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某TVCMで、
この文句を聞いて以来ずっと気にかかっていました。
「美しさの向こうへ」
美しさの向こうには、一体何があるのか。
考えてみると、どうも”死”しか浮かびません。
美しさの向こうへ(行く、のでしょうか。それもまた疑問ですが)、という文句で、私は三島由紀夫を思い起こさずにはいられません。
『金閣寺』だとか、『奔馬』だとか、『春の雪』だとか・・・。
美しさの、その先にいってしまえば
そこには一体何があるというのでしょうか。
思いつめて、そのCMを流している会社に問い合わせてみようかしらとも思ったのですが、なんだか悪戯と勘違いされるのではないかと思い、また勇気もなく思いとどまっております。

皆様は、美しさの向こう、には何があるとお考えですか?

A 回答 (25件中1~10件)

そもそも美しさは何処に有りますか。

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やはりCMキャッチコピーの向こうへ行かねば、ということで(笑)



美は乱調にありとやら諧調は偽りなりとやら。

また
エロス、
そしてタナトス。
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 こんにちは。



 ★ 美しさの向こうには、一体何があるのか。
 ☆ これは 言いかえてみると考えやすいと思います。
 ○ 一体何が 美しさとなって現われているのか。
 
 ☆ ううーん。あまり詮索しないほうがよろしいかとも。
 ですが この場合 美という権現の本体が 経験事象であるのか それとももはや経験世界を超えたところにしかないと言うべき何かであるのか。この選択によって答えはおのづから違ってくるでしょうね。
 とは言うものの 経験事象として美の本体とは何か? そんなものがあるのか? とも いぶかしく思われます。
 ぢゃあ 超経験の場でなら その本体が見つかるのか?
 どうもやぼな話になりそうなので この辺で退場です。
 そんなものは何もないかも知れませんからね。
 それゆえ うつくしいのかも分かりません。

 ★ 考えてみると、どうも”死”しか浮かびません。
 ☆ まぁ わたしは感覚的に好きくありません。みなさんおのおのなのでしょうか。
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 ある特定の世界A(時代、環境、場所、状況、人)において、


「美しさa」があるとしたら、美しさaの先にあるものは
人の「選択」だと思います。
 冷めた言い方ををすれば、美しさaは人に何らかの方法で
捉えられたならば美しさとしての役割は終え、あとはその人が
どんな行動をとるかだけが次に残ると思います。
 主体者としての人を度外視して美しさaを捉えていくならば、
それは世界Aの無数に細分化した側面たちだと思います。
 
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#11です。



美しさの向こうに何があるか、恵心僧都源信の『往生要集』から抜粋してみます。

大文第一 厭離穢土、「第五に人道を明かあさば、、、」の条に:

外には端厳の相を施す(端正に美しくよそおいをこらす)といへども、内にはただもろもろの不浄をつつむこと、猶し画ける瓶に糞穢を盛れるが如し。

また、同、「一に不浄とは、、、」の条に:

もしこの相を証(さと)らば、また高き眉、翠(あお)き眼、皓(しろ)き歯、丹(あか)き唇といへども、一聚(じゅ)の屎に、粉もてその上を覆へるが如く、また爛れたる屍(かばね)に、仮に繪彩(そうさい)を著せたるが如し。

また、同、「第六に天道を明かあさば、、、」の条に:

快楽(けらく)極まりなしといへども、命終に臨む時は五衰の相現ず。一に頭の上の花葛(はなかずら)忽ちに萎み、二に天衣、塵垢に著(けが)され、三には腋の下より汗出て、四には両の目しばしば眴(目篇に旬、くるめ)き、五には本居(ほんご)を楽しまざるなり。、、、あへて救う者なし。

これが、美しさの向こうにあるものだそうです。
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『宇宙の美』という質問スレがあったのを思い出しました。


某TVCMのことは存じませんが、
「美しさの向こうには、一体何があるのか。」
と考えると、そこには、「恐怖」「畏怖」があるのかもしれません。
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美しさには少なからず「毒」を内包していると思います。


観る者を畏れ、ひざまずかせ、容赦をせずに圧倒、屈服させる、
何か強烈なもの。
しかも抽象性、観念性がきわまるほどに、その悪い性質が一層増幅していくようにも感じます。

だから、美しさの向こう、には致死もあり得ると考えます。
いえ、致死のために美しさを希求する、といった方が相応しいこともあるでしょうか。

たとえ、美しさが醜さをおびき寄せるもの、と知り尽くしていたとしても。
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乾いた悪の向こうに写る花


生存の放棄の欲望の向こう岸に見た夢
創造なき破壊をもくろむ魔性
明日なき否定の美学に酔いしれる心

悪は花を散らし、花よりも自らが美しいとあざ笑う
我れこそは正しく、我れ以外は無意味なのだと
無意味なものは捨て去るのがよいと嘘吹く
死は美しいと
乾く心は捨てる事によって満たされるのだと
誘うように甘い夢を見させる


いつかは訪れる生命の終りの真実を刻んで
広い庭に佇めば見えてくるもの・・・

死とは厳かなもの
静寂の内に訪れる生命の終りの厳粛さ
燃え尽きてゆく炎の尊さを示すもの
人が最後に垣間見せる本当の別れの姿
沈黙の中に念じる感謝の確かさ

死とは厳かなもの
揺らぎ無く消えてゆく小さな炎の端正さ
静寂に帰る死にまさる死は無く
静寂を知らしめる以上の沈黙も無い

陽の落ちてゆく茜に人は荘厳を見
照らされしものに感謝と祈りを残しゆく


死とは訪れるもの
訪れるが故の定めの厳粛さ
訪れを待たぬ者はその厳粛さを知らず
受けている祈りさえ知らぬまま悪魔に身を委ねる
悪魔に二つと無い厳かなものを与えてしまったとも知らずに
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#7です。
相変わらず、色々な意見が出てきていますね。
僕から見たら、何でCMのフレーズにそんなに、食いつくか分かりませんね。

多少、身のある議論になるように、CMのソース探して見ました。


  ビエラ、「美しさ」の向こうへ。

  パナソニック(Panasonic)

  期待感を抱かせる、
  インパクトのあるキャッチコピーですね。

だそうです。これを参考に、議論再開!

一応、ソースのアドレス貼っておきますね。消されるかもしれないけれど。
http://catchcopy.sblo.jp/article/28098403.html
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mmkyです。


美的感覚というものは非常に不可思議なものなのですね。例えていえばいろいろな色のサングラスを掛けて見ているように個々様々な評価があります。私個人でいえば醜悪という絵画は「モンクの叫び」などですね。でも「モンクの叫び」を美しいと感じる人もいるのですね。
ピカソの全集を高い金を出して買いましたがピカソの絵の技術は最高かもしれませんが絵自体が美しいとは思えないのですね。
私にとって美しいと思う絵はたくさんありますがやはり美は際限ない段階があるように思います。息を飲む美しい光景、まばゆいばかりの美しさ、などなど際限がないのですね。だから美の向こうには美しかないのですね。
一方、例えば「モンクの叫び」が美しいと感じる人は更に美しいものはなんだろうかと考えるわけですが、更なる美は私にとって更なる醜悪なものでしょうと推測するわけです。それでもその人にとって美の先は更なる美なのですね。
また、死を美と取るか醜悪と取るか、そういうものとは無関係なものと取るかは各自の見方次第ですが、私にとっては死は美の範疇ではないという考え方ですね。 文学的にはありうるでしょうが死は万人におとづれるものですから中性かなということですね。
このように人によって美が醜になったり醜が美になったりする世界ですが、言葉の定義の美は美の範疇ですから美の先は美でしかないという意味ですね。
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