどんな力学が働いて「権力」や「主体」や「知」が生まれるか。これを説明するためです。
 そういうことですから、「表象」といえば上記ハイデガーのいう「像」と同じようなものと考えてさしあたりは差し支えないでしょう。たしかにあるように思えるけれども、その実なんらの実体性もないもの、のような。「代理表象」の方は「鑑賞者の代わりに《様子を見に来た男》が」絵画の中に取り込まれてしまっているという事態を表現するための言葉です。ベラスケスの『侍女たち』を眺めるとき、鑑賞者の視線は、内張りがすべて鏡で出来た部屋に差し込んだ光のように、その絵画の中で乱反射をしつづけ、二度と外へは出られないことになる。鑑賞者の「代理」が中にいるからです。

 まだちょっとわかりにくいかもしれません。納得がいくまで、お尋ねください。

この回答への補足

 再度ご丁寧な返答ありがとうございます。おかげさまで「フーコーの表象論」と「表象」という言葉の意味について少し理解することができたような気がします。
 今回はあらためて、「表象」という言葉のみについて、質問させていただきます。

 まず、素朴な質問ですが、「表象」を「像」とした場合、この「像」という言葉は「イメージ」と置き換えても問題ないでしょうか。また、represantationもフーコーの使う「表象」の訳語にいれてよいのでしょうか。

 二番目に、フーコーとは離れてしまうのですが、19世紀西洋美術の流れを「表象」という言葉をキーワードに論じた論文の中で、
>(19世紀西洋美術の流れは)「絵画が表象するもの」と「絵画によって表象され
>るもの」とが両者不可分に癒着することで成立していた伝統的な絵画が徐々に破
>綻していく過程である。それはまた、絵画とそれを記述する言語との一対一の完
>璧な対応(という幻想)がゆっくりと崩壊してゆく過程とも対応する。
 という文章が見られるのですが(稲賀繁美「表象の破綻と破綻の表象」、『芸術理論の現在』東信堂、所収)、ここで使われている「表象」の意味がよくわからないのです。「絵画が表象するもの」=絵画、であり、「絵画によって表象されるもの」=絵画を記述する言語、であることはすぐわかるのですが、この部分の「表象」をあえて別の言葉にすると、どのようになるか、ヒントでもお教えいただけないでしょうか。

 三番目に、上記の論文の中には、ほかにも「表象」という言葉が数多く出てくるのですが、著者は「構造主義言語学」というものを拠り所にしているようなのです。この「構造主義言語学」における「表象」の位置付けについてご教授いただければ幸いです。
 
 本題から離れてしまい恐縮ですが、ご返答いただけることを願っております。

補足日時:2001/05/21 01:45
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この回答へのお礼

ちょっと質問の内容が広くなりすぎてしまいました。
おかげさまで当面の疑問は解決いたしました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/06/24 21:21

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