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東大寺の南大門から大仏殿に至る道を歩く度に、開眼式に列席した世界中の多数の人たちの息吹を感じ、いつも感動し涙する70歳のじじいです。
感動ばかりじゃ始まらんと思い立ち、東大寺盧舎那仏の開眼式(752年5月26日)に列席した1万数千人を、①東大寺の実務部隊は、どのような方法で選定、把握したのか、②それらの人に連絡した手段方法はどのようか、特に、海外からのお客様は③どこに上陸して、④どのようなルートで東大寺に至り、開眼式に列席されたのか。⑤その道々で何処に泊まり、⑥どのような歓迎を受け、⑥何を召し上がりながら列席の日を迎えたのか、⑦数々の貢ぎ物はどのようにして運んだのか、を調べようと思い立ちました。
しかしながら、全体は続日本紀、列席者は正倉院文書の蠟燭文書、ルートは当時の駅路か伝路で若狭か難波だろうまでは行き着いたものの、それ以上に進めないでいます。
直接のお答えなら大変ありがたいのですが、この学問分野にアプローチしろ、この分野を学べ、この文献やDBを探れ、こっちを調べろなどなど・・・学びのご示唆だけでも与えていていただけるとありがたく質問しました。どうぞよろしく御願いいたします。

A 回答 (2件)

#1です。


訂正 X東川家康⇒〇徳川家康
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このころの大和国は唐の影響が大です。


中華の王朝の記述は、水増しして人数を記載します(南京虐殺は200万人
だそうです、未だに癖?は治っていないみたいです)
①一万数千人は誇張です、宿泊所だって無いでしょうから。
唐と朝鮮からの賓客は瀬戸内から大和川で平城京までと思われます。
物資の輸送のルートは持統天皇が東山道などの街道を作り整備しました。
持統天皇は日本の原型を形創った、偉大な天皇なのです。
聖徳太子が遣隋使に持たせたのは、干し椎茸や昆布などの、海産物が
主だった様で、その頃は、酢と塩が主な調味料でした、どの様な料理
だったのでしょうね、奈良県には多くの文化センターが有りますので、
コロナがおさまったら、旅行兼ねて現地調査をしてみては如何でしょう。
大和から日本に国名が変わった時期なので、興味が尽きないです。

行基菩薩の事も、個人的には調べて戴きたいですね。

唐に白村江の戦にボロ負けして、それほど年数が経ってないので、
大和国は仏教を中心とした、平和な国なりましたの、お披露目の
意があったのではと思ってます。
東川家康が朝鮮の通信使を招待したのと、図式と同じかと。
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