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いろんな学問の中で哲学だけは道楽のように思えるのですが、哲学は何かに貢献することはあるのでしょうか?
何か例があれば教えてください

子供のころは哲学って意味も分からずにすごいものだと思っていましたけど、大人になってなくても良いような気もしたので質問しました

A 回答 (28件中1~10件)

アドバイザーとして答えます


定番ですけど、デカルト「方法序説」、またはプラトン「ソクラテスの弁明」です。
難解な用語は一切出てきません。
http://bhr.anime-voice.com/
これらを解説した価格を本よりも先に、本物を読んでください。
どちらも岩波文庫で価格は500円以下で買えますから、そんなに痛い出費にはならないはずです
http://ntnttg.hatenablog.com/
アドバイザーとして
読んで損することはまず無いとは思いますが。
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哲学は、学問の頂点。



 学問も、道楽ですよ?

広島大学は、「学問は、究極の遊びである」と、掲げていますし。
 http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html
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哲学が物事を固定し、学者が固執する苦労によって理論化する学問ではなく、有用な生き生きとした仮説を導くための道楽的な試みですから、再現のない感情や不必要な偏見を押さえ込むのに有用です。

自他共に現実から遊離した疲れる思索、行為を整理するのに役立ちます。

膨大な文献を残したカントでも、学問としてではなく試みるための哲学を教えることはできないと言ってます。あれも延々やってみた試みを述べているだけだから膨大なんですね。しかしカント以前の釈尊や、老子、エピクロス等は結論だけ述べているので簡略されているかのようですが、そこに至るまでは様々な経験(受動的)や体験(能動的)なものが詰まっているはず。過程が疑わしいとしても、おばあちゃんの智恵袋のように、智恵に直接触ることが出来なくても、独自にこうじゃないのか?実践に近づけたり失敗すればなおのこと、おばあちゃんがあらゆるものに注いだ眼差しや望んだことが感じれる。

収納の哲学というのがありますが(インテリアアドバイザーとか建築)整理整頓は時間と空間とお金の節約になります。不用な物を保管するだけで有用なお金も失ってしまうそうです。なぜかというと動かない物を所有するだけで心身共に自由度が減り、保管や処分の徒労の義務が生まれ、しまいには自慢したくなって、道楽は自己主張から遠のくというものだから。

動物は異性を誘致するため、同属と共食いしないため、異種には共倒れないため、つまり自己保存と種の保存の両本能の延長にある大事があるので自己主張するけれども、身体機能や感覚表現によって自己主張するのが自然界、動物界の慣わしです。

それが人間は本能を裏切って(?)自分に対しての感情、その自己主張によって自らの存在を確認する。寧ろこちらが成功することに安泰立命するので、売値を競って文芸芸術にまで感情の価値を高めていけるんですね。実の力と書いて実力ですが、実=身を与える力、というより自分に投資するのを楽しんでいたいのも人間ですから。

なので「哲学で世に貢献してゆくつもりです」という人も、体系化された言語学や社会経済学、科学、歴史の分野に興味があって哲学を自己アピールの手段として使う人と、自らの生き方や倫理(エーチカ)を肉体的機能や感覚を使ってアピールし生得的な本能に近いままで(天然な?)哲学の実践者とに分かれると思いますね。

>子供のころは哲学って意味も分からずにすごいものだと思っていましたけど、大人になってなくても良いような気も気もした

驚きは哲学の根源である/ポール・ティリッヒ。
当たり前に考えていることが永遠と続くなら驚くことなどなくなります。それを疑う必要も、わざわざ肯定する必要すらないのですが、大人になってくると驚くことも減ってきますよね。

犯罪や不一致をなかったことにする能力も、投資したり貢献して神格化する能力も人間にはなく、それが出来たとして理想なのかというと傍目には人としての誇りをなくして堕落していくようにも映ることもあって、哲学はより快適な安定を要求し、一方で「これでいいのか」と敏感な人たちから、いい加減な安定を否定もしていくのです。
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哲学の価値は、時代の限界を超える力を持っているということです。

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<<その後の話は申し訳ないんですが意味が分かりませんでしたので>>



信仰という働きの性質についての僕の見解は理解されたようですね。
ではもう少し解りやすく解説試みようと思いますw

「信仰」や「決め付け」には「私の見解は正しい。他の見解は間違っている」という他俳的な思考が付きまとっていると思います。

この「信仰」「決め付け」は、反証をなすような説得力のあるデータや事実とは関係なく、それそのものを事実と「信仰」「決め付け」するものですね。

この「信仰・決め付け」性質は「宗教」「哲学」ともにあると思います。

若干、「哲学」と言うカテゴリーのほうが反証を受け入れる可能性が高いと言う印象を受けます。

しかしながら言葉の意味やつながりの定義を追求していくと「言葉の定義・つながりの定義が甘すぎてそもそも意味を成していない」もしくは「多種多様の意味に意味が取れるので、固定した意味を持たない」形を持って結局のところ曖昧模糊とした言葉に個人個人が「信仰・決め付け」しているような物も数多あると思います。

そして「宗教・哲学」ともに、自分が信じる、「信仰・決め付け」をした宗教・哲学の言葉を「これこそ正しい。他の論はこう間違っている。」と外の論・言葉を壊しにいく働きが宗教や哲学の歴史の中に見て取れるように思います。

ほとんどの論者は、決して「このような方法でこのように見出したデータがある。このデータで考えられるものはこれだけあるとかんがえる。このデータとこのデータを鑑みるとこのような論が説得力のあるように私はおもう。」と言うような態度でなく「これはこうなんだ!これが事実だ!他は間違っている!」と「決め付け・信仰」の立場を取るというのがほとんどだと感じます。

数多ある学問や科学なども「決め付け・信仰」に溢れているように感じます。

なかなかデータによって今のところ得られる暫定的なデータの読解と言う立場を取る人は稀と感じます。

そのような数多ある論の中から自分が何を学ぶか、どのように学ぶかと考えたとき、に以下のような思索が必要になると考えるのです。

「言葉として成り立っていないなら・矛盾があるなら何が得ることが出来ましょう」

本人は何か意味があるものと思って言っていても、分析したら何も言っていないというものも多いと思います。

そのようなものは無限にありますね。今ここでもいくらでも作り出せます。その無限にある論に対してまじめに思索しても得るものは少ないと思われます。全て細部まで(結局固定の意味など無いものですので細部も無いのですがw)知ろうとすると時間が人生が終わってしまいます。

「決め付け・信仰の類なら何を得ることが出来ましょう」

何を質問しようと、反証するデータを突きつけても答えはその質問データを無視されてかえってくるでしょう。その人にとってはそれが事実で客観的なデータのほうが間違っているのですから。。。信じるか信じないかという二択を勘で選ぶような選択肢しか見出せません。客観的事実とは関係ありませんから。。。


生命にとって「幸福になりたい。悩み苦しみは嫌だ。努力は実ってはしい。今なすべきことがすぐひらめいてほしい。」と言う生命の根底にある希求があると私は思っています。その生命の希求を無視したものに何の価値があるのだろうと思うのです。

その生命の希求を無視するならどれだけ生命の尊厳をないがしろにし、バカにするのか?と思うのです。そのようなものは学ぶ価値がないと思うのです。

生命にある弱みを使って自らの論を信じるように画策するものも多く観られると思います。そんな生命をバカにする人たちの策略に他の生命が引っかかってほしくないです。


<<質問したいのですが、あなたの哲学は何を目的にしているのか?ここで何を学ぼうとしているのか教えて頂けないでしょうか?>>

「生命とは・生きるとは何か」
「心とは何か」
「体・六根・感覚・思考とは何か」
「苦しみとは何か」
「苦しみの原因とは何か」
「苦しみの原因を無くすとはどういうことか」
「その苦の滅に向かう方法とはどんなものか」

その探求です。

今ある生命のシステムを使ってこれらの探求をなすことを目的としていきたいと考えてます。

今のところ自分の思考を整えるとともに、自他の考えるために必要なデータを交換できるかもしれないと言う期待によって、ココで回答したりしています。

しかし学ぶべきものは生きている瞬間瞬間にあり、ここだけで解決すると言うことを考えているわけではありません。

以上です。

何か参考になれば幸いです。
生きとし生けるものが幸福でありますようにノシ
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例えば、数学の価値は何?


と言ってるのと同じだと思います。

数学を知らない人に、"計算ができて、色んなもの事を分析できるのよ。"
と教えても、当人は、実感を伴わないでしょう。

実感できないけれど、すごそう、
または、生きていく上で必要なの?別に学ばなくても大して問題なさそう。
と返ってきそうです。

その数学の価値は、数学を学んだ人でないと実感することはありません。
実感は、経験しないと生まれません。
頭の知識だけでは、到底理解することはできないでしょう。


また、物事を始める動機は、殆どが、"面白そうとか楽しそう"から始まります。
"楽しくなさそうだけど、仕方なく"という場合もあるでしょうが、
自ら動く場合は、"面白そうとか楽しそう"が起点です。
価値は、後からついてきます。


ですので、実感を伴わない価値を聞くより、
面白さや楽しさをお尋ねになった方が、
共感する部分がでてくるのではないでしょうか?


それで、共感できなければ、
今は、あなたにとって必要のないものなのでしょう。


ですが、興味はおありのようですので、私なりに価値だけお答えします。
(質問に対する回答しか求めてらっしゃらないようですし・・・)


・生きとし生ける物がより幸せになる。(まずは当人が幸せになる)
ところにつきると思います。

まぁ、数学もそうですが、それを使うことによって、よりよく生きれるわけです。
自分もそうですし、誰かの役に立てることもある。
そこに価値があります。

使い方にもよりますが、それを誤って、攻撃に使うのとは違います。
攻撃という屁理屈には、心がない。周りを不幸にさせるだけです。

あと、何を学ぶにしても素直さがないと成長しません。
他人の意見を受け入れる土壌も大事にしてもらいたいです。
(by松下幸之助)

使い方だけは、間違わないようにしてもらいたいです。
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 意識は何か、この世の経験に段々深くかかわるにつれて、この世の意識としては明白になってくるかの思いをみなさんもお持ちでしょうね。
 だからその前にこの世の経験にあまり関らないときの意識での自分と世界への関わりがあるのでしょうね。
 ですから、最初に宗教として所謂るこの世経験としての因テレクリ中アルではない、世界と自分の認識があったのでしょうね。
 それは世界史でも、いろんな国、民族の歴史でも、信仰や宗教としての認識や意識、宗教たる哲学が先行してますね。
 これにインテレクチュアルな説明や批判、理論がついてきますね。
 これが後年所謂る知的哲学となっていくのでしょうが、だんだん宗教から離れていきますね。
 理論化、理論整理、そして、信仰という世界からは、門外漢の的違いの作業と結果が多いですね。
 こういう哲学は、質問者さんのいう、道楽か遊びのひねくりまわしというべきかも知れませんね。
 
 でも宗教や信仰に手招きする知的説明もありますね。
 叡智の説明というような。ジャニュナの哲学などはそうなんでしょうね。
 難解ではありますが、言葉化とはそういうものになりますね。
 ジャニュナは偉大な信仰であり哲学ですが、信仰に手招きするいろんな哲理は、これを出るようにといわれています。
 そうして、初めて真髄を触れることが出来るということです。
 そうでない、知的なことが多いという段階、つまり哲学説明の段階では、信仰も宗教もそのものではないので、意味が無いというわけです。 つまり質問者さんの道楽ということばが当てはまります。
 私たちの信仰はこう教えます。
 全ては究極存在から発する。それは意識である。
 意識は究極存在に根拠する。したがって宗教という究極存在への回帰希望意識はもっとも根源である。
 それからだんだん遠くなってきて、この感覚と物象、物証の世界の意識となる。
 そこでの意識と探求は根源の意識からは遠く、本質とは遠くなる。
 したがって後の質問でのことにも触れれば、知的なる探求意識としての哲学は、宗教や宗教への哲学より後に生まれてきている。
 ということである。
 ギリシャの古代哲学は、先行する思想があると存じます。
 突然にタットヴァや五行のよなものを追求して、それを基本要素とする作業ができたのではなく、経緯の中のことでありましょう。 

この回答への補足

補足日時:2009/03/16 16:38
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人間がいろんなことを考えたり、行動為の、基盤・基準のようモノだと思います。



そう言う処が、哲学の価値ではないでしょうか。

認識・考察・想像・創造は、哲学そのもので、専門分野がそれぞれの学問だと思います。
そして、分野分野の中にも、それぞれの哲学の様なものがあると思うのですが。
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この回答へのお礼

そうですね^^
ここまでの回答を参考にしながら歴史も覗いてみましたがそのようですね
そこまでは誰もが理解しやすい範囲だとは思います
 
しかし、宗教との関係でいまいちしっくりこないので調べているところなんですが・・・残念ながら別でその質問をたててはいても返事が少ないのと思うような資料も見当たらずどうしようかと悩んでいるとことです^^

お礼日時:2009/03/16 16:14

<<>一般的な宗教は事実との矛盾とは関係なく信じることですからね


○これは宗教・神を信じている人はそれを分かっていながら信じているのでしょうか?>>

わかっていたら完全には信じていないですよねw信じているならそれがその人にとって事実であって、論理も根拠も何も関係ないですから。

事実と矛盾の見つけられるものに対して信仰しているかたは、矛盾を見つけられないほどに現実のデータ分析が出来ない状態(仏教で言うところの無知)にあるか、理性により反証するデータを観てある程度理解してしまっても何とか無知の概念によって忘れよう混乱して消し去ろうと努力しているかが考えられると思います。

そういう意味では事実と矛盾の見つけられるものに対して信仰するのはとても苦しいものなのではないかと憶測します。

<<宗教と哲学を比較して共通する事で何か知っていれば答えて頂ければ有り難いです>>

私の感じるところを簡単に言ってしまうと、「私は正しい、他は間違っている」と言うことを主張しあうもの。

そんな印象を受けます。

稀にその枠から外れる理性的態度を持つものもありますが…稀も稀ですねw

紙媒体・メディア・政治家云々にも、「私は正しい、他は間違っている」がよく観られると思います。

稀にその枠から外れる理性的態度を持つものもありますが…稀も稀ですねw

<<子供のころは哲学って意味も分からずにすごいものだと思っていましたけど、大人になってなくても良いような気もしたので>>

「論理的でないなら」
「理性的でないなら」

筋が通っていないなら相手にしてられないですよね
筋が通ってない見解なんて無限につくれます
一つ一つまじめに聞いていたら人生それで終わってしまいます

しかも確かめられないならどうすれば良いんでしょうね
100兆の見解があったらどうしましょう
根拠がいらないものならなおさら選びようが無いですもんねw

「幸福につながらないなら。苦しみがふえるなら。(非道徳)」

いくら断片的に筋が通っているように見えても悩み苦しみが増えて不幸になるなら、「幸福になりたい。悩み苦しみは嫌だ。努力が実って欲しい。今なすべきことがすぐにひらめいて欲しい。」という生命の基本的な希求を無視するなら筋が通っているとはいえないと思います。

「なおさら無知になるなら」

人々を混乱させ無知を広げ人間のシステムを悪用して何かしらの感動や恐れを生み出させ自分の教えに強く結びつけるものも注意が必要でしょう。

相手の生命の自由を認めていないものは「ただ相手の支配欲に振り回される」ことで人生を終えてしまう可能性が高いです。

ある意味哲学や宗教は凄いです。

インパクトと感動と恐れをたくみに組み込み、ある範囲の論理を組み込んで信頼できると思わせる形に組み上げ、「これこそ事実他は間違っている」と人間のシステムないにある引き込む要素が感じられるものも多くあります。

しかし「哲学」「宗教」と言うだけで
ありがたがるものではないと思います。

上記のようなものを元にふるいをかければ、必然的に片手で数えるほどまでになると思います。その中から自己の理性によって自己の見解を絶対とせづ、柔軟に信頼できるであろう論理・実験・データによって再構築していく作業を続けていけばきっと役に立つものになっていくと思います。

それをしないなら結構な賭けです。

人生と言う100択or記述(選択肢に答えがあるかわからない)問題に


鉛筆・サイコロ転がして
感で選ぶ
適当に書いてみる

と、解く様なものです。

僕だったら筋の通った参考書なりをじっくり読んで、実験して実験して、検証して決めたいです。

正解したいですからw

皆で仲良くじっくりと学んでいきたいですが…
皆面倒なのか、サイコロが好きみたい。

生きとし生けるものが幸せでありますように
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この回答へのお礼

>事実との矛盾とは関係なく・・
のついてはそれを意識せずに信じることであれば都合の悪いことは無視ていうことになるけど、それでも信仰の価値があるのか不思議ですね

宗教を進める(良いものだと主張する)人で”なるほどそれはすばらしいところもあるんだな~”と思った事は一度もないんですよね。
良く聞く話では人生につまずいたり何かに悩んでいたり・・あまり精神状態が良い人でない人が好んでるように思えるのは私だけではないと思うんですよ。

今でも残っているオウムの人も信じているから”事実”だという言葉になると”事実”という言葉の価値もあったものじゃないですね^^

宗教と哲学の比較についてはそう一面もあるのかな?なんともいまは答えられませんが・・・
暫く回答を参考に考えます

その後の話は申し訳ないんですが意味が分かりませんでしたので、質問したいのですが、あなたの哲学は何を目的にしているのか?ここで何を学ぼうとしているのか教えて頂けないでしょうか?

お礼日時:2009/03/16 14:44

例えば



人生に意味はあるかという問いには2つの答えがあります。

・意味はある
・意味はない

どちらも正解です。
なぜなら、人生に意味を与えるのはその生を生きているその人だからです。

私が私の人生に意味を与えるなら人生には意味があり、
私が私の人生に意味を与えないなら人生には意味はない。

他人が私の人生に意味を与えてはくれないのです。
私の人生を生きているのは私なのですから

と、前置きが長いのですが、
哲学も同じで、哲学を飯のタネにしている人以外は哲学は自分のために哲学をするのです。
なぜなら人は哲学せずにはいられないからです。
だから、己の哲学はいいですが、人の哲学を道楽と呼んではいけないのです。
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この回答へのお礼

申し訳けありません、正直に言いますが・・・
何を伝えたいと思っておられるのかがよく分かりません
補足のしようもないのがどうしたら良いのか迷うのですが・・・

もし、また答えて頂けるなら
>哲学せずにはいられないからです

が哲学の価値と言いたいのかまたお聞かせ下さい^^

お礼日時:2009/03/16 04:07

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