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印象だけで記します。
古代ギリシャの文献が幸いにも実に大量に保存されてきたように思います。その理由を知りたいです。戦争に明け暮れてきたのでしょうに、よく散失しなかったものだと感心します。保存できた理由に心当たりがあれば伺っておきたいです。
よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

パピルスの時代から写生しつつ図書館に保存してからではないでしょうか。

戦いにあけくれたアレクサンダー時代からそのようなシステムをつくっていたくらいですから。

史実に関係なく、印象だけで答えてしまいました。すみません。
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この回答へのお礼

学問に価値を置いた国柄からして当然の結果ということでしょうか。そうかもしれませんが、もうちょっと知りたいですね。
済まない道理がありません。有り難うございました。

お礼日時:2009/04/23 22:02

殆ど侵略されなかったからですね


文明がある内に国力が無くなるのです
侵略文明に受け継がれるチャンスが多かったことです
ギリシャからローマへそしてイスラムへと動きます
その都度文献はコピーされて動いています
イスラムが駄目になると欧州へ動きます
ギリシャの前がよくわからないですね エジプトとギリシャが
同じと考えるとその間に進歩した国があったはずなのですが
よくわからないです ペルシャはギリシャより進歩していたようですが
ギリシャに滅ぼされて よくわかなく無くなっています
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この回答へのお礼

全面戦争にはならず、言わば文明の静かな交代が行われたということでしょうか。文明が交流しつつ徐々に交代していく場合は、他文化を理解し大事にできるのかもしれません。明治時代の浮世絵や工芸品の流出みたいなものですか。
そうしてみると、20世紀に入ってすら焚書だの(中国の論語)、仏像の破壊だの(バーミヤン)、英語の追放(日本)だのが行われたのは愚かなことですね。
有り難うございました。

お礼日時:2009/04/23 22:11

古典期のギリシャはカイロネイアの戦いでマケドニアがアテーナイ・テーバイ連合軍を破ったとき終焉を迎えますが、そのマケドニアのアレクサンドロス大王は子供の頃哲学者アリストテレスから教育を受けています。

アレクサンドロス幼少期のご学友にして手下No.1のプトレマイオスがエジプトのプトレマイオス王朝の創始者。

マケドニア王家には哲学者アリストテレス、悲劇作家エウリピデスといった当時の知的エリートが集められていました。

時代が古典期のギリシャからヘレニズム時代へと移行したとき、政治的・軍事的にトップの座にあった人物の頭脳は、アテーナイ黄金時代の一流の、しかも当代一流の人物から直接教えを受けた教養がつまっていたのです。

プトレマイオス王はアレクサンドリアに巨大な図書館を建立しその充実のために富を注ぎます。

ローマ帝国がヘレニズム世界を支配したときもギリシャの学問をの需要が結果的にローマの文化水準を高めるであろうことをローマ人は理解していました。政治的・軍事的支配者が文化的には逆にギリシャに支配されたのです。

この話、終わりがありません。このあたりでご勘弁を。
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この回答へのお礼

支配者の交代前から人的交流が、よってまた文化的交流があったのですね。戦争もよほど野蛮な侵略者でなければ文化は守られるということでしょうか。
26日(日)22時までは締め切らずにおきます。
有り難うございました。皆さん、またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2009/04/24 22:03

ひとつには、ギリシャの諸ポリスの繁栄の後に地中海全域を掌握したローマが、ギリシャ文化における知の蓄積を先達の偉業として敬い、それらを写本として伝え、以後、ローマの後継者を自認する中近世の西欧国家でも知識階級の間でギリシャ時代の古典が書き継がれ、ルネサンスなどの古典文化復興などの流行もあって、現在に至るまで幾つもの文献写本が残存してきたことがあります。


特に共和政末期や帝政期のローマでは、留学先としてギリシャ(アテネやロードス)が人気で、ギリシャ世界の衰退後すぐに「知の殿堂」としての位置づけが失われなかった(つまり後の支配者による焚書や、異民族による文化改変が行われなかった)ことが大きいと思います。
もうひとつは単純に書写材料の耐久度や保存環境の問題。
古代ギリシャの主要な書写材料としては、石碑、パピルス、蜜蝋板、陶片、羊皮紙などがありましたが、特に石碑は経年変化に強いのに加え、為政者が変わってもそのままその場に打ち棄てられたり、建材として再利用されたことで残されたため、現在でも多くのものが伝わっています。またパピルスも、ギリシャ移民の多かったエジプトではよく用いられており、これらが乾燥した砂漠の砂に埋もれていたことで腐らず残り、現代になってから多数発見されたりもしています。アリストテレスの著作(『アテナイ人の国制』など)はこの好例ですね。
古代人も書写材料としての耐用年数や使いやすさは意識していたようで、ギリシャでも石碑には政治的(公的)な記録、パピルスや羊皮紙には文学作品や私信、すぐに掻き消えてしまう陶片や蜜蝋板にはメモ書き、というふうに、文書の重要度に合わせて適した材料が選択されていました。
そのため、現存するギリシャ語文書の原典は石碑かパピルスのほぼどちらかとなり、後は後代の写本となります。
古代オリエントの著作物がギリシャ・ローマと比してそれほど数が無いように思えるのは、オリエントでは発掘されたアーカイブ(文書庫)から見つかる粘土板などの原典類のみが頼りで、後代に伝存した写本が無かったためでしょうね。
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この回答へのお礼

お蔭様でだんだん輪郭がはっきりしてきました。
文化のレベルが連峰の一つの頂ではなく、一頭地を抜く独立峰型だったのだと、素人言葉で理解しました。これだと他民族といえども価値を積極的に認めざるを得なそうです。
石の文化であったことも、その後の文明が停滞しなかったことも幸いしたのですね。ちょっとしたことですが、古代オリエントとの比較から、話がよく通じるようになりました。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。26日(日)22時までは締め切らずにおきます。

お礼日時:2009/04/25 17:46

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