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先日、親戚が亡くなったですが、その人が亡くなった事実より、人が死んでいく様が印象的で、非常に恐怖を感じました。
それから、夜になると、人は死ぬとどこへ行くんだろう、どうなってしまうんだろう、なぜこんなに怖いんだろう、と考えるようになりました。

哲学的に言うと、人は死ぬとどこへ行くのでしょうか。
以前、哲学の授業で、デカルトは人は精神と肉体が一緒になってる存在だとか学んだ記憶があるのですが、これで考えると、人が死ぬと肉体は滅びるけど精神だけは残る、という事でしょうか。
では、残った精神はどこに行くのでしょうか。

なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。

「死」は未知なるもので、それに対して確定的なことは何もわからないから、自分がどうなってしまうのか分からなくて怖いのでしょうか。

皆さんの意見をお聞かせ願えませんでしょうか。
宜しく御願い致します。

乱文・長文、失礼致しました。

A 回答 (25件中21~25件)

 宇宙の始源や誕生、そして生や生命についてはいかがなのでしょうか?


 孔子は、いまだ生を知らず、・・・といっていますね。
 私達はそこ、ここに居るということについて何を認識しておりましょうか。
 生きていますか?それは誰ですか?存在しているとしたら、それは誰でしょうか?
 何時、どのようにして、何を基盤にしてその生は開始しておりましょうか?
 始まったものは、終わる。始まり、そして終わるものがどうして存在なのでしょうか?
 そうでないものがなければ、始まり、そして終わるものが、始まり、終わることはありえないでしょうね。
 これは6000年以上も前のヒンドゥの思索家がいっていることです。
 私も正鵠として勉強しております。URLの貼り付けは遠慮します。ご興味があれば、Self-Realizationの同士会(Fellowship)でご検索すると私たちの会が出てきます。ラージャ・ヨガの会です。
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死を怖れる必要はないと説いたといえば、エピクロスですね。


#1と重複する内容ですが、
「私にとって死は存在しない。私が存在する間は死が存在せず、死が存在する時には私は存在しない」
という趣旨のことを言っています。

「人は死ぬとどこへ行くのか」という疑問は、「人は死ぬとどこかへ行く」という前提で立てられていますが、この前提も定かではありません。
しかし、どこかへ行くのだと決めつけ、どこへ行くのだと決めつけるようになるとそれは哲学的ではなく宗教的。
デカルトのように決めつけのないように疑って疑いぬいた結果が、精神と肉体の二元論なんですが・・・まあ決めつけてしまいましたよね。
もしそれでよしと仮定するのならば、生と死に対する考え方を変える必要があると思います。
精神と肉体が結合している状態を「生」とするなら、「死」とは精神と肉体がその結合を解かれることであるという風に。
そうすると、「生」は状態なのに、「死」は事象です。
私たちは日常で生と死を正反対のものとしていますが、対置するのは少々変ではないでしょうか。

このあたりを入り口にすると、多くの人が「死」に対して抱いているイメージというのは、正しからぬ妄想が占めているものが多いということが見えてくると思います。
そうした妄想が死を怖れさせているのではないか。その妄想に惑わされなければ死を怖れる必要はないと知るのではないか、と思います。
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[なんとか、死に対して恐怖を抱かずに済む考え方を探しています。

]

死は恐怖ですね。誰しもそうですよ。哲学的に死を捉えたのは2500年前の釈迦族の尊者であった釈尊だけですね。釈尊は恐怖は4つあるといっているのですね。それが「生・老・病・死」ですね。なんびとも「生・老・病・死」の苦(恐怖)から逃れることはできないといってるんですね。死の怖さは体験中でしょう。病(やまい)はなんとなくわかるとしても、特に女性は老いるのも怖いんですよね。それゆえ整形手術なんかがはやってますね。この中に場違いのように「生まれる」恐怖というのがあるのですね。釈尊は生まれるのも死ぬのも恐怖だと見抜いたということなんですが、ここに「死」の恐怖からのがれるヒントがあるのですね。まず、何故「生まれる」のが恐怖かですが、殆どの人は忘れてますが中には生まれ出るまえの記憶がある人がいるのですね。暗い洞穴のような子宮のなかで10ヶ月近くを耐えることは怖いことなんだそうです。最近ではいつ堕胎(殺される)されるかも知れませんしね。だから生まれ出た時、みんな「おぎゃーと」泣くんですよね。笑って生まれる子供はいないんですね。
さて、釈尊は、「生・老・病・死」のような苦しみばかりの世界に何故、人々は生きているのだろうと考えたのですね。何か変だなと思ったところが並みの哲学者との違いですかね。
質問者さんも書いているように「精神」ですね。それを「魂」、「霊」など、どう呼ぼうがいいんですが、釈尊は、人間の本質は「精神」であり、「精神」は不死であるので、「生・老・病・死」などない。「精神」を鍛えるための目的のみで転生輪廻を繰り返しているだと見抜いたのですね。つまり肉体は修行のための単なる皮袋といったわけですね。「死」は苦しみばかりの世界に長居は無用ということですね。逆に「生」は苦しみのない精神世界からこの世の苦界に生まれるのは恐怖であると捉えたのですね。自分自身にとってあの世が本当の世界でこの世は仮の世界(旅先ですね)なんだという逆転の発想なんです。
この考えが単なる思考哲学でなく大宗教まで昇華したのは現実にそういう精神世界があるからでしょうね。
それが正しい見方ですね。そういう見解を持つとこの世も楽しくなるでしょ。また、「死」は本来の世界へ旅立つと考えれば「帰宅」ですから怖くもなくなりますね。
「釈尊の悟りを元にしてます。」参考までに
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死んでいる虫を見てもそれほど怖いと思いません。

しかしネズミなどが死んでいるのを見るとかなり恐怖を感じます。ネズミは虫と違って死ぬといかにもモノになってしまったという感じがするからだと思います。人だとその恐怖はもっと強烈になります。人も死ぬとモノになってしまうという感じがするからです。人はいろいろ考えますが、考えている脳はモノなので自分の頭蓋骨の中にあることは当然ですが自我意識そのものはモノではないのでどこにあるかという位置はないと思います。このことが人は死んだら精神はどこへ行くのだろうという疑問に対する答えだろうと思っています。要するに心はモノではないのではじめから居場所はなかったということです。そういう意味では心は脳の中にあるというのも言葉によって作られた一種の錯覚であろうと思います。デカルトのコギトエルゴスムでも心が物理学的な存在場所を持っているとは言っていないと思います。肉体の死はモノになる(戻る)ことですが、心はモノになりようがないという意味では死にようがないとも言えると思います。
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死は無いというも一つの見方だと思います。


例えば自分が死んだことをどうやって認識(自覚)するのでしょう。
死んだ人は自分が死んだことを認識しているでしょうか。
死後の世界があるのならそれも可能かもしれませんが、
そうなれば死んだのは肉体であって精神は生きているということになり『私』が死んだことにはなりません。
結局どうあがいても私は私の死を認識することは出来ないのだから死は無いとも言えるのではないでしょうか。
いつも死ぬのは他人ばかりと誰かが言ってましたっけ。
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