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目新しいことではないのですが、例として、
1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。
2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。
これどちらも羊飼いの羊に対する愛だといえると思いますが、明らかに差異がありますね。
さて、質問はどちらが良いとかというものではなく、これを包括的にどのように説明するかについてです。
イエスの愛とベンサムの最大多数の最大幸福とはまるで違うものであれば、どのように愛を説明すればよいのかとの問いです。
あるいはマズローの欲求段階説のように愛も理性的、段階的に分類されるものなのかについても問うてみたい。
そのような問いですがどのような回答、ご意見でも歓迎いたします。
尚、例として羊飼いの話を持ち出しましたが、
直近の物資援助か直近を見捨てても井戸掘り技術教育かの問題と置き換えてもかまいません。

A 回答 (23件中1~10件)

 けっきょくもし 一般的に


 ○ 愛について自己の見解を示せ。
 ☆ という問題でしたら あらためて回答を寄せます。
 
 ○ 愛とは わたしがわたしであることです。
 ☆ 《わたしがわたしする》と言いかえても まだ抽象的ですから 分かりやすく言えば
 ○ 愛とは わたしがわたしを愛することです。
 ☆ まだ抽象的すぎるとすれば
 ○ 愛とは 自己の利害や損得を 徹底して考え抜きこれを守ることです。
 ☆ この結果
 ○ 自分と同じように ひとを愛する。つまりはひとの利害や損得を 自分のと同じように捉えた上で どうするかを徹底的に考えて行動することです。
 ○ したがって このように――つまりいま哲学ないし人生の主題として考えているように―― 人びとが一般的に共同してこの《利己という愛を考え抜く》ことを提唱し実際に考え続けていくことが 愛です。

 ☆ その一方で わたしたちは 自己の利益を守ると言っても 被害に対する自己による報復から自由になる道をえらびました。加害者を 被害者本人にしろその身内や関係者にしろあるいは第三者にしろ 個人としてその犯罪を裁定しその報復処置を施したりする道を放棄し 社会共同の自治にゆだねるという形式を採りました。
 それと同じように 一般に社会共同のことは 法律を起草し取り決め これに従って執行するという法治社会を築きました。
 したがって 《自己の損得を図るという愛を考え尽しあたかも昇華するかのごとく突き抜けさせて行っても なお社会共同の損得や利害が保たれない》ときには 法律による共同自治の形式に訴えます。広く社会政策の問題です。

 何が愛であるかは つねに 人びと一般の井戸端会議を基礎として 動態過程において 判断されていくものと考えます。
 利己を突き抜けると どういう愛になるでしょうか? さらに将来がたのしみなのではないでしょうか?

この回答への補足

bragelonneさん再回答ありがとうございます。
○ ・・人びとが一般的に共同してこの《利己という愛を考え抜く》ことを提唱し実際に考え続けていくことが 愛です。
☆ その一方で ・・個人としてその犯罪を裁定しその報復処置を施したりする道を放棄し 社会共同の自治にゆだねるという形式を採りました。

● 回答を読んでいますとヘーゲルの国民・国家や法の哲学を見るようです。

☆ 何が愛であるかは つねに 人びと一般の井戸端会議を基礎として動態過程において 判断されていくものと考えます。
「利己を突き抜けると どういう愛になるでしょうか? さらに将来がたのしみなのではないでしょうか?」

● 私もそれを楽しみにしたいと思います。

補足日時:2009/06/13 10:40
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こんにちは。

NO12です。

お返事いただいて、気づいたこともあったので。

>パラドックスと見しものがあっても、それを体系的に説明する方法があるんじゃないか
これは言葉が足りなかったみたいです。
パラドックスを解くことが、体系的に説明することにつながる、という意味合いで書きました。

>愛にもいろいろな段階があるんじゃないか
愛について僕と定義が違っていました。
僕は愛はある種のパーフェクトさ、だと思ってますので、段階といわれるとピンときませんが、
その愛の崩れ方、あるいは、不完全な現象としての現れ方には段階がある、と思っています。
その愛の崩れ方、あるいは表現のされ方の段階の違いが矛盾を作っている、と思ってますが、
この定義の違いは、僕はどちらでもいいと思いますし、
地動説と天動説みたいに、どちらを愛と定義しても筋は通る、と思います。

補足っぽくなりました。

この回答への補足

再度回答ありがとうございました。

☆ その愛の崩れ方、あるいは、不完全な現象としての現れ方には段階がある、と思っています。

● 愛がパーフェクト性を内在していること、あるいは本来パーフェクトであることはどのかたも同じ考えだと思います。
私の意図はパーフェクトであるからこそ、それを人々に説くには段階性が必要かなと考えているだけなのです。
ご指摘のように崩し方と言っても差し支えないですね。
それを提示するのが哲学ではないかと。

補足日時:2009/06/15 11:22
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この回答へのお礼

この場をお借りして、再度皆様方に回答のお礼申し上げます。

愛の哲学のヒントにでもなればと思い質問させていただきましたが、たくさんの回答を頂き大変感謝しております。
この質問もこのあたりで締めさせていただきます。尚、ポイントについては皆様へ付けさせていただきたいのですがそうもいきませんので、いつも迷惑回答で悩ましているということでbragelonneさんとkrya1998さんに付けさせて頂きます。皆さん、ご勘弁ください。

お礼日時:2009/06/15 11:44

 回答番号:No.21 ありがとう。


 生長の家って、神道系だったのですか。
 ご紹介のHPも訪問してみました。
 六つ上でしたか、先輩の読書家が、宗教のデパートとなどいっていましたが、私たちの教えともあまり齟齬はないですね。
 でも創始者さんはずいぶん遍歴されていますね。
 神道系であるかも知れませんが、網羅的でして、私たちの教えもそうなのかな。
 私たちの会もインドで生まれ、育ち、修行した大師がアメリカで活動して、設立していますから、やはり網羅的かも知れません。
 神道系と共通するとは意識できませんでした。
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 回答番号:No.20


 http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cf … を訪問し、そこで光の輪とか、http://www.joyus.jp/のことも知りました。
 私たちの先達が翻訳している、パラマハンサ・ヨガナンダの永遠の探求を数ページにわたり、引用しておりました。
 多分出版社や翻訳者、私たちのマザー・センターにも連絡が届いてないと存じます。
 mmkyさんがどうしてこれを神道系とご判断になられたのか、疑問です。
 はっきり言って神道系ではないのではなかろうかと、存じました。
 私の勉強と特に齟齬するところはありませんでした。
 いろんなものをとりいてていて、字句や言葉も私たちの勉強と同じものが使われていましたので、つっかえないで読めました。
 以上報告いたします。なお、こことは私は全く無論、関係がありません。

この回答への補足

☆ 光一元が何故神道系かということですね。

● 光一元、善一元という考えかたは神道系の生長の家・初代総裁の谷口雅晴氏が提唱したものですね。神道系は一般的に光明思想系ですね。アメリカではニューソート系といいますが同じ思想ですね。
参照:生長の家 wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%95%B7% …
すでに新興とはいえない思想なのでいろいろな発現の仕方があるのでしょうが、提唱者は神道系の谷口氏なので神道系としました。

補足日時:2009/06/14 16:46
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 回答番号:No.18


 文章的好きな、鴨長明が引き合いに出されまして、たいへん嬉しく存じます。
 私もこの思想家に、ごもっともという思いで、いつも畏敬と計景仰をしております。
 鴨長明は、つれずれ草という、吉田兼好と類似の書物を書いているのではなく、その中のことを指して、仰せなのですよね。
 それから、
 私は、浅学にして、神道系の「光り一元」というのを知りませんでした。無論、新たにここで精進することになるとは思いませんが、http://www.geocities.jp/nkkagosu20/index.htmlは読んで見ます。
 何か参考にできることが有りましたら、どうかお教えください。
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 回答番号:No.17


 現象であり、意識ではなく、意識の集積に過ぎないという側面の存在が愛だの、かんだらこうたらいうのは片腹痛いというみなさんに大変失礼で不遜な見解をもっています。
 私に愛というバタ臭い訳語は理解できておりません。いえ私は受け入れておりません。

 唯一の意識、我々である根源であり全体の意識ははその一人子を愛するということは理解できますし、実感していますし、受け入れています。
 その存在から見れば、創造界一切の現象存在は唯一の一人子であります。これがクライスト。キリストだけがクライストだという西洋人の無理な理解に追随するからわからなくなってくる。
 その被創造体のことを一人子といっている。それは結局どんな部分をとっても、全体をみても、一匹の迷える子羊であることには全くかわりない。
 なんの変哲もない。みな同じ一匹の子羊である。
 愛とはそういう、創造者から、一人子を見るめでしかない。
 人が愛といういうのは創造者に対する愛である。
 創造者としての、その身としての愛である。
 創造者を介在させない人の愛などがあるはずがない。
 人に99匹と1匹との区別はない。
 創造者から見ればみな1匹である。
 1匹にを見つめる意識を愛というのであり、それを感じるのが愛である。
 99匹というのは自己性のない存在である。そこに存在はない。
 99匹は創造者においても存在していない。
 すべてが1匹である。そのもの、具体的な貴方、私、その人しか居ない。西洋人のことばで、思想や根源のことを思考する事は誤解の元にしか為りません。
 というのが、西洋的文化にさんざん長い間振り回されてきた私の稚拙な到達です。そこに何かを求めることがもう誤りでしかない。

この回答への補足

krya1998さん回答ありがとうございます。

☆ 西洋的文化にさんざん長い間振り回されてきた私の稚拙な到達です。

何をおっしゃいますか、大変立派な到達点ですね。
回答を読んでいますと、神道系の「光り一元」に近い悟りのように感じます。「愛一元」といってもいいようですが。
全てが光りの大河、愛の大河の水でしかないというような感じでしょうか。大河が創造主、それもありですね。
鴨長明のつれずれ草だったでしょうか、「うたかたは・・久しく留まりたるためしなし。」。羊の例は大河のうたかたのようですね。
 

補足日時:2009/06/13 09:52
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 回答番号:No.8です。


 〔1.10匹の羊を飼う羊飼いが他の9匹の羊を狼の脅威にさらしても1匹の迷える羊を救う。〕は、9匹のために1匹を知らん振りするなんて通らないぞ、という事ですね。なにも9匹がどうだかこうだかは、話の外です。ここの主題テーマではない。それだけです。拉致のこともみんなが一番心を痛めている。何も全員のために放っているのではない。全員が今、自分を投げ出すかどうかの問題ではない。
 
 〔2.10匹の羊を飼う羊飼いが9匹の羊を狼の脅威から守るために1匹の迷える羊を見殺す。〕
 はかりにかけての判断はしないでしょうね。差し迫った選択のの中での決定ですね。だから、ここで1匹をとる選択決定もありえます。
 観念で状況を画いて、どうのこうのいっても、現実の人間の臨場状況には意味のないことですね。
 
 その他のことでは、回答番号:No.5さんのご回答に、同じ思いでした。それは、No.8で少し頭を出しているように、ご質問のタイトルは確かに愛がどうだのですが、本文のことは愛の問題ではない、という事です。
 法律(法律の存立理念ではなく、法律が志向する)理念のことで、ベンサムのことも少し関心をもったことがあります。
 最大多数最大幸福を何か犠牲者を出すとかの話ではないと存じます。
 見捨てる話でも、多数決などをいっているのでもないと理解しております。
 聖書的には、私は、いえ私も、全ての人間は1匹の子羊でしかないことはいうまでもありません。
 9匹や99匹なんて奴はだれもおらんのです。
 小3から、母親や先生から、お前は奇人だ、変人は常識に振舞えて個性的なのであるが、お前はそうでなく、何もない奇人でしかない。
 といわれてきました。
 だから自分は常識やみんなはどうなのかに気をつけてきました。
 でも、そんな99匹はいなくて、みんな1匹だと、次第に気づき始めました。
 だから、回答番号:No.4さんの、〔「9匹の羊」とは、聡明にして、正しい道を踏み外すことなく生きられる善人だとすれば、「1匹の迷える羊」とは、愚かな悪人、罪人だと考えられますよね。〕に、わが意を得たり、と感じました。
 しかし、自分がこういう1匹でしかないと、気づけない、自分は99匹だと思っている人がいたら、それは笑いのない漫談でしょう。皮肉でもないのだから、感心もされない退屈な時間つぶしですね。

この回答への補足

再回答ありがとうございました。

☆ でも、そんな99匹はいなくて、みんな1匹だと、次第に気づき始めました。

● 生まれるときも一人ですし、死ぬときも1人の旅立ちですから、みな一匹といえば間違いはないですね。
でも一匹に気づくことがいかに新鮮で大切なことであっても、多数の社会の一匹であることからは逃げようが無いのですね。だからこそ、まず内面から次に外面へなのでしょう。これはキリスト教的教えではなく仏教的な教えですが。仏教的であればまず自らを救う、次に他の多くを救うという順序がありますね。羊の例はこんなところが引っかかった疑問ですね。愛というのはそれぞれの考え方(信じるところ)があって難しいですね。

補足日時:2009/06/13 08:08
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A15です。


忠実を期すためさらに補足です。
ロシアのウラジオストークより北の地方では現代でも家畜のトナカイが狼の危機にさらされているそうです。
この話題の出てくるのはヨーロッパ文化の洗礼を受けた地域の家畜限定です。
前提の違う日本では狼はかつて山神ともいわれこの話は難解なんです。
その日本狼の絶滅の引き金の一つは文明開化による狂犬病の伝ぱです。
したがって今回の話は狂犬病抜きには論議になりません。

この回答への補足

再度回答ありがとうございます。

☆ したがって今回の話は狂犬病抜きには論議になりません。

それもありですね。小さな愛を超える愛もあるということですね。
地球から見れば人間の営みや思考など些細なものではありますね。
それをも鳥瞰して見る必要は確かにあると思いますね。

補足日時:2009/06/13 08:03
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A7.14です。


ひとつ言い忘れました。
狂犬病の話が出ましたが、ヨーロッパにはかつて流行した狂犬病による恐怖から狼や野性犬に根強い偏見があると新聞だか本だかで読んだ記憶があります。
ですから取りざたされているのは事実として狂犬病の狼です。
そのヨーロッパ人ローカルの恐怖が取りざたされていますので歴史的背景が違いかつ日本人である我々が取り組むと答えのない袋小路に陥るのは当たり前です。
命題として取り組むにあたって前提を忘れていました。
羊が10匹のまま、が、私なりの答えですが、現実離れした夢物語に思えても当たり前でしょう。
この話をもとに愛についてさらに取り組むのなら、いかに羊を救うのかでなく、狼をいかに狂犬病から守るのかが筋です
狂犬病の狼はほっときゃ死にます。
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A7です。


>保育園の子供が一人誘拐されました。園長先生どうしてくれるんですか? 誘拐犯もお金が必要なのでしょう。お金払いなさい。それでみな幸福になります。」
そんな感じでしょうか。愛の哲学といえば哲学ですね。

こうまでも行ってしまえば、質問者様ご自身が既にイケニエを狙う狼の立場がでしょうが、現実的な問題として幼稚園でいじめっ子たる狼が発生すれば保母さんは抱きしめて諭すでしょう。誘拐犯なら、ただの狼でなく狂犬病に感染した死すべき定めです。人間の犯罪者なら死刑囚ですよ。誘拐犯にしろ物語世界の狼にしろほっといても死にいたるシステムは完備されています。その死の過程に至るまでに出る犠牲に関しては私は何も話していません。経験として普通の狼に直面しただけなら羊は10匹です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
☆ こうまでも行ってしまえば、質問者様ご自身が既にイケニエを狙う狼の立場がでしょうが・・
● いえいえ、もうとうそういう考えは無いのですよ。摩訶不思議でしょうが私はあなたと同じ考えですよ。
でも現実的にはいろいろな事例が存在することも受け入れているだけですね。そこで、私はさまざまな愛の考えや実現の方法考えをどのように分類するかと考えているだけなのです。
仏教には次第説法というのがあるのですね。段階的に説明するというやり方ですね。愛の説明にも有効かなと思っています。1.2.を埋めるには埋めるだけの説明があるはずだと考えているだけですね。
全てを愛の範疇で説明しようとする哲学は、あなたと同じ考えの立場ということなのですがただ理性がちょっと強いのかな。

補足日時:2009/06/12 06:22
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