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認識について色々な説がありますが、どうして理解できないものがあります。(自分は本を頼りに独学しております)
それは、模写説と構成説です。(※本のタイトルは忘れました・・・)
本には、模写説は「認識は下界の事象をありのままに写しとることで先入見は排除される」とあります
構成説は「認識は感覚器官から得られた雑多な情報秩序づけまとめ上げること」と書かれています。
模写説のありのまま=感覚器官から得られる情報とぼくは解釈していますが違うでしょうか?
そもそも、自分の言語把握能力に欠けているというか・・・
模写説の言っている意味がわかりません。
模写説と構成説の違いを分かりやすく説明してくれるとありがたいです。
また、時間があるようでしたらみなさんの認識についての見解を聞いてみたいです。よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

ものすごく判りやすい説明を望んでいるのなら


 →模写説…認識が対象に従うこと
  構成説…対象がわれわれに従うこと

少し詳しく説明すると
 →模写説…認識とは主観から独立的に存在する事物を心のなかに受動的に映し出すこと。
  構成説→認識は多少能動的なものとされ、対象というものは主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構成される現象である。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
ただ、>>模写説…認識が対象に従うこと
という部分で、自分なりに解釈すると「認識とは認識が対象に従うこと」と解釈してしまい。混乱気味です。

お礼日時:2004/06/22 18:34

「模写説」は知らないンで間違ってたら申し訳ないんですが・・・



感覚器官から入ってきた情報は、脳でいったんバラバラにされちゃうそうですから、「模写説」自体オカシイんじゃないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>>感覚器官から入ってきた情報は、脳でいったんバラバラにされちゃうそうですから
この記述が本当にあってるのか分かりませんが(勉強不足でゴメン)
本当でしたら模写説は否定できますね。参考に致します。

お礼日時:2004/06/22 18:36

一般的に、「模写説」というのはロックの認識論を指すと思います。



ロックは、知識の成立する以前の「なま」の人間の心(mind)は白紙である、と考えました。
白紙としての心が、実在する「もの」を経験して、それを心に模写した像が知識なんです。

まずロックは経験を「感覚」と「反省」の二種類に分けます。

感覚の窓を通して経験される知識というのは、外界にある対象がわたしたちの感覚器官に影響をあたえ、そこに知覚が生じたものです。その知覚が感覚器官によって、わたしたちの心に運び入れられるます。

反省の窓を通して経験される知識というのは、思い描いたり、推理したり、疑ったり、という、わたしたちの心の働きをさすもので、同時にわたしたちが自分の心の作用を知覚することです。

このふたつの経験を除いて、わたしたちの心が観念を与えられることはありえないと考えたのです。

>本には、模写説は「認識は下界の事象をありのままに写しとることで先入見は排除される」とあります

「下界」ではなくて、「外界」だと思います。
先入見というのは、人間に生得的な観念が備わっている、という考え方です。
ロックを始めとするイギリスの経験論者は、こうした生得観念を否定しました。

>模写説のありのまま=感覚器官から得られる情報
「ありのまま」というのがよくわからないのですが、模写説=感覚器官が得た情報、で問題はないと思います。
ここでは感覚器官の働きは能動的ではない(感覚が対象に対してなんらかの働きかけをおこなっているのではない)ことがポイントかと思います。


「なま」の心は、まったくの白紙である。
白紙の心がものを経験して、心に模写した像が知識である。
この心の中の像と実際の像が一致していれば、真の像が得られる。

けれども、この心の中の像(哲学用語でいう表象)と、実際の像が一致しているということは、一体どうやったら確かめられるんでしょう?

この問題を解こうとして、ロックの模写説からバークリー、そしてヒュームへと経験主義は展開していき、さらにその経験主義と大陸合理論を合わせてカントの超越論が生まれます。
カントは実際の像を「物自体」として、人間には把握できない、と放棄するかわりに、人間の心の中の像(表象をとくにカントは直観と呼びます)を分析し、すべての人で同一であることを証明することによって、客観的に正しい、と証明しようとしたんです。

カントは人間の認識というのは、受動的な直観と、自発的な構想力が働いて、そのものが目に見える像をかたちづくる、と考えました。

>構成説は「認識は感覚器官から得られた雑多な情報秩序づけまとめ上げること」と書かれています。
というのは、カントの認識のことを言っているのだと思います。

カントの認識についてはここで回答しているので、よかったら参考にしてください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=880572


>みなさんの認識についての見解を聞いてみたいです

この時代の哲学というのは、言葉を使って思考しながら(みなそれぞれに、それぞれ言葉をできるだけ厳密に定義しながら、前の人の考えに対して、自分はこう考える、この言葉をこういうふうに使うと、こういうふうに考えることができる、と言っています)、言葉そのものについて考察することはしませんでした。言葉というのはあくまでも「透明なツール」なんです。
言葉と認識の関係について考えられるようになるのは、ソシュールの登場を待たなければなりません。

そういう中で、いますごく私がおもしろいと思っているのは、言語を手段ではなく、「象徴であり身体」としてとらえたメルロ=ポンティと、あと西田幾多郎の「場所」という概念なんですけど、なかなかむずかしくって大変です(^^;)。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=880572
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こんばんわ、


質問者様の【認識】についての参考になるのでは?と思いましたので…下記URLの本からの抜粋です。
******* ******* *******
【視界を取り戻し始めた盲人の例】P,111.
「生まれながらの盲人が 手術によって視界を取り戻した時の経過」
(17才の少年が白内障を除去することによって視界を取り戻した時の体験談)
『…手術後 3日目に少年は何が見えるかを尋ねられた。
彼は大きな光の中でぼやけた物が動いていると答えた。彼はそれらの物を見分けることができなかった。
4日後に初めて見分けられるようになり始め、2週間後にやっと目が光に慣れ、物の識別のために視覚を実用的に用いることができるようになった。彼は光のスペクトラムを見せられ、急速にそれを覚えたが、黄と緑は長い間混同したままだった。立方体や球やピラミッドが彼の前に置かれると、彼にはそれが四角形、円盤、三角形に見えた。円盤を球の横に置くと、彼にはその違いが分からなかった。ふたつの形の最初の印象を聞かれると、彼はすぐに立方体と球の違いに気づき、それが絵でないことを認識したが、それらの物体から四角形と円の表象を連想することはできなかったと述べた。
それが分かったのは、指で触れたときに四角形と円に触れたときと同じ感覚を感じたときだった。
立方体と球とピラミッドを手で持つのを許されたとき、彼は即座にそれらを認知し、見ただけでそれが分からなかったことに驚いたという。
かれはまだ空間や遠近法という表象を持っていなかったのである。
すべての物体が彼には平板に見えた。彼は頭の形として鼻が突きだしており目がくぼんでいることを知っていたが、彼の目には人間の顔は平板に見えた。彼は視界が得られたことを大いに喜んだが、当初は物を見ることは彼を疲労させた。印象に圧倒されて消耗してしまったのである。そのために彼は、完全な視界を持ってはいたが、リラックスするために時々ものを触ってみるののだった。』

我々は外的世界のほんの小さな部分すら、ありのままに、つまり我々がそうであると知っているようには見ることが出来ない。机や食器を内側も含めてすべての側から同時に見ることはできないのである。目は外的世界を歪曲し、我々自身に対する物の相対的な位置を定めるようにできている。しかし、我々以外の観点から世界を見ることは不可能である。我々は視覚によって歪められていない正しい観点から物を見ることもできない。…
******* ******* *******

参考URL:http://homepage1.nifty.com/pdo/TOintro.htm
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