A 回答 (39件中11~20件)
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No.29
- 回答日時:
人はどうして生きるのでしょうか?
生の喜びと死の哀しみがあり、そこに疑問を抱いているうちは前者は薄い。後者の恐怖に生かされている状態でしょう。
「悟りを求めずとも自ずと悟りに至る」という言葉があります。今はわからないかもしれませんが、現実をしたたかに生きるうちに、自ずと悟ることでしょう。
そこで私があなたに伝えたいのは、まず考えるべきはなぜ生きるのかではなく、「なぜ生きていられるのか」です。
それを考えた結論、自分が「生かされている状態」であったなら、あなたにとって現実はリアルじゃない、その中での悟りも空理空論でしょう。
人はその人生によって裁かれるものです。疑問に生を奪われず、したたかに生きてください。
No.28
- 回答日時:
動物は何故生きていくのだろう、などと考えていないと思う。
餌を探し食べることに精一杯だ。交尾し子孫を残すことに精一杯である。
生きていくこと自体に、精一杯にならなければ死んでしまう。
まさに必死に生きているのである。
人も基本的にはそうだろう。必死に生きていくために生きているのである。
生活のために一生懸命働いて生きている。
生活に追われているときは、なぜ人は生きているのかなど自問しないだろう。
食べることに余裕が出てきてから、人類は文明・文化を作り上げてきた。
余裕がなければ芸術や文化は生まれなかった。
余裕が生まれたからこそ、何故生きているのかと問い
生きていること自体への疑問や、苦悩が湧き上がってきた。
生や死の問いかけと、芸術や文化の誕生には共通するものがあるのだ。
したがって人類は生きていくことによって、文化・文明の創造をしているのだ。意識するしないとに関わらず、我々は文化を創出していると言えるだろう。
文化と言っても大それたことだけをさすのではない。
ちょっとした生活の改善方法を見つけるのもそうだ。
おもしろい遊びを発見するのもそうだ。
この掲示板への質問や回答も文化である。
インターネット文化だ。
それらが複合されて巨大な文化が生まれる。
我々は生きていくことによって、文化を創り上げているのだと思う。
No.27
- 回答日時:
「生物や人間は何のために生きているか」
ということについての、私の素人考察です。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=210697 の No.4 です。
(自信のない終わらせ方をしていますが)
生物も人間も「真の幸福」を求めて生きているのだろうと思います。
(必ずしも自覚的ではないですが)
それでは「真の幸福」とは何か。
これがまた大問題なわけですね。
私は、『人々が皆求めている普遍的な「真の幸福」というものはあるはず』論者です。
(私は「自分は幸福など求めていない」という人も、幸福を求めていることに変りはないと思っています。)
>>>mori0309さんへ
>なんか質問をかっさらっちゃってすみません。
いいえ、気になさらないでください。>nubewoさん。
No.26
- 回答日時:
センター試験目前のしがない受験生ですが・・・
mori0309さんのおっしゃっていた、質問の二つの意味
●人はなぜ(どのような理由・原因で)この世に生まれてくるのか
●人は何を目的として生きているのか(何を目的として生きるべきか)
このうちの後者について話をしてみたいと思います。
同じ永井均の著書「これがニーチェだ」の一説にあった言なのですが、内容をかいつまむと、
人間のもつ倫理というものは生が肯定されるべきものであるという前提にある。つまり、ある人が生きててよかったと思えない限りその人にとって倫理に意味や価値はない。
こう言っています。実際、犯罪というものの本質は他者の権利を奪うことですが、これがタブー視されるのは、他人の生は「自分の生と同様」大切なものである、こういう観点に立つからでしょう。
ここで結論として言いたいのは、「社会的に生きている人というのは多くが自分や他人の生を肯定できるように教育されてきた」ということです。つまり普通の人はだいたいのところ「生きてるってのはそうそう捨てたもんじゃない」くらいに思っているってことです。残念ながらそうじゃないと社会からはじかれます。精神異常者や犯罪者として。
すると普通の人は生きる事をそれほど強くは倦みません。積極的に自ら死を選ぶ事は普通はないってことです。そうすると、人は無目的には生きられないようにできているので、自分の人生に意味を見出し、何らかの価値を自分でつける。そういうもんじゃないでしょうか。
人は無目的に生きられない、その証明は「何の動力にも繋がっていない歯車をただ回すだけ」という拷問があることで如何でしょうか。痛みはないはずなのに、何の生産にもつながらない、ただ回すだけの歯車に人は苦痛を覚えるのだそうです。
あらかじめ与えられた「生きる価値」なんてないでしょう。自分で自分の生が肯定できるようなものって人から与えられるものじゃないはずですから。
だから「どうして人はいきるのか」という問の答えは、人それぞれによるものじゃないかと思います。ただ、共通して言えるのは、「自分の生きている意味を探し、自信はないけどふとこれじゃないかと思う。その意味を信じて生きているうちに、『これでよいのだ』と感じる。それが生きる意味である」こんな感じじゃないかなと、若輩ながらに思います。
>>mori0309さんへ
なんか質問をかっさらっちゃってすみません。。
No.25
- 回答日時:
miyavirginさん、こんにちは。
普通の会社員のmori0309です。> どうして人は生きるのでしょうか?
この質問には次の二つの意味があると思います。
●人はなぜ(どのような理由・原因で)この世に生まれてくるのか
●人は何を目的として生きているのか(何を目的として生きるべきか)
今回の投稿では、前者の意味について考えてみようと思います。
人がこの問いを発するときの「人」とは、自分のことですね。自分が生まれてきた原因や目的、それが知りたい。抽象的な「ヒト」のことではない。自分という存在への深い懐疑や苦悩がこの質問の背後にはある。この質問は、例えば「星はなぜ生まれるのだろう」というものとは、明らかに違うと思います。
抽象的な「ヒト」のことならば、科学(生物学や脳科学、あるいは遺伝子学や進化学など)が、まだまだ完全とは言えないにせよ、かなり高度な答えを教えてくれます。でもそれは対象化・客観化された「いのち」や「こころ」であって、対象化・客観化された時点で、もうそれは自分ではなく、自然のなかのあらゆる他の物理化学現象(自我というもののない)と同質のものになってしまいます。対象化・客観化すると、もっとも知りたい謎の本質部分が、するりと逃げてしまう。哲学問題が科学問題になってしまう。
永井均の「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書)には、このあたりのことが、この本の半分をさいて書かれています。一部を抜粋して要約してみます。
* * * * * *
一組の男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。でも、そいつがどうして私でなければならなかったのか、ここにはどうにも説明のつかない神秘がある。「永井均」と名づけられた子が、私ではないという状況も、じゅうぶん考えられるはずではないか。(同じ父母から生まれた兄弟は、私ではない。)「永井均」がいても、それが私ではなかったら、世界や宇宙を認識できる私がいないことになり、結局、何も存在しない(宇宙がない)のと同じなのではないか。「永井均」が私であることを決定づけている、いちばん大切な”何か”、それが何なのかがわからないのである。”何か”は、いわゆる自我とか主体とかいった、誰もがもつ一般的なものであるはずがない。
「永井均」が自分であるということを自覚している私を《私》と言い表してみる。それでは《私》とは何か。それは説明不可能なものであるに違いない。各人が持っている自己意識とか自我といったものについてなら、現在でも心理学や何かが説明を与えているだろうし、近い将来、大脳生理学か何かが、すべてを解明してくれるかもしれない。でも、どんな学問も《私》について完全に説明することは絶対に不可能だ。なぜなら、そこには法則性というものがないのだから。意識とか自我というものが、どんなに客観的に正確に解明されても、それは誰にでもあてはまる一般論であって、「永井均」が《私》であること(《私》が生まれてきたこと)の説明にはまったくならない。
《私》が存在することは《奇跡》である。確率が10の何億乗分の一しかないことが起きた、というようなことではない。そういう確率を計算できるような理論の枠が、そもそもない。日本には「命あっての物種」という、なかなか感じのいい言葉がある。自分が生まれる前のことや、死んだ後のことが、気になるのも、いったん生まれてきたからであって、自分が一度も生まれてきたことのない世界については、問題の対象になりようがない。自分が生まれなかった世界を考えるとき、自分がいない地球を上空から眺めている自分を想像しがちだけど、そういう自分もいない世界を想像することは、かなり困難なことだ。
だから実は、この、いわば「《奇跡》あっての物種」という事実こそが、独我論というものの本質なのではないだろうか。この《奇跡》がいったん起こった後では、この《奇跡》なしでも、世界や宇宙は存在する、と考えるべき根拠はもちろんある。しかし、それは、ひょっとしたら、この《奇跡》の内部でのみ与えられる根拠にすぎないのでは...。
この《私》の話をどんなにくわしく説明しても、問題の意味をまったく理解してくれない人も多い。けれど大学の授業なんかで、この《私》を別の言葉で言い表しなさいというクイズを出すと、いつも教室にひとりは正解を即座に言い当てるやつがいる。正解はもちろん「魂」(または「霊魂」)だ。(だがしかし「魂」を意識とか自我と同じような意味、すなわち誰もが持つ一般的なものであるとみなすと、不正解になる。)
はじめてウィトゲンシュタインを読んだとき、この問題について私より先を歩いている人がいるということを知って、私はたいへん驚いた。彼は、私が考えていた問題が、『ほんとうのところは言葉で表現できない』ということ、『表現できたときには、にせものの問題になる』ということ。その意味を考え抜いていた。
* * * * * *
この最後のところの、『表現できたときには、にせものの問題になる』というのは、私が初頭に書いた「謎の本質部分が、するりと逃げてしまう」というのと、同じことだろうと思います。
「魂」の神秘には、いまのところどの学問も、まったく太刀打ちできていません。「魂」などないという意見も多い。一方、宗教やスピリチュアリズムにおいては、「魂」は「時空を超えた不滅の存在」であるとされ、物質よりも高い実在性が与えられています。この場合「魂」は「神と向かい合い成長するもの」と語られる場合と「神の分霊であって神自身である」と語られる場合と、大別して二つがあるように思います。
私は素朴実在論者ではありません。「宇宙に真に存在するのは物質とその法則だけである」とは思わない。「神」とか「魂」とか、そういう言葉でしか表せないものが確かにあると、私は思います。例えば「会社」というものは、見ることもさわることもできませんが、確実に存在し、人の言動や生き方に多大の影響を与えます。「会社など本当はない。人間の頭のなかだけにある幻想にすぎない」というのは、物質的には真実であるけれども、「現実的な真理」ではない。(あえて「現実的」という言葉を使いました。「会社」が「神」や「魂」と概念的に同じものとはまったく言えませんが。)
「魂」はなぜこの宇宙に出現するのか。限定された時空のなかでの1回こっきりの現象なのか。それとも時空を超えた不滅性をもっているのか。それは唯一無二性のものなのか。それとも生まれ変わりを繰り返すなかで、分かれたり集まったりするのか。
「魂」は明らかにハードウェアでもソフトウェアでもないと思います。もしどちらかならば「魂をコピーする」ことができてしまう。アメリカには、脳と同等の働きをする人工頭脳の開発が成功して、それに人間の脳の記憶情報をコピーすることができれば、その時点で人間の不死が実現する。そう本気で考えている学者がいるそうですが、私はありえないと思います。私の脳情報を人工頭脳にコピーしても、私自身が死んでしまえば、私はやはりこの世から消滅してしまう。人工頭脳人間は私ではないです。(他人から見れば、その人工頭脳人間は私そのものでしょうけど。)
私はここで一気に「魂不滅説」を肯定したいわけではないです。根拠にできるものはまだ何もありませんから。また、孔子の「怪力乱神を語らず」ではないですけれど、そういう説は大人が人前で語るべきものではないということもあります。
ただしかし私は、「魂」なるものが人類(だけでなく生命界全体)の営みや、宇宙全体の営みから、ぷっつりと切れて単独に存在するものとは、どうしても思えないのです。「魂不滅説」は正しくなくても、誰もまだ知らない、何かたいへん深い真理が、そこにはあるのではないか。そしてその真理は、物質と精神、主観と客観、原因と結果、過去と未来、そういう二分論的な思考を超越したものではないか。そんなふうに思います。
(結局何も言えてないですけど。後日、また投稿させてください)
参考URL:http://members.tripod.co.jp/serpent_owl/
No.23
- 回答日時:
拝見していて面白かったので、参加させていただきました。
個人的には、「体験をするため」と思っています。
表現が難しいのですが、私の体験上では、人生の価値観の変遷や内面の変化など、ドラスティックに生ずるのは、すべて体験によるものでした。
決して、読書とか人の意見とか、いわゆる頭の世界のものではなく。
体験には、正の体験も負の体験もあると思いますが、それをどのような心象風景として受け止め、その体験からどのような自分を生むのか、という命題こそ、生を与えられている意味だと考えてます。
No.22
- 回答日時:
命をふきこまれたから
『ふきこまれる』っつ-ことは、『ふきこむも者』がいるわけで
ふきこむ者が『だれ?』ていうことになりますかねぇ?
ピノキオのはなしではないけれど...
本人の意思に関わらずこの世に出でた
自由意思を持ち生みだされ、
自由であるのだけれども
取捨選択をつどおこなう
自由という名の不自由さも背負う
窮屈なことが自由ということなのかもしれない
窮屈の中の一瞬のよろこびを味わうために人は生きているのかもしれない
エゴという名のもとに
欲深き者が、人が人であることになるのかもしれない
人は誰しも欲深き者
命をふきこむことの重さを生きる中でひとつひとつ感じていくのではなかろうか?
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