No.1
- 回答日時:
1.「皇室神道」では、汎神論ではなく太陽神「アマテラス」を祀っているとされています。
しかしながら、「出雲神道」では汎神論です。それは、暦にも残っている通り、「神無月」から分かるように「やおろずの神」が出雲に集まって会議を開くということから残っています。現在では、神事などで授かるものとして、鏡がありますが、これは太陽神であるアマテラスを祭ったものであるとされています。
2.日本にもあったようですね。「人柱」と呼ばれるものです、古くは大和朝廷以前の大和地域で。伝承では、大和地域では「埴輪」の形で人柱の制度を辞めたとされています。佛教伝来後、この制度は終わりになりました。釈迦の骨などを治める仏舎利などがそれに変ったためです。
「神の要求だったのか?」はたまた、「自発的なものだったのか?」は定かではないですね。地域を治める豪族などが、巫女や神官のアドバイスで決めていたと想像されています。これは、古代ギリシアの神託に近いものだったろうと推定されています。
この回答への補足
ご回答、有り難うございます。知識がまるでないもので確認させて下さいませ。
1-1 .「皇室神道」では、通常「アマテラス」は太陽の中に存在しているのですか。鏡の中に宿っているのですか。鏡そのものが「アマテラス」なのですか。神事があるときも、ないときも、そこに存在しているのですか。
それとも、この件には誰も、はっきりした認識がないのですか。
1-2 「出雲神道」の場合、一例として「へっつい(竈)」にも神が存在するのだろうと思いますが、この神は「へっつい(竈)」の中に存在すると考えてよいですか。神無月には不在になるのですね。
古代ギリシャの神々は天空に存在するために、祭壇は戸外に設けたそうです。犠牲の香と煙が真っ直ぐ天に昇るためには屋内では不都合なのだそうです。神道には、こういうはっきりした認識はないのですか。
2-1 直接ではなく間接的にでもよいのですが、「人柱」は言葉だけでなく史実として事例が確認されているのですか。
2-2 「埴輪」は「殉死」の変形ではないのですか。「殉死」とは別に「犠牲」の代用としても用いられたことが判っているのですか。
事情が許せばご返事が欲しいです。よろしくお願いします。
No.2
- 回答日時:
折角ですが当面の私には何の参考にもなりません。きっと、誰か他の方が参考にしてくれるでしょう。
一冊の本を読了するには何層もの読書の入れ子構造に捕まるのを知らない訳ではありませんが、私の能力では到底、折口信夫の順番は来そうにありません。
大体、何から派生してこんな質問をしているのかすら判らなくなっています。つまり今ですら帰る地点が判らなくなっているのです。これは私の勝手ですが。
現在、喉が渇いている人間には浄水場の仕組みを教えてくれる人よりも蛇口の在り処を教えてくれる人の方が有り難いです。
可愛気のない返事で済みません。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
1に関しては、『定本 柳田國男集』第十巻、筑摩書房、で詳しく論じております。
その中でも『先祖の話』は神道を理解するのに圧巻です。この巻には他にも『日本の祭り』、『神道と民俗学』、『祭礼と世間』、『神道私見』、『神社のこと』、『人を神に祀る風習』が載っています。中世までは、神が人間のところに来るのは、春と秋などの祭りの時だけで、その時に人間が神と一緒に食事をすることが、大変重要な儀式でした。それ以外の時は、神は空や深山の高いところに居られ、高みから降りてくる時の道しるべが、巨木のご神木であり、また、祭りの始めに焚かれるかがり火であったそうです。昔は日本では一日の始まりが日没の後の暗くなった時であり、かがり火はその祭りの日の始まりであることをも示していたそうです。その証拠に、今でも夕べとは今で言う昨日の夕方のことですね。ですから、昔の正月は、大晦日の夜から始まったのだそうです。そして、祭りが終わると再び神様は空や深山い帰って行ったそうです。したがって、普段はお宮にはいなかったのです。ところが、江戸時代の頃からその豪華なお宮に神様がいつも居られると誤解されるようになり、お百度参りのような奇習も出来てきたたそうです。
質問に直接関係はありませんが、古代の日本では、正月は一日(月立ち)の新月に始まったわけではなく、十五日の十五夜が正月だったそうです。その後中国から伝わってきた、月立ちを正月の元旦とする習慣を取り入れた後でも、日本人は小正月を十五夜の日に祝う祖先達の習慣を遺し続けたそうです。
以上は、書物ばかりでなく、足を使って日本中の古習を拾い集めてきた日本民俗学の実証的な研究により得られた結論のようです。私は自分自身が自然科学の研究者ですので、柳田國男のような、実証的で帰納的なアプローチの方のが説得力があり、好意的です。それに対して、どちらかと言うと書物だけに頼り、更に、演繹的なアプローチをする折口信夫の主張は、面白いことは面白いのですが、今ひとつ、説得されないところがあります。これはまあ、各学風の文化や個性の現れでもありましょうから、私風情がとやかく言うことではないかもしれません。
上の研究とは別に、平田篤胤の『霊能真柱』によると、ご先祖様は実はいつも我々の周りにいて、こちらを見ているそうです。こちらからご先祖様が見えないのは、丁度簾の中を外から見えないのと同じだ、と言っております。篤胤は彼の先生の本折宣長の意見に反対でした。その宣長は、ご先祖様は黄泉の国に居られ、盆暮れに帰って来ると主張していました。
2に関しては、柳田國男は全国の生け贄に関する言い伝えや古書を一杯調べ、少なくとも人間の生け贄が本当に在ったとは考え難いと言っております。
上で紹介した柳田國男の全集を図書館などで、第十巻ばかりでなく、他の巻も調べていると、いろいろな面白いことが書いてありますよ。
どちらかというと、教団や神社などとして組織化されていない謂わば個々の日本人が思い描く原初的な神像に重心のあるご回答なのかなと読みました。もちろんそれで質問に適っています。
1 通常、神は天空や深山に存在し、儀式によって身近な何処かに呼び寄せられ、祭の期間だけ留まるのですね。多分、陰暦の場合、待ち望まれている行事は月の出(日没)を待って早々に開始されるのが世界共通で、人間の心理に適っているのだと思います。待ち望んでいた行事は日付が変わった瞬間に開始したくなるのが人情みたいです。
2 もともとは神託を伺う毎に神殿を造るのが正式なのではないでしょうか。粗略なものしか造れない間はよかったですが、広壮な神殿を造れるようになるにつれ常設されるようになったのではないでしょうか。私の言うことですから保証はしません。立派な神殿には神が常在していると思いたくなるのは理解できます。願い事は何時生じるとも限らないので常在してくれないと不便です。
3 祖神の存在場所には最少でも平田篤胤説と本居宣長説の2説あることが分かりました。今日の仏教は本居説に近そうです。
4 日本には人間はもとより、哺乳動物の本格的な犠牲の儀がありましたか。農耕民族には馴染みにくそうですが、私の見当ですから当てにはなりません。
5 『定本 柳田國男集』第十巻、筑摩書房は少なくとも存在を確認し、何が書いてあるのか、ぱらぱら程度には確認しておくことを約束します。
有り難うございます。またの機会にもよろしくお願いします。
No.4
- 回答日時:
>> 1 通常、神は何処に存在していますか。
霊界に富士山のような高い山がありその山の8合目から6合目付近に住んでますね。
>>2 世界を見ると神事には犠牲の儀式が珍しくありませんでした。歴史上、この風習は日本にもありましたか、今日でもありますか。
日本神道には生贄の儀式はありません。それ故、仏教も自然に受け入れたのですね。
生贄の儀式というのは神々の世界にはないものです。高級な神々は生贄の儀式を忌み嫌います。そのようなところに降臨することはありません。実際は、悪魔や悪霊、たたり神と呼ばれるものの惑わしですね。それを信じたということですからレベルの低い話なのですね。
逆に言えば、日本神道は世界の中でも格式の高い宗教だということですね。
ちなみにイエスは生贄を商売にしているものに怒りをぶつけて、その結果の処刑でしたね。西洋にも立派な神もいたということですね。
この回答への補足
ご回答を有り難うございます。
1-1霊界とは現代の物理学者がいう宇宙空間の一部にあるのですか、それとは共通部分がないのですか。
1-2霊界に関する、この考え方の出所は分かりますか。
事情が許せばご返事が欲しいです。
何の根拠がある訳ではありませんが日本に犠牲の儀の風習はなかったような印象があります。日本だからというのではなく、農耕民族の発想からは出難い儀式なのだと推理します。この推理の当否は今でなくともよいですが、知っておきたいことの一つです。
No.5
- 回答日時:
#3です。
>願い事は何時生じるとも限らないので常在してくれないと不便です。
昔の神道でのお祈りの仕方は、決して願いことを称えないのだと、柳田國男は言っております。ご先祖様は、貴方にどういうことが叶えば貴方が幸せになれるかを、一々こちらから教えなくてもお分かりになっておられるそうです。ですから、たとえそこに神が居られなくても、神殿で神に祈る時には、身ばかりでなく心も清めて、無念無想で拝礼するものだと昔の日本人は考えていたそうです。
前にも書きましたが、お百度参りなどは本来の神道とは馴染まないのだと、柳田國男は言っております。
人品の卑しいところが出てしまいました。神社仏閣といえば願い事に違いなかろうと思っていました。
してみると、昔の日本人はがつがつせず、物欲し気でなく偉いものでした。No.3と併せ読むと、江戸時代の何処かで卑しくなったのですね。今や、よろず願い事賜り所の感があります。いや、他人様のことはいうまいぞ。
わざわざ誤りの指摘と訂正を有り難うございました。
No.6
- 回答日時:
1-1 霊界とは現代の物理学者がいう宇宙空間の一部にあるのですか、
○ 宇宙空間の一部ではありません。
それとは共通部分がないのですか。
○ ありません。
高天原で調べるといろいろ出てきます。高天原という場所は富士山で例えると7合目辺りの場所を指します。日本では富士山、インドでは須弥山ということですね。この山の形を2次元に投影したのが仏教の曼荼羅図ということでしょうね。
1-2 霊界に関する、この考え方の出所は分かりますか。
事情が許せばご返事が欲しいです。
天照の弟で乱暴ものの「すさのう」を追放したことから明らかですね。
「すさのう」は神聖な神殿に「生贄:鹿だったかな」を投げ込んだので追放されたんですね。昔は映画もありましたよ。「すさのう」で調べればいろいろ出てます。
No.7
- 回答日時:
再び、#3です。
>1-1霊界とは現代の物理学者がいう宇宙空間の一部にあるのですか、それとは共通部分がないのですか。
前に#3で挙げた平田篤胤の『霊能真柱』によると、本居宣長の主張する霊界の黄泉の国は物理学者が言う宇宙空間の中にあります。黄泉の国とは、月夜見の国とも言い、実は月のことであると言っております。篤胤はこの本の中で、天照大神の居られる天、即ち太陽と、伊邪那美(いざなみ) 命の居られる黄泉の国について、宇宙の創世及びその場所を図解入りで分析しています。
江戸時代、篤胤の頃はポルトガルやオランダからの知識が既に日本に伝わっており、地球が丸いことを知っておりました。その頃の日本の著名な哲学者の三浦梅園は地球の中心に向かって重力があることを受け入れて地球には上下がないことを主張していましたが、篤胤はその意見を受け入れることが出来ず、この宇宙には上下が在ると主張していました。そして、始めは一塊だったのですが、清い部分が宇宙の上の方向に向かって分離上昇して、天、すなわちお天道様(太陽)になり、汚濁の重い部分が下に沈んで黄泉、すなわち月になったと主張しています。昔まだ完全に分離する以前に、地球はその下にある月夜見の国と繋がっており、その繋がりの黄泉平坂(よもつひらさか)の洞窟の入り口が出雲の国に在ったと主張しています。伊邪那美命はそこから黄泉の国に降りて行き、また夫の伊邪那岐命は命からがら、その洞窟の入り口からそとへ逃れてきたのだと説明しています。
また、ヨーロッパや中国の故事を調べ、ヨーロッパにはノアの大洪水が在って、全体が水の底に沈んだ時が在ったこと、中国でも昔やはり大洪水が在ったが、中国の全体が沈んだとは書いていないこと、ところが『古事記』にも『日本書紀』にも、大洪水のことが書いてないことを証拠にして、日本はこの上下のある地球の最も高い、したがって最も天に近いところにあると結論付けております(注)。このようにして、日本が何故神国と呼ぶにふさわしいかを論じている訳です。日本から遠い程低い位置にあるので、ヨーロッパがその大洪水の時に完全に水に沈んでしまったのだと考えた訳です。日本も外国もこの地球上で海を挟んで上下に浮いているのですが、その日本の中で、最も低い部分が出雲であり、そこに上で述べた月夜見の国へ降りて行く黄泉平坂の入り口が在ったと考えております。
#3のところでも紹介したように、我々の周りに常に居るご先祖様の霊を我々が見ることが出来ないことを、簾の原理で説明したり、また、外国では在った大洪水の話が何故日本にいないかを本気で調べるなど、篤胤のこの本は、昔の人も一生懸命いろいろな知識を合理的に理解しようと努力していたことを示す興味深い本です。昔の日本人がこの宇宙をどう考えていたかの一端を教えてくれると言う意味でも面白い本です。
岩波文庫で手に入りますから、読んでみられることをお薦めします。古文で書いてありますが、最初の数頁を我慢して読み進めば、同じ日本語で書かれてあるので、そのうちにスラスラ読めるようにないますよ。江戸時代の日本語は、平安時代の日本語より遥かに現代語に近いですから、読み切れると思います。
(注)平田篤胤『霊能真柱』(岩波文庫、1998年版)pp139~144
霊界は現実の世界に共存しているとの説ですね。
お蔭様で、だんだん分かってきたような気がします。当否は承知しませんが、神道の背後には国学者が控えているらしいことに気がつきました。今まで神道の理論的指導者を意識したことがありませんでした。
cyototuさんの第一声はNo.3の「『定本 柳田國男集』第十巻、筑摩書房」ですから、これに目を通すことが先決なのでしょう。『霊能真柱』と併せ、所在を確かめておきました。
わざわざ有り難うございました。
No.8
- 回答日時:
追伸2
1-2 霊界に関する、この考え方の出所は分かりますか。
事情が許せばご返事が欲しいです。
私の回答がずれてるようなので、再度、回答しておきます。
○ 宇宙空間の一部ではありません。 ということですが、その論拠は神道の教えには無く仏教の教えに見られますね。
龍樹『中論』に空(霊と同意語)とは「不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去」なるものであるとあります。「不来不去」がポイントですね。霊とは来るものでも遠くに去るものでもない。ということで質問者さんが住んで、生きている空間が霊界そのものということですね。
神道では鏡の向こう側の世界でしょうか。そこにある世界ですね。高天原もあるということで、日本以外、地球以外ではないということですね。地球外の空間ではないということを前提にすれば物理学上の次元と共通部分はまったく無いというのはないですね。一部訂正しておきます。
多分、読み取れたと思います。霊界の概念は仏教からきていて、高天原の存在する空間と同じ空間に存在することが判りました。
厳密化して下さって有り難うございました。
No.9
- 回答日時:
kamiという概念は、西洋のような人間っぽいものじゃないようです。
神道(あやしきみち)
あやしきなわけですから、正体がわからないってわけです。
ゲド戦記に<真の名>という概念が出てくる。
ゲドは人間の町を襲う竜の名前がわからず苦戦するわけです。
名前がわかれば招待がわかり、相手を手中に収められるのですが、相手の名前がわからないと、どう戦っていいのかわからない。
日本でも<諱>ってのがあった。
真の名なわけで、これは信頼した相手にしか明かさない。
本質そのものを現す言葉とされ、相手に真の名を知られると呪術で殺されると思われていた。
真の言葉 マントラ。
言葉が実体化して見えない世界から見える世界に現れ影響を及ぼすと信じられていた。
という考え方も神道の一部として取り込まれた。
山は神が住まうところとした土着の宗教も神道に取り込まれた。
出雲の概念も神道に取り込まれた。
出雲では不可知な領域を神の世界とし、特に死を人間の力では及ばない領域だとした。
だから 出雲大社では知っている人は大社の裏にある穴に詣でるそうです。
神社に鳥居ってありますが、一応 そこがこの世と神の世界の境目だと仮定している。
あくまで比喩であって、神社を潜ったら神の領域に入ったってわけじゃあない。
心構えを変えて、神聖な領域に入ったってことにしている。
通過儀礼の一つの成人式ってあります。
成人になったという見える線は無い。
が、いつもと違う格好をしたり、いつもと違う言葉を使うことで、通貨したとする。
ということで、心次第。
山を神の住まいとしていたが、そのうち山の麓に祠を作り、山に収穫した恵みの作物を届ける手間をはぶき、祠に備えるようになり、祠が神社になっていって、神社に詣でることで山に登ることなく、神に感謝を捧げられるって簡略化されていった。
神社に詣でる=山に住む神様に詣でる って同義にしたわけですね。
神社は神の住まいというより、神に感謝を捧げる場所として活用されたんじゃないかと。
生贄は古事記か日本書紀に土師氏が埴輪を作って殉死の風習をやめさせたって記録されているそうですが、実際は殉死(偉い人が死ぬとその部下も殺され埋葬される)ってのは無かったとわかっているそうです。
遺跡から葬られた馬の遺骨が出てきたとかありますが、だからといって生贄として使われていたと結論づけられていないようです。
日本の神道はユダヤ教にすごく似ている。
日本の風習とユダヤの風習はすごく煮ている。
だけど動物供養が無い。
何故ここまでユダヤ教の風習が浸透している日本において、動物供養が無いのかは不思議です。
仏教の影響があったのかもしれません。
1 ご回答にある「大社の裏にある穴」とはNo.7でいう日本で一番低い場所で、黄泉の国へ通ずる洞窟の入り口ではないのですか。うまく附合し矛盾するところはないように思えますが如何なものでしょう。
2 神は祭によって降臨し再び山へ帰る、こうだとすれば神社は神の住まいではなさそうです。「神社は神の住まいというより、神に感謝を捧げる場所」、この説には肯けます。
3 日本には犠牲は勿論、殉死の風習もなかったとの説ですね。権力者は相応に賢くて、損得勘定の現実論から人的損失の大きい大規模な殉死は望まなかったのではないかと思いますが、どうでしょう。何処の国も実際は兵馬俑とか埴輪などで代用させていたのではないでしょうか。身近な者や政治的に有能な者は己の分身として、この世に残しておきたいのが人情であるような気がしますが如何でしょうか。
4 誰が言い出したのか、多くの人が肯くのか否か、それは承知していませんが「J&J」という言葉があることはありますね。JewとJapaneseの文化の共通性を認めたものでしょう。神道がユダヤ教と似ているのでは当然です。
ユダヤ人は牧畜・遊牧民の末裔、日本人は農耕民の末裔、これで動物供養の有無が説明できませんか。日本には仏教が伝来する以前から犠牲の風習がなかったらしいことを考えると仏教だけでは説明がつかなそうです。己の仮説に拘るようですが、「犠牲の儀は狩猟・牧畜民のものであって農耕民族のものではない」、この法則は如何でしょう。ギリシャ、中近東の羊やアイヌ、北欧の熊など狩猟・牧畜民と犠牲の風習との相関がありませんか。中南米は、この法則から外れそうですが……。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
No.10
- 回答日時:
>誰が言い出したのか、多くの人が肯くのか否か、それは承知していませんが「J&J」という言葉があることはありますね。
JewとJapaneseの文化の共通性を認めたものでしょう。参考になる自信はありませんが、私の個人的で大変狭い経験を紹介します。私はアメリカに住んでおり、ユダヤ人のある家族と大変親しくしております。彼等の身内の絆の固いことは大変な物です。アメリカではクリスマスより大きなお祭りがあります。それはサンクスビングデーという日で、クリスマスより約1ヶ月程前のお祭りです。ニューイングランド地方に初期に移民した白人達の飢えを救ってくれたインデアン達に感謝する日です。この時には、家を出て独立した者も含めて家族が親のもとに一同に会する日です。ところが、私の知っているユダヤの家族は、親戚一同が、なんと3、40人、場合によっては50人も集まってきます。そして、彼等の議論好きは大変な物で、この日には議論が最高潮に達します。たしか「ポーランド人が二人集まると、必ず3っの意見がある」という冗談がありますが、「ユダヤ人が二人集まると、必ず10の意見が出る」と言っても良いくらいな議論好きです。さすが、あの膨大は旧約聖書やタルムードを書き残す民族なのだ、と納得させられてしまいました。
ですから、私の狭い経験では、ユダヤの文化は、寡黙を善しとする日本の文化に似ても似つかない文化だという印象を持ちました。
最後の一行の、お説の言わんとするところには同感です。総じて言えば両民族は対極に位置するような印象です。
私の推測では、「J&J」には2通りの可能性があります。
一つはユダヤ人と日本人に対する否定的な観察です。つまりユダヤ人も日本人もいない場所での、こそこそ話です。都市生活者が資本主義の最先端部で、その仕組みを積極的に活用しようとすると何か臭みが発生するのかもしれません。
もう一つは土地を持たない人間や被差別民が都市で生活するためのノウハウは、高教育、専門職志向、資格取得、商業、金融などにあるのでしょうから、この方面から両民族に共通点が出てくることは考えられます。
私の体験ではユダヤ人成人男性から両民族のカルチャーといっていましたが、似ているといわれたことはあります。アメリカ国籍の人です。平均を下回ることはないと思いますが、まあまあ普通程度の知性の持ち主といってよい人だと思います。どの辺りのことを観ての発言かは判りません。
どちらにしても民族の特性として捉えるりは都市生活者の特性として捉える方が適切であるような気がします。ユダヤ人を云々する人は資本主義社会に於ける都市生活者を云々するべきだと私は思っています。
日本人の与える印象や評価も急速に変わってきている形跡があるし、何が本当かは私には判りません。
誤解はないと思いますが、これを読む第三者のためにお断りしておきます。No.9では
>>日本の神道はユダヤ教にすごく似ている。
日本の風習とユダヤの風習はすごく煮ている。<<
といっているのであって、文化が似ているか否かには何も言及していません。「J&J」を持ち出したのは私です。
有り難うございました。
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