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ペリーが浦賀にやってきたのは1853年ですが、このときまだ南北戦争も行われておらず保護主義なのか自由主義なのかもいまだ決着がついてなかったと思います。アメリカが積極的に海外進出を始めたのはフロンティアが消滅してからカリブ海政策や米西戦争を行った90年代だと思うんですけど、それならペリーはなぜこの時期に日本に開国をせまったのでしょうか。よろしくお願いします!

A 回答 (5件)

No.3です。

質問の内容が難しいですががんばってみます。
だれか他に専門の方の回答があればよいのですが。

>アジア進出なんですが、工業製品を自由貿易としてではなく売りつける市場としたかったということでよいのでしょうか。

そう考えてよいのではないでしょうか?イギリスなどと違い当時のアメリカが中国に求める産物などはあまりなかったと思います。

一つ気になるのが、あなたが使われている「自由貿易」という言葉です。
はじめのの質問に
>ペリーが浦賀にやってきたのは1853年ですが、このときまだ南北戦争も行われておらず保護主義なのか自由主義なのかもいまだ決着がついてなかったと思います。

とありますが、アメリカで自由貿易であるとか保護貿易であるとかの論争になるのは輸入に関してだと思います。南北戦争以前、まだ国内産業(工業)の育成が不十分な頃は北部工業地帯の要請から高関税政策(保護貿易政策)がとられました。一方、プランテーション農業を中心とした南部は棉花の輸出によって利益をあげ、イギリスから安価な製品を手に入れるべく低関税を求めていた。こういった論争は南北戦争の一因ともなるわけですが、貿易相手に自由貿易を求めるということとはまた別の問題ではないかと思うのです。(第二次大戦まで基本的に保護主義的傾向が強かったと思います。)

これはあくまで私の私見で史学界での評価はわかりませんが、第二次大戦以前にアメリカを含めた西洋列強で今日的な自由貿易を求めた国はないと思います。重商主義にしろ帝国主義にしろ自国の産業や貿易を守るための保護貿易政策であって、現在の通商規制の排除という意味の「自由貿易」とはかけ離れていると思います。

イギリスは中国に自由貿易を求めましたが、それは鎖国体制(冊封体制)をとる中国に対して自由な貿易を求めるということであって、今日の自由貿易とは別物だと思います。

またアメリカが世紀転換期~第一次大戦後に中国での自由貿易(門戸開放)を唱えますが、これも英仏が独占するの中国権益の解放(一次大戦後は日本も含む)という意味での自由であって、今日的な自由貿易とは別だと思います。経済政策の理念ではなく、あくまで「自由にやらせろ!」ということでは?

ということで90年代の海外進出と南北戦争以前とは切り離すべきで、また今日の経済システムとも切り離して考えるべきではないでしょうか?南北戦争以後、アメリカは世界最大の工業国となり国内市場も急速に拡大しました。同時に国内の産業資本と独占体制も拡大しており、それ以前とは海外市場の必要性も変わっていると思います。

90年代以降の海外進出の問題については(カリブ、中米、フィリピンなど)モンロー主義の問題や、建国以来のアメリカの価値観のせめぎあいの問題ではないかと思います。これについては現在、白人意識と異民族支配の問題として様々な研究がなされており私には手に余る問題ですのでこの辺で。

なお、前の回答でフロンティア(ライン)の消滅と90年代の海外進出とを分けてと書きましたが、フロンティア消滅により新たな機会としてニューフロンティア気運(=太平洋進出)が強まったことを指摘しておきます。

少しでも参考になれば。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!僕の変な質問にも誠実に答えていただき恐縮です。自由貿易の性格の違いはあまり意識したこと無かったので参考になりました。勉強しなおしてきます!

お礼日時:2009/02/22 22:58

追加してすいません。


 日本に製品を売りつけたかったのは間違いありませんが、日本が東洋の神秘の国、貧乏だけど幸福な民衆の住む国の目でみており、いきなり侵略しようとは考えていなかったのではないでしょうか。
 アメリカは南北戦争後 余剰の武器を幕末の日本に売りつけています。また篤姫にミシンを贈り物としたのもアメリカなので多数の日本が買ってくれそうな製品を献上しています。
 中国の帰りに日本により、中国の品を日本に売り、日本で日本の品物を積み込みたかったのでしょう。日本の浮世絵が多量に外国にながれています。1900頃はヨーロッパではジャポニズムが花咲いており、沢山もうけた外人がいたようです。
 
 
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この回答へのお礼

追加回答ありがとうございます!回答者様の回答は教科書とか文献で読んだものではなくて、なにかその場の一部始終を見ていたようなふうに思えます。やっぱりこれは本の影響なのでしょうか。ますます読んでみたいと思いました!

お礼日時:2009/02/22 23:05

ペリー来航の理由については前の方々が書いた通りだと思います。


フロンティアの消滅以前からアメリカ人の太平洋進出は始まっていたのです。

1890年の国勢調査でフロンティアが消滅したということですが、正しくはフロンティア・ラインの消滅です。フロンティアとは1平方マイルあたり1家族(2~6人)の密度の土地であり、フロンティアをつなぐラインがフロンティア・ラインです。1890年の調査ではそうしたラインが南北につながる状態ではなくなった、ということなのです。
ですから実際にはフロンティア・ライン消滅以前にアメリカ人は太平洋岸に到着していたし、太平洋に進出もしているのです。

それから1890年代にアメリカの帝国主義的海外進出が始まったのは確かですが、それまで海外進出欲が全くなかったわけではありません。1840年代にアメリカは太平洋岸まで領土を拡張していますが、そこには東部工業地域のアジア進出への希望が強くありました。ですから南北戦争以前の西漸運動は農地の獲得や鉱山での一攫千金を狙う人たちばかりではなく、アジア進出を願う人々によっても進められたのです。

ということでフロンティア・ラインが消滅したから海外進出と考えるよりも、フロンティア・ライン消滅の頃にはアメリカの海外進出への国内外の諸条件が整ったと考えるべきなのかと思います。もし、南北戦争が始まらなければもっと早くに積極的な海外進出が行われたかもしれないし、そうでなかったかも知れない。

いずれにせよ南北戦争以前からアジア進出への要求はあったし、それによってペリーも日本へ来航したのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!ためになります。1848年にはカリフォルニア獲得してますし、もう太平洋進出ができる状態ですね。アジア進出なんですが、工業製品を自由貿易としてではなく売りつける市場としたかったということでよいのでしょうか。南北戦争のことを考えるとやはりまだ自由貿易にすることはできなかったとおもうのですが。これは清に自由貿易をせまったイギリスとは異なるということですよね。その段階になったのが、それこそ90年代という理解でよいでしょうか。追加質問すいません。

お礼日時:2009/02/21 17:49

鯨油目的の捕鯨船の食料、燃料、休憩を求める目的で、イギリスもアメリカも日本に基地を求めていました。


 日本の漂流民を何度も届けたりして、日本との交渉の足がかりを築こうとしましたが、鎖国政策ゆえにけんもほろろの扱いを受けました。通常の交渉では拉致があかないのでペリーが過去の日本の対応を研究して、強引な開国を迫ったのです。
 吉村昭「アメリカ彦蔵」など読んでみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!本まで紹介していただいて、読んでみます!

お礼日時:2009/02/21 17:55

1 当時アメリカは油を捕鯨に頼っていたため、その基地を


  日本に求めた
2 西欧に対抗し中国市場に食い込むため航路を開きたかった
  のでその基地にしたかった
結果的に日本が開国になりましたが、米国の目的は日本では
無かったようです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9% …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!参考になりました。

お礼日時:2009/02/21 17:51

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