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356年,辰韓12国を斯盧が統一して建国した新羅については,唐と組んで白村江の戦で日本を退廃させたり,任那を滅ぼしたり,唐にまで圧迫を加えたりと,とても強国のイメージがあります。

なぜ新羅はこのように強国だったのでしょうか?
教えてください。

A 回答 (2件)

当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済、に分かれていました。


その中で、新羅が最強だったのでしょうか?

実は新羅は、百済の攻勢を受けて滅亡寸前であったため、あえて唐と同盟を結び、百済、高句麗と対抗したのです。
しかし、中国(唐)の目的は朝鮮半島の征服ですから、いずれは自分の首を絞めかねない危険な政策でした。
 新羅の貴族、「金春秋」(後の武烈王)は名将「金?信」と組んで唐との同盟政策をすすめ、まず、百済を滅亡させることが出来たのです。
そして、同様に高句麗も滅ぼし朝鮮半島は新羅が残ることになったのです。
唐は、今まで同盟国であった新羅を滅ぼそうとしたのですが、
優秀な「金春秋」は百済の領地を奪い国力を充実させ唐を撃退することに成功したのです。
そして、巧みな外交政策により唐を宗主国として仰ぐことにより半独立を保ったのでした。

唐は新羅(朝鮮半島)を征服するために日本と同盟を結ぼうとしていた。直接証拠はないのですが、中国の伝統的な外交政策として「遠交近攻」政策や「夷を以って、夷を制す」の政策と、664年から3度ほど日本に使者を送っています(日本書紀には訪問理由は書かれていませんが)。

推測ですが・・・。

 
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 中国を利用して百済,高句麗,日本と対抗した点,同様に中国と結んでソ連や米国と対抗した北朝鮮とダブって見えます。

 小国が大国と対等にわたりあう巧みな外交戦略はこの時代からあったのですね。

お礼日時:2008/09/30 03:09

強国というよりは朝鮮半島において勝ち残ったという方が適っているように思います。



新羅、高句麗、百済の三国時代の初期、新羅は高句麗と百済との戦闘で勝ったり負けたりしています。時には国内で反乱も起こっています。

660年の百済の滅亡時、百済の主力と決戦を行い勝利したのは唐軍でした。
663年の白村江の戦いでは、新羅の軍より唐軍の方が数が上でした。
668年の高句麗の滅亡時は、高句麗内部で内紛があり、その隙を唐と新羅が突きました。高句麗最後の王は唐に投降しています。

唐が新羅の味方となり軍を派遣してくれなければ、こうした戦いに新羅が勝利できたかどうかは疑問です。

670年から唐と新羅の対決が始まりますが、この時、新羅は旧高句麗や旧百済での反唐の動きを支援し、その力を統合し唐と戦います。
そして数年間に亘る戦いと外交交渉の末に、朝鮮を統一しました。

この当時、唐は唐時代最大の領土を誇っていました。しかし、それは占領地の拡大でもあり、反乱や外敵との戦いが常にありました。
特に唐と新羅が戦っている間、唐の西方では吐藩が勢力を拡大し、唐の領土に侵攻してきています。唐は重要な都市を複数占領され、大軍を派遣しますが敗北します。
この事は朝鮮半島以上に重大な問題であり、その為、唐は朝鮮の完全支配に拘泥する事なく新羅とは外交交渉で決着を付けて軍を引き、対吐藩戦に力を注いだとも言われています。
ちなみにこの後、唐は吐藩に対し、さらなる大軍を派遣しますが、またもや敗北します。

高句麗と百済、白村江の戦いは唐がいたから新羅は勝てた確率が高く、唐との戦いでは他国の要因もあって新羅は乗り切れたと言えると思います。

なお、金春秋は百済が滅亡した翌年の661年に死亡しています。ですから彼が直接、唐を撃退した訳ではありません。
また、百済の滅亡時、その領土の多くは唐の支配下に置かれました。
新羅が唐との戦いで百済人の部隊を編成し、正式に戦力に組み込んだのは、戦いが始まって2年も経った672年になってからであり、その数は高句麗人部隊の3分の2程度の数にすぎませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

巧みな外交交渉と唐に対する外敵の存在が幸いして,しかし,見事に朝鮮半島を守ったわけですね。

半島の専守防衛を超えたたたかいをしなかったことも,国家存続の一因だったようにも見えますね。

お礼日時:2008/09/30 03:15

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