街中で見かけて「グッときた人」の思い出

ちょっと調べ物、「星条旗よ永遠なれ」ですか、たまには、アメリカ国家を聞くのも良いかなと、クリック、あれ、国家ではなくて、アメリカ軍の行進曲が・・・「星条旗よ永遠なれ」は、アメリカ国家の名前じゃなかったのか?。聞けないとなると、聞きたくなる。探しました。色々有りますね。やっぱり、ホイットニー・なんとか、一番良いですね。う~む、ホ・なんとかが、一番美しく聞こえるのは、彼女の歌声が日本では(私の知る限り)人気が有って、聞く機会が多いから美しく聞こえるのかな?いろんな人の歌うアメリカ国家を聞いていると、日本語訳も出て来ました。恥ずかしながら、へぇ~こんな意味があったの! アメリカはキリスト教の国で、確かキリスト教って、偶像崇拝は禁止していたような、星条旗は偶像じゃないのかな?それに、日本の国歌と比べると、ずいぶん物騒、自分たちの国は、戦いで勝ち取ると言う意識があるのかな?驚いて、イギリス国歌、日本語訳が見つからない?おっと、フランス国歌の日本語訳があった。早速聞いてみる、(あっ、言い忘れましたが、ことの始まりは、youtubeさんです。また削除されると困りますから、皆さんで探してね) なんと、子供たちに、さぁ戦え・・・? ここでも旗が出てくる。

あら、吃驚。いきなり飛ぶけど、日本の道徳、というのか、アジアと言って良いのか、中国的な日本に影響を及ぼした、仏教か儒教か知りませんが、そういった道徳は、「旗」のような(偶像)ではなく、道徳の実体は、特定の「人」によって実現される? つまり、規範となる象徴・「シンボル」ではなく、「偉人伝」「伝記」「二宮尊徳」・・・ひょっとすると、これこそ、東洋と西洋の違い?

いつの間にか、考えは、最初の調べ物「武士道」新渡戸稲造、天に従えばおのずと平和が来るのか、平和は、戦いとるものなのか?。「星条旗は永遠なれ」?

独り言です、気にしないで、「?」マークが沢山あります。沢山つけました。いくつ有りますか?

このなかにあなたが感じた、あなたに届いた「?」マークが有りましたら、宜しく。

A 回答 (7件)

本音と建前は違うということです。

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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

本音と建前ですか。

世間では、この決まり文句で、大概のことは決着ですね、まるで、水戸黄門の印籠のようなマジック。

本音と建前の区別についても、色々考えられることは多いのですが、多くの人がこの決まり文句で、納得してしまうと言うことは、はたして本当に納得したと言えるのでしょうか、納得したのか、諦めたのか、あるいは関心のエネルギーが萎んでしまったのか?

こんな余計なことが、頭の中でグルグル回っています。余計な行動は、人様に迷惑をかけますが、余計な考えは、余計ですが、まぁ人様に迷惑のかかる度合いは少ないでしょう。

本音と建前で、考えることを止めておいた方が、利口だし、合理的なのだ、ということですね、ハイ、分かりました。

お礼日時:2009/06/13 09:43

アメリカの国歌に近い行進曲はそのものずばり「国民の象徴 ナショナル・エンブレム」という行進曲があります。

「星条旗よ--」もスーザの名曲ですが「国民の象徴」もいい曲ですよ。われわれブラスバンドOBはこれを「天皇陛下」と言っていました。アメリカやフランスは共和国で中心となる人物は大統領ですがこれは輪番制でしょっちゅう変わりますからしっかりした具体的な象徴とはなりえませんね。だから旗なんかを代わりの象徴に見立てたのだと思います。もちろんそれをおったてて戦争で勝ち取ったという記憶を忘れさせないためにも勇ましい好戦的な国歌が必要だったんだと思います。立憲君主国英国の国歌は日本と同じような女王をたてまつる歌で好戦的ではありません。
ところで国家と道徳観は結びつかないと思います。それこそ宗教と国家が一体となる危険性を秘めています。アメリカだってその点ではワシントンやらリンカーンやらジェファーソンやらの人物像をおったてていますよ。
国家観は道徳というよりも憲法意識だけでとりあえずは充分でしょう。もちろん平和は待つだけではだめで知恵を絞って戦い取るものだと思いますが、日本にとってどんな戦いになるのか、ともかく憲法9条ほどには日章旗は関係ないと思いますが。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなって、大変申し訳ありません。
正義は戦い取るもの、と言う事ですね。確か、カントも、平和は自然の状態ではない、と言うようなことを書いていましたね、しかし、この自然状態に関して、カントの解説文に、ルソーの影響を云々するとなると、そもそも、ルソーは性善説の立場ですから、少々おかしな事になりますが。ことほど、左様に、このような細かい事になると、専門家でも色々な意見があることでしょう。

「天皇陛下」ですか、私は実は、この様な、隠語・業界用語に以前から関心があって、この様な用語に関する研究があったら、是非読んで見たいと考えていました。なかなか、積極的に探す手段も暇もないため、残念ながら、いまだに、お目にかかる事ができずにいます。
話が飛んだようですが、実は繋がっています。隠語と言うのは、一種のシンボルですよね。私の場合、国家とか政治とかに、あまり関心がないのですが、共同体とシンボル、言い換えると、集団的記憶と共同体の関係があるような気がしているのです。例えば「何も共有していない者たちの共同体」これは、確か、アメリカの哲学者の著書で、この本も、是非読みたい本ですが、これまたなかなかお目にかかれません。
何も共有していない者たちの共同体と言っても、集団的な記憶もなくて、一体、共同体というものが成立するのだろうか、と言う疑問に、どんな答えが書いてあるのか。

話を、質問の文脈に戻しましょう、つまり、集団的記憶の様式として、抽象化の違い、この点を、日本の武士道における、人に代表される様式(あくまで、武士道と言う本の解説を読んだ私の意見で、新渡戸さんとは無関係)「星条旗・・・」に代表される様式、・・・様式による抽象化の度合い差異とか、気になりましたね。

成る程、確かに、アメリカにも、大統領の彫像がありましたね。

結局、今回の質問では、私たちの記憶が外部にある、と言う表現について、これが、今まで私の読んだ本のどこから来たのか、また、この表現をもう少し精密に、考え直す必要がある、と言う宿題を見つけたことでしょうか。

お礼欄で、自分の考えばかり、一方的に書き殴りましたが、これは、私の回答に対する誠意と受け取ってください(なんと我侭な)。私は、正しい解答など求めていません、別の考え方、別の感じ方、これが私にとっては大切な栄養です。不出来な質問にも拘らず、ご馳走さまでした。

お礼日時:2009/06/16 18:07

キリスト教徒は考えも行動も複雑ですね。


複雑怪奇なところを聖書・旧約聖書・文献などの部分的引用で補強し、それでもだめなところは「うその刷り込み」を本当だと信じ込むことで補っていますね。つまり、なにがなにやらわからんということですね。
偶像崇拝の定義も同じですね。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教はみな似通ったところがあり、見ていると滑稽とも思えますね。
滑稽ではあるが仏教徒や偶像崇拝をよしとする宗教には天敵ですね。石窟寺院の石の釈迦像さえ爆破してしまいますからね。日本ではお断りしたいですね。
偶像崇拝に限らず牛・豚・鯨まで違ってますからね。
創造神がこんな滑稽な存在かと問えば、「そんなこたあない。」と一笑に付してお答えになるでしょうが、みな聞きもしないからいままで滑稽さが続いているのでしようね。

さて、「星条旗は永遠なれ」をyoutubeで聞いてみましたら聞きなれた運動会の行進曲が出てきましたね。わたしも「あれ!」と思って、アメリカ国歌を調べてみました。国歌は違うんですね。
大統領が聖書に手を置き、宣誓すると同時に、砦の戦いの詩を歌う。これが国家ということですから「意味わからん。」となるのが哲学者ですね。
これが西洋といえば西洋なんですね。国家の歴史といってもローマ帝国でさえ500年ほどですから一貫性などあろうはずもないということでしょう。
日本は新憲法作っても2500年の間の祭政一致が色濃いですから、何故か1条に天皇制が鎮座していて、それと連動したような国歌になってますね。国民国家の憲法とは到底思えないですが伝統ですかね。
これが東洋かといえば、「そんなこたあない。」でしょうね。日本が特殊なだけでしょう。
そこで、新渡戸稲造、天に従えばおのずと平和が来るのか? ですが。これは来ませんね。
なぜなら、、新渡戸稲造のいう天の定義をご本人がしてないからですね。天には、ナポレオンのような軍神もいれば、イエスのような「右のほほを打たれれば左のほほを」などというお方もいるからですね。
どちらもいるとなれば、天には「右のほほを打たれれば、相手の右のほほを強く一度打て、でも殺す無かれ。」というお方もいるでしょう。
新渡戸稲造にはこのあたりの考察が足りんですね。だから天に従えばおのずと平和が来るのかに答えが見出せなかったでしょう。
新渡戸稲造のだめさ加減を指摘することはキリスト教徒及びその国家全ての「行動形態の曖昧さ」を指摘することと同じですね。
偶像崇拝・聖書と戦争の問題、鯨の問題などなど、「欧米のごたくせんは哲学者には脈絡なく意味不明のようだ。」と思ってしまいますね。
ということで回答は「わからんですね。」ですね。
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この回答へのお礼

mmky様、お礼が遅れて、申し訳ありません。
実は、日曜日にお礼を準備するため、回答と質問にある、
>新渡戸稲造、天に従えばおのずと平和が来るのか? 
と言う、私の記述の、意図と根拠の確認を、念のために調べてみました。
ところが、無いのです。
質問時点では、新渡戸稲造の「武士道」の解説を読みつつ、アメリカでの評価や、武士道の英文のDVDに関して調べていました。そこで、改めて、解説書を猛スピードで読み飛ばし、ネットの履歴で、質問時の閲覧ページを辿って見ました。やはり、無いのです。

A 新渡戸稲造=天に従えばおのずと平和が来るのか? 

B 天に従えばおのずと平和が来るのか、平和は、戦いとるものなのか?。

さて、質問時の私は、現在の私の記憶の中の何処へ行ったやら・・・
今となっては、自分を弁護するために、Aの意味ではなく、Bの意味として、つまり、アメリカ国歌にある、平和は戦いとるものと言うメッセージに対して、Bの前半の記述が出てきたのでしょうか。

これは、またまた、醜い自己弁護ですが、
正義のための戦争、正義のための不正義、と言う、問題点に突き当たって、おそらく、この質問当時の思考を停止させたのかもしれません。

以上、言い分けした上でも、この表現は、完璧に、私の間違いです。
どこから「天」が出てきたのか、我ながら情けないし、mmky様には、ご迷惑をお掛けしました。

さて、言い訳ばかりで見苦しいですね。

改めて、ご回答を読み直し、「特殊性」について考えてみました。
「東洋の特殊性」「日本の特殊性」と言う表現と、「私」つまり、私は決して他人ではない、と言う意味での「私の特殊性」つまり、実際は、私は決して特殊ではないにも拘らず、私が私であるために、私が「特殊」になる、この特殊性と、「日本の特殊性」とは、はたして違うレベルで、有るのでしょうか。

さて、日本は本当に特殊なんでしょうか、などと、散々迷惑をかけておきながら、捨て台詞を残して、今回は退散いたします。
今回に懲りず、又宜しくお願いします。

お礼日時:2009/06/15 18:20

お釈迦様の説かれる道徳・倫理は穴が見当たりません。


逃げ道が塞がれていて、他者の自由を侵していない。
そんな風に感じてます。
戦うのは自分の汚れた心を清らかにすることのみ。
怨みを持って、怨みはなくならない。
怨みを無くすことによって、怨みがやむ。と

世間の道徳・倫理とはチョッと色の違いを感じます。
「私(もしくはこの団体)のためにお前が守るものだ」
「何でなんて問題じゃない。守ればいいんだ」
そんな印象を世間の道徳倫理に持ってます。
私(私達)が正しいんだから言うこと聞け。
聞かないんだったら無理やりにでも聞かせてやる。
殺してでも聞かせてやる。これが正しいんだ。。。。と

他人を知ろうとしないこと、認めないこと、自分のみ正しいと思う事、他人の嫌がることでも無理やりやること、殴ること殺すこと…いかなる悪をも正当化できるって。。。

まぁ。。。そこに道徳なんてひとかけらも無い様に思いますけどねw

平和な日々が千年に八千年と続きますように。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
やはり、マッガさんの、関心「?」マークは道徳ですか。
>まぁ。。。そこに道徳なんてひとかけらも無い様に思いますけどねw
う~む、厳しいお言葉ですね。
ただ、ご回答にある道徳は、いわゆる、似非道徳と言うものではないでしょうか。

尤も、カントにしても、A.スミスにしても、本来の道徳を説明し尽くせたかどうかは、はなはだ不安ですが。それでも、かすかに救いはあります。

「これらの例からもうかがえるように、進化という観点から心について考えることによって、これまでの人文科学で伝統的に考えられていたものとは違った心の姿が明らかになる。とくに重要であるのは、つぎの二点である。第一に、進化心理学によれば、われわれの心には、生物学的・遺伝学的な基盤がある。したがって、われわれの心的能力はすべて誕生後に学習によって獲得されたものであるという、極端な経験主義は否定されることになる。また、環境が異なれば人間のあり方は根本的に異なりうるという、極端な文化相対主義も否定されることになる。
 第二に、人間の知性の本質についての理解も、進化論的な見方によって修正されうる。哲学の伝統では、人間の知性の本質は、論理的推論能力に代表される、形式的な能力にあると考えられてきた。しかし、四枚カード問題の例からもわかるように、現実の人間がそのような能力を実際に有しているかどうかは疑わしい。人間の知性は、デジタル・コンピュータのような汎用のものではなく、われわれが進化してきた環境において必要とされた諸能力の寄せ集めであるかもしれないのである。」(『岩波講座哲学』心の進化)

この極端な、経験主義と文化相対主義のニッチにカントの、普遍的道徳法則や、スミスの、誰もが持っている、哀れみまたは同情と言った情動に、各々光を当てて、その存在証明を白日の基に照らし出す何者かが見つかる日が来るのかもしれません。

ともかく、昨今では、道徳批判は容易ですが、道徳の擁護というのは、茨の道で骨の折れることですが、ガラクタの山の中から、僅かに洩れる、希望の光を見過ごさないよう、ゆっくり歩きたいものです。

お礼日時:2009/06/14 15:59

君が代は歌えても、意味を考えずに歌えるって人がほとんどじゃないかと。



私はこの歌を歌うとき 石庭をイメージします。
石庭も永遠を求めた芸術だと思えます。

永遠を求めるの心をシンボル化したものが、常緑木であり石庭。



日本のガイドさんによく外国から来た人がこんなことを聞く。

「どうして日本の庭は樹木が多いの? 私達の国は玄関を花で飾るのに どうして日本人はしないの?」


これを説明できるガイドは少ないそうです。

<日本人は永遠を愛する民族だから>


そうはいっても、一過性のコンビニ嗜好に日本人はなってきているのも事実。

君が代は天皇を崇拝する歌だから歌わないと誤解して、歌わない人が多くなってきた。
「太陽の源である日本よ 永遠たれ」ってことだと知らない人が多い。


シンボリズム。
シンボルの人に与える影響を考察してみるといいかもしれません。

例えば戦況が不利な状態で、コンスタンティヌス1世は多神教のシンボルである十字を兵士の盾に記したことで、兵士達の士気を高めることができ、戦争に勝った。

ってことは、シンボルで人を自分の意図する方向に動かせるってことですよね。
旗も国歌もシンボリズムと関係しているかもしれません。
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この回答へのお礼

>シンボルの人に与える影響を考察してみるといいかもしれません。

成る程、kigurumiさんらしい、ご回答ですね。

「だが、そこには、見えもしなければさわれもしないじゃま物があらわれた――禁止がそれである。」
『道徳と宗教の二源泉』の冒頭部分の引用ですが、シンボルが人々に与える影響は、まさにこの逆でしょうか。
star-spangled banner の最後の歌詞 the brave!(勇気)ですね。本当のシンボル(こんないい加減な表現許されるかな)は、人々に勇気を与えるものなのでしょうか。

kigurumiさんらしい、政治っぽいご回答に合わせて、シンボルの関係で、政治的な話を少し。

>シンボルで人を自分の意図する方向に動かせるってことですよね。
この卑近な例えが、郵政民営化・小泉劇場でしたね。
この例えでは、シンボルとしての「旗」ではなく、スローガン・・・あっなんだっけ、確か、「成長なくして改革なし」だったかしら、そして、成長のためには民営化が必要、確かそんなロジックだったような。
その結果、不思議なことに、投票率は7ポイントアップしたにも拘らず(通常投票率のアップは野党に有利)自民党の、言葉通りの「劇的勝利」でしたね。このシンボルは、どんな勇気を与えたのでしょう。
あれから4年、スローガンはどこへいったやら、結果として残った、衆議院定数三分の二以上で、色々やってくれましたね。

ところが、今度は、郵政会社西川某社長の続投問題。
どうも、郵政民営化のシンボルが、社長個人に転移してしまったような。ところが、またまた、某国務大臣、「正義がなされない」とか申して、この社長個人を、悪のシンボルに祀り上げようとする。

どうやら、ここまで来ると、シンボルにも高尚なものと低俗なものがあるとしか言えない。
そうすると、最初に、シンボルは勇気を与えるもの、とした定義も、霞んでしまいますね。

同時に、此処でも、シンボルをオブジェクトとしてではなく、個人に向ける傾向を感じますが、これまた考えすぎかもしれません。

ご回答有難うございました、今後とも宜しくお願いします。

お礼日時:2009/06/14 08:16

や~良かった良かった、やっとfishbowl66さんの質問に巡り会えた。

私は、連休の時の酔っ払いの物理屋です。その時、ishbowl66さんに聞きたいことがあったのに、すでに閉め切られてしまったので、今まで待っていたのです。まあ、fishbowl66さんのここでの質問文を読んで、私の聞きたかったことの質問者さんの見解は大体分かりましたが、それに付いては、もう少し後で触れましょう。

さて、この文には「?」が確かに一杯在って、質問者さんも何を質問しているのか良く分からない状態で質問しているようですね。そこで、こちらも適当に餌の付いてない釣り針を引っ掻き回して、引っかかって来た物だけを処理しましょう。

偶像崇拝に関して、旗を偶像に分類するかどうかは意見が分かれるところですね。カソリックじゃマリア様の像もセイントの像も飾ってあって、新約聖書の中で言っているイエスの言葉をまるで無視していますね。だからその点、カソリックは大変大人なのだと思います。宗教は人を救うためにあるので、理屈や筋を通すためにあるわけはではないので、マリア様を見て感激すればその方を天国に入れてあげるチャンスが増えるわけですからね。その点、プロテスタントの、なんと子供じみたことか。人を救うよりも、イエスの言葉と論理的に整合している方のが大事だ、みたいな、宗教とは何であるかまるで分かっていない事を言っているのですから。まあ、マリア像が偶像だということに関しては、誰も異議はないでしょう。

ところが、旗になるともっと微妙です。キリスト教と同じ神様をお祭りしているイスラム教では、この神様の言いつけを守って、人物像などの具体的な像や模様をモスクから一切排除しておりますね。ところが、お釈迦様が言っているように人間には「業」というものがある。そこでどうしてもモスクに飾りをおきたい。そこで、彼等はモザイク芸術を極度に発達させました。もしモザイクが偶像でないと言うなら、旗だって偶像でないという連中が必ずいますよ。質問者さんはどう考えますか。

日本でも戦の時、旗は士気を鼓舞するために大変重要な役割を演じています。平家軍が一の谷で義経率いる源氏軍に取り囲まれたり、生田の森で源氏軍に取り囲まれたとき、それを取り囲む白旗を見て、平家軍は恐怖に襲われております。武田軍の風林火山の旗を見ただけで、相手は降伏をしたことも在ったとか。だから、日本人にだって旗に対する忠誠心は十分あったようです。ただし、日本人に取って初めての敗戦と言う異常な経験を近年にしてしまった為に、日本人の心は過剰なアレルギー反応を起こしてしまいました。その結果、人類史的に見ても珍しく自国の旗を毛嫌いする人達が日本には未だに一杯いるのだと思います。もう百年もすると、日本人も他の国民並みに、自国の旗を好きになるのではないでしょうか。

さて、私がfishbowl66さんに聞きたかったというのは、哲学をやる人間って、自分で何を言っているのを判りながら物を言っているのか、それとも、まるで判っていないので、それを判るようになりたいから物を言っているのか、どちらなのかという質問です。でも、今回のishbowl66さんの質問を読んでいたら、どうも自分が何を言っているのか判りたいので物を言っているらしいですね。

何故こんなことを聞くかと言うと、哲学屋さんとは、数学屋に近いのか、それとも物理学屋に近いのかと言うことに興味があったからです。数学では、先ず定義やルールをしっかり理解していなくては話にならず、そのルールから外れる事は許されません。ですから、筋が通らなくなって来たからと言って途中で定義を変えることなど決して許されません。一方、物理屋はこの宇宙を理解するためのキーワードを見つけることがその本質ですから、何か物を言っていても、自分はでを言っているか判らずに話しているのです。そして、途中で都合が悪くなったら、幾らでも定義を変えて、そのうちに自分が何を言っているかが判るようになってくるのです。そしてその段階が来たら、物理屋は自分のテーマに対して興味を失ってしまいます。すなわち、物理屋に取っては自分が何に付いて話しているか判った段階がゴールなのです。それに対して、数学では自分が何に付いて話していることが判った段階が出発点なのです。数学者さんたちは自分で何を言っているか判っているので、全般的に皆さん紳士淑女ですが、物理屋は自分でも判らないことを相手に判らせようとするので、身振り手振りが大きくけんか腰で大声で話す野蛮人ばかりです。

どうやら、哲学屋さんもこと物理屋と同じ野蛮人が多いらしいと言うことが、貴方の質問の文からも良く分かりました。それでもまだ良く分からないのは、数日前の哲学欄の「暗喩」に関する質問に対して、何方かが、


>用語:メタファー(metaphor)、メトミニー(metomyny)、シネクドキ(synecdoche)

>「月見うどん」はメタファー、「きつねうどん」はメトミニー、「親子丼」はシネクドキ
>「白雪姫」はメタファー、「赤ずきん」はメトミニー、「人魚姫」はシネクドキ
>「たい焼」はメタファー、「たこ焼」はメトミニー、「焼鳥」はシネクドキ

という分類をしているのを見かけたからです。これって、何か数学みたいで、物を言う時には自分で何を言っているか判らなければ、まるで哲学を議論することができないような印象を持ってしまいました。数学や、あるいは何か物を作ってお金儲けをしようという工学者や技術者ならいざ知らず、この宇宙の原理を探ろうと言う物理屋がこんな細かいことを言ったり、緻密な理解にこだわっていたら、決して原理なんかを見つけ出すことは出来ません。コンマはピリオドとは違うの、違わないのなどと言うことにこだわっているのは、数学屋さんか、あるいはコンピューターのプログラマ屋さんか精密な機械をつくる技術屋さん位のものです。月見うどんとキツネうどんの区別が判らないようでは、哲学に関して重要な寄与は出来ないのでしょうか。もしそうだったら、私は哲学を生業に選ばなかったことに幸運さを感じてしまうのですが。これに関して、是非fishbowl66さんのご意見をお聞かせ下さい。
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この回答へのお礼

過日の連休の質問では、大変お世話になりながら、当方の粗相により、消化不良のまま終わってしまったようですね、大変申し訳ありません。さて、ご推察の通り、今回の質問は、質問する必要があったために、質問のための質問、と言った意味合いがあります。そこで、今回のご回答に関しては、ご回答の内容は、一々尤もなことで、敢えて取り上げずに、cyototu様の逆質問に関して、考えてみます。

まず、私が哲学屋かどうかは、私には判りませんね。
私としては、伝統的には「経済哲学」と言われる分野に関心があるだけで、最近では社会哲学とか人間学とか称される分野で、哲学の本流といえる、形而上学に至っては、まったくチンプンカンプンのど素人です。
それでもcyototu様の仰る>どうも自分が何を言っているのか判りたいので物を言っているらしいですね。という表現は、成る程、そういえば思い当たりますね。但し、それを哲学屋と表現される、他の会員様にまで一般化してしまうのは、はたしてどうだろうかという、疑問はありますが。
物理屋と数学者の比喩は面白いですね。>この宇宙を理解するためのキーワード。スケールが大きいですね、私の場合、言葉を置き換えると、「この社会の運動を理解するためのキーワードとその原動力。」でしょうか。

さて、暗喩と言う質問に関してですが、ここで、他の回答や回答者様・質問や質問者様に関して、あれこれ書くのは、マナー違反ですよね。なぜ、敢えてそんな事を書かれたのか?この点に関して、何故私がこの質問をしたのかについて、少し書いておきましょう。的外れかもしれませんが。

今年の初めか去年の暮れから、二回続けて、登録日に最初に私の質問に回答する、私のHNの一部を含む、と言う偶然が続きました。その事自体は、どうでもよいですし、気にしていないはずなのですが、それでも、なんか不安な怪しげな感じがします。そこで、本来予定ている質問の前に、撒き餌のような質問をした次第です。
幸い、三回目はなかったようですね。

暗喩と言う質問に戻りますが、確かに細かいことですね。私の個人的関心としては、文法と物理法則の違いについて、是非、物理学者様の意見がお聞きしたいと思っているところです。

来週辺りには、本来の質問に戻る予定です、また宜しくお願いします。

お礼日時:2009/06/13 17:11

http://ja.wikipedia.org/wiki/宮さん宮さん
日本もこっちの方が、国歌じゃないの?
という話もあった
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この回答へのお礼

リンク先にいって見ましたが、なぜか、どこにもそれらしき扉が見当たりません?

そこで、宮さん宮さん、を検索、またまた・ままたた、出て来たyoutube。
成る程、錦の御旗が出てくるんですね。そういえば、世界中どこでも、行進には旗がつきものでしたね。

しかし、例えば、錦の御旗と星条旗やトリコロールが、シンボルとして指示していることには、大層な違いが有りそうですね。突然、サッチャー元英国首相の「社会などというものはありません、あるのは、家族と個人です」という言葉を思い出します、しかし、社会が何を指示するのかは難しいですが、シンボルに集団的な記憶がある、ということは確かなようです。もし、社会が記憶の集合なら、そもそも記憶は、失敗より成功の記憶を保ちたがるようです。日本の国歌に比べて、外国の国歌が国民に魅力があるのは、成功の記憶の共有、ということなのでしょうか。

あら、また考えすぎでしょうか、貴重な情報、有難うございました。

お礼日時:2009/06/13 09:44

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