すみません、どの本を調べても分からないので質問させてください。
花魁道中はお客があれば毎日やってたのでしょうか?
それとも道中する時期が決まってたのでしょうか?
トップクラスの遊女が客を引手に迎えに行くときに道中したと
書いてありましたがその客が毎日遊びに来たとしたら道中も毎日ですか?それとも、道中の時期というのが決まってたのでしょうか?
また、新造も参列したとありましたが必ず姉女郎の道中にしか参加
しなかったのでしょうか?他の遊女の道中すなわち宴には参加しなかったのでしょうか?
どうして知りたいのでこの2点の回答をお願い申し上げます。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>花魁道中はお客があれば毎日やってたのでしょうか?
まず、回答から先に述べますと、
毎日でもありました。
(1)後述しますが、「花魁道中」を行えるのは「太夫(後に花魁)」と「格子」の特権でした。
(2)まず、客は「揚屋(あげや、または、引手茶屋とも呼ばれた)」に腰を据え、店の者を使いとして、太夫や格子の見世(妓楼=ぎろう)へ行かせました。
(3)ご存知かとは思いますが、1度目、2度目では、ただ単に揚屋で酒食を共にするだけでした。そして、太夫が気に入れば3度目にして初めて、自分の妓楼へ客を連れて行き、夜を共にすることができました。
(4)もし、太夫などが気に入らなければ3度目は「なし」です。しかし、客も「どうしても」と言う時には、太夫に、当時としては、蒲団一式などをプレゼントして、気を引く努力をしました。
(5)客が毎日「揚屋」へ通い、太夫を指名すれば、毎日でも太夫は「花魁道中」をしました。
>>それとも道中する時期が決まってたのでしょうか?
この質問の意味は、「季節」なのでしょうか「時間」なのでしょうか?
どちらにしても、
(1)「季節」であれば、1年中「いつでも」ありました。
(2)「時間」であれば、おおよそ「夕刻」が多かった。
これには、まず、太夫や格子などを呼べるのは、よほどの金持ち(お大尽)でなければなりませんでしたが、この「花魁道中」を見せ付ける意味合いから、庶民が多く集まる刻限を狙い、
「俺は、これぐらい金持ちなんだぞ」
と、いうことを見せびらかすため、大概は夕刻に行われました。
また、昼日中でも「ないことはない」でしたが、太夫などの「自由時間」と「風呂に入る時間」、そして「着替えの時間」がありましたので、そうした時間を十分に「取らせない客」「そのような気配りのない客」は、嫌われてしまい、どんなにプレゼント攻勢をしても、相手にはしてもらえませんでした。
>>また、新造も参列したとありましたが必ず姉女郎の道中にしか参加
しなかったのでしょうか?他の遊女の道中すなわち宴には参加しなかったのでしょうか?
(1)花魁の中にも「格」があり、「上花魁」「中花魁」「下花魁」とあり、この中の「上花魁」だけに「新造」が付き添いました。
そして、「新造」は、まだ、初夜を迎えていない女たちで、主に「上花魁」の身の回りの世話をしていました。
(2)ちなみに、
上花魁・・・新造付き呼び出しで、揚代は1両1分。最高級の花魁。
中花魁・・・呼び出し昼三、と言って、揚代が三分。
下花魁・・・座敷持ち、自分用と客用の部屋を持ち、揚代は二分。
(3)ご存知とは思いますが、お大尽が「揚屋」で「花魁」を呼び寄せると、揚屋の女将や使いの者、酒食の接待をしてくれる者などへの「ご祝儀」が酒食代金の他にかかりましたし、花魁への揚代の他にも、付き添って来た「新造=おおよそ3~4人」や「かむろ=遊女見習いの子ども」や「若衆=花魁道中を守る男たち」「太鼓持ち」「花魁の見世の女将」などなどの全てに「ご祝儀」を配りましたので、一晩に30~40両は軽く飛んでしまいました。
(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。
(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。
(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞った者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。
(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。
(5)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。
(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「うめ茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。
(7)「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養「三代集」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。
(8)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられたと言われています。
(9)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。
(10)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。
あなたのお役に立てたでしょうか。
お返事が遅くなりすみません。こんなに詳しく、しかも作家さんということもあってとても綺麗な文章にぐいぐい引き込まれながら読ませてただきました。有難うございます。今までも何度か吉原のことについて質問等してきましたがあなた様のように詳しく、そしてまた新しい知識を書いてくだすった方は初めてです。大変勉強になりました。恥ずかしながら私も小説を書いており吉原に力を入れているんですがどうしても分からない部分ってありますよね?本にも載っていないようなことを疑問に思ったりして中々先に進めませんでした。でも今回の回答で新しく話が書けそうです。本当に有難うございました。
また是非教えていただきたいです。
No.2
- 回答日時:
ご存知かとおもいますが
花魁は江戸吉原の遊女のことのみをさします。
したがって京や大阪には花魁はおらず
京や大阪の最上級の遊女は太夫と呼ばれていました。
吉野太夫、夕霧太夫などが有名ですね。
吉原では、もともとは太夫もいましたが消滅して
最上級の遊女は花魁となりました。
しかし、京や大阪では最上級の遊女はずっと太夫と呼ばれていました。
ですので、花魁道中とはいわず、太夫道中と言われています。
(実際太夫道中というものがあったのか、現在観光のために行っているものを太夫道中というのか、わかりませんが)
ただし京都・嶋原遊郭の太夫は体を売らなかったので芸妓であって遊女ではないともいわれています。
http://www50.tok2.com/home/myunclek/tayu.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%AD%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E5%8E%9F
どうもありがとうございます。wikipediaリンクもわざわざすみません。吉原の事はなかなか情報が入りにくいので知ってる方に教えてもらえて助かりました。
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