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私の場合、音楽を聴けば現実感は夢のように流されてしまいます。
聴いている間はいいのですが、聴き終わると残るのは空虚感だけということになります。
音楽を否定するようなものもありますが、結局音の楽しさである以上は音楽にすぎません、ジャンル問わずです。
皆さんはいかがでしょう、音楽はむなしいものかそうではないものか考えてお答えください。

A 回答 (15件中1~10件)

私は 歌も踊りも大好きです。

 その技術自体のことが好きなのではなくて、あくまでもその心の表現の世界自体が好きなんです。

その歌や、踊りは、絵心からも啓発されることが私の場合おおいにありますから、かなりそれ自体総合的です^^。

そこから音楽の世界をながめると、 まずはほとんどの音楽はすばらしいです。  こちらが心を開けば、こちらがより深くそのリズムやメロディーを感じることや解釈することができれば、 かんたんな曲でさへ、、

これはなんといったらいいのか ともかく無限じゃないかと思えるような豊かな世界があることを 思い知らされるという感じ^^です。(音という存在、つまり神の御業と人間の才能との合作は、それ自体神の贈り物あるいは存在の贈りものとも思ってます。)

優れた歌詞とかが それを知らせてくれる力となったりもしますが、音楽自体にもメッセージ性も含め あまりにも豊かな色合いが心に入り込んでくる世界です。

ただし、 そんな私が 日常の感覚のおぼれている時は、  そんな私がなんですが、 実際のオーケストラですぐれたクラッシックを聞いても眠くなるだけの時もあります。

そんな私が だなんて偉そうに言ってますが、 これは、同じクラッシックでも嗚咽の涙と実際に体中が震えるような感動で聞いたことも何度かありますし、 …、 そうしたことは、もうほんとうは「好きだ」という範疇を越えた世界でもあるということなんです。

ですから言いたくなるんです。  私自身だって 文明の一員であり、日本人の一員であり、 まわり影響された同じ心理も同時に持ってもいるということです。

わたしの場合、 子供の頃の一番最初のクラッシックとの出会いが かなり劇的なものだったのですが、 それだからといって音楽の環境の中で育ったわけではないことが、 両方の気持ちをかなり極端に生んでいたりします。

>私の場合、音楽を聴けば現実感は夢のように流されてしまいます。<

このそちらの文は、 つまらない文明の日常を忘れることが出来ますというふうにも取れるところですね。   逆に歴史の主題とか闘いとか、社会問題とかの現実から逃避する場ともなってしまう と言った意味にも取れてしまいますね。

全体の文章から推測すれば、おそらく両方の観点が存在するというように感じます。

夢中になって聞くことが出来ている様子がまず浮かびます。 でも、聞き終わると、それとこの存在との接点がうまく掴めないという感じでしょうか。

そして、私が妙に心の引っかかったのは 次の質問文です。

>音楽を否定するようなものもありますが、結局音の楽しさである以上は音楽にすぎません、ジャンル問わずです。<

まず、「音楽を否定するようなものもありますが」という文章がよく解からないため、 一応このあたりを補足要求質問とさせていただきますが、

解からないながら ここが一番 引っかかったのです。

私も 同じことはいろいろ音楽についても考えるからです。

たとえば アパルトヘイト反対のための音楽家達の共同での作曲のある合唱曲を、私は最初 人の差別反対への深い思いの世界を共同で作曲すること自体不謹慎な態度であり、どうせたいした音楽ではないとはなから馬鹿にして聞いていたのですが、  大勢の人たちが聞いてる中で、途中で涙が止まらなくなってしまったことがあります。  人前ですのでなんとか出てくる声とか涙を抑えようとするのですが かえってどんどんそれは大きくなるばかりでした。

音楽と人の心の関係の懐の深さを思い知らされた出来事でした。

でも、それだけの人の心に訴えるものがそこにあってもなお、はたしてその音楽自体がアパルトヘイトの事態を変えたでしょうか?  

音楽とはどのようにして、社会の正しい変化と関わっているものなのだろうか?  この疑い自体は、 その当時も私の中にはありつづけました。

音楽は音楽。 そのとおりだと思います。 深い指摘だと思います。

>ジャンルを問わずです。<

深いです。 反戦歌ですら、多くはその本質とともにあると思います。

原爆をゆるすまじ、の歌や 青い空という原爆がもう落とされることのないことを祈った歌は、 さすがにその怒りと悲しみと そして純粋な希望の心の世界により、音楽から抜け出てもいるともおもいますが、  それでもなお、 音楽は音楽です。     演劇のジャンルも組み込んでいる時もありえても、本質は、>音の楽しみ<の世界だと思います。

が、 h1g2h1g2さん、  でありつつ、  わたしは音楽にこそ、社会をも根本から変えてゆく“根下のリーダー性”を持ったパワーの広がりもある世界だとも思ってます。

音楽無しに、憎しみの連鎖がやがて終わると思いますか?

それなしに、やがて戦争が終わると思いますか?

むなしくなんかないです。  音楽こそ希望の太陽の根元だと思ってます。


論拠は簡単には書けないですけどね。  それで、お聞きしたいのです。

対話は 力でありえる世界だと思ってますから…。

「音楽を否定するようなものもありますが」 という文は、どういう意味あいですか?

この回答への補足

歌うことと音楽自体(曲)は別もので考えてます。
曲自体、音楽自体どういうものかで考えてます。

補足日時:2008/11/14 11:47
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「音楽を否定するようなもの」というのはあえて不愉快な旋律にしてみたり、あえて醜い音をだしたりして音を楽しむことを否定するような音楽です。
デスメタルとかヘヴィメタルとかそれかもしれません。
曲は本当にたくさんあるので、探せば醜いが美しいものもあるのかもしれません。
醜悪な美は普通の美と違いかなり強烈です。
正直いって音楽にはそんなに詳しくはないのですが、最近の音楽はそういう音楽を否定するようなものも含めて何かアカデミックに聞こえるんです。
本当に新しい=独創的なものが出てない気がします。
上辺だけの装飾主義は空虚なもんです。
つまりはカッコイイ、かわいい、美しい、きれいなものすぎるような気がするということです。
そのメロディに夢を見せられ終わると虚しいのでもう一度聞く、その繰り返しのような気がするんですよ。

あまり聞いたことがないですが、原爆の歌や戦争の歌も音楽です。
切なくとも悲しくとも綺麗に空虚に流れてしまうのです。
それが一体どれほどの力を持つというのでしょう?
音楽は音楽です。
音楽が音楽を超えてしまえばそれはかなりすばらしいことでしょう、力になりえるかもしれませんよ。
だから、あえて否定するようなものが出てきたのではないでしょうか。

お礼日時:2008/11/14 11:44

本来、「美」が人間の心にとって、たとえば正義の意志にとっても、一番重要と知っていての質問なのですね。



心の奥そこから、それを求めてるからこその、ただバックに流れてくだけのバックミュージック式文化を 深く懐疑する、表現者の魂からの希求と受け取りました。



流れで、音楽を、まず取り上げますが、 「菩提樹」という唱歌をご存知でしょうか。

日本では、そのまさに“きれいな”部分だけを編曲して学校教育の音楽の授業とかで取り上げられたりしてきた歌です。

もともとの ドイツでのその曲は、「冬の旅」という題名の長い長い 心の葛藤の世界をさまよう哲学者の心の旅路の曲の一部として歌われる歌です。

その曲の伴奏自体が力強いのですが、その部分こそ冬の旅の厳しさ(心の葛藤のすさまじさ)を表現している部分です。

しかも、その心が乱れさまよう様をあらわす、そのメロディーは明らかに錯乱を現すメロディーであり、 途中何度か通常のリズムを外れたりもしています。   めちゃめちゃでもあるのです。   が もちろん、それがゆえに その後につづく歌の部分の菩提樹性というか、ほっと、あるいは、はっと やすらかな世界に気がつく部分の大きさや確かさを物語っていたりします。

詳しくはともかく、元々のそのドイツリートの曲は 単なるきれいごとの作品ではないわけです。  かなり衝撃的でもある作品です。

でも、それを語れる、また表現できる歌手が日本にいないのは残念ですよね。



むかし、 女性の友達が、「ほんとうの美は言葉じゃ語れない」とまわりの人に必死で話していました。 そのように言葉でそのことを必死に訴えようとしていました。     言葉には言葉の歴史があり、また表現の世界があり、 詩は生きられた感動がなんの飾りもなく生まれた言葉として出てくるほど詩的だと指摘したいものだったりします。   散文にても時間や人生や感覚の積み重なり、重ね合わさりとかの部分で衝撃的にもなるような 楽しくかつ 他の人にもその人の感動が伝わる文が生まれたりします。  言葉で言えないものが 言葉を通しても その限界なりにて豊かに豊かに展開し始めるわけです。

でも それも聞き流せば、読み流せば それでおしまいでしょう。

そうはさせない衝撃が 表現としても、本気で伝えたいなら必須ということを表現者は忘れてはならないところだと 私も本気でそう思います。



言葉以前、と言えば、 まずは赤ちゃんのお母さんへの最初の笑い(微笑みの眼差し)の世界が 思い浮かびます。  くったくのない、ただのあたりまえの、静かなそのひととき。  それこそただ流れていってしまうだろうやすらかな呼吸。    でも、ほんとうは、忘れ去っていいことなのか?  生まれたばかりにては赤ちゃんの脳は、まだ動物以下だと言います。 それが 外気に触れおぎゃぎゃああと泣き叫びながらその脳はいきなり人間の脳へとものすごいいきおいで進歩していきます。    

動物には笑うユトリが脳の中にはありません。 そこまで発達して無いためそれを本能に縛られてると表現されるところ。   何気ない はじめての笑いは、ただの微笑みは、 ほんとうは、それこそが人間としての誕生の日であり、その一瞬なのだと思います。

「ねえ、 あなたのほんとうの誕生日は、何年何月何日なのよ。 その日にね。 あなたは始めて そのころ孤独にも落ちていた私に笑ってくれたの。  それが私は 本当の誕生日だと思っているし、あなたの誕生日は私の心を救ってくれた日なの。」と、何度も何度も その子に語っていた母親がいたとします。   子供は やがて、すこしそれを理解できるようになるのですが、  でもその子の友達関係は その子供を悪の道にさそいます。      

ありとあらゆる、醜い冷たい心の世界をその子供はさまようことになります。

やがて、その子供は 犯罪者となり、死刑を宣告されます。

死刑台に向かって最後に歩き出した時に、母親の声がします。「 思い出して、 思い出して、 思い出して あなたの誕生日を、あなたの本当の誕生日を、あなたは私を助けてくれた」   

冷たいその目が光ります。 暴れていたその男が急に静かになります。 光る目がさらに光、  やがてそれも静かになります。   ほほが ゆるみます。  彼は 人間のふるさとへ帰ってきたんです。 今立った今。

飛び込む男。     幕。

たった今、 かってに作って小説の荒筋です。   対比の衝撃。 これた必要なのかもしれませんね。 もっと、もっと、もっと、もっと、これがプロデュースされるべきなのかもしれませんね。

気がつかないぐらいのちいさなちいさな、でも本物である「美」の世界をけして見逃したりしないようにです。

* 

わたしが 北欧の音楽であるペールギュントに感動したのは、 愛し合った女性を捨てて 一人放浪と浮気のたびに出る主人公の めちゃくちゃな人生が 描写音楽として延々と続いた後、やがて命からがら ぼろぼろとなって村にもどってみると、 やつれたその恋人がすべてを赦して すべてを解かった上で赦して、そこに向かえてくれたという物語が裏にある音楽だったからです。

その時 私はそれを知っていて聞いていたのです。  

最後に来て もはや、涙を抑えることは出来なくなりました。 感極まってしまったのです。

これが、キリスト教が庶民の中に生きてきた本当の大地の上での文化なのかという思いもありました。  体中が震えるのは 初めてでした。 たぶん、最初で最後の思い出でしょう。

おそらく 表現者は、 すべてを総合的に表現する道を、めんどくさがってはいけないのでしょう。    私も 魂からそう思います。



コメントありがとうございました。  回答者の方がたぶんですが、鼓舞されたと思っています。  気がつかされ勇気付けられたところが大きくありました。  対話になってるかどうかはともかく、 対話の旨受けてくださり、              ありがとうございました。
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この回答へのお礼

>表現者は、 すべてを総合的に表現する道を、めんどくさがってはいけないのでしょう。
その分野においてまずそれがどういうものかを追求せずに、表面ばかりが目立つんですよ、まぁ表面でもそれはそれでいいんでしょうけど。
追求するのはかなり難しいし、きついことではあるのであんまり関わりたくはないのはわかるんですけどね。

お礼日時:2008/11/17 13:53

聞く人によって変わるし限界はありますね。


音楽に依存してしまうと感動して虚しい・・ということかもしれませんね。

日常が面白くてたまにスパイスとして聞く分にはすごくいいですが。

過去に作曲・アレンジをしていましたが、現在はオペラや賛美歌しか聞きません。
心に響かないからです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>日常が面白くてたまにスパイスとして聞く分にはすごくいいですが。
本当にそう思います、雰囲気にはいいです。
ただ雰囲気にはいいけど、それ自体は雰囲気でしかないのでなんかあまりに聞くというのは空虚に感じてしまいますね。

お礼日時:2008/11/16 00:13

音楽に、醜悪美を求めても、その価値化は不可能に近い気がします。



私は 貧乏ですので、CDとかもほとんど買えません。

でも肉体労働者として いろいろな工事の手伝いをしてる時に、引越しでCDを大量に捨てていった人がいまして、 その大量のCDがヘビメタでしたので、同じに何かの強烈さはあるかなと思い また本気でその中にもきっと美しさと言えるものもあるのではと、たぶん同じ思いでだと思うのですが、片っ端から聞きまくってみたことがあります。

最初の頃のロックに見られたシャウトの中には 叫びなのにある意味究極の美(機会があれば説明してみたいですけど、ここでは抽象的なまま略しておきます。)とも言えるようなものを感じ取ることはできました。 同じ謙虚な聞き方をしていれば きっと何か見つかると思って、何度か試してみましたが そのうちにいやになってしまったという経過を体験しています。

たぶん、楽器での音の追求なのですから 醜悪はそのまま美となることはありえないのです。 あるいはありえないぐらい難しい世界なのだと思います。

逆発想の価値を求めるならば 本当はその意図を総合的な表現の一部として効果的に演出すべきところでしょう。 

そうではないわけですから、  おそらく何かの作曲者や演奏者の求道の過程とか表現のわがままとかが、 ビジネス的にはマッチングするニーズと結びついてなりたってしまったので社会的にもそのポジショニングを得てしまっただけの音楽なのではと思います。

醜悪美は、舞踊とか歌とか絵とかでは価値的である可能性はあるかと思います。  むずかしい世界ですが、不可能ではないと思っています。

でも その前に、それだけの対極の中に美を追求できるということなのですから それこそ美の世界の確信にいたった人でないと無理かと、私は思います。



楽しさを通して 人の心に影響を与えるという点では音楽と歌と舞踊は似ていると思います。  絵は そのへん複雑な世界だと思いますが、 でも影響の与え方は  直感的ですね。

ストレートに何かを感じる人に影響を与えます。  それに対して、演劇や映像での場面の組み合わせとかの力では、哲学がしっかりしているかがまず問われるでしょう。 

すべて総合的にも考えることはできますが、 別なジャンルとして検討もできる世界だと私も思っています。



繰り返しますが、私は音楽をむなしいものとは思っていません。

まず そのへんは、やはり、一番最初の音楽との出会いのお話から書かせていただきます。

わたしは、子供の頃、いじめにあい、実際に恐怖から気が狂ってしまった体験も二度ほどある人間です。  気が狂うというのは 実際にはその渦中には苦しくもなんともありません。 詳しくはともかく その前後が極度の惨めな世界です。  しかも、はっと気がついてわれにかえった時にはその一部始終を記憶する脳には ちゃんと憶えているので、特に子供だった私は、ちょうど物心ついたばかりの頃、自分がたった今どうなっていたのかリアルに解かってしまうわけですから惨めでした。

その頃体も壊し、何度も重い肺炎で死の床をはいずっています。 右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞も残り少ない時に医者が「後三日の命です」と宣告するのをはっきり聞いたりもしました。  …、

三日目の峠を越えて助かったわけですが、 その頃のわたしは、生還してもなおまだ地獄の渦中だったわけです。

もはや、心身廃人となりそうなぎりぎりのところで、 それまで泣いて訴えても信じてくれなかったいじめにも両親がやっと気がついてくれて、わたしは、とある海辺の虚弱児施設に入ることができたのです。

こんどは、逆にまるで天国です。 楽しい友達達、美しい海、優しくおおらかな先生がた、  私一人が 太る率がずば抜けてもいました。

そんな中で 私は音楽と出会ったのです。

クラッシック音楽なのですが、その施設での消灯時間に、毎晩、放送室からいくつかのクラッシック音楽が流れてきたのですが、 その中でかならず毎日流れてきたのが「アンダンテ・カンガビレー」と「トロイメライ」と「ユモレスク」の三つの曲でした。

周りのみんなも それまでは大騒ぎしていたのが、急に静かになり「お母さん」とか言いながらすすり泣きをはじめたり、それが伝染していったりしたのでその音楽には心を動かされているのが伝わってきたのですが、 私の場合は たぶん地獄のあとだったからなのでしょうが、 始めて聞くその音楽は、 もう なんというのか、 あまりにも その細かい細かい細部の音までが 胸の奥の奥にまで響いて、     言葉でそれをどう言ったらいいのか解からないですが、 全魂ごと聞き入っていたと言う感じです。

そんな感動の仕方は ほかには自分の人生ではたった一回しかありません。

大人になってから、そのぐらいの感動(それ以上かもしれません)で 自分のたましいがゆすぶられたのは、 ごく普通のアマチュアのオーケストラでペールギュントを聞いていたときです。     感極まった時のそのことを 一体どうやって言葉で語れるでしょうか?

しかし、音楽がそのようなものであるかぎり、 これはおそらくですが、心理学で無意識といわれてる意識の世界にはすこしでもゆったり聞けた時には入り込んでいると思います。   (私の考えでは 無意識というのは意識下とか意識が無い状態とかいうのではなくて、 あまねく意識になんらかの状態でしみこんでいるかのように存在している意識なのですが、普段はすぐにはっきりと気がつかない意識の数々です。いろいろあるかと思いますが、詳しくは今は略します。)

そして、それは確実にある影響を人の心には与えるのだと思っているのです。

真心の世界です。 人はウソもつけるように出来ています。そのような想像力を持っているからです。 だから口だけで人を愛していると言うことができます。  ウソ偽り無くあなたを愛しているよとも そんな心が一つも無くても言えます。  真心は逆に、口ではひどいことを言ってもほんとに愛してる場合だってあり、 そういう愛の面での本心の世界、自然な世界です。   本当に美しい感動を呼ぶ世界は、 そういう力を必ず無意識的には人に伝えてるのだと私は 思いこんでいます。

それは、音楽の場合、リズムとメロディーを通して作られますが、 それに想いの世界を載せて歌にする場合でも 音声での表現の部分は音楽と直接的に重なりそれをさらに彩ることが可能な世界だと思っています。

そのへんが歌と音楽の重なりの部分だと思うわけです。

日本人は 歌は音声の部分は聞き取る人が少ないと聞いています。 そうだとすれば、歌の大きな価値の半分を聞き逃してる感じがします。



そこから 逆に私の そちらの質問への回答へとつながっていくのですが(かならずしも解答とかではないですが、せいいっぱい、言葉は尽くしてみたいのです。ほんとうに音楽の存在に感謝しているからです。 知識の貧しさから言えば、私などは ほんとに素人も素人なのですが、…。)

小室さんが、そちらの言われるアカデミックなむなしさを作り出してしまった象徴かもしれません。

しかし、おそらくあの人は、総合的なコピーは、新しい新鮮なものをも生み出すと信じていたのではないかと思います。  それを確信して一人孤独にアカデミックに過去の音楽と新しい音楽の世界を総合化していってみたのだと思うのです。  結果 若い人の中に 今までに無いリズム感を植えつけることには成功しました。 

若い純粋な魂の中では、そのリズム感もメロディーの世界と折重なってもいるはずだと思っていますが(無意識的にです。)、でも、表の音楽界にはこれが作り物の音楽リズムとメロディーの創作の世界へとしか 開かれませんでした。  全部が全部というわけではないし、やがてそれは リズムが若い魂のなかで消化され昇華していくにしたがって花と咲く日はかならず来るでしょう。

わたしは、そう信じています。

でも、今のところ、その流れは まさにリアルさに欠けた音楽として小室氏の求めていた流れを作り出せなかったとも言えるかと思います。

たぶんですが、彼はこうして、さらに孤独にも家族にさへ内緒で、 

たぶんですが、わざとすべて失敗してみせたのではないかと私には思えるのです。

「大丈夫ですよ、いつかあなたの誠意は いつかはではあっても必ず報われるときがきますよ。」 とその孤独なプロデューサーの心に、言ってあげたい気持ちになります。

でも、これは、

でもこれは、世界的にも 同じ流れもあるかと思います。

こうして書いてゆくと話は、独り言でどんどん進んでいってしまいそうです。 回答ですから、それもいいのかもしれませんが、  やはり私の回答は対話をも求めてるところです。

本物の音楽は、 聴き方にもよるかとは思いますが、その「美」の世界はけして夢のように消えてしまうものではないと私は思います。

ただ楽しいだけでなく、この生の中に さまざまな豊かな人の心と交流しつつ、シンクロしつつ、やがて人間の人間らしい「真心」の世界を育ててくれるものの一つだと思います。

また その楽しさの世界も その「美」の世界はですが、深みとか味わいのある楽しさの世界であり、 それは気づくほどに豊かな世界だと思います。

そういう「美」の世界の中でも最高の心の宝物だとおもいます。

「美」は空虚なものではない。

今回書きました点について h1g2h1g2さんは、どう思われますでしょうか?
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この回答へのお礼

長かったですがかなり興味深い内容です。
対話形式を望んでおられるようなのでまず、なぜ僕が醜悪美にこだわっているのか少しお話しましょう。
別に音楽ではなくてもアニメでもゲームでも漫画でも小説でもなんだっていいのです、その人の視点からその人にとって新たな価値を見いだせれば。

あなたのように音楽を本当に自分の生活や人生に取り込んだ人はいいのですが、たいていの人は美しい美に耽ってしまう。(ここでの美しいはカッコイイ、カワイイ、きれいなども含む)
もちろん本当に洗練された美しさというのもあると思います、みんなが美しいと思うような。
それは恍惚感が伴うと思います、そして触れている間はいい。
でも、離れると案外その時や場だけの雰囲気にとどまる場合がけっこうあるんです、ロマンチシズムはいいですがここにウエイトを置いてるのには僕は空虚に感じてしまいます。
美しい音楽は多くの人には流れていくだけのような気がします。
しかし、醜悪美はどうでしょう?
対極の中での緊張、夢を見ることを許さない。とても現在の現実にシャープに迫ってきます。
不愉快に感じてしまうかもしれない、しかし今の自分に惹きつける何かがある。音楽にもそんなのがあればとてもいいなと思います、かなり難しいことではありますが。

>「美」は空虚なものではない。
一口に美といっても様々だと思いますが、一般的な美(人工美)はやはり空虚なのではないでしょうか?
作者がリアルに感じた事を美しく音楽にする、そうするとかえって現実の方は醜く歪んでくるような気がします。
なぜそこまで装飾を施すのでしょうか?なぜそこまで意図的に美しくするのでしょう?
現実はそこまで美しいものでもないでしょうし、目を背けるべきではない。そう思います。
作者の方々にはその辺をもっと追究してもらいたいなぁと思います、メンドクサイからやらないだけなんですかね?

ヘビメタも今、多くは形式的なのではないでしょうか。
そうなるともういけませんね。
あとは、ミクスチャーなんかもそうだと思います。
高度に作られているのもありますが、結局は既存の物を融合させるアプリケーションにすぎない気がします。

お礼日時:2008/11/15 01:08

ジャンルを比較して考えると分かり易いかもしれません。



「音楽」には様々なジャンルが在ると思います。
商業的な「音楽」は、より多くのリスナーに共感を持ってもらい、商業的な成功を納めようとします。だから、共感の取り易い歌詞、メロディーを使います。私はこのような共感取りが嫌いですので、ポップスミュージックはあまり好きではありません。しかし、若い頃に聞き親しんだポップスを聴くと、若い頃を思い出し、懐かしく思ったりもします。それは人間が情緒的な生き物だからです。情緒的な生き物だから、日常会話では使わないような、聞こえの良いフレーズに懐疑的になるのかもしれません。

さて、自己の内面の充実をもとめ、切磋琢磨した「音楽」も世の中にはあります。多くのジャズ、古典的なラテン音楽、クラッシックもこの中に含まれると思います。こういう「音楽」ももちろん経済的な目的はありますが、それぞれ個々の努力や研究の上に成り立ちますので、厭らしささや、空虚な感じは少ないと思います。

個人的に好き、嫌いは在ると思いますが、「演歌」には聴衆に媚をうるシステムがありますが、古典的な「民謡」にはそれが少ないと思います。

質問者さんが、音楽に対し「空虚」な感じがするのは、それだけ言葉に対して真面目な人だからだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
何か音楽というのは商業的な理由もそうでない理由も雰囲気を作っているだけのような気がして。
聞こえの良いフレーズに懐疑的になるのは分けて考えるよりも音楽自体を考えて疑ってます。

>個人的に好き、嫌いは在る
それぞれ好きな音楽はもちろん違うのでしょうが、みんな楽しむことを目的としていると思うので音楽自体を疑ってるというわけです。
いい気分になって飽きたり、音楽が終わってしまうとなんともいえないむなしさがあります。
そうなるともう一度聞いて、またそれを繰り返してみたいなことをしていく。
いいかげんちょっと考えてみて、今まで夢を見ていただけかもしれない、と思うんです。

お礼日時:2008/11/14 11:11

ANo.2です。



人生をしっかり味わってみたらどうですか。

恋愛をしている時には、なぜかぴったりの曲が聴こえてきたり、悩んだり悲しみを経験した後、また悲しい曲が心から味わえたりするときがありますよ。

またハッピーな青春の時には、明るい曲がぴったりはまったりするものです。
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この回答へのお礼

>人生をしっかり味わってみたらどうですか。
人生をしっかり味わいその時々にぴったりの曲を聞くのであれば、なぜあんなにきれいで、カッコイイ、装飾的なメロディーを作るのですか?
どなたにもさまざまな問題はあると思いますが、気分を紛らわせるだけで問題解決には及ばないようなきがするのです。
つまり、問題を飾りつけることで見えなくしてしまい、解決することを放棄させているようなそんな気分です。誤解はあまりして頂きたくないのですが、私も音楽を聴けばいい気分にはなりますよ。

お礼日時:2008/11/14 10:55

昔、中島らもさんがどこかの全国紙(朝刊)にエッセーのようなものを書いていたのを思い出しました。



確かタイトルは「One day,One Anjelica」だったような…。
覚えている範囲で、内容をかいつまんで書いてみます。

…私(=中島らも)は、タイトルの言葉をどこかで聞いて記憶している。確かな意味は解らないが、私なりに解釈するところはこうだ。
ある日の巡りあわせ、ある日の天使…その心は、どんなに平凡で退屈で気分が滅入っていても、1日のうちには1個ぐらい心が和む一瞬がある。
少なくとも私(=らもさん)には、そうである。そのような一瞬は、例えば散歩中の出来事であったり、新聞の読み物であったり、テレビのお笑い番組であったり、その日その日の気分や行動の中でいつ訪れるのか解らないのであるが、天恵のようにもたらされる(ように感じる)。

こんなことは私(=らもさん)に限ったことではないだろう。普通に誰にもあることだと思う。その一瞬に出会えたことでなにか癒される(救われる)思いがするような、それでいてことさら大げさな事件でもないのだがそんな一瞬が1日に1個ぐらいはあるよね。
それを私(=らもさん)なりに「One day,One Anjerica:一日の天使」の意味として捉えている。…

というような内容でした。

何故このようなことを思い出したのかはよく解りませんが、きっと質問者さんの「現実逃避」という言葉に引っかかったのでしょう。

人生には、逃避したくなるほど現実が苦しい時期がありますが、そんな意味でしょうか。

それとも、あまりにも深く音楽に陶酔しているので、まるで、愛煙家のニコチン中毒さながら、音楽の禁断症状が起きているのでしょうか。


音楽に対して私個人は空虚は感じません。感動した場合はその余韻を楽しみますし、頭の中で旋律がリフレインします。

脳科学的にみれば、おそらく快感物質が脳内を駆けめぐっていますので身体から余分な力が抜けてしばらくは快感に浸っている…という感じだと思います。快感は持続します。

もし、質問者さんの音楽に対する快感がそのような持続性を持たないのであれば、理由は、私が考えるのには、音楽を左脳(言語脳)で聴いているためでは…という気がします。というより、大脳新皮質(新しい脳:分析脳:人間において発達)の活動があまりに過剰なため、快感物質が脳内を駆けめぐっても持続性をもたないのか、快感物質に麻痺してしまい、ちょっとやそっとの快感物質では反応しにくくなっているのか、それとも現実に対して極度に空虚感を感じているため音楽の快感が持続せず音楽そのものが空虚と感じてしまうのか。

詳しいことはよくわかりませんが、ここで結論を言いますと、一日に一瞬でも音楽で心地いい時間が持てるのでしたら、それが天恵の一瞬であると考えてみては…ということです。一日に一瞬でも癒されるとか、和むとかの時間があれば、それで満足…といった具合に。
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この回答へのお礼

>それとも、あまりにも深く音楽に陶酔しているので、まるで、愛煙家のニコチン中毒さながら、音楽の禁断症状が起きているのでしょうか。
特にそういうわけではないようなのです。普通に音楽は聞きますし、いい気分にもなりますが感動したと思いつつも繰り返してきいて飽きたときに何も残らないというのは夢を見せられていたようでそのむなしさにたまに腹が立つんです。

>一日に一瞬でも癒されるとか、和むとかの時間があれば、それで満足…といった具合に。
満足はあまりできませんが、この部分はおっしゃるとおりかもしれませんね。

お礼日時:2008/11/14 10:45

自分にとって音楽は現実以上に現実感が感じられ、


リアリスティックなものです
相対的には音楽のほうが現実的に感じられてしまうので
聞き終わったときの現実に戻ると空虚になると思います
でも、音楽体験も現実に影響を及ぼすと思うので全く空虚になる
こともないのではないかと思います

この回答への補足

>音楽体験も現実に影響を及ぼすと思うので全く空虚になる
こともないのではないかと思います
例えばどのようなことがあげられますでしょうか?

補足日時:2008/11/12 11:19
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/11/11 08:41

>聴いている間はいいのですが、聴き終わると残るのは空虚感だけということになります。


それって、単に音楽だけを、聞いているから、そう感じるだけだとおもいますよ。それでは、音楽の楽しみ方が激減ですね。

この回答への補足

では音楽が流れているとき、音楽を聞く以外どのように音楽を楽しむのでしょうか?

補足日時:2008/11/12 11:20
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/11/11 08:36

そう感じるだけなら、あなたにとっては「音楽は空虚なもの」なのだと思いますよ。


私は現実を忘れられるほどの感動は音楽では味わえません。
たぶん感動する能力が薄いからです。

でも現実を逃避できるほど感動できるのであれば、素晴らしいことです。
酒や薬物に手を出す必要も無いですからね。

というふうに考えられれば、あなたにとって音楽は空虚なものではないとも言えましょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私としては音楽は現実逃避の手段みたいなものになっていて、自分の現在の責任を放棄しているような気がするのでそれは虚しいと感じるのです。
特に現実逃避の手段というのを意識して聞く人はそんなにいないと思うし私もそうです。
だけど結果としてカッコ良さ、綺麗さ、かわいさのあるメロディーで夢気分にさせようとするそういう所にむなしさを感じてしまうのです。事実夢気分になりますし。
音楽は楽しいんですが虚しいんです。

お礼日時:2008/11/10 12:38

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