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謎の4世紀という時代があります。
中国の歴史書に日本の記述がなく、
また日本にもその当時文字による記述がないため
日本の事が全くわからない時代です。

しかし、教科書によると
朝鮮半島において、百済、新羅、ヤマト政権が
朝鮮半島南部において産出される鉄を巡って
争っていたらしく、そのため、時代的に日本の事を書く
事ができなかった・・と書いてありました。

ヤマト政権は、日本の事ですが、
そんな昔に日本が朝鮮で戦うほどたくさんの人が行くことができたのでしょうか??また、朝鮮にヤマト政権が来たという証拠みたいな物は、
今残されているのでしょうか??

知っている方お願いします。

A 回答 (3件)

おはようございます。


4世紀に日本に関する同時代の文字資料は高句麗の「好太王碑文」と石上神宮から出土した「七支刀」の銘文の2点だけだったと思います。「好太王碑文」では朝鮮半島南部において百済・新羅を臣民としたこと、倭人が国境に満ちていたこと、好太王により倭が敗れたことなどが書かれているとされています。この碑文と古墳の考古学的調査の進展(鉄器の発掘及び科学的分析結果等)により、朝鮮半島南部において産出される鉄を巡って争っていたという教科書の記述になっています。
ただ、「好太王碑文」については現在の中国吉林省内にありますが、最初の発見者が戦前の日本軍の軍人であったためなどにより、大陸侵攻の根拠にするために改ざんされたという疑惑及び解釈に諸説があります。
「七支刀」についても読めない部分があること、解釈に諸説があること、特に献上したのか下賜したのかなど根本的な解釈の差がありますが、日本と百済の交流を示すことは確実です。
さらに、後代の資料ですが、「日本書紀」・「古事記」、そして12世紀の高麗時代に成立した「三国史記」などがあります。

以上、参考まで。
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歴史の本(『日本歴史館』小学館)には「古墳時代の外洋船の復元」という説明があり、大阪市の長原遺跡から出土した舟形埴輪をもとに古代船が復元されています。


 人間だけなら40-50人乗れますが、食料と水の分を差し引くと20人位は乗船可能であったとのことです。
 「倭が大伽耶国へ侵攻できたのは、南部伽耶諸国との友好な関係を背後にしていたと認めねばならない。あるいはその要請を受けてのものあったかもしれないが、倭と伽耶南部との関係は、けっして支配・被支配のそれではなく、あくまで同盟関係であり、要請に従って兵が派遣されたものと思われる。」と書いてありました。
 あんな小さな船だと兵隊誰でもビビリますよね。後の遣唐使船でも50% は遭難していたのですから、海は大きな障害であり、かつ防御壁であったと思います。簡単に大軍を派遣できるようなら、逆に簡単に大陸から大軍を派遣され、とっくの昔に征服されていたことでしょう。
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残念ながら韓国では古代史の研究があまり熱心に行われていないため


これという証拠が無いのだそうです。
百済という言葉は「百の海の民」という意味だそうで、必ずしも百済という
統一国家があったという評価にはならないようです。同様に朝鮮半島南部は
加羅諸国と呼ばれる小国家郡であったと言われています。それらの一部が
日本列島から移ってきたあるいは逆に日本に渡ってヤマト政権を形成したとも
考えることはできるようです。またようやく当時の生産能力を考えれば
戦争といっても戦国時代の映画で見るような大規模な戦闘ではないと
考えれば、それなりの数で渡海して戦争することは可能だったのではないでしょうか。
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